医者の話
「邪魔するぞ」
凱嵐が迷わずに扉を開けて小屋へと入る。土を踏み締めて固めた土間に入ると、薬草や煎じた薬の独特な匂いが鼻をついた。
「……患者か?」
板張りの部屋の奥から鋭い声が飛んできた。
「いや、患者ではない。ちょっと話を聞きたくてな」
「ふむ。少し待っとれ」
言われた通り待っていると、ゴソゴソと音がして、ぬうっと人が現れた。
白い顎髭を生やした眼鏡の男は怪訝そうな顔をしてこちらを見つめてくる。
「中では笠を外してくれんか」
「あぁ、すまない」
言われて笠を外すと、現れたのは艶のある黒髪と、いつもながらの風貌の凱嵐の素顔。医者は予想外に顔立ちのいい男が出てきて面食らったようで、少し背後にのけぞった。
「随分な男前だのう。着物もきちんとしておるし、お前さん、この界隈の者じゃないな」
「実は知り合いが隔離小屋に移されてしまってな。心配で話を聞きに来たんだ」
「おぉ、そりゃお気の毒に。……あの小屋に移された者は、まず助からんよ」
言って医者はため息をつき、板の間に座布団を敷いて座るように促した。
凱嵐は座布団を引き寄せると草履を履いたまま板張りの間に腰をかけ、袂に腕を突っ込んで医者の方へ体を向けた。
紫乃と花見も板間に上がらず同じように座る。
「お前さんの知人というのは、どんな人じゃ?」
「小屋にいる他の者と変わらない。三十代の男で、ついこの間までは荷運びとして元気に働いていた」
「ふむ」
医者はため息をつくと、あぐらの上に肘をつく。
「そういう者が多い。普通なら死ぬような年齢でも、病を患うような体の弱い者でもないんだが、どうしてだか屈強な男に限って真っ先にこの『雨綾病』にかかってしまう」
雨綾病、という病名に紫乃は興味を惹かれた。
つい昨日、その病気について耳にしたばかりだ。使用人宿舎でも何人かが病気になり、故郷に帰るという話を聞いた。
「故郷に帰れば治ると知っていても、帰る故郷がそもそもない者もいる。故郷が戦や妖怪被害で壊滅した者……陛下が代わって落ち着いたと言っても、たった数年。まだまだ復興していない里も多い」
「…………」
「ま。だから出稼ぎに来ている男たちが多いんだがな。何せ雨綾では、贅沢品の白米が安価に食べられる。たらふく食べて仕事に精を出し、稼いだ金で家族を養う。だが、そうした者が真っ先に病に倒れるというのは皮肉なことだ」
凱嵐は思案しているようで、何も答えない。やがてゆっくり口を開くと言った。
「隔離小屋を覗いてもいいか?」
「やめた方がいい。移ったら大変だ」
「だが……」
凱嵐の言葉に医者ははっきりと首を横に振った。
「『俺は大丈夫』と言っていた者から真っ先に倒れるのが、雨綾病の恐ろしいところ。悪い事は言わんからやめておけ」
「……わかった。邪魔したな」
「いや、いや。構わんよ」
凱嵐は腰を上げて小屋を出たので紫乃と花見も後に続いた。
小屋を出てしばらくいった場所、もう都と森の境界線のような場所に半分崩れかけた長屋が存在した。長屋は都から離れた場所にあり、他に建物は何もない。
凱嵐は笠を被ると足を止め、その長屋をしばし見つめていた。眉根を寄せ、険しい顔つきだ。
ふと、凱嵐の着物の裾を花見がくいくいと引っ張った。
「にゃあ、お前、あの長屋が気になるのか」
「あ? ……ああ。だが、入るのは難しそうだ。賢孝にもやめろと言われているしな」
「ワテが行ってきてやろうか」
「なんだと?」
「ワテなら、人間のかかる病になんてならにゃい。代わりに、夕餉の後に水菓子もつけてもらおう」
花見の出した交換条件に凱嵐は即座に頷いた。
「構わん。好きなだけ食べろ。小屋に入ったら、病人の状態を見てきてくれ」
「お安い御用」
花見は言うと病人が隔離されている長屋へと向かっていく。
紫乃と二人になったところで、凱嵐はポツリとこぼした。
「正直、あの猫又が自分から行こうと提案してくるとは意外だった」
「なんで?」
「あれはお前の言う事しか聞かないかと」
「まあ、そうだね」
紫乃は素直に同意する。しかし凱嵐は、花見について一つ誤った意識を持っているので、そこを指摘した。
「花見は気まぐれだから、協力したい気持ちになればしてくれる。今回は、夕餉がかかっているから、協力しようと思ったんだと思う」
「なるほど。妖怪というのは難しいな。俺は討伐は得意だが調伏が苦手で、妖怪を使役した経験がないんだが……」
「私は使役しているつもりはないけど。花見が居着いてくれただけ」
すると凱嵐は興味深そうに紫乃に目線を投げかけた。
「どうやって出会ったんだ?」
「たいした出会いじゃないよ。お腹を空かしていたから、家に連れ帰ってご飯をあげたら気に入ったらしくて、それからずっと一緒にいる」
あれは紫乃が七歳の時だったから、もう九年共に暮らしている。
「妖怪というのは一度気に入った主人ができると、主人が死ぬまで付き従うというからな」
妖怪は人間に比べると長い時間を生きる。だから人間の一生に寄り添うのは、大した時間ではない。
花見が紫乃とどれくらい一緒にいてくれるのかはわからないが、今のところ離れる気配はなさどうだし、まだまだ長い付き合いになるのだろうな、となんとなく紫乃は思っていた。
と、二人で花見が出てくるのを待っていると、背後に気配を感じる。
何事かと振り向くより前に、凱嵐の腕が紫乃の肩を捕らえ、そのまま懐へと引き寄せられた。
「……何者だ」
凱嵐の低い声が、胡乱な瞳が、これから始まる荒事を予感させた。





