第一章
【大野美穂】
本のタイトルに、人名。そして、名前には聞き覚えがあった。
図書館にあった既視感と同じように、覚えがあるだけ。思い出せない。
思い出すためには実際に触れてみるしかない。
「亘さん、これを読むよ」
私は亘に声をかけた。しかし反応がない。
そもそも亘自体の姿も無くなっていた。
『どこへいった?』
亘を探そうとしたが、亘の姿はどこにも見えなかった。さっきまでそこにいたのに。
私は本を手に取り、近くの席に座った。よくよく考えればこんな題目の本は珍しいし、出版社や価格などは一切記載がない。ただ身に覚えのある名前がそこに書かれていた。
緊張していることが分かる。自分の中にある大切なものが姿を現すのではないか、そんな気持ち。
私はついに表紙をめくった。
予想に反し、本には文章ではなく、写真のような絵が描かれていた
小さな女の子が父親におんぶをされ、満面の笑みを浮かべていた姿があった。父親も幸せそうな顔をしている。その後ろには女の子の母親らしき人があきれながらも愛に満ちた笑みをこぼしていた。
『これは...いったい...』
だれがどう見ても幸せだとわかる愛がそこにはあった。
ふと優しい気持ちになった。心の底から暖かいそして柔らかい風でおおわれているかのようだった。
私は次のページに手をのばした。
一枚目と変わらない幸せにあふれた絵がそこにはあった。絵は違えど愛の深さは変わらなかった。
最良の幸せを目の当たりにした私は、黙々と本を読み進めていった。その結果気づいたこととしては、これは【大野美穂】と思われるこの少女の成長過程を保存しているものであるということ。幸せの瞬間が描かれているということ。
幼稚園の入園式、誕生日会、遊園地…
心が安らいでいく。
夢中になって読み進めるうちに、得体の知れない不吉のかけらが見え隠れする絵に出会う。
幸せそうな少女、成長して中学生ぐらいの年齢になっている。笑顔の少女の隣、両親の間に若干の距離が開き始めていることに気がついた。
『気のせいか?いや…』
読み進めて行くうちに、不吉なかけらが少しずつ集まり、塊となっていった。
少しずつ両親の顔に強張りが出ている。少女はそれに気づいていないのだろうか、変わらない満面の笑み。
高校生になったからだろうか、かなり大きくなった少女。しかし、泣いている。今までこの子が泣いている絵はなかった。泣いている彼女を見捨てるように、父親が大きな荷物を持ち、扉から出て行く。
『なんでこんなことに…』
その後の彼女の物語は、鬱蒼とし、幸せな絵よりも不幸なものが増えていった。母と喧嘩をしている絵、男に殴られている絵、グループから取り残され一人で教室の隅でお弁当を食べている絵。
今までの幸せをのぞいていた私は、とてつもない悲しみを覚えるようになっていた。あんなに幸せそうだったのに。
本の厚みが気になってきた。おそらく20代ぐらいになった頃には、残りのページが10枚程度になっていた。上司であろう人物に怒られ、必死に謝っている彼女。自宅で一人なく彼女。
私はなんとなく、この先の展開がわかってしまった。わかってしまったが、きっと彼女が報われるそう信じたかった。信じたかったのだ。
そして、ついに終止符が打たれた。
花畑の中で倒れている彼女。そして、彼女の左手には何かの薬が入っていたであらうビンが握られていた。不思議と彼女は笑っているようにも思えた。
そして、本を読み終えた。
『なぜ…いや、彼女の気持ちはわかる。』
心の底から私は落ち込んだ。私には彼女の気持ちがわかる。わかるのだ。なぜなら…
「あたしの本、感想聞いてもいいかな?」
突然後ろから声が聞こえてきた。私の座っている席の後ろに女性がいた。そして、その女性は…
「大野…さん」
私の後ろにいた女性、この本の主人公である少女、大野美穂であった。大野はすっかり大人になった姿で私の前にあらわれたのであった。
「おじさん…お兄さんかな?あたしのことはもう分かるよね?あたしの本、いや人生はどうだった?」
言葉に詰まってしまった。なんと言えばいいのだろうか。
「あたしね!子供の頃はとっても幸せだった!この世の誰よりも幸せで、お父さんお母さんのことが大好きだったの!」
何も口に出せない私の代わりに大野が声を上げた。
「よくある話よね、親が離婚してから歯車が狂いだすなんてこと。あたしはその典型だなって思った。離婚をするって聞くまで、あたしはまっっったく気がつかなかったんだ。二人とも仲が良かったのに、どうして?どうしてって…」
大野は少し言葉に詰まり始めた。
「でも、自分で命を絶ってこの本を書き始めた時、記憶の中を探った時気がついたの。あたしの見えていないところで綻びがあって、徐々にその綻びが大きくなっていっていたことに。」
「本当に過去の自分を一発殴ってやりたくなったのよ。なぜ気づけなかったの?って。」
「でも、子供のあたしには気がつかなかったんだ。」
彼女が話している間、私は一言も声をかけられなかった。ずっと答えを探していた。
「人生を振り返って感じたのはさ、大人になってから幸せなことが減っていたことかな。そりゃあ、楽しいことはあったよ。旅行に行ったりとか。」
彼女は少し悲しそうな顔をした。
「それでも、子供の頃の幸せに勝るものはなかったんだ。」
「最後に花畑を選んだのも、子供の頃はすっっごい花が好きだったから。死のうと思った時に、ふと思い出したんだ。」
本のラスト、花畑の中で彼女が微笑んでいるように見えた理由が分かった気がした。
彼女は最後に、子供の頃に戻れたのだ。花の匂い、土の匂い、それらが彼女に幸せを思い出させたのだ。
「お兄さん。あたしの本を読んでくれてありがとう。最後は暗くなってしまったけれど、あたしは自分の人生が大好きになれたんだ!今思い返せば、もしかしたら死ななくても良かったんじゃないかな?って思うこともある。後悔だってしたよ。死のうと思った時、自分の人生は悲劇だ、誰よりも不幸だって、死ぬほどあたしは思ったよ。
それでも、あたしはやっぱり幸せだったんだよ。」
その一言を皮切りに、大野の姿がきえた。
何か大切なことを伝えようとした。伝えるべきだった。しかし伝えようとした相手はもうすでにいない。
「髙橋様、いかがでしたか?」
亘が突然私の目の前に現れた。
ぐちゃぐちゃな頭の整理がつかないまま私はこう答えた。
「わかりません。何も。悲しいです。」
亘は静かに頷いた。
「次の本をお選びください。」
私は導かれるように、本棚の前に立ち。
一冊の本を手にした。