お帰りくださいお客様
「ぷはぁ、ご馳走さん。いやぁ、美味かったよ」
男は満足したのか、美しい顔立ちにいい笑顔を浮かべて言う。
「お前、名はなんという」
「紫乃」
「ワテは、花見」
問われてもないのに名乗った花見に気を悪くした風もなく、男は頷いた。
「そうか、では、紫乃に花見。お前たちは俺の事を何も聞かんのか」
「巻き込まれたくないから」
紫乃は心の底から本音を言う。高貴なお方が川を流れてきた。そんなもの、どう考えたって碌でもない事態に決まっている。
「名前も聞きたくない。怪我が良くなったのであれば、早く出て行って」
「つれないなぁ。こんないい男を目の前にして」
言って男は盛大なため息をついた。そしてずいと紫乃との距離を縮める。
「紫乃、花見。お前達は俺の命の恩人だ。望むのであれば何でも与えよう。さ、遠慮はするな。言ってみろ。ん?」
無骨な手で紫乃の顎をすくいあげると、そのまま無理やり上を向かせた。思っていた以上に距離が近く、吐息すらかかりそうな位置に滅多にお目にかかれない整った顔立ちが迫っている。紫乃と同じ紫色の瞳に、紫乃の顔が映り込んでいる。
「金か、屋敷か、宝玉か。……そうだ、御料理番というのはどうだ。そうすれば俺は毎日お前の飯が食えるし、お前もこんな人里離れた荒屋から脱出できる」
「どれも要らない」
紫乃がキッパリと断ると、男の眉がピクリと跳ねる。気安い雰囲気が変わった。スッと細められた目には剣呑な色が宿っている。鋭い声が飛んできた。
「俺の好意が受け取れないというのか」
「甚だ迷惑な話だ。そもそも助けたというより、助けるよう強要されたというのが真のところ。私たちのためを思うなら、さっさと帰れ。さあ、出口はあっちだ。花見、客が帰るそうだぞ」
「はいな」
紫乃は立ち上がると、花見もそれに続いた。
「さ、お客さん。早く帰っておくんなし」
「おい、押すな」
ごく普通の猫のサイズである花見の前足でポンと腰を押されると、男は跳ねるように立ち上がった。
「さぁさぁさぁ」
「おい、待て、やめろ」
ぽんぽんぽんと花見が押せば、男の足が意志とは裏腹に勝手に動く。まるで不恰好な踊りを踊っているかのようだ。
「では、もう二度と来るな」
ぽん、と押された右足が、紫乃が開けた扉から外へと飛び出す。まろび出たところに、男の持っていた剣と衣服も放り投げる。そしてピシャリと戸をしめた。
「……おい、開けろ! おい!!」
だんだんと乱暴に扉が叩かれ、小屋全体が軋んだ。しかし戸はびくともしなかった。
「開かない……妖術か」
しばらくガッタンガッタン音がしたが、諦めたのか戸を叩く音はしなくなり、やがて男の足音が遠ざかっていくのが聞こえる。
紫乃と花見は顔を合わせた。
「助かったよ、花見」
「何、紫乃のためならお安い御用。でもちょっと、力を食った。にゃかにゃか手強い御仁、只者じゃあにゃい」
「うん」
小屋の中でうずくまりながら、紫乃は同意した。
「これで諦めてくれると良いんだけど……」
やれやれとんだ目にあったと嘆息する。
「紫乃、今の人誰か知ってたかにゃ」
「うん……」
うずくまったまま紫乃はこくりと首を動かした。
それは母から教わった、数少ない料理以外の知識。
「この真雨皇国で、蒼衣を纏えるのは皇族のみ。その中でも最上級の水縹色の着衣を許されているのは……今代皇帝ただ一人」
たまに会う里の人々が傑物だと口々に誉めそやす今代皇帝・雨 凱嵐。
川を流れて「助けろ」と横柄に命じ、紫乃の飯を食らった人物は、この国で最も位の高い皇帝その人であろう。
花見はこてりと首を傾げ、肉球で自分の頬をぽふんと叩いた。
「それって……すごい偉い人にゃんでしょ?」
「すごい偉い人だね」
「小屋から追い出すような真似をして、よかったかにゃ?」
「…………」
紫乃はすっくと立ち上がると、キリリとした顔で宣言した。
「花見、逃げる準備しよ」
国外逃亡待ったなしである。