パン教室
その香りは鼻孔の奥を激しく刺激した。キッチンの方から漂ってくるパンの香ばしい匂いだ。妻たちがパンを焼いているのだろう。というのも妻はこの家の中で、パンとお菓子の教室を開いている。お昼過ぎにぞろぞろと近所から妻と同年代の女性たちがやってくる。妻は本職が他にあり、エッセイストとして雑誌を幾つか掛け持ちをしている。そして、パンやお菓子教室は趣味が転じたものだ。他にも3年前に建てたこの一軒家の庭でガーデニングに凝っている。極めて洋風作りの家で、その庭にはウッドデッキなど妻の趣味で置かれている。
後は二人いる娘たちの遊び道具やら、一輪車なども置いてあるが、ほとんどが鉢植えであるとか、変わった陶器の置物などが置いてある。私は家の外もそうだが、中のインテリアであるとか、すべて妻のセンスに任せてある。私は休日にこうして自室に篭り、好きな本を気のゆくままに読み進めることを生きがいとしている。他は、古いジッポであるとか、キセルなどを召集し、時折テーブルに並べて、一つずつ磨くのが趣味だ。どちらも数を相当集めているのだが、煙草を吸うわけではない。昔は吸っていたこともあるのだが、体に合わずに止めてしまった。けれども、それらを集めることの興味は強く、色んな年代のものを見つけて来ては心行くまで磨くのが好きだった。
妻とは4年前に結婚したのだが、娘たちは私の子というわけではなく、妻の連れ子だった。今は9歳と7歳のどちらも女の子だ。
妻は出会った頃から、とても活発な人だった。私はとてもインドアだったので、よく無理やり色んなところに連れて歩かされた。主に緑が多いところを妻は好んだ。私も妻が喜んでいる姿を見るのが嬉しかった。妻は時折、不安な表情を見せたりした。そんな時に私の出来ることと云えば話を聞いてあげることぐらいしか出来なかった。それでも妻は最後には笑顔を見せてくれた。私は妻の笑顔を見る度に救われるような気持ちになった。結婚した時、妻は始めの内は激しく反対をした。こうして時々会ったりする、今のままではダメかな?と私に云った。私は妻とずっと一緒に居たい気持ちを素直に伝えた。妻はもうこの先、これ以上子供を産みたくはないとも云った。私はそれでも構わないと答えた。
私は職場で毎日、真面目に働いた。働くときは手を抜かずにいつだって全力で望んだ。人一倍の努力も心掛けた。だから私の働きに対する、会社の売り上げは、他の同僚と比べて桁が一つ違うほどの売り上げを上げた。人一倍努力をしたこともそうだろうが、何より今の仕事に自分が恐ろしく向いていた。特に発想力に関しては右に出るものはいなかった。会社からはそれ相応の扱いを受けていたので、私は満足をした。何より、妻と可愛い娘たちに満足な暮らしを与えることが出来ることが心から嬉しかった。
妻の呼ぶ声が自室まで響いて来たのは午後の3時を過ぎた頃だった。
「あなた、下まで降りて来て頂戴」
妻に呼ばれて下まで降りて行くと、そこには妻以外に3人の女性がいた。
「どうも、いらっしゃい」
私は少し照れながら彼女たちに挨拶をする。彼女たちもクスクスと笑いながらだけど、返事をしてくれる。
「ところで私に何の用だろう」
私はそう、妻に尋ねた。妻は、これを食べてみてと答える。そこには焼きたてのパンが並べてあった。
「パンが余ってしまったのなら、持ち帰ればいいんじゃないかな。私が食べるのは勿体無い気がします」私がそう答えると3人の女性の一人が云う。
「是非、試食をしてみて味を聞かせて頂きたいわ、私たちは色々と食べすぎて
味が分かんなくなってきてしまったの」
「私が上手く感想を云うことが出来るか、あまり自信がないですね」
そう私が云うと、妻がいいから食べなさいと私の背中を叩いて云った。
それを見て皆は笑っていけど、私は手を伸ばして一つ頂くことにした。
「おいしい」ありきたりの言葉しか出てこなかったけれど、パンは上手く焼けていた。
それから数日が経ったある日、妻から電話が掛かって来た。
「ごめん今日、教室が2時からあるんだけれど、雑誌の編集と打ち合わせが長引いて終わりそうもないの。これからのビジネスに関わる大事な打ち合わせだからそう簡単に抜けれなさそうなのよ。あなた悪いけど、教室の方、対応しておいて」と妻は電話越しで切羽詰まった声で云った。
「ちょっと待ってよ、対応しておいてって出来るわけないよ」
「大丈夫、もう随分なれた人だから適当に誤魔化しておいて」
「一体誰が来るの」
「川上さん、今日は一人だけだから、何とかなるでしょ。それじゃ急ぐから」
そう云って電話は切れてしまった。困ったことになった。何をどうやったらいいものか、普段一切何が行われているのか見たことがない。けれども考えたところで事態がよくなるものでもないので、適当に準備を始めた。ボウルだとか伸ばし棒だとか、たぶん使うであろうものを出してみる。その他にも色々な棚を開けてみて、使えそうなものを出して並べた。その後、やはり電話をして、今日は断った方がいいのではないかと考えたが、妻は一度出したことに対して変更するということは、私と結婚することに決めたことを除いて嫌った。それに、今携帯に掛けることの方が後々に大激怒をされてしまう恐れがある。私は仕方なしに観念し、その唯一の訪問者を待った。
2時になり、パン教室の生徒である川上さんはやって来た。
顔を合わすなり、見覚えのある顔だったので少しほっとした。
「すみません、家内ですがまだ帰って来ていないのです。正直に申し上げますと、どうしても抜けれない用事出来たとのことなのです」すると川上さんは
「あらまぁ」と云う。
「家内は私が代わりにやるようにと無茶なことを申している訳でして、今日のところはお引取り頂く訳にはいかないでしょうか」
気付けば私は断ろうとしてしまっていた。
「私は構いませんよ、旦那さんでも」
「えっ、いえ。私は教えるどころかパンを焼けません」
「それではたまには一緒に作ってみませんか。私はここで何度も作っているので勝手が分かります」
「はぁ」
ということで二人で作ることになった。
川上さんは慣れた手つきで準備に取り掛かっていた。私はただそれを見ていた。病院の研修医が凄腕の医師のオペをただ黙って見守るように立ち尽くしていた。それに気付いた川上さんが私に粉の計り方などを教えてくれる。川上さんは今までフォークよりも重たいものを持ったことがないのではないかと思ってしまうくらい綺麗な手をしていた。肩口がふわっと膨らんだ形の白いワンピースを着ていて、髪の毛は纏めてはいなかったので、やんわりと全体が肩に掛かるくらいだった。小学校や中学校でクラスに一人はいそうなマドンナ、そんな雰囲気が川上さんにはあった。妻は私より4歳年上だが、恐らく川上さんもそれぐらいなのかも知れない。不思議と齢を重ねるごとに美しくなっていっているのではないのか、齢を取るということが、老いに向かうということを忘れてしまっている。そんな感覚を抱かせた。
「随分なれていらっしゃるのですね」
私は自分の与えられたことを何とかこなしながら訊いてみた。
「何度も来ていますからね。何回かお会いしているのですよ」
「憶えています、いつもは髪を後ろで束ねていますね」
私がそういうと川上さんは少し照れていた。まるで少女が始めて来た家庭教師に問題の回答を誉められたように照れていた。
「ええ、いつもは留めています」
そうポツリとだけ答えた。
パンをこねるというのは思ったより力が必要だった。台の上で生地の塊を拡げたり丸めたりしていった。私は夢中になって続けていた。すると川上さんはクスクスと笑い出していた。
「何か可笑しいですか」
私は尋ねてみた。
「鼻の先に粉が付いています」
そういうと川上さんは人差し指の先でピシピシと私の鼻の先を軽く払った。
私は自分でもシャツの袖で拭いてみた。
「取れましたか?」
「ええ」
私はそれからも熱心に目の前の塊をこねていった。陶芸家が気に入らずに割ってしまった皿の替わりの粘土を力任せにこねていくように、ひたすらこねていった。するとそっと横から手が伸びて来て私の手の上に重ねられた。私は思わず手を止め、川上さんを見た。川上さんは何も云わずに私の手を握っていた。
「すみません、こねすぎましたか」
私がそう云っても川上さんは黙って私の手を握り、離そうとしなかった。
「一つ訊いてもいいですか」と川上さんは云い。
「ええ」と私は答える。
「好きな人と一緒になるということは幸せですか?」
そういうと川上さんは私の目の奥を覗き込むような目で私を見ていた。
「どうかしましたか」
川上さんは気がつくと私の腕を掴んでいた。私は掴んだその腕をそっと私の腕から離した。すると川上さんは思い出したかのようにパンを焼く鉄板に油を塗り出した。その後パンが焼きあがった後も川上さんは何事もなかったように振る舞った。妻はまだ帰る気配はなかった。私は川上さんを送って行く事にした。歩きながら川上さんは妻のパン教室での出来事や、最近話題の近所のスポットのことの話をした。私は結局、深く川上さんに何かを尋ねるということはしなかった。ただ、川上さんは少女のような明るい笑顔で最後にさようならと云い、帰って行った。
妻はその夜の7時頃に帰って来た。私が何となく、妻の代わりが出来たことに満足し、お風呂に入って早めに寝てしまった。
その夜の私は、娘たちの可愛い寝顔を眺め、いつも通りに寝ることにした。
私は深い眠りの門を開く前、夜のしじまがその色を深める前、ふと猫を飼ってみてはどうだろうと思いたった。
妻や娘たちは受け入れてくれるだろうか。そして、時たま猫には贅沢に刺身などを与えてみる。私はきっと甘やかしたりしてしまうだろうなと、少し微笑んでから眠りに就いた。