大河落語スピンオフ「菊千代の結婚前夜」
えー、今日は皆さんはじめての方ばかりで、普段落語なんか聴かない、落語なんてどうせ面白くもなんともないだろ、なんていう人達を集めて、それで一席やってみようという企画でして、どういう訣か、皆さん深刻そうな表情をなさっておいでですが、全員が全員、口の中に大量の牛乳を含んでいるというので、それだけでこっちはもう十二分に面白いんですが、まああれですよ、これ、皆さんよく考えてみてほしいんですが、まあ考えるまでもないかもしれませんが、あのー、これねえ、誰か一人が噴き出したら、周りも釣られて噴き出すんじゃないですかねえ、だって想像してみて下さいよ、落語なんかよりも絶対にそっちの光景の方が面白いですし、おそらく地獄絵図ですよ、ええ。口から噴き出すか、あるいは鼻の穴から噴き出すか、まあ左右どっちの穴かは知りませんが、片側なのか両側なのか、片方の穴から、「ホワイト・ビーム!」なんて噴射する方もいれば、両方の穴から同時に、「ミルキー・ワイド・ウェーブ!」なんて方もいるでしょうし、これ皆さん、個性を発揮するいい機会だと思いますのでね、どうやって噴き出せばいいか、まあ適当に思案して頂ければなんて思うんですが、えー、落語には古典と新作というのがありますが、手前なんかはお気楽な新作派でございまして、ただまあ新作というのは絶対に笑わせないといけないんですね、古典なんかは適当に最後までやり通せば、ああ、まあ下手くそだったけど別にいいか、諦めようってな感じで許されるんですが、新作ってのは笑わせないとお客さんが納得してくれない、あの野郎、流れを無視して新作やっといて、全然面白くないとはどういうことだ、牛乳代返せ、なんていうんでハードルが高いんですね、高すぎ新作なんて申しまして、まあこういうイレギュラーもぶち込んでいきますので、是非とも皆さん気をつけて頂きたいんですが、えー、手前の持ちネタに大河落語『茜の生涯』という連作シリーズがありまして、こうこうこういう物語なんですが、今日はそのスピンオフでございまして、大正琴漫談の菊千代という女の子がもうすぐ結婚するというんで、時期的にはオハコ十八番の結成五年目の終わり頃、主人公の鍵家茜が国民栄誉賞を貰い、海外に留学した直後くらいで、女子会かなんかで菊千代が結婚するという話題がちらっと出たことはあったんですが、実際にちゃんと登場するのははじめてでございまして、どんな女の子かは私も詳しくは知らないんですが、
「はあ……、うーん、どうしよっかな……、やっぱり、やらなきゃ駄目かな……、でもなあ……」
「ちょっと小桃、さっきからなに溜め息なんか吐いてんの、もしかしてマリッジブルー?」
「そんなんじゃないけど、でもママ、やっぱり結婚式やらないと駄目かな」
「そりゃそうよ、だって佐久間さんのご家族がそうしたいっていってるんでしょ。お腹が目立つ前に早めに式を挙げたいって。あんたが順番を間違うからややこしくなるのよ」
「それはいわないでよママ」
「ほんとあれよね、最近はほら、ダブルハッピー婚なんていって浮かれてるけど、今の子達はほんと軽薄よねえ。ママがパパと結婚した時なんか、厳粛な事実に基づく真摯な結婚なんていって、そりゃもう真面目も真面目、大真面目なものだったわよ」
「へえ、厳粛な事実に基づく真摯な結婚……、ん、えーと、それってなんか、難しい言葉で色々とごまかしてるけど、えっ、出来婚ってこと? えっ、ママとパパも出来婚だったの?」
「でも浮かれてはいなかったわよ、そりゃもうみんな真剣そのもので、披露宴なのに謝罪会見みたいな空気だったのよ」
「私も別に浮かれてなんかないよ、むしろ沈んでるというか、それよりもどういうことなの、ママとパパってごく普通のありきたりの職場結婚っていってたじゃん、私が訊いても全然面白くないとかっていつも」
「まあそれはね、本当に全然面白くなくて、それよりほら、悩み事があるならパパに相談したらどう」
「うん、えーと、チーンと鳴らしてから、パパ、それとおばあちゃん、小桃です、今度結婚することになりました、お腹には赤ちゃんがいて、嬉しい反面、戸惑いの方が大きいというか、あ、佐久間さんは凄くいい人で、大正琴のメーカーで広告のお仕事してて、それで知り合ったんだけど、ほら、あれ見えるかな、あのポスターのおかげで結構売り上げが伸びてるみたいで、最近は学校でもピアニカじゃなくて大正琴ってところもあるくらいで、うん、まあ私だけじゃなくて隣に舞ちゃんと茜ちゃんもいて、そこはちょっと悔しいんだけど、でも私だって結構人気者なんだよ、最初の頃はただ大正琴弾いてただけだったけど、今はそれに合わせて漫談とかもやってて、こないだの茜ちゃんの卒業公演、午前の部ではMCもやって、凄いでしょ、国立演芸場でMCだよ、しかもEテレで完全生中継で、これから私の時代がくるかもなんて思ってたんだけど、そんな時に妊娠しちゃって、オハコもどうなるのか、多分、年季明けってことになると思うけど、でもオハコは恋愛自由だし、既婚者もいるし、子持ちだっているし、それで事務局からは産休や育休扱いでもいいっていわれてはいるんだけど、でもこれから生活ががらっとかわる訣で、それに音大の方の仕事もあるし、それでどうしたらいいかなあって悩んでて」
「あらあら、そんなことで悩んでたの」
「そんなことって、大事なことだよ。それに結婚したら佐久間さんのマンションで暮らすことになるけど、そしたらママ一人になっちゃうし、そういうのも心配で」
「ママのことは気にしないでいいわよ、意外とたくましいんだから」
「あーあ、こんな時にパパがいてくれたらなあ。それにパパだって、私のドレス姿見たかっただろうし、パパが生きていたら、きっと私ももっと前向きに……」
「そう……、そっか……、うん、そろそろもういいかもしれないわね、ちょうどいい機会だし、いつかはいわなきゃいけないことだし、こういうのははっきりさせておいた方がお互いのためというか、将来のためというか……」
「なにママ、急にどうしたの」
「小桃、そこに座りなさい……。もう座ってるとかいわないで座りなさい」
「座り直したけど、なに、どうしたの」
「実はね、驚かないで聞いてほしいんだけど、パパね、本当は生きてるの」
「ん、えーと……、どういうこと」
「だからね、パパ、本当は生きてるの。死んでなんかいないの」
「いや、だって……、仏壇に……」
「それはダミーよ」
「え、なに」
「だからダミーなのよ、あんたに思い込ませるために写真飾ってただけなの」
「いや、でも、パパが好きだったっていう塩豆大福、毎月お供えしてるじゃん」
「それはママが好きなの」
「いや、でも、位牌だってあるし」
「それはご先祖様の」
「法事だって」
「それもご先祖様のよ、あなたにだけパパの何回忌なんて嘘吐いてたの」
「いや、でも、そんなのありえないよ、ママだっていつもいってたじゃん、学校行く前にパパにチーンしてから行きなさいって」
「いったわよ、でもパパが死んでるなんて、一度もいったことはないわ」
「いや、今まさにパパの何回忌っていったばかりじゃんか」
「そうだったかしら」
「そうだよ」
「まあそれじゃ仕方ないわね、ごめんね、ママずっと嘘吐いてたの。パパは死んだんじゃなくて、ママとパパ、離婚したのよ、小桃がまだ物心つく前に」
「なんで隠してたの、なんでなんで、だって、それならそうっていってくれれば」
「死んだことにしたかったのよ。それくらい憎み合って別れたというか、色々あったの、それで一生関わらないって決めて、小桃にも関わらせたくなかったの。だから養育費なんかも貰ってないわ、あの人には絶対に頼りたくなかったから」
「なにがあったの」
「色々よ」
「まあそうだよね、男と女だし、離婚するくらいだし、色々あってもおかしくないけど、でもなんで嘘なんか、それも今までずっとだよ、今までというか最初から全部というか、私ずっと信じてたのに」
「それは本当、ママが悪かったわ。あの人のことを憎むあまり、小桃にまで嘘を吐いて、ごめんなさい、本当にごめんなさい、う、う、ううう……」
「ああ、ママ、そんな、まあ、まあ、生きてるってわかったから、それはまあ、今さらだけど、嬉しいというか、喜んでもいいのかなっていうか、あんまり消化できてないからよくわからないけど」
「それとね、小桃、あなたにもう一つ、隠してたことがあって」
「なに、今度はなに、まさかおばあちゃんも生きてるとか」
「それはないわよ、あんただって最期を看取ったでしょ、覚えてないの」
「ああ、うん、それは覚えてるけど」
「実はね、あなたのその小桃という名前、生まれた時に桃みたいだったとか、桃太郎みたいに強くて優しい子にとかっていってたけど、実はね、違うの……。パパの名字、菊池っていうのは知ってると思うけど、パパがね、せっかく菊池なんだし、桃子なんてどうだなんて、そんなこと、そんなこというのよ、う、う、ううう……。も、もちろんママは反対したわ、号泣しながら、それだけはやめてって、何度も何度も、泣きながらお願いしたの。でもパパは全然譲らなくて、それで、何度も何度も話し合って、その結果、お互いに最大限に譲歩して、それで小桃ってことになったの」
「ああ、なんかそれ、全然譲歩してないと思うんだけど」
「でもほら、結局は菊池じゃなくて川中小桃になったから、実害がなくて済んだというか」
「それも結構あれだよ、子供の頃とかよく、どんぶらことかいわれたし」
「でもそれはまだましじゃない、ママなんか川中仲子よ、名字が川中なのに名前が仲子なんて、ずっと恥ずかしい思いしてきて、両親を恨んだし、結婚してやっと解放されたと思ったのに、馬鹿な男に捕まって離婚よ」
「まあママの名前は私も変だと思うけど、でも、それならほら、再婚とかは考えなかったの」
「それは考えたわ、あなたがまだ小学生の頃だけど、ある男性と知り合っておつき合いしたの。でもね、その人、凄くいい人だったけど、名字が中川だったの。ママ、それだけはどうしても我慢できなくて、それで結局別れたの」
「ああ、なんか覚えてる、中川さん、一緒にファミレス行ったりとか遊園地行ったりとかした人だよね」
「覚えてたの、そう、そうよねえ、小桃のことも凄く可愛がってくれてたし」
「クリスマスなんかサンタの格好で家にきたでしょ、しかも僕のことはみんなには内緒だよなんていうから、あれから私、中川さんがサンタの正体なんだと思い込んで、クリスマスになるたびに中川さん大変だなあって思ってたもん」
「いい人だったのよねえ、中川さん、あの人とは全然違って、優しくて、明るくて、真面目で」
「パパってそんなに悪い人だったの?」
「そうよ、最低最悪な男よ、死んだことにしたいくらいに最低最悪な男だったの。だからほら、あんたが芸名をどうするかって悩んでた時、あんた、パパの名字が菊池だから菊千代にするなんていったけど、ママ猛反対したでしょ。でもママが提案した名前は全部あなたが却下して、結局菊千代なんていう変な名前になっちゃって」
「いや、ママが提案したのって、確か、ピチピチハープ姫とか、モダンガール桃ちゃんとか、なんかそんな感じだったと思うんだけど」
「ママはまだ諦めてないわよ」
「いやいや、今さら無理だし、諦めてよ」
「とにかく、菊千代なんて名前で、ママは複雑だったわ。まあ小桃はママとパパの子供だし、あんたが必要以上にパパに憧れるのは、下手に死んだなんてことにしたママのせいでもあるし、でもまあ、それも今日までというか、パパが生きてるってこともちゃんと伝えたし、小桃の名前の由来もちゃんと教えたし、これでママ、いつ死んでも悔いはないわ」
「いや、死なないでよママ、まだまだこれからなんだし、孫だって生まれるんだし」
「それくらい重荷だったってことよ、あんたに隠し通すのは」
「最初から隠さなきゃいいと思うんですけど、まあでも、ママにも色々と事情があったみたいだし、それにパパが生きてるってわかった訣だし、ねえママ、パパが生きてるってことは、どうなのかな、もしかして、パパに会ったりとかは、できないよね。あと、結婚式に呼んだりとか、それも無理かな」
「できるわよ」
「えっ、できるの?」
「ええ、こないだも、そろそろ年頃なんだしそういう話はないのかって書いてたし」
「えっ、手紙とかやり取りしてるの?」
「うん、年賀状だけど」
「えっ、パパから年賀状きてるの、私見たことないんだけど、だって毎年私がママの分と私の分とを仕分けしてるけど、菊池正道なんて見たことないし」
「ああ、それはね、あんたにばれないようにって毎年偽名でくるのよ。えーとね、あ、あったあった、これこれ、この鷲塚杢太左衛門ってのがパパよ」
「えっ、鷲塚、杢太左衛門?」
「そう、鷲塚、杢太左衛門」
「いやいや、偽名って普通、怪しまれないようにするもんでしょ、これどう見ても怪しすぎるじゃんか、てか毎年くるから私、滅茶苦茶覚えてるし、ずっと気になって仕方がなかったんだけど。え、これパパだったの?」
「そうよ、まあ怪しまれはしたけど、小桃にばれないようにっていう作戦は成功だったみたいね」
「いやいや、成功というか、そんなことまでして毎年律儀に年賀状のやり取りとか、憎み合って別れたんじゃなかったの、まさか私に内緒で会ったりとかしてないよね」
「それはないわ。離婚してからはただの一度も会ってないし、電話なんかもしたことなくて、だから今ではどんな声してたかも忘れてるくらいで、まあラインはしてるけど」
「えっ、ママ、ラインしてるの、パパと?」
「ええ、してるわよ」
「いやいや、なんで、なんでライン?」
「なんでっていうか、ほら、ママも覚えたばかりでよくわからなかったし、パパも同じみたいで、それで去年の年賀状だったかな、一昨年だったかな、ラインはじめたけどよくわからないって書いてあったから、それで私も実はそうなのって返事を出して、それからやり取りするようになったというか、なんかほら、そういうのって変にシンパシーを感じるというか、親近感が湧くというか、だってねえ、初心者が慣れてる人とラインして、それでもしなんか間違った操作でもしたら困るじゃない、その点、初心者同士だと失敗して当然というか、お互いに教え合ったりして成長できるし」
「いやいや、憎み合って別れたんでしょ、なんで二人で成長しようとしてんの。というかラインなら私に訊けばいいじゃん」
「でもほら、あんた結構そういうの小馬鹿にするでしょ、はっ、そんなこともできないの、みたいな感じで、それ小桃の悪い癖よ。ほんっと誰に似たのかしら、顔はママと瓜二つで可愛いのに、中身は可愛くないのよねえ」
「いや、だからって最低最悪な男とラインしなくてもいいんじゃないの。私、それ以下ってこと?」
「でもほら、小桃に内緒でこっそりライン覚えて、それで小桃を驚かそうなんて、実はそんなことを考えてたりもして、サプライズっていうの?」
「そんなの全然サプライズじゃないし、そんなの普通だし日常だし、実際ママとのはじめてのラインとかまったく覚えてないくらいだし、まあ、まあまあ、そんなのは別にどうでもいいんだけど、とりあえず、この年賀状の住所にパパが住んでるんだよね、はるみ荘十八号室って書いてあるけど、この住所は、あ、これは嘘じゃなくて本当なんだ、そっか、じゃあ、ここに行けばパパと会えるんだ、ここに行けば、パパと……」
「どうするの、会いに行くの?」
「うーん、どうしよ、ちょっと怖いけど、でも、うん、パパが生きていたらって小さい頃からずっと思い描いてたし、会えるんだったら会ってみたいというか」
「そう、じゃあ今ラインで訊いてみるから、空いてる時間があるかとか、お互いに予定とかあるでしょうし」
「いやいや、そんな簡単なことしないでよ、マネージャーじゃないんだよ。しかもこういうのは感動の再会というか、普通はサプライズでしょ、こういうのをサプライズっていうんでしょ」
「あら、駄目だったかしら」
「そうだよ、それに、もしかしたら私、逃げ出したりするかもしれないし、遠くから見るだけで済ませるかもしれないし、なんかよくわからないけど、まだ気持ちの整理がついてなくて、だから……」
「まあそれもそうよね、じゃあママもこのことは内緒にしておくから。小桃はいつも通り気づいてないってことで」
「ねえ、パパは私のこととか、どれくらい知ってるの。年賀状やラインなんかで教えてたりするんだよね」
「うーん、ほとんど知らないわよ。全然教えてないし、小桃だって普通の派遣社員してるってことにしてるし、それに写真だって一枚も送ったことなくて、送れ送れってうるさいんだけどね、それは全部ガン無視というか、断固拒否というか、小桃は私だけのものよ、あんたなんかに気安く見せるもんですか、ざまあみろっていう感じで」
「ああ、一応は今も憎んでるんだ、てか普通の派遣社員ってところがもの凄く気になるんだけど、そこ、普通のOLじゃ駄目だったのかな」
「なんかその方がリアルっぽいでしょ。疑われにくいというか。それにもし小桃がオハコのメンバーだなんてばれたら、あの人のことだからなにをしでかすか、間違いなく自分の商売にあんたの名前を勝手に使ったりはするわね、そういうあこぎな人なのよ」
「パパってそんなにあれなの、なんか躊躇いの気持ちが増してきたというか、膨らんできたというか、どうしよう、やっぱり会うのやめようかなあ、でもなあ……、えーと、この丘を上って、その先を曲がったら、そこにはるみ荘っていうアパートが、あれ、えーと、なんかもの凄いのが建ってるんだけど、なに、なにこれ、これってリゾートマンションってやつじゃないの、完全にオーシャンビューだし、あ、でも一応HARUMISOUって書いてあって、ここなんだろうけど、うーん、こんなとこに日常的に住んでるとか、パパってなにしてる人なの、マジでやばい人だったらどうしよう、やっぱ引き返した方がいいかな、でもせっかくきたし、あ、それよりどうしよ、全然予想してなかったけど、なんかオートロックがあるし、その先にはフロントみたいなのもあるし、どうすればいいかな、会うより先にオートロックで会話ってのもなんか変というか、小桃ですっていってもわからないだろうし、まあいっか、とりあえず菊池さんにお届け物ですとかなんとか、帽子で顔を隠したりして、あー、なんでこんなとこで悩むんだろ、ただ会いにきただけなのに、ふう、なんとかうまく入れたけど、でもこの十八号室ってのは、えーと、パネルがあったけど、これもしかして、十八階全部ってことなのかな、最上階は、あ、共用の展望温泉とジムって書いてあるから、その下のフロア全部がパパの住居で、マジでやばい人のような気がしてきたんだけど、でもまあ、ここまできたら行くしかなくて……」
さあ、そんなこんなで菊千代が父親の元を訪れまして、緊張の面持ちでインターホンのボタンを鳴らしますってえと、ドアがパッと開きまして、
「あ、えーと、はじめまして、あ、実際ははじめてじゃないんだけど、あ、えーと、宅配便ではなくて、あのー、小桃です、あ、別に果物を届けにきたんじゃなくて、ハンコもいらなくて、私、川中小桃です、わかりますか」
「えっ、えーと……、うーん……、それは違うんじゃないかな、なにかの間違いじゃないの」
「いえ、川中小桃です、パパに会いにきました」
「いやいや、よしてくれよ、だって君、大正琴のお菊ちゃんだろ、箱入り娘の」
「あ、それはそうなんですけど、知ってるんですね」
「知ってるもなにも、俺の一番の推しメンだからな、そりゃ知ってて当然だけど、え、でもなんでこんなとこにお菊ちゃんが、もしかしてあれか、人気絶頂だけど意外に安月給で配達のバイトしてるとか、それかまさか、ファン感謝デーとかなんかそういうあれで、ファンの自宅をいきなり訪問して驚かすドッキリみたいな、AVとかでもたまにあったりするけど、あれは多分演出だと思うし、しかもそういうのに応募した記憶はないと思うんだけどなあ」
「いや、そうじゃなくて、あのー、私が川中小桃です、さっきもいいましたけど、川中小桃、パパの娘です」
「おいおい、だからよせってよ、小桃ってのは俺の娘の名前で、君は菊千代ちゃんだろ、まさか、オハコのメンバーが振り込め詐欺でもやろうってのか」
「いや、だからそうじゃなくて、なんていえばいいか、その菊千代ちゃんが実は川中小桃で、パパの娘なんですってば」
「パパの娘なんていわれてもなあ」
「パパ、お父さん」
「おいおい、いくらお菊ちゃんでもそれは駄目だよ、俺のことをお父さんなんて呼んでいいのは世界に一人だけ、まあパパって呼ぶのは何人もいるけど、お父さんってのはな、俺の娘の小桃だけにしか許されない呼び方で」
「あー、なんだろこれ、なんか苛々してきたんだけど、あのー、だからその菊千代の正体が川中小桃で、その川中小桃の母親が川中仲子で、その川中仲子と以前結婚していたのが菊池正道という人なんですけど、今目の前にいる昭和風の角刈りの男の人がその菊池正道さんで宜しいですか」
「んー、えーと、うん、確かに俺の名前は菊池正道で、昭和風の角刈りで、大昔に川中仲子さんと結婚していて、その仲子さんとの間に小桃という一人娘がいて、そこまではいいんだ、そこまではな、だけどなあ、その先が繋がらないというか、だって菊千代ちゃんだよ、そんな、俺の推しメンがなんで俺の娘になんのよ、そうだろ、確かにお菊ちゃんは顔が仲子の若い頃に似てて、それで年甲斐もなくファンになったりしたけど、でもなあ、それだと色々とまずいだろ、実は実の娘だったとか今さらいわれても、過去のことは今さら取り消せないというか、人間としてそれは絶対に駄目だろっていうか、神様にどう懺悔すればいいか」
「えーと、ああ、そういうこと、そういうことなのかな……、あのー、あれですよね、要するに、ぶっちゃけ、私でオナニーしちゃったってことですよね、実の娘とは知らずに」
「ああ、まあそういうことに、なるのかなあ、ならないのかなあ、うーん、でもほら、それはほら、仲子の奴がほら、小桃は高校卒業後は簿記の専門学校に行って、資格とかも取って、それで今は普通の派遣社員してるなんて年賀状に書いてて、それを真に受けたというか、油断してたというか、あのアマ、写真だってただの一度も送ってきやがらねえし、それでまあ、全然思いもしなかったというか、むしろそれで気づく方がおかしくて、そこは不可抗力というか、でもあれだぞ、仮にそういうことがあったとしても、多分一回か二回か、あるいは数回程度というか、まあ普通はそういうの数えたりとかはしねえからな、仮にあったとしてもそう多くはないと思うんだけどな」
「はあ、数え切れないほどあるんだ、うん、まあなんか最低最悪な再会だけど、とりあえず中に入ってもいいですか、色々とパパに訊きたいこととか話したいこととかがあって、あ、でも訊きたいことっていっても、なんでそんな年にもなってアイドルなんかでオナニーしてんのとか、そういうのは別に興味ないんで」
「あ、ああ、まあとりあえず、入って、心配すんな、別になにもしやしねえし、奥に愛人とかもいねえし、まあ今日はたまたまかもしれないけどな」
「それじゃあお邪魔します……、へえ、予想はできたけど、中もあれなんだ、広くてゆったりしてて、家具なんかはちょっと成金趣味っぽいけど、窓からはオーシャンビューが一望できて、あ、今のはあれか、変な表現だったかな、海が一望できるのがオーシャンビューだから、それが一望できるってのはおかしな表現で、いうなれば上を見上げるとか、下を見下ろすとか、頭痛が痛いとか、白い白馬とか、馬から落馬とか、オチで失敗して全然落ちてもいないのに落語とか、あ、まあそんなのはどうでもいいんだけど」
「なんだ緊張してんのか、まあそりゃそうだわな、俺もさっきからびっくり仰天で、なにを話せばいいか、どう話せばいいか、どう接すればいいか、というか、へえ、本当に小桃なのか、しっかし、大きくなったなあ、あの頃はあんなに小さかったのに、こんなに大きくなって、それに仲子に似てなかなかの美人さんになって、いやいや、もちろんお菊ちゃんのことは知ってたけど、まさか小桃がそうだったなんてなあ、それにほら、お菊ちゃんは大正琴だろ、大正琴なんてマイナーもマイナーで、今でこそみんな知ってるけど、なんでそんな楽器やろうなんて思ったんだ。生き別れの娘が大正琴やってるとか、しかもそれで芸能界を上り詰めるとか、普通は絶対に思わないだろ」
「あ、それはおばあちゃんの遺品で、あ、おばあちゃんが亡くなったのは知ってますか、あ、おばあちゃんっていうのはママのママだけど」
「ああ、そういうのはな、喪中のお知らせってので知ったりして」
「あ、そういうのも律儀にやってたんだ。まあいいんだけど、えーと、そのおばあちゃんの遺品に大正琴があって、弾いてるのは一度も見たことなくて埃かぶってたんだけど、それを独学で学んだというか、本当はピアノが習いたかったんだけど、でもお金がないからって習わせて貰えなくて、それで仕方なくというか、最初は適当に遊んでただけだったんだけど、やってるうちに結構上達しちゃって、それで試しに音大でも受けてみようかなあなんて思って冗談で受けてみたら、本当に合格しちゃったというか」
「おいおい、音大って、あの音大だろ、音楽大学ってやつで、確かにお菊ちゃんがそういう出身だってのは聞いたことがあるけど、でもそういうのはお嬢様が行くところじゃないのか、しかもおまえ、ピアノ習わせて貰えなかったんだろ」
「うん、ピアノはね、音大に入ってから習いはじめたくらいで全然弾けないんだけど、でもほら、大正琴で受験して、それで合格したというか、まあ大正琴でピアノ科を受験したのは私がはじめてで、合格したのも私がはじめてで、和楽器科でも過去に一人もいなかったらしいんだけど、でもピアノ科といっても在籍はチェンバロ・クラヴィコード専攻のコースで、ピアノが通用しない連中が仕方なく落ちてくるようなところで、オルガンコースの連中と争ってたりするんだけど、あ、チェンバロっていってもわからないかな、ピアノの父親みたいな鍵盤式の撥弦楽器で、中の機構はちょっと違うんだけど、ともにご先祖様はハープで、ハープを横向きにしてオルガンみたいに鍵盤で弾けるようにしたのがチェンバロで、だから英語ではハープシコードっていうんだけど、大正琴もほら、お箏をボタンで押せるように改良したものだし、今では鍵盤式も普及してたりして、そういう点では親戚みたいな関係というか、あ、クラヴィコードってのはチェンバロとはまた別なんだけど、そっちは調律用の器具を鍵盤で鳴らせるようにした持ち運べる楽器で、一本の弦を複数の音が共有してたりするんで弾けない和音があったりもするんだけど、大正琴も和音は弾けないし、そういう点ではやっぱりみんな親戚で、あ、でも大正琴はタイプライターをヒントにして作られたものだから、親戚というよりは、タイプライターとお箏の間に生まれた異色の娘が大正琴というのが正しいんだけど、でも西洋のハープと日本のお箏はそもそもイトコみたいなものというか、大昔にシルクロードによって運ばれて東西でそれぞれ発展したもので……」
「ああ、まあとにかく、元を辿ると似たような楽器だというのはわかったが、しかしあれだな、さすが音大を出てるだけあって、そういうのも詳しいんだな、正しいかどうかは知らんが」
「出身ってだけじゃなくて、今はその音大で非常勤講師もしてるんだよ、寄席での仕事がない時だけだけど、学生に大正琴を教えたりしてて、これが結構人気でさあ、必修でもないのに受講する生徒が殺到して、それで抽選だよ、倍率十八倍、ドン、さらに倍、なんていって、これぞオハコの威力というか、私のおかげというか、うん、なんか自慢になっちゃうんだけど、でもまあそういう訣で大正琴で音大に進んで、それで珍しいなんていうんで話題になって、そのおかげでオハコにも誘われたというか、まあ入ったのが結成一年目の後半で、昭和歌謡路線で鳴かず飛ばずの時代だったけど、でもみんなが歌ったり踊ったりするだけだったのに、私はその当時から大正琴を弾いてたりして、そういう点ではオハコの影の立役者というか、裕次郎とかひばりとかは大正琴の音色が似合うし、当時の私がいてこその今のオハコというか」
「うん、とりあえず緊張してるのはわかるが、そろそろ落ち着いたらどうだ、目の前にお茶があるのにも気づいてないだろ」
「あ、ほんとだ、お茶がある……。これ頂いても、あ、そりゃそうですよね、それじゃ頂いて、ズズー、ズズーっと、なんかごめんなさい、だいぶ緊張してて、自分ばっかり話しちゃって」
「いや、まあお菊ちゃん、あ、いや、小桃ちゃんが色々話してくれて、それは俺としても嬉しいというか、まさかこうやって娘と会う日がくるなんて夢にも思わなかったし、でも今日はなんで突然。ああ、ああ、そうか、結婚するのか、それで、ああ、ああ、これまでずっと死んでたと思ってたけど、そうか、仲子の奴がついに自供したのか、ああいや自供ではないが、そうやって知った訣か。まあでも、小桃が結婚とは、いやいや、もちろん嬉しいに決まってるだろ、菊千代ちゃんが結婚となるとまあちょっと複雑な思いではあるが、小桃が結婚するんだから、それは俺としても、お父さんとしても非常に喜ばしいことで」
「あ、でも結婚っていっても、普通の結婚じゃなくて、なんていったかな、えーと、厳粛な事実に基づく真摯な結婚というか」
「ほお、ダブルハッピー婚か、そりゃまためでたいじゃないか、なんだなんだ、そんな難しい言葉を使わなくても、素直にダブルハッピー婚っていえばいいだろ、俺と仲子だってそうだったんだぞ、当時はそんな言葉はなかったが、それは聞いてないか」
「あ、うん、それは聞いたというか、聞いたばかりというか、ずっと知らなかったからショックだったけど、こうして実際にパパに会って、それでママのこと想像したら、うん、なんかそういうのがお似合いな二人というか、そういう二人だったんだろうなあという気がして」
「なんだ本当に聞いてなかったのか、まあそりゃ隠したい気持ちもわからんでもないが」
「え、なに、どういうこと? なんか接続が変というか、なにを隠すの?」
「うん、まあそれはなあ、俺の口からはちょっといいにくいというか、仲子から聞いた方がいいんじゃないか」
「でもママ、そういう昔のこと教えてくれないし」
「まあそりゃそうだろうが、でもなあ、俺がいう訣にはいかなくて、まあそういうことなら一応ラインで訊いてみるか」
「本当にラインしてるんだ、あ、でも待って、ママのことだから絶対に駄目とかいうに決まってるし、ねえ、ママとパパ、どんな風に出会ったの、それでどうやって結婚したのかとか、どうして離婚したのかとか」
「本当に訊きたいのか」
「うん」
「後悔はしないよな」
「後悔するようなことなの?」
「うん、まあな、それでもよければ話してやるが、ただ、これは茶飲み話って訣にはいかなくて、俺もお茶なんかでは話せないし、ウイスキーでいいか、それともあれか、最近の若い子は焼酎とか日本酒とかの方がいいか、ワインは俺が好きではなくて、一応ストックはあるんだが、ああ、ウイスキーでいいのか、ハイボールか、水割りか、お湯割りか、緑茶割り、あるいはコーラやトマトジュースで割るなんてのもあるけど、それは安酒をごまかす方法だからな、あまりお薦めしないぞ、とりあえず銘柄はなにがいい、産地はどこだ、なんでもいいぞ、いってみろ、スコッチか、アイリッシュか、バーボン、カナディアン、ほお、日本を選ぶか、しかもニッカか、なるほどなあ、あっちではなくニッカを選ぶとは、さすがは俺の娘だ、いやいや、よし、それじゃあ竹鶴でいいか、それの一番高いやつで、ああそういうのは全然気にするな、こういうのは飲みたい時に飲みたいのを飲めばいいし、決して無駄金なんかじゃないぞ、そもそもこうやって半端に金持ってる連中がどんどん金を使ってこそ経済が回るってもんで、俺なんか元々が貧乏育ちだからな、いつ貧乏に戻っても構わないし、むしろそれが当然だと思ってるくらいで、本当だ、今でもあれだぞ、蛇口をひねっただけでお湯が出るなんていうな、それだけのことで幸せを感じたりして、ああ、これは決して嘘じゃないぞ、特に今みたいな冬場はな、蛇口をひねるだろ、すぐにお湯が出るだろ、それで手を温めるだろ、これがなあ、とにかくいいようのないほどにもの凄く幸せで、旨い酒を飲んだり旨い物を食ったり、高い物を買ったり綺麗な姉ちゃんを侍らせたりなんてのは全然なんとも思わないんだが、蛇口からお湯が出るというのだけは、これだけは譲れないというか、それだけあれば満足というか、人生で最良の喜びというか」
「ああ、うん、まあなんというか、パパがどういう環境で育ったのかとか、今どんなやばい仕事してるんだろうとか、そういうのも気になるんだけど、とりあえずパパとママの馴れ初めというのかな、それを聞きたいんだけど」
「ああ、うん、それじゃあちょっと待ってろ、待ったか、ほい、竹鶴だ、世界で一番旨いウイスキーだぞ、ああいやいや、別に俺なんかに感謝なんかしなくてもいいんだ、ああ、感謝すべきは素晴らしきニッカさんとニッカの従業員の皆さんで、それにその流通に関わっている大勢の人達だ、な、そうだろ、そのうちの誰か一人でも欠けてたらこの竹鶴のこの瓶がここまで届くことはなかった訣だし、この竹鶴だって年代物だからな、今だけじゃなく昔の人達のたゆまぬ努力の結晶がこうして今この時、この瞬間に薫り出すという訣で」
「あのー、なんか訊きづらいんですけど、パパってなんか変な宗教とかやってます? それとか自己啓発セミナーとか、健康食品のマルチ商法とか、人脈コンサルタントとか、あれ、そういうあれなのかな、パパの仕事って、そういうのを仕掛ける側なのかな。あ、そういうのは違うんだ、ならいいんだけど、あ、それじゃ乾杯だよね、グラスを合わせて、チーンと、まさかパパとこうして乾杯する日がくるなんて、夢みたいというか嘘みたいというか、まあずっと死んだと思ってたから当然だし、チーンは毎日してたんだけど、あ、え、嘘っ、なにこれ、なにこれ美味しい、というか滅茶苦茶美味しい、え、なにこれ、えっ、ウイスキーってこんなに美味しいの? なんだろこれ、なんか今、無性に幸せを感じたんだけど、パパに会えたことよりもこのお酒と出会えたことの方が感動というか、ああいや、もちろんパパと会ったことや、パパが生きてるって知った時の方があれなんだけど、まああれというかなんというか、あ、それでパパとママとの出会いは」
「ああ、うん、なんだか急に話しにくくなったんだが、まあいいか、実はな、俺が、ああいや、お父さんが大学生の頃の話なんだが、お父さん、あまり勤勉な学生ではなくてな、大学にもほとんど顔を出さず、毎日のように麻雀とパチンコに明け暮れていて、そんなんだから当然就職なんかも決まらず、ああ、当時はバブル景気で空前の売り手市場なんていって、無名の大学でも引く手数多だったんだが、俺は、いや、お父さんは全然駄目でな、しかもいつも男同士でつるんでばかりで女っ気なんかは全然なくて、それでな、いつもの面子と卓を囲ってる時に女の話になったんだが、俺はな、みんなもそういうのはあれだと思ってたんだが、ところが話してみると俺だけで、それで焦りというか、裏切られた気分というか、まあそんなことがあって、それでお父さん、生まれてはじめてソープランドに行ったんだ」
「ん……、んーと、え、なに、なにこの話、その件は必要なの、いらないんじゃないの?」
「まあまあ焦るな、とにかくだ、そうやって俺は、いや、お父さんはソープランドに行ったんだが、はじめてなのでなにもわからない、システムなんかもよくわからなくてな、ところがだ、その時たまたま、その吉原のお店で一番人気という子が空いてたらしくてな、話によれば半年先まで予約が埋まっているというほどの大人気のソープ嬢なんだが、予約が急遽キャンセルになったんで、お客さんよかったらどうですか、通常料金で構いませんよ、なんていうんだ、それでそのミルキーちゃんに相手して貰ってな、それでお父さん、はじめて男になったんだ」
「えーと、それいるのかなあ、やっぱりその件はいらないんじゃないのかなあ」
「まあ待て待て、とにかくだ、そうしてお父さんはそのミルキーちゃんに筆下ろしをして貰ったんだが、このミルキーちゃんがな、とにかくもの凄くよくて、顔は可愛いし体は最高だしテクニックはプロ級だし、しかもこちらが童貞だと察したみたいでな、ああ、恥ずかしいので自分からそういうことはいわなかったんだが、そういうのにも気づいて、でもあれだ、こちらを傷つけないようにという気遣いというか心配りというか、言葉でも仕草でもやんわりと導いてくれてな、それでお父さん、もう一度あのミルキーちゃんとお手合わせ願いたいと思ったんだが、なんせ予約ですら半年先、その界隈では知らぬ者がいないほどの人気の泡姫だ、でもどうにかして会いたい、会えないならば一目見るだけでもいい、同じ部屋の空気を吸うだけでも、なんて思ってな、それでお父さん、そのソープランドに就職したんだ」
「えっ? なにっ? えっ? なにっ?」
「まあそういう業界はな、汚れ仕事みたいなもので、不景気であれば応募者も多いんだが、空前の好景気だったからな、ジャパン・アズ・ナンバーワンの時代だぞ、わざわざそんなとこに新卒の学生が応募してくるなんてことはなくて、それでお父さん、めでたく幹部候補として即採用ということになって、それでミルキーちゃんとも無事に再会し、しかも同僚として働くなんてことになってな」
「あのー、全然先が見えないんですけど、その件は本当にいるんですか」
「うん、まあそりゃそうだろ、だってそのミルキーちゃんってのが仲子だ、おまえの母親、川中仲子だ」
「ん……、えーと……、あれ、なんだろ、なんかあの、ちょっと意味がわからないというか、急に眩暈がしてきたというか、あれ、このお酒、度数はどれくらいなのかな……」
「まあ戸惑うのも当然だろ、だって俺もな、お父さんもな、まさかそんなお店で働くことになるなんて思ってもいなかった訣で、大学を卒業して就職したらスーツにネクタイなんて普通に思ってたのに、チェック柄のチョッキに蝶ネクタイだぞ、しかも赤と緑と黒のチェック柄に、金色の蝶ネクタイだ」
「ん、えーと、あれ、なんかそれ知ってるというか、もの凄く簡単に思い浮かぶというか、あれ、なんかいつも見てた仏壇の写真がそんな感じで、えーと、あれってパーティーかなんかの余興の写真だと思ってたんだけど、えっ、あれなの、あれが仕事着だったの?」
「なんだ、仲子の奴、俺の全盛期の写真を今も飾ってやがんのか、まあ当時の俺はな、学生時代とは打ってかわってとにかくモテにモテてなあ、大卒のウブな男の子がボーイに入ったなんていうんで姫達の間で噂になって、アフターに誘われたりもして、でも俺はよお、なんといってもミルキーちゃん一筋な訣で、それでミルキーちゃんをなんとかして落とそうと必死で必死で、給料日になるたびにプレゼント攻撃もしたし、優しい言葉もかけたし、逆にきつい言葉で叱ったり無視したりもして、まあでも相手は百戦錬磨の手練手管、こっちの作戦なんか最初から見透かしていて、まあでも俺の熱意というのかな、俺の人生をすべて君だけに捧げる、そのために俺は山一や長銀や拓銀の内定を蹴ってまでこの店にきたんだなんて、まあそれが全部嘘というのも気づかれていたんだが、でもそういう思いが伝わったというか、やがて交際がはじまってな、それで小桃、おまえを授かったという訣だ」
「んー……、あー……、うん、なんていうのかな、今もの凄く後悔してるというか、パパに会えたことは確かに幸せだし、パパが生きてたってことももちろん嬉しかったんだけど、でもなんていうのかな、ママが素直に自供したことを恨みたい気分というか、話を聞きたいとはいったけどそこまで話すパパも必要なかったというか、うん、まあ私が変な理想を勝手に思い描いてたってのがいけないんだろうけど、でも、でも、一番あれなのは、ママがミルキーちゃんって名前なのがどうしても受け入れられなくて、ママが風俗嬢だったとか人気の泡姫だったとかは別にどうでもいいんだけど、なんでミルキーちゃん、なんでミルキーちゃんなの、そんなの、そんなの納得できる訣がないじゃん!」
「落ち着け小桃、いいか、人にはそれぞれ事情ってもんがあるんだ、特に風俗なんて特殊な業界にはそれこそ人の数だけ事情があって、仲子の場合もだな」
「どんな事情なの」
「それは、まああれだ、楽して稼ぎたいというか」
「全然駄目じゃん!」
「いやいや、決して楽な業界ではないんだぞ、むしろ女の子にはかなりきつい業界で、でもまあ、仲子は顔も体もピカイチだが、テクニックもプロ級でな、そこには人知れぬ努力や研鑽、ご指導ご鞭撻というものがあったに違いなく、だからこそ俺もミルキーちゃんに惹かれた訣で、そういう点では楽をして稼いだんじゃなく、苦労して稼いだということになって、でもそれはどんな業界でも同じことで、人生においては努力こそが最大の武器となり得、怠慢こそが最大の危機となり得る」
「あのー、やっぱりパパ、なんか変な宗教とか、自己啓発とかやってませんか?」
「安心しろ、そういうのはやってないし、菊池家だって宗旨は平凡な浄土宗だ、あのナンマイダーって唱えれば全部解決っていうお気楽なやつで、だから安心しろ」
「なにを安心すればいいのか全然わからないんだけど、まあいいや、二人が職場恋愛というか職場結婚というか、そういう感じだったってのは理解したから。納得はしてないけど」
「とにかくだな、そうやって知り合って交際して小桃が生まれ、これからは家族を養うためにもさらに頑張らなきゃというんで、それでお父さん、独立して自分の店を持ったんだが、これがうまくいかなくてなあ、しかも二年目だったか、サツのガサが入って、それで仲子がパクられたりしてな」
「えっ、なに、どういうこと」
「ああ、サツってのは警察のことで、ガサってのは手入れ、警察の捜査だな、そんでパクられたってのは逮捕されたってことだ」
「いや、それは知ってるんだけど、え、なんでママが逮捕されてんの? パパとママは結婚したんでしょ? それで私が生まれたんでしょ?」
「それがなあ、実は、独立したものの経営が苦しくてな、それでミルキーちゃんがカムバックすれば一躍人気店になるだろうなんて安易に考えて、仲子に復帰して貰ったんだな。それで実際、経営も軌道に乗って繁盛しかけたんだが、それがほかの店に妬まれでもしたのか、チンコロされちまって、ああ、チンコロってのは警察にチクるって意味でな」
「それはどうでもいいんだけど、ミルキーちゃんがカムバックとかいうところが全然わからなくて、だってパパとママは結婚したんでしょ、それで私が生まれたんでしょ、しかもパパは従業員から経営者になって、それなのに、え、なんでまたママがお店で働いてんの、駄目でしょそれ、絶対駄目でしょ」
「ああ、まあそれはな、こっちも切羽詰まってて、もし店が潰れでもしたら大変なことになるからな。膨大な借金を背負うことになって一家離散か一家心中か、ああ、独立する時に色んなところから金を借りたからな、それだけは避けないとというんで仲子の方も納得してな。それにそういう店では既婚者の嬢なんか普通だからな、むしろ人妻が過半数というか、そっちに専念してる店の方が多いくらいで」
「普通だとしてもこっちは全然納得できないんですけど」
「まあそういうな」
「それより、ママが捕まったってことは、当然パパも捕まったんだよね」
「んー、いや、俺の方は大丈夫でな」
「いや、なんで大丈夫なのよ、パパが働かせてたんでしょ」
「そうだけどほれ、そういうのはあれなんだ、店側は一切関知してないというか、まさか嬢がお客さんとそういうことになるなんてのは知らぬ存ぜぬというのが暗黙の了解でな、自由恋愛はいいけども仕事中にお店の中でそういう行為に及ぶのだけは絶対に避けるようにと従業員及びキャスト一同に厳しく指導していたんですが、指導がちょっと行き渡っていなかった部分があったみたいで、そこは大変申し訣なく、以後はより厳しく徹底的に指導監督致しますので、どうか穏便なるご英断と温情あるご沙汰を、というんでな」
「逃げたんだ、ママを犠牲にして」
「逃げたんじゃないし、犠牲にしたんでもなくて」
「でもママは逮捕されたんだよ」
「逮捕っていってもあれだぞ、わかってるのかおまえ、もし俺が関与してるなんてことになれば、それこそ売春防止法第十一条違反、場所の提供等ってやつで確実にアウトだが、あいつが逮捕されたのはポン引きだぞ」
「え、なにそれ」
「だからな、売春防止法ってのは女性を守るための法律で、本来ならば嬢は逮捕ではなく保護される対象なんだぞ。むしろどのように保護するかっていう条文の方が圧倒的に長くてだな」
「じゃあなんで捕まったの」
「それがなあ、あいつも店を繁盛させたいってので張り切っちまってな、以前の客なんかに、今度ミルキーちゃんが新店舗で復帰しまーすなんて電話攻勢をかけて、それはいいんだ、それはな、一応電話やメールでの勧誘は認められてるからな。ところがだ、店の外なんかで以前の常連客を見かけたりした時に、そこで思わず伝えちまったんだなあ、これが公衆の面前での客引き行為に該当するんじゃないかとまあ、そういう容疑だ」
「うーん、なんか全然よくわからないんだけど、ママも乗り気だったってこと?」
「ああ、そりゃもうとにかく乗り気も乗り気、あいつが復帰することになって、店の名前もミルキー・ワイド・ウェーブに改めたくらいだからな。まさにあいつが主役の店だったんだが、そうなると当然ながら逮捕は大打撃、しかもそういう噂はすぐに広まるからな、どういう訣か客にも敬遠されるようになるし」
「いやいや、どういう訣かって、そのまんまじゃん」
「そうだけど、客の方は別に逮捕されたりはしないんだぞ、事情は訊かれるけどもただそれだけで」
「え、そうなの? でもたまにニュースとかで」
「それは相手が未成年とかそういうのだろ。同業者の中にはそういうのを働かせてる極悪な店なんかもたまにあったりして、まあ客にとっては優良店なんだろうが、俺のところはちゃんと年齢確認をして、二十歳以上じゃないと雇ってなかったからな。これがヘルスなら十八歳以上でもいいんだが、一号営業は二十歳以上と規定されててな」
「え、なに、一号営業?」
「まあ色々とあるんだが、簡単にいえば、そういう業界にとって厳守すべきは売春防止法と風適法と、あとは自治体の条例ってやつで、なにが許されてなにが許されないかってのは常に把握しておかなければならなくて、そこがまさに生命線だからな。たとえばエアコンを一つ設置するだけでも許可が必要かどうか、どこの認可を受けたらいいかなんて一々考えるんだぞ」
「えーと、パパってあれかな、一応大卒っていってたけど、もしかして法学部とかなにか? 若い頃は弁護士を目指してたとか?」
「うんにゃ、ただの文学部だぞ。法学なんてのは必修で単位取ったことはあるけどそれだけで、しかもそれがまた変な教授でなあ、基本的人権はいつから生じるのかってのを半年もやるんだ。わかるかこの意味、わからんだろうが、とりあえずあれだ、子供が産まれる瞬間はいつなのかっていうな、母親の胎内から一ミリでも出たら人権が生じるのか、それとも頭がすっぽりと出た時か、あるいは全身が出た時か、さらには臍の緒を切った時か、産声をあげた時か、出生届が受理された時か、あるいは精子と卵子とが結合して受精卵ができた時かというのでな、まさに半年間、それぞれのグループに別れて議論したりしてな、いやあ懐かしいなあ、あれ結局なにがどうだったのか結論は覚えてないんだが、マイナス一ミリだったか頭の半分だったか、ああいやいや、それはまあどうでもいいんだが、とにかくこういう業界にとっては売春防止法ってのが一番厳しくてな、ソープなんてところは常にそういうことをしている訣じゃないが、そういうことをすることもあって、まあでも仲子の場合はな、ポン引きで捕まったとはいえ道路上で立ち話をしただけだしな、本番行為の確証もなく、それで無罪放免、警察からもすぐに釈放されて、それでまあめでたしめでたしという訣だな」
「全然めでたくないんですけど」
「まあそういうな、警察だけで済めば一応は万々歳で、そこから先はかなり厄介なんだぞ」
「そこから先って?」
「検察だ。まあ大体は書類送検からの不起訴ってので終わるんだが、起訴されて略式なんてのもあるし、下手すると身柄送致なんてのもあってな。ん、どうした、ああ、そういうのあれか、普通の人はあんまり知らないのか」
「いやいや、普通の人っていうか、普通は知らないんじゃないの」
「そうなのか、まあわかりやすくいえば、書類送検ってのはな、警察から検察に容疑者に関する書類が送られるってことで、でも容疑が不十分で確証がないとか、初犯で大いに反省してるなんてことになると、これは大体が不起訴ってことになるんだな。身柄送致ってのは警察の留置場から法務省管轄の拘置所に移送されるってことで、そうなるとさらに時間をかけて取り調べを受けて、さらに起訴されて裁判ってことになるんだが、裁判を開くまでもないような軽微な犯罪だとか、事実が確定してて異論がないような事件だと大半は略式ってので済まされてな、これは判決の結果だけが薄っぺらい紙きれで送られてくるやつで、罰金刑なんかは大体これなんだが、納付の方法や振込先なんかも書いてあってな、それを済ませればそれで終了ということになるんだが、ただ、これは一応は有罪ってことだからな、その時点で前科ってもんがついて、ただあれだ、一応日本国憲法には裁判を受ける権利があるっていうのが規定されてるんでな、もしその通知に不服があれば改めて裁判を開くことができたりもしてな」
「そうなんだ、なんか完全に経験者みたいな口ぶりだったけど」
「まあ実際に経験者だからな」
「うん、なんかそれはわかる、本当は驚くべきなんだろうけど、今のは驚く余地がなかったというか、この人そうなんだろうなっていう」
「まあでも安心しろ、というか誇れ、俺はそれで一度無罪を勝ち取ったことがあってな、凄いだろ、有罪率九割九分という日本の司法の場において逆転無罪、完全無罪だぞ。しかも略式に不服を申し立てての無罪なんてのは、これはそうあるもんじゃなく、法学部の教授がそれをテーマに半年費やしてもいいくらいのもんで、ある意味、日本国憲法に護られた奇跡の男といっていいくらいのもんでな」
「いやいや、確かにそれはなんか凄いけど、でもパパ、そもそもなにやらかしたのさ」
「それはほれ、あれだ、こういう業界だからな、そこには当然ながら外国人のキャストなんかもいたりして、そうなるとほれ、売春防止法に風適法に自治体の条例だけじゃなく、さらに出入国管理法だのなんだのと、そういうのも関係してくるんだな。もちろん採用面接の際に在留カードを確認して不法滞在者なんかは絶対に雇わないんだが、たまに在留カードやビザを偽造する連中がいてな、特にあれだ、以前なんとかブームなんてのがあったろ、あの頃にやたらとあの国からそういう出稼ぎ連中がやってきてな、普通の観光ビザとか留学ビザとかでも平気で面接にくるんだぞ、信じられるか、もちろんそういうのは門前払いなんだが、そこに偽造カードで潜り込んだ嬢がいてな。まあ普通ならそういう短期間の出稼ぎはばれないし、嬢も稼いだらすぐにトンズラこいて帰国するんだが、その嬢がよそで問題を起こして逮捕されたらしくてな、それでうちで働いてたことも発覚して、そうなるとこっちは被害者みたいなもんだろ、違うか、それなのに警察や検察は碌に調べもせず、地裁もそうだ、在留カードを吟味してその番号をちゃんと問い合わせていれば偽造だということは簡単にわかったはずだなんていってな、それで有罪なんていわれても、おいおい、そんなのを一々外務省に問い合わせて、それでその返事はすぐにちゃんとくるんですか、毎年何件くらいそういう問い合わせがあるんですか、そもそもそういう偽造を取り締まるのはそっちの仕事であって、そっち側の怠慢じゃないんですかっていうな、まあそういう裁判をやって無罪を勝ち取った訣だ」
「はあ、なんか色々と大変な業界なんだ」
「そりゃ大変だぞ、俺なんか特に文学部卒で西洋文学科だからな、そういう法律の知識には乏しくて、そこを突かれたんだろうが、でもあれはなあ、警察も検察も裁判官も、どれも新人のヒヨッコ揃いで、たまにそういう時期があったりするんだが、最初からこっちを舐めてたというか、略式の罰金刑なら素直に従うだろうみたいなところがあって、でも相手が悪かったな、こっちは半年間も基本的人権について議論したことがあるんだよ、舐めんじゃねえぞっていう」
「えーと、パパってあれかな、今のは確かに凄いと思うけど、あれだよね、娘の私がいうことじゃないけど、確実に前科とか持ってるよね、確実に」
「なんだそれを訊くのか、まあ確かにな、そのあとか前か、略式からの罰金刑ってのは食らったことはあるけど、でも塀の中に入ったことは一度もなくて、そこは安心しろ」
「いやいや、全然安心できないし、完全に犯罪者じゃん」
「おいおい小桃、おまえ基本的人権ってわかってんのか、確かにパパは前科持ちかもしれないが、ぺらっぺらの紙切れとはいえちゃんと罰金を納付してそれで罪を償ったんだぞ、それなのに犯罪者なんて呼ぶのはどうなんだ、それは人権侵害ってことになるんじゃないのか」
「ああ、なんかそれは、ごめんなさい」
「まあいいけどな、とにかく、仲子の奴もすぐに釈放されて、それでめでたしめでたしだったんだが、その頃からか、二人の間で意見の相違が生じはじめてな、些細なことで喧嘩するようになったりもして」
「ああ、あれでしょ、ママがもうそんな仕事はやりたくない、もうこりごりとかっていって、それなのにパパが無理やり働かせようとして、それで離婚したんでしょ、だからママは今もパパを恨んでたり」
「その逆だ、俺はな、仲子にはもうそういう思いはさせたくなくて、経営に響くということは重々承知の上で引退させようとしたんだが、ところがだ、あいつは絶対に引退なんかしないといい張ってな、それどころか拡大路線を主張して、日本全国の風俗街にミルキー・ワイド・ウェーブをチェーン展開するとかいうんだぞ。その手はじめに札幌すすきの、鹿児島の天文館、さらに名古屋の女子大小路、名古屋の今池、名古屋の池下、岐阜の柳ヶ瀬、岐阜の金津園に支店を出すとかいい出す始末でな」
「んー、なんだろそれ、札幌と鹿児島はまあ、北と南ってことで一応納得がいくんだけど、なんかもの凄く地域的に偏ってる感じがするんですけど」
「ああ、あいつは岐阜の出身だからな、それは知ってるだろ」
「まあそれは知ってるけど」
「とにかく、あいつはバブルが弾けたことにも気づかずにそんなことをいい続けて、でもこれは大変だぞ、ただ支店を出すだけならいいんだが、それぞれ自治体の条例なんかもあるし、警察だって地方ごとに方針が違うし、同業者の組合なんかもあるし、まあそれで一番手軽な札幌に支店を出して、それは一応成功して、すぐにすすきの二号店、三号店なんてのもできて、ところがだ、そこで仲子の奴、泡姫としての血が騒いだのか、そっちでもナンバーワンになるなんていい出してな、東京札幌を往復する毎日だ」
「んー、なんだろ、今さらだけど、私の知ってるママとは全然違うというか、だってママ、飛行機は怖いから一度も乗ったことないとかいってたし、それになんていうのかな、あのー、一つだけ確認したいんだけど、これもう私が生まれたあとの話なんだよね、私を生んだあとのママなんだよね?」
「ああ、そりゃそうだが」
「ということはあれなんだよね、あれというかそもそもの問題というか、私そういう店のシステムとかよく知らないけど、ソープランドはそういうことをするところで、パパだって最初は客としてそういうことをしたんだよね。ということは、私が生まれたあとも、ママはお客さんとそういう行為というか、なんていうんだっけ、自由恋愛?」
「ああ、まあそれはな、いつもって訣じゃないんだぞ。あいつはそんなことしなくてもプロ級のテクがあるからな、戸渡潜りに潜望鏡、泡踊りに千流下り、扇返しに滝登り、普通はそれだけで満足させられるんだが、ただ、やっぱり常連の上客にはな、たまにはサービスしないと離れてってしまうし、如何にもっていうようなウブな童貞君が相手だと、やっぱり素敵な経験をさせてあげたいなんて思ったりもする訣で、それに大物の芸能人や顔の知れた政治家なんかはな、先に口止め料ってことで束をドンと渡してきたりもして、そうなると当然、こっちもそれなりの待遇をしなきゃならんだろ、違うか」
「違うかっていわれても、常識的には違うと思うんですけど」
「そんな世間一般の常識なんかが通用する世界じゃないんだぞ、風俗ってのは。常識なんかがまかり通ってたら、俺なんかがこんなところに住める訣がないだろ」
「ああ、うん、あれなんだ、そういうことなんだね、今もそういうビジネスを続けてるんだ、そこだけはなんか納得できたというか、成功したんだ、一応」
「まあな、今は派遣型に特化して、当時のような店舗は一軒も残してないんだが、その転換がうまくいってな、あと少し遅かったら、規制強化で大変なことになってただろうし、それからシフトしたところで同業者の後追いだったからな。絶妙なタイミングだったというか、ミルキー・ワイド・ウェブなんていってIT革命にうまく乗ったというか、まさに機を見るに敏ってやつでな」
「うん、その自画自賛は全然いらなかったけど、まあいいや、とにかくパパがどんな人かってのは十分すぎるほどわかったし、ママの過去は知りたくなかったけど、まあそれもここまで聞いちゃうと逆にどうでもいいというか、過去は過去だし、それより、一つだけ気になることがあるというか」
「なんだ、いってみろ」
「そういうビジネスをしてるんだよね、そういう女の子達がたくさん働いていて、それに愛人とかもなんか大勢いるっぽいし、別に困ってないんだよね、そういうの。だったらさあ、そういうことはしなくてもいいんじゃないの、そのー、私というか、菊千代でそういうこととか……」
「なんだ、結局それを訊くのか、まあいいけど、とりあえずあれだ、男にとってはな、そういうのはまったくの別物で、おまえも今度結婚するんだろ、相手は誰だ、ああ、佐久間というのか、その佐久間という男もな、おそらくおまえと結婚したあとも、多分そういうことをしたがる時なんてのが往々にしてあったりすると思うんだな、でもそれは男にしてみれば仕方のないことで、おまえを愛していることにかわりはないんだが、それとはまったく別の次元でだな、気晴らしというか暇潰しというか、気分転換というかデザートというか、それで好きな女優とかアイドルとかAVとか、まあそういうので行為に及んでもそれは致し方のないことで、だからまあ、そういうのは浮気でも不倫でもなく、多目的でもなく、ただの戯れ事として許してやってほしいんだな。まあこれはお父さんからではなく、同じ男として、一人の男としての頼みであって、むしろそういう行為をお互いに楽しむなんてことがあってもいいんじゃないかというか、それでこその夫婦だと思うんだがなあ」
「あー、うん、とりあえず、今のはやっぱり訊かなきゃよかったというか、訊く相手を完全に間違えたというか、適当にごまかそうなんていうのは別にいいんだけど、なんでそこに佐久間さんを巻き込むかなあ、なんか完全に佐久間さんの話になってたし、最後なんてまるで佐久間さんが悪いことでもして、それでパパに連れられて謝罪にきたみたいな感じになってたし、でもまああれだよね、そんなこと訊こうとした私が馬鹿だったというか、だいぶ酔ってるみたい」
「なんだ、お菊ちゃんはお酒は強いって聞いてたけど、小桃は違ったのか。ネット上の噂によるとマイマイはそうってやたら聞いたりもするが、おまえもそうなのか」
「パパのせいで酔ってるんですけど。まあパパだけじゃなくてママのせいもあるけど」
「とりあえず風にでもあたったらどうだ、ほれ、自慢のベランダだ、ビーチチェアやパラソルやジャグジーなんかもあって、オーシャンビューが一望だぞ」
「ああ、それ表現おかしいから、それに私、高いところが苦手で」
「そんなこといわずに見てみろって、どうだ、一面の海だ、かすかに地球の丸さを感じたりもできるし、岬の先には白い灯台、眼下には白い砂浜、綺麗だろ」
「まあ綺麗ではあるけど、でもやっぱ怖いというか」
「本当に苦手なんだな、高いところが苦手だなんて、まるで高杉晋作だが、まあでもあれだ、この景色も綺麗だけど、この近くにもっといい景色があってな、小さな入り江で、岩場だらけのゴツゴツした磯なんだが、打ち寄せる波が磯にあたるたびに白い泡になって漂い、その白い泡が海面を覆い尽くして、それはもう一面真っ白な見事な泡の海なんだが、お父さん、子供の頃からその景色が大好きでな」
「え、お父さん、この辺の出身なの?」
「ああ、すぐそこの小さな温泉町でな、そこでお父さん育ったんだ。両親は理容師で床屋を営んでいて、地元の人間は当然、その辺の旅館やホテルの従業員もほとんどそこで髪を切ってるというくらいに狭い町でな、たとえば千里テレビの旅番組なんかがやってくると、そりゃもうそれだけで大騒ぎだ。うちの父親なんかテレビにかじりついて、おう、こいつの髪は俺が切った、こいつの髪は俺が整えたなんて自慢気にいって、母親の方もな、いや、この人の髭は私が剃ったのよ、このパーマは私があてたなんて、そんな風に自慢し合ったりして、う、うう、ううう……」
「あ、ご両親、というか私のおじいちゃんとおばあちゃんになるけど、今はもう亡くなって……」
「うんにゃ、二人とも元気だぞ、あいかわらず千テレの旅番組ばっかり見てるような老害だけどな、今もバーバー菊池をやり続けてて、まあ昭和の髪型しかできねえような店だけどな」
「老害とかいわないでよ、一応私のおじいちゃんとおばあちゃんで、会ったことないけど、てか、なんで今泣きかけたの、てか、いや、健在ってことは私もしかして今日中にでも会えるんじゃないの。そうでしょ、ていうか、パパよりもそっちの方に会いたいというか、パパとの出会いを抹消して先にそっちに行くべきだったというか」
「なんだよ、そんなに毛嫌いしなくてもいいだろ。大体、あの二人はなあ、この俺が早く離れたいと強く願うくらいの強烈な二人で、俺をこんな風に育て上げたような二人だぞ、しかも俺以上の過去を持っていたりもして、二人ともどこで資格を取ったと思う、それでも会いたいか」
「あ、うん、それはまあ、なんかちょっと、敬遠する必要性を感じたというか、慎重を要するというか、そんな気もするけど、でもパパだって、結局はここに、この町に戻ってきたんでしょ?」
「確かに戻ってきたといえばそうなるけど、でも一人暮らしだぞ、そこは察しろ。とにかくだな、俺はそんな両親や田舎が嫌いで東京に出て、まあ大学に進ませて貰ったことだけは感謝しているが、でもその先は苦学生の貧乏暮らしだ。狭いアパートで、ガスなんかもなくて、まあ実家がバーバーで、しかも温泉町だったからな、常にお湯が身近にあるような幸せな環境にいたってことをはじめて痛感したりもして、そのせいもあったのかなあ、もしかすると、それでそういうお湯のある店に惹かれたのか、でもまあ行き着いたのは忙しない業界だ。以前は足の引っ張り合いなんてのもザラだったし、虚勢を張るだけで中身のない連中なんてのも常にごろごろしていて、ヤクザに半グレにホストにチンピラ芸能人、怪しい誘い、怪しいビジネス、怪しげな成金連中、チャイニーズマフィアにホンコンマフィア、コリ丸ンマフィアにフィリピンマフィア、そういう連中が次から次へと現れては甘い汁を吸おうと画策する、そうかと思えば古くから続く警察や政治家との駆け引きもあるし、精神を病んだ風俗嬢のケアやサポートなんかもある、店の売り上げ金を持ち逃げするようなちんけな奴もいるし、会計責任者や会計士が大金を横領することもある、一瞬でも気を許せばその瞬間に騒動に巻き込まれる世界だ、そんなところで何十年も戦い続けていれば、そりゃゆっくりしたいと思うこともあって、それでまあ戻ってきたという訣だな」
「そうなんだ、なんかそれは確かに大変そうっていうか」
「ただ、あの親に楽させようなんて気はこれっぽっちもなくてだな、ここに招待したことだって一度もなくて、まあここも最初は別荘と財テクとを兼ねて購入しただけだったんだが、意外に住み心地がよくてな、上の温泉なんかは二十四時間入り放題だぞ、凄いだろ。まあ正確には掃除やメンテの時間があるから十八時間くらいで、夜の十一時から朝の五時までは入れないんだが、それでもちゃんと毎日掃除してくれててな、リゾートマンションってのはどこも管理が行き届かなくなって破綻寸前なんていうけど、ここは全然大丈夫というか、なんなら俺が買い取りたいくらいだし」
「えーと、そんなに持ってるんだ。いや、この部屋を見た時点でそうなんだろうなってのは薄々感じたし、だって、ここ結構するよね、だってフロア全部だよ、どれくらいするの、億とか軽く超えると思うんだけど」
「なんだなんだ、人気絶頂のオハコのお菊ちゃんでも、そんなに稼がせては貰ってないのか、この程度でそんなにびびるとは、まあいいけどな、とりあえず、リゾートマンションなんてのは今は空きが多くて結構安いんだな、ただまあ、ここは都心から数時間で温泉もあるし海もあるし、管理もしっかり行き届いていて、そこまで落ちてはいないんだが、それでもお手頃価格には違いなくて、この下の部屋だって確か、どこぞのユーチューバーが経費がてらに買ったみたいで、ただあれだ、そしたらその下の部屋もそのまた下の部屋も、それまた別のユーチューバーが話題作りで次々に買ったりなんかして、ああ、ここから下の部屋は大半がユーチューバーという感じでな、時代といえば時代だが、あいつらなんなんだ、後追いばっかりしやがって、しかも全部経費で落としたとかなんとか動画で自慢しやがって、そんなのがなんで経費で落ちるんだよ、一度や二度撮影に使ったからってそれだけで不動産が経費で落ちる訣がねえだろうが、税務署はなにやってんだ、国税は、マルサはどうした、普段あんなにしつこいくせにだんまりか、なんて思ったりもするが、ただまあ、そこは安心しろ」
「パパ、なにかあったの、税務署と」
「まあそりゃな、こういう仕事をしてればそういうことも多々あって、ただあれだ、そこは全然安心してよくてな、税務署や国税ってのはな、明らかにおかしいだろっていうような脱税や節税にはすぐには手を出さないものなんだな」
「なんで」
「なんでって、それくらいわかるだろ、あいつらはな、とにかく、数年経ってぎりぎりのところで踏み込むんだ、その方が課徴金や追徴金が稼げるし、見せしめにもなるだろ」
「あ、そういうあれなんだ、それはなんかわかる、そういうニュースとかたまにあるし」
「だろ、だからな、この下に住んでる奴らも、まあ実際には一人も住んでないんだが、そいつらもな、これからが面白くなるところで、まあ挨拶なんて一度もきたことなくて、蕎麦やタオルや洗剤なんかも一度も貰ったことないけどな、これからがショータイムってやつで、仁義を欠いたツケを背負わされるってことになるんだな」
「ああ、うん、なんかそれ、あれだよね、ほとんど妬みというか、蕎麦とかタオルとか持ってきてたら反応が全然違ったっぽいし、あれ、パパって結構せこい性格なのかな、てかパパが税務署にチンコロしてたりするんじゃないの?」
「なにいってんだ、俺がチンコロしなくても結局は誰かがするだろ。あいつら全世界に向けて自分から発信してんだぞ、自業自得だろ」
「したんだ、チンコロ」
「そりゃ健全な一般市民の義務だからな」
「全然健全じゃないと思うんですけど」
「しかもだ、あの税務署の連中ってのはな、脱税を見つけようが見抜けまいが、給料は一定なんだぞ。そこは凄いと思わないか。そうだろ、課徴金や追徴金をいくら分捕ろうが自分達の給料は同じで、ボーナスにも影響しない。それなのにあいつら、身の危険も顧みず、社会的にグレーな連中を常に見張り続け、それでこれはいけると判断すれば一気に攻め寄せて丸裸だ、俺なんか何度丸裸にされたことか」
「ああ、やっぱりそういう経験があったんだ」
「まあ商売をやってる人間にとっては必ず対峙する存在で、お互いにどう勝負をしかけるかなんて、でもそれも若い頃の話だけどな。今はそういうのはちゃんとしてて、ここもキャッシュでドーンと買ったが、そうすると当然のように税務署の調査が入るだろ、ところが綺麗なもんで、異常ありませんってことで税務署長のお墨付きだ」
「へえ、なんか全然別世界の話みたいなんだけど、でもキャッシュでドーンってのは現金で一括ってことだよね?」
「ああ、ここは安かったからな。まあ普通に買えばいくらするかわからんが」
「普通に買ったんじゃないの? え、綺麗なもんっていったばかりだけど、なんか違法な手段とか使ったり? そのためだけにユーチューブにチャンネル開設したり?」
「安心しろ、そういうことじゃなく、実は以前にここを持ってた人が飛び降りたらしくてな、どういう理由かは知らんが、まあそのおかげで安く買えたというか、半値以下というか、そういうからくりだ」
「ん……、えーと、飛び降りたっていうのは、えーと、どこから」
「詳しくは聞いてないけど、まあ飛び降りたっていうんだから、このベランダのどっかじゃないか、あ、おいおい、そんなにびびるなよ」
「いやだって、飛び降りたんでしょ、完全に事故物件じゃん!」
「まあそうだけど、飛び降りた時点ではまだ生きてた訣で、死んだのはここじゃないからな」
「いやいや、そういう問題じゃないでしょ、化けて出たりしたらどうすんの」
「なんだなんだ、小桃、幽霊なんか信じてるのか、そんな時はあれだぞ、ナンマイダーって唱えればいいだけで、簡単だろ」
「いやいや、そんなんで済んだら幽霊なんて出ないし!」
「うん、だから一度も出たことないぞ、安心しろ」
「安心しろっていわれてもなあ、とりあえず、ナンマイダ、ナンマイダ……」
「まあでもあれだな、こういう綺麗な景色を眺めていると、ここで終わらせてもいいかななんて、そんな気にならないでもなくて」
「ちょっとパパ、変なこというのやめてよ、飛び降りたりしないよね、会ったばかりだよ?」
「する訣ないだろ、それに、ここの景色は確かに綺麗だが、お父さんが好きなのはここじゃなくて、さっきいったろ、この近くに磯があるって」
「そこから飛び降りるの?」
「なんで飛び降りるんだよ、俺はそんな死に方はしないぞ、俺が死ぬとすれば、そうだなあ、まあ老衰や病死が許されるほど健全には生きてないからな、立ったまま靴下を履こうとしてバランスを崩して転んで、それで頭を打って死ぬとか、あるいはその逆に、立った姿勢で靴下を脱ごうとして転んで頭を打つとか、なんかそんな感じだな」
「なにそれ、え、なに、それが理想なの?」
「結構多いんだぞ、家庭内の事故死ってのは。報道されないから知らないだけで、毎日何人もがそうやって亡くなっててな、まあ靴下が原因で死ぬなんてのは年に何人いるのか、結構レアだと思うんだけどな、もしかすると俺がその最初の一人になったりとか」
「うん、それは別にどうでもいいというか、とりあえずベランダにはあまり長居したくないんで、中に戻るけどいいよね」
「ああ、まあ冷えてきたしな、それに俺も今が冬だってことすっかり忘れてて、悪いな、寒かったろ、大丈夫かお腹とか」
「あ、それは私も忘れてたからお互い様というか、それより、ここよりも綺麗な景色があるんだよね、それ、私見たいかも」
「ああ、そういえばあれだ、小桃、確かおまえも見たことあるはずだぞ」
「えっ、いつ?」
「いつっていうか、あれは仲子との離婚が決まったあとだな、最後に三人でドライブにでも行こうということになって、それで俺が、お父さんがポルシェで連れて行ったんだが、奇遇にもちょうど今頃の季節だったか。今日とは違って悲壮感の漂うような薄曇りの日でなあ、その磯に三人で立って、傍から見たら確実に一家心中でもするんじゃないかっていうような面持ちでな、まあお父さんはそれでもいいかというような心境でもあったし、仲子の奴もなにやら思い詰めたような表情で」
「ああ、うん、まあ私生きてるし、パパも生きてるし、ママも生きてるし、それは大丈夫だと思いたいんだけど、でもなに、パパなに、それでもいいっていうような気持ちだったの?」
「まあそれはな、俺はあいつに人生を捧げるつもりでいたし、おまえが生まれてからはおまえとあいつのためにすべてを捧げるつもりで、それを失うくらいだったらいっそのこと、なんて思わなくもなかったけどな。でもそんな時におまえが、はじめて見る海に興奮でもしたのか、オトーシャン、オトーシャン、ジャブジャブ、ジャブジャブ、なんてな、それで俺は、う、うう、ううう……」
「え、なに今の、多分私の台詞なんだろうけど、私そんなこといったの?」
「それだけじゃないぞ、その泡の海を指さして、センタッキ、センタッキ、フラード、フラード、なんてな」
「え、なにそれ、なにそれ」
「まああれだ、おまえはどういう訣か、それ以前から洗濯機が大好きでな、ギャーギャー泣き喚いていても、お父さんが抱っこして洗濯機がぐるぐる回ってるところを見せると、それで泣きやんだりして、懐かしいなあ、さすがは泡姫の娘というか、それでお父さん、これは洗濯機だぞ、洗濯機フランドチキンだなんて冗談をいったりして、それを覚えてたんだな、うん、おまえはその頃から賢い子だったからな」
「いやいや、なにそれ、洗濯機でフライドチキンとか、そんな変なこと教えないでよ、言葉を覚えたりする大事な時期だよ、それなのにそんな訣のわからないこと教えないでよ」
「別に教えた訣じゃなく、おまえが勝手に覚えたというか、でも凄いだろ、いつも見ている洗濯機と、そのはじめて見る海の様子とを比較して、それでおまえはそれを洗濯機だと判断して、しかもお父さんのダジャレまで覚えていてくれて、センタッキ、フラード、センタッキ、フラードってな、ううう……、そうなるともう、一家心中なんて馬鹿な考えは頭の中から完全に消え去るだろ、違うか」
「一応考えてたんだ、そういうの」
「まあな、でもそれは俺だけじゃなく、仲子の奴も……」
「へえ、ここなんだ、そのパパの好きな景色っていうのは、あれ、でもなんか全然聞いてた景色と違うというか、全然白くないし、私も全然覚えてないし」
「まあそりゃそうだろ、おまえはまだ物心がつく前だったし、それに波や風向きによっては泡ができない時もあって、そうすると普通の磯、普通の入り江なんだが、待っていればそのうちそうなることもあって、白い泡の海に一変というのかな、あの時も確かそうで、最初はなにもなかったんだが、やがて風向きがかわってな、波が岩場に打ちつけるようになって、そうすると白い泡が生じて、その泡が宙を舞って海面に戻り、そういうのを繰り返すうちに段々と海全体が白く染まっていって、そうして気づいた時には一面真っ白な泡の海だ、それを見て仲子の奴、いきなりふっと飛び降りかけてな、いや、実際には飛び降りてはいないんだが」
「え、なに、ママ飛び降りようとしたの?」
「ああ、それで俺も驚いて、もちろん止めようとはしたんだがな、ところがあいつ、今飛び降りたのは私じゃない、ミルキーよ、吉原一の泡姫・ミルキーちゃんは故郷に帰っていったわ、アフロディーテのいる泡の海に、ヴィーナスの生まれた母なる海に、なんていってな」
「え、なにそれ、どういうこと」
「俺もよくわからなかったんだが、どうやらソープ嬢をやめる決断をしたらしくてな、私、引退するわ、そして普通のママになるの、どこにでもいる普通のママにね、いいのか、あんなに引退を渋ってたのに、いいの、千代の富士もとっくに引退したし、私も体力の限界、じゃあ俺ともう一度、それはないわ、あなたと一緒だと小桃がどんな子供に育つか心配だもの、小桃は私が一人で育てるわ、優しくて真っ当な子供に育てるの、あなたには関わらせたくない、うん、そう、あなたのことは死んだことにするわ、小桃にもそういい続けるの、なーんていってな」
「あのー、え、今のなんだろ、なんかパパ、一人二役というか、なんか今そんな感じだったんですけど、もしかして落語?」
「落語というか、再現VTRみたいなのを意識してやってみたんだが、いまいちだったか。まあとにかく、その時の仲子はまるでドラマの中の大根女優というか、深田恭子というか、再現ドラマの無名の役者さんみたいに変に入り込んだ感じでな、あなたは死んだの、もういないの、そういうことにするの、そんな、じゃあ俺はもう二度と小桃には会えないのか、ええ、そうよ、会えるとすれば、そう、あなたが死んだあとになるわね、小桃と二人でお線香をあげにいくの、立ち切れの線香をね、あ、でもそれだと、あなたがいつ死ぬか、それを知らないといけないわね、そっか、それじゃあそう、悪いけど毎年年賀状だけは送って頂戴、そしたらそれが途絶えた時がその時だってわかるから、でもあれよ、本名は駄目よ、この子だってそのうち文字が読めるようになるんだから、本名では送らないで、送るなら偽名で送って頂戴、偽名ってどんな、それはあなたに任せるわ、あなたは一応大卒で、文学部出身だから、それくらい簡単でしょ、でも俺、西洋文学科で専攻はシェークスピアだぞ、そんなこといわれても、カタカナの偽名しか思い浮かばなくて、ロミオとかオセロとかドン・ペドロとか、駄目よそんなの、駄目に決まってるでしょ、もっと日本的な偽名にしてよ、ああ、まあそういうことならその時までに考えるというか、でもおまえ本当にいいのかそれで、俺と別れて、しかもソープ嬢をやめるって、いつかはやめなきゃって思ってたの、でも今がその時だと思ったの、吉原でもすすきのでも、若い子が次々に現れて、だから、ナンバーワンのまま終わりたいの、私はナンバーワン、ナンバーワンのまま終わるの、そうか、まあ若い姫達も成長してきてるし、それもおまえの指導のおかげというか、特に札幌の二号店、三号店の子達なんかは、おまえのことを泡のプリンセス・ミルキーママなんて呼んで慕ってたりして、やめて、それはやめて、私はあの子達のママなんかじゃないわ、年齢だってそう違わないし、それに私は小桃のママなの、小桃だけのママなの、これからはそうやって生きていくの、ああ、すまん、そうだな、でも引退して本当にやっていけるのか、やっぱり養育費なんかは俺が、それはやめて、私だってこれまでがっぽり稼いだのよ、あなたと結婚する前から苦労して苦労して、普通のOLの何十倍も稼いだのよ、普通のOLの何十倍もよ、まあ真面目に確定申告してたから、だいぶ税金で引かれて億には少し届かなかったけど、でも普通のOLの何十倍もを短期間で稼いだのよ、普通のOLの何十倍もよ、普通のOLの、普通のOLの!」
「あのー、パパ、そこそんなに強調するところなのかなあ、パパが一人二役するのはいいんだけど、普通のOLっていうフレーズをそんなに繰り返す必要はないんじゃないかなあ」
「それはそうなんだが、でもその時の仲子は実際にそんな感じで普通のOLを連呼してな、まああれだ、自分が普通ではなく特殊な世界で働いていたっていうことに後ろめたさや後悔でもあったのか、普通のママになるとか、普通の生活をするとか、贅沢さえしなければ普通になんとでもなるとか、まあとにかく、その泡の海を見ているうちに色んな思いが湧き上がったんだろうなあ」
「なんかあれだよね、私の知ってるママとは全然違って」
「今はどんなママなんだ」
「うーん、至って普通のママだよ」
「そうか、そりゃまあよかったじゃないか、小桃も、仲子も、普通の親子で」
「そうかな」
「そうだよ、お父さんがそこにいたら、絶対に普通ではなくなってただろうし」
「うん、それは絶対にそうだと思うけど、でもママだって、パパが死んだなんてずっと嘘を吐いてて、それは普通じゃないよね」
「ああ、普通じゃないな」
「それに私だって、大正琴だよ、大正琴で音大に進んで、しかもそれでオハコに入ってアイドルだよ」
「ああ、それも普通じゃないな」
「結局、パパもママも私も、全然普通じゃないというか」
「そりゃそうだろ、普通の人間なんてどこにもいないからな、普通に見えてもどこか普通とは違っていて、この海だってそうだ、さっきまで普通に見えていたのに、ほら、こうして話しているうちに、段々と白くなってきただろ」
「あ、本当だ、いつの間にか白くなってる」
「大体あの辺だな、ほれ、あの辺の岩場に波がぶつかると、しぶきが泡になってな、その泡が宙を舞って、普通ならそれで消えるんだが、消える前に次の泡ができて、また次の泡ができて、またできて、そうやって次々に泡ができては積み重なってな、それが海面を覆い尽くして、ほれ、気づいた時には真っ白だ」
「これが、パパの好きな景色なんだ……」
「どうだ、綺麗だろ」
「うん、綺麗だけど、なんだろこれ、なんだかおぞましくもあって……」
「ああ、そうだ、確かにおぞましくもあるが、でも見事な景色だろ、普段なら見ることのできない、まさに絶景だ」
「いや、絶景というか、なんというか、変な臭いもするし、むしろ地獄絵図みたいな……」
「ああ、でもこれがお父さんの海だ、見てみろ、いつの間にやら目の前一面が、真っ白い、父の海だ」