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この作品には 〔ボーイズラブ要素〕が含まれています。
苦手な方はご注意ください。

とりっく おあ とりーと?

作者: 伊吹咲夜

「宮川さーん。今年はどんなの作る予定なんですか?」


 未だに不馴れなパソコンのキーボードを叩く俺の背後から、同じ部署の女子社員が尋ねてきた。


「何か希望はある? そんなに凝ったものは作れないけど」

「え、いいんですか!? だったら私、あれが食べたいんです。何ていうんでしたっけ、白くてサクサクしてて、すぐ溶けちゃうやつ」

「メレンゲ?」

「そうそう! 細かく砕いたアーモンドの入ったやつ、食べたかったんですよ」


 女子社員は嬉しそうに頷いた。

 特に珍しいものでもないが、この女子社員が言うには近所のケーキ屋ではアーモンドの入っていないものしか売っていないそうで、戴き物で食べたアーモンド入りのメレンゲがずっと食べたかったそうだ。


「戴いたのが有名店だって知らずにバクバク食べちゃって。もっと味わって食べればよかったわ。知ってる? 『ガトー・フランボワーズ』って」


 知ってるも知らないも、以前俺が勤めていた店だ。

 あのさっくり口溶けの良いメレンゲも、幾度となく練習し作れるようになった思い出のひとつだ。


 その思い出と共に、忌まわしき記憶も甦る。

 背中に浴びせかけられた熱い液体。

 憎らしげに見下ろす目と、罵倒する声。


「いつまで喋ってるんだ。さっき渡した書類の直しは終わったのか? 終わったのなら次の書類も渡すが?」

「すいません部長」


 女子社員が慌てて席に戻ると、部長は俺の顔を覗き込んで静かに言った。


「顔色が悪いな。大丈夫か?」

「いえ……、大丈夫です」


 あれを思い出してしまったから血の気でも引いたのだろう。

 それでも心配そうに顔を見る部長に『本当に何ともない』と念を押すと、打ち込み途中の書類に再び取り掛かった。


 * * * * * * * * * *


「本当に大丈夫だったのか? かなり真っ青だったけど」


 昼休み、食堂で定食を食べていると横に同僚の田辺がやってきて聞いた。


「ああ。ちょっとアレ思い出しちゃっただけだから」

「ああ。アレか……」


『アレ』と聞いて田辺は渋い顔をした。


『アレ』とは俺が勤めていた洋菓子店を辞めなくてはいけなくなった理由。

 そもそも俺はもともとパティシエで、サラリーマンなんてする未来なんて考えた事もなかった。


 思い込みから発展した嫉妬で、俺は見習いパティシエの女の子に熱く溶けた飴を浴びせかけられた。


『あんたなんかみたいな汚らわしい人間に先輩は渡さないんだから!!』


 俺が何だって言うんだ。

 先輩は一言も俺を好きだとも、見習いを好きだとも付き合うとも何も言っていない。

 みんなに優しく、コンクールを控えていた俺に付ききりで指導してくれただけだ。

 それに俺は、先輩の事を好きだと想っていても、そんな素振りを仕事場で見せた覚えはない。

 もしそんな風に見えたとしたのなら、コンクール後に撮った写真の、ほんの一瞬だけだ。


「あんまり思い詰めるなよ。もう相手もそれなりの処罰は受けたし、お前の傷だって良くなったんだろう?」

「身体の傷はね。ただ心の傷ってのはそう簡単に治らないもんなんだよな」


 そう簡単に忘れられるものじゃない。

 パティシエという仕事を絶たれた事も、背後から襲われた恐怖も。

 そして想いも。


 そんな中社会復帰できたのは、ここにいる田辺のお陰だと、いつも感謝している。

 結婚したばかりだというのに毎日お見舞いに来ては、どうでもいい話をして気持ちを紛らわせてくれた。

 この職場への斡旋だって田辺がしてくれなかったら、今頃なにをしていたのか分からない。


「話は変わるけどさ、ハロウィンで配るお菓子、あいつらに聞かなくたっていいって。食いたいだけなんだから」

「分かってるけど意見は必要だよ。食べる人が美味しいって言ってくれるのが一番なんだし」

「とことんパティシエ魂が根付いてるんだな。いいことなんだけど」


 この会社は児童福祉施設へのイベントを欠かさない。

 誕生日、子供の日、クリスマス。そして今話題に上がっているハロウィン。

 発注して作るケーキやお菓子もいいが、社員が作れたらもっとアットホーム的な感じになるのでは? と、社長が提案してからは社員が作るのが定着したそうだ。


 今は俺が全て引き受けて作っているんだが、元プロが作ってしまうのだから、アットホームも何もないんじゃないかとは思えるんだが。

 そこは拾って貰った身ゆえに何も言えない。

 社長がいいならそれでいい事にする。


「あんまり気に病むようなら、お菓子作りも断っていいんだからな? 部長もそう言ってたし」

「ありがとう。お菓子作りは趣味でもあるから、作るのには全然問題ないんだ」

「そうだったらいいけど。あそこまで作れるようになってるなら、パティシエに戻れるんじゃないのか?」

「もう無理だよ」


 細かい細工のお菓子を作る事はもう出来ないし、厨房で誰かといることが今の俺には恐怖でしかない。


「今はこれで十分なんだよ。ようやく仕事も覚えたしな」

「部長直々に全部教えてくれたお陰だな」


 お菓子作り馬鹿で、表計算ソフトの使い方も知らない俺を一から全て教えてくれたのは部長だった。

 かなりのスパルタだったけど。


「心配してくれてありがとうな」


 そうこう喋っていると、昼休みが終わろうという時間にまでなっていた。

 食器を下げ田辺と部署へ戻ると、田辺は何気に俺に呟いた。


「部長はマドレーヌが好きなんだぜ」


 * * * * * * * * * *


『部長はマドレーヌが好き』


 それはどう受け取っていいものか少し悩んだ。

 ただ単に俺の昼休みの言葉を受けて、お世話になった部長の好きなものを作ってはどうか? という意味なのか。

 それとも『別』な意味を込めて作れというものなのか。


 田辺というやつは少々お節介でもある。

 自称『愛のキューピッド』で、人の恋心に気付くと男女関係なく、そいつの想い人のちょっとした情報を教えていく。

 学生時代から俺も他のやつらも、そんな田辺に何度もお節介を焼かれた。

 今回のもそういうお節介からくる『マドレーヌが好き』なのかもしれない。


 でも俺の想いを部長に伝えるつもりはない。

 俺の部長への想いは憧れと尊敬であって『好き』ではない。

 部長だって、『好き』だなんて言われたら迷惑に決まってる。


「おい、手が休んでるぞ」


 声を掛けられ顔を上げると、そこには部長が注意というには優しすぎる心配した目で俺を見ていた。


「まだ具合が悪いのか?」

「いえ、ちょっと考えていただけです」


 こんな優しいところが、好きという感情に勘違いさせてしまうんだろう。

 部長が悪い訳ではないのに、つい恨みがましくなってしまう。

 下手に優しくされる位なら、まだ冷たくされた方が楽とも思えたが、実際にそうされたら辛いとは分かってる。


 そう考えると俺はやっぱり部長が好きなんだろうか。

 憧れだけなら、冷たくされても『仕事の関係だから』で割り切れるんだろうが、実際に冷たくされたらそれでは済まなそうな予感がする。

 田辺が余計な事言わなければ、気付かなかったはずの感情なのに。


 でもいつかは気付いてしまったんだろう。

 こんなに毎日のように顔を合わせて、声をかけられて。

 そんなにされていて、自分の感情に気付かない方がおかしいかもしれない。


 意識してしまったせいか、今回作るお菓子の中にしっかりとマドレーヌが組み込まれてしまった。

 想いが通じて欲しいとか、そういう邪なことは抜きにしてただ純粋に食べて貰いたい。

 部長が『おいしい』って言ってくれればそれでいいかな、くらいの気持ちではある。


 『それでいいかな』の理由は、噂では奥様がいるとかなんとか。

 最初から敵わない想いなら、おいしいって言って貰って笑顔が見れたら満足で終わればいい。

 気持ちを込めてマドレーヌを作って、部長に食べて貰って、消化されて、俺の想いも一緒に無くなってオシマイ。

 それでいいんじゃないかなって。


 * * * * * * * * * *


 今年のハロウィンイベントは会社の創立記念も兼ねていて、社長からいつもの三倍は作って欲しいと要望されていた。

 なので作る時間もそれなりに必要になる。

 俺は明日から二日間、つまりハロウィン前日まで休んでお菓子を作る事になっている。

 ありがたいことに公休扱いで。


 明日の予定を考えてながら仕事を片付けていると、一本の電話が鳴った。

 ここの部署は殆どの用件をメールでやりとりしているので、内線以外の電話はかなり珍しい。


「はい、お電話ありがとうございます。……、え? あ、はい。い、いま担当者と代わります。少々お待ちください」


 電話を取った女子社員はみるみる青ざめた表情に変わり、保留を押すと部長の元まで飛んで行った。

 ひと言ふた言何か伝えられると、部長はそのまま応接室に入り電話を取って暫く出てこなかった。


 数分後、応接室から出てきた部長は眉間に皺を寄せ、かなり複雑な表情を見せていた。


「ちょっと集まってくれ」


 ミーティングテーブルに集められ、俺達に話された内容は驚くものだった。

 要約すると、納品した物が単価そのものがまるで違う、品物も合わない。急ぎなのにどうしてくれるんだ、というものだ。


「ここの部署の責任者である俺は勿論、慣れた仕事だからと最終確認が甘かった皆にも責任はあると思う」


 かなり渋い面持ちをした部長は、誰がミスをしたと名指しせず、自分も責任があると前置きし全員を咎めた。


「先方は明日の昼までに改めて納品してくれれば、今回の事は大事にはしないと仰ってくれた。少し種類や納品数が多いが、今からやれば午前中には間に合うと思う」

「……それは手分けしてやれ、ということですか?」


 誰かが不服そうないろを含んだ声を上げた。


「そういうことになるな。すまないが、やって貰えないか?」

「自分は御免です。部署全体の問題かもしれませんが、こっちだってそれなりに急ぎの仕事を抱えているんです。何で他人の尻拭いをしなきゃいけないんですか。やるならミスした本人が徹夜なりして処理すべきでしょう」


 その意見で静かだった周りがざわついた。

 もっともだという声と、会社の信用問題だから協力し合うべきという声。


 ざわざわと意見の分かれる中、俺は声を上げて怒りたい気分だった。

 部長だってそんなこと望んで言っている訳じゃない。

 一人で明日まで出来ることじゃないって判断したからそう言ってるのに。

 関係ないのは部長だって一緒だ。

 見捨てれば済む問題なら、部長だって見捨ててるに決まってるだろう。


 こんなに否定されても部長は怒ることもなく、静まるのを待たずに再び口を開いた。


「分かった。手伝う必要がないと思う者は手伝わなくていい。個人の意思に任せる」


 それ以上何も言わず部長が席に戻ると、それを合図にパラパラと自分の席に戻り始めた。


 間もなく終業時間を迎えようとしているのに、そのまま誰一人として部長の元に『手伝う』と言いに行ったやつはいなかった。

 当たり前だが、先頭をきって申し出たやつは『自分がミスしました』と申告しているようなものだ。

 そんな恨まれる対象になりそうな事を進んでするやつなんていないだろう。


 スケープゴートって言うんだっけ? そういう生贄的な役割になるのって。

 このまま誰も行かなければ、部長一人で処理するんだろうか。


 格好つけとか思われたくもないけど、部長の負担を考えればそれくらいしてもいいかな? とは思えてくる。

 背中から溶けた飴を掛けられるのに比べたら、恨まれた方が全然痛くない。


「部長、どこ担当すればいいですか?」

「宮川、手伝ってくれるのか。ありがとう」


 部長もやはり少し不安だったのか、俺の申し出にホッとした顔を見せてくれた。

 俺が部長のデスクの前に行ったことで、釣られて二人三人と、席を立って部長の元へやって来くれた。

 田辺なんて手一杯なのに、何故か手伝いに来た。


 当然ながら『御免です』と言ったやつは終業と同時に一番に帰っていった。

 それを皮切りに反対したやつらも、さっさと机の上を片付けて帰っていった。


 何だかんだ言って残ったのは俺を含めて五人。

 賛同したやつも結局は、他人のために労力を使いたくないらしく、三十分後には部長を含む六人以外は誰もいなくなってしまった。


 部長はそれも予想していたらしく、共有フォルダを開いて六つのファイルを見せた。


「入力すべき以外の所にはロックが掛かっているから、間違って消すという心配はない。俺がファイルの結合をするから、確認が終わったら気にせずさっさと帰っていいからな」

「誰がどれをやるんですか?」

「早いもの勝ちだ。どれをやるって言ってからやらないと、保存する時に泣きをみるからな」

「分かってますって」


 田辺はニッと笑うと、いの一番に『一番のファイル貰った!』と声を上げ席に戻っていった。


 ロックとか結合とか意味が分からず、キョトンとしているうちにファイル争奪戦は終わっていて、俺は残りの四番ファイルを与えられた。

 さすがは部長、初心者の俺でも分かるように、入力する場所だけうっすらと色が付けられていた。

 言われていたように、振り分けされた場所以外には何も入力出来ない。


 自分だってかなり仕事抱えてるのにこんな事までして、部長はお人好しなのか馬鹿なのか分からなくなる。

 部長はいつになったら帰れるんだ?

 人の事ばかり心配しないで、自分の事ももっと大事にしてくれって言いたくなる。


 俺が入力を終える頃には、部長と田辺以外全員帰ってしまっていた。

 当然田辺は終わっていたが、俺を心配して待っていてくれた。


「終わったか? お疲れ。気を付けて帰れよ」

「お疲れ様でした。部長はまだ帰られないんですか?」

「まだちょっとやる事があるからな。気にしないで帰っていいぞ?」


 そう言うとまたパソコンに視線を戻して、仕事に集中し始めてしまった。


 こんな姿の部長を見ていたら、さっさと帰ったやつらの事を思い出して、俺の心はかなりイライラと落ち着かなくなった。

 自分でも何でこんなにイライラするんだろう。

 そんなに俺、部長の事好きなのかな……。


 * * * * * * * * * *


『ピンポーン、ピンポーン……。ピンポンピンポンピンポンピンポン、ピンポーン』


 インターフォンの連打で目が覚めた。

 煩いなと思いながら、些か不機嫌な声で応答ボタンを押した。


「……はい」

『ああ、すまない。俺だ。開けて貰っていいか?』

「え? えええ!? あ、はい! 今開けます!」


 訪問者は部長だった。

 不機嫌に応対してしまった事を後悔しつつ玄関を開けると、仕事帰りなのかスーツ姿の部長がいた。


「順調か?」

「え?」

「お菓子作りだよ。根詰めすぎてないか様子見に来たんだが……。どうした?」


 部長はコンビニ袋を掲げながら、俺の様子を不思議に思い首を傾げた。


「部長、今何時ですか……」

「ん? 午後の二時過ぎだが?」

「二時……」


 思わず頭を抱えて座り込んだ。

 そう、俺は仕事から帰宅した夜中の一時過ぎ辺りから、今さっきまで寝てしまっていたのだ。


「何かあったのか?」

「いえ、何でも……。大丈夫です、多分」


 部長はこの返答で何かあったと察し、靴を脱ぎ部屋に上がっていった。

 当然お菓子のひとつも出来ていない。


「なるほどな。宮川、服を貸せ。俺が着替えている間にお前はこれでも飲んで、少し目を覚ましとけ」


 差しだされたコンビニ袋には缶コーヒが二本。多分一本は部長の分だろう。

 要望通り服を差しだすと、部長はその場で着替えだした。


「少し小さいかもしれません」


 見た感じ部長の方が若干背が高いし、体系も俺よりもかなり筋肉質だ。

 シャツの前が閉まらない感じがかなりする。


 案の定、前は締まらなかった。

 でも前を開けたままラフに着こなし、仕事の時とはまた違った雰囲気で格好良く、思わず見とれてしまった。


「お前も着替えろ。これ飲んでから出掛けるぞ」

「どこへ?」

「どこへって……。材料はもう買ってあるのか? 見た感じ何も揃ってないように思えるのだが」


 確かに何も買ってきてはいない。

 それよりも何で部長はここにいる?

 起きたばかりで状況が掴めない。部長、まだ仕事の時間だよな?


「部長? なんでここにいるんですか?」


 頭が回っていないせいか、質問の仕方がすごく変だ。


「ああ、今仕事の時間だろうって? 今日と明日、有給取ってるんだよ。午前中は昨日の処理で出てたけどな」


 有給?

 まさか俺のために?

 そんなことはないよな。多分リフレッシュ休暇か何かで、気まぐれに俺の様子を見にきただけだよな?


 部長は俺が聞きたいのがそこだと思っていたらしく、あとは『さっさと着替えて出掛けるぞ』で終わってしまった。


 二人で業務用の店で材料を買い込みマンションへ戻ってくると、部長は当たり前のようにお菓子作りの手伝いを始めた。


(本当に俺のために休んだ?)


 頭が理解しようとしていなかったが、現実、部長はここで今材料を計量している。

 何のために? 部下の為に? イベント成功の為に?

 いろいろ考えてみるが、それなら何故部長も公休ではないんだと疑問が浮かぶ。


 考えはお菓子作りに集中するうちに中断され、何回目かの焼き上がりを知らせるオーブンの音を聞くころにはすっかり何を考えていたかも忘れていた。


「休憩するぞ」


 言われて時計を見上げれば既に夜中を過ぎている。


「今天板に乗ってるやつオーブンに入れたら、焼きあがるまで飯だ。俺はラッピングの間中座ってたが、お前は立ちっぱなしだろう」

「そうですけど、現役の時は殆ど一日中立ってましたよ」


 痛くもないげんこつを食らわせると、部長は天板を奪い取りオーブンに入れると、俺を引っ張ってソファに座らせた。

 時間は惜しいけど、こうやって座らされると立ちっぱなしで疲れていたのを実感する。

 お手伝いというより、俺の身の回りの世話をしに来たようにも思えてしまう。


 どっかりと二人掛けソファに並んで休んでいると、部長は何かに気付いて指を指した。


「宮川、これお前か?」


 言われて顔を上げると、指された方向にはコンクールの写真が飾ってあった。


 優秀賞のメダルを掛け先輩とじゃれあって撮った、二人だけの写真。

 色々な未練で外せないでいた、思いでの写真。

 こうして部長に見られてしまってから、何で外さなかったんだと後悔される。


「何か賞を取ったんだな。いい顔してる」

「いい顔、ですか?」


 自分ではそう思ったことはなかった。

 ただ賞を取れたことが嬉しくて、先輩と二人なのが嬉しくて、それだけの写真だと思っていた。


「……お前はまたいつか戻ってしまうんだろうな」

「え?」


 聞き返そうと思ったらオーブンが休憩終了を告げた。

 部長もそれ以上何も言わず、次の作業に移りやすいようにオーブンの中身を出しに立ち上がってしまった。


 『戻ってしまう』と部長は言った。

 パティシエになのか、店になのか。

 それなら答えはノーだ。

 店にもパティシエにも戻らない。戻れない。

 そんな資格はもう俺には存在しないのだから。


 でも、部長は何でそんなことを言ってきたんだろう。

 パティシエをしていた頃の俺が『いい顔』をしていたから、またいつか戻りたいと思っていると思ったんだろうか。


 * * * * * * * * * *


 『三時間の仮眠を取ってから再開』と、俺達は作業を一旦終え眠りについた。

 よほど疲れてしまっていたのか、揺り起こされて目覚めると、予定していた仮眠時間をはるかにオーバーしていた。


「す、すいません! すっかり寝入ってしまって……」

「いや大丈夫だ。それくらい寝たからすっかり回復出来ただろうし。よし出掛けるぞ」

「は? 出掛ける?」


 一瞬デジャヴかと思った。

 材料はまだ車に残ってたはずだし、食料もあった。

 出掛けるって一体?


 連れて行かれるまま車に乗ると、窓から眺める風景には見覚えがあった。

 着いた先はやはり俺が以前勤めていた店の前だった。

 こんな所に何の用が? と思っていると、車の音を聞きつけたらしく中から人が出てきた。


「お待ちしてました。どうぞ中へ」


 出てきたのは店長だった。

 今日は通常ならまだ営業時間の筈なんだが、店のシャッターは閉まっている。


 そう思っていると部長は車から降りて店長と名刺を交わし、何か話を始めた。

 慌てて俺も降りて店長の前に行くと、店長は破顔して俺を快く迎えてくれた。

 あんなことがあって突然辞めたというのに、店長も相変わらず人がいい。


「それでは厨房の中の道具は好きに使ってください。お帰りになるまでには従業員が一人参りますので」


 それだけ言うと店長もお辞儀をして店を後にした。


「厨房貸して欲しいって連絡したんだ。そうしたら、今日は研修で午後から店を閉めるから使っていいと仰ってくれた。まぁ、お前の名前を出したのもあるんだがな」


 俺の名前を出したと部長は言っていたが、こんな二つ返事で簡単に貸してくれる訳はない。

 しかも昨日今日の話ではなく、随分前から交渉していたんだろう。


 何から何まで、どうして部長はここまでしてくれるんだ。

 お手伝いの件といい、このままでいたら俺は、部長に変な期待を抱いてしまいそうだ。


「ボーっとしてる場合じゃないぞ。さっさと作ってしまわないと、イベントは明日だ」


 急かされ、慌てて車から材料を降ろし、厨房の中へ運んでいく。


 やはり業務用、しかも勝手知ったる店のの器具は使い勝手がいい。

 マンションであれだけフル回転で作っていたものが、あっという間に仕上がっていく。

 今焼いているのが終われば持ってきた材料全て使い切る。出来上がり数量的にも十分だ。

 これが部長の交渉なしで未だにマンションでやっていたら、多分明日の朝になっても終わっていなかった可能性が高かった。


「部長には感謝しかないな」


 車に出来上がったお菓子を詰め込み、すっかり暗くなった外で深呼吸をしていると、背後に人の気配を感じた。

 慌てて振り向くと、そこに見知った顔があった。


「久し振りだな、宮川」


 暗がりから現れた先輩は、遠慮がちな笑顔を見せながら近づいてきた。

 あんなにも恋焦がれていたはずなのに、不思議と笑顔を見ても何も感じていない自分がいる。


「お久し振りです、先輩」


 何故かこの場から去りたい衝動に駆られる。

 今自分の表情がどんな風になっているか見えないが、笑顔でないのは間違いない。

 早く部長のいる厨房へ戻りたい、そんな気持ちが気を急かす。


『作業が残ってる』と背を向け中へ入ろうとすると、先輩は俺の腕を急に掴んで引き留めた。


「なあ宮川、また、戻ってこないか?」

「え?」

「まだパティシエ、諦められないんだろう? だから菓子作り続けてるんだろう?」


 意外な一言だった。

 辞める時も引き留めもせず、ただ後ろめたそうに俺の背中を見ているだけだったというのに。

 見舞いにも来ず、今日まで何の音沙汰もなかったくせに。

 今さら『戻ってこい』と?


 本当に今さらでしかない。

 あの時どんな思いでパティシエの夢や、先輩への想いを断ち切ってここを辞めたと思っているんだ。

 それなのに、何で今になって俺を必要としているんだ?

 そんな身勝手な先輩は知らないし、気持ち悪い存在にか感じられない。


 そんな俺の気持ちは伝わる訳もなく、先輩は無理に俺を引き寄せようと腕を引く手に力を込める。


「あの時、お前の気持ちに答えられないまま、ここを去らせてしまったのは悪かった。でも俺は今でもお前を……」


 先輩が俺抱きしめようとした時、誰かが横から俺を引き寄せ返した。


「宮川、戻ってこないから心配したぞ。どうした?」

「部長……」


 部長が俺を先輩から奪い、背後から抱きしめた。

 部長だと分かった途端、恥ずかしさで腕から逃れたかったが、部長の力は強く逃れることが出来ない。


「お店の方ですか? うちの宮川がなにか失礼でもしましたか?」

「いえ……。ちょっとこちらが話に熱が入ってしまいまして。それでつい……」

「熱が入ると抱きしめようとするんですか。宮川、片付けて帰るぞ」


 部長は先輩を睨んだまま、抱きしめていた俺を解放し肩を押して店の中へ連れ戻していった。


 * * * * * * * * * *


 あれは何だったんだろうか。

 先輩から俺を奪い返した時の部長の目は、かなり先輩に怒りを抱いていた。

 その後も部長は不機嫌で、片付けの時もずっと無言で、話しかけても返してもくれない。


 先輩もそんな部長を怖れたのか、帰ると言いに行ったが姿が見えなかった。

 ロッカールームの灯りは点いていたから、帰ってはいなかったとは思う。


 車の中でも部長の無言は続いた。

 不機嫌の理由がいまいち分からない。

 先輩に抱かれかかったからなのか、店に戻れと言われたからなのか。

 後者なら戻る気はまるでないから、部長の誤解になるんだが、前者だとすると俺はどうしたらいいのか分からなくなる。


 このまま想いを伝えてしまっては、噂でしか聞いた事が無い奥様に申し訳がたたない。


 不機嫌の理由を聞こうと決心した時にはもうマンションの駐車場だった。

 俺が声を掛けるよりも早く、部長の方が先に口を開いた。


「……明日、イベントが終わったら少し話したい。先に帰らず待っていてくれ」


 それだけ言うと、俺だけ降ろして早々に車を出して帰っていってしまった。


 何を話すというんだ?

 俺のこの数日のもやもやした気持ちを、晴らすだけの話を部長はしてくれるのだろうか? 


 * * * * * * * * * *


 マンションで作ったお菓子も部長の車に運ばれていたため、当日は俺は何も運ぶ事なく会場に入ることが出来た。

 作ったお菓子も盛況で、滞りなくハロウィンも周年記念のイベントも終わることが出来た。

 わざわざ足を運んでくれた施設の人々に挨拶をし、全員で片付けを終える頃には辺りは薄暗くなっていた。


 それぞれが帰宅する中、俺は部長が来るのを駐車場の片隅で待っていた。

 ここなら人が少ないし、万が一部長と入違っても必ずここに来ると分かっていたからだ。


「遅くなってすまない。どこか店に入って話すか」

「だったら俺の家に来ませんか? ここから近いですし」


 近いというのもあったが、誰かに見られたくないというのが大きかった。

 何を言われるのか分からないが、話をされる前に、部長のためにと作ったマドレーヌを渡したいと思っていたからだ。


 コーヒーを淹れ一息入れたところで、俺は部長の前にハロウィン仕様とは違ったラッピングを施したマドレーヌを差しだした。


 一瞬驚いた様子を見せた部長だったが、すぐに平静を装った顔で受け取った。

 何か言おうとしていたが、それを制して俺は話し始めた。


「これはお礼と、俺の気持ちです。ただ食べてくれるだけでいいです。あと、俺は会社を辞めるつもりもパティシエに戻る気もありません」


 一気に喋って部長の顔を見ると、呆れたのかひとつため息をついて笑った。


「ちょっと待て。何か勘違いしてないか? いつお前に会社辞めろって言った?」

「誤解してるのは部長でしょう。先輩と俺が、その抱き合ってるの見た時から不機嫌になってるから」

「それがどう会社辞めるって話に繋がるんだ」


 話が噛み合わない。

 部長も俺も勘違いしている?


「俺の話ってのは、多分その不機嫌ってのに繋がるんだろう。お前、あの先輩とやらと付き合ってるのか?」

「いえ……。前は好きでしたが、今はもう」


 それが不機嫌とどう関係している? と思っていると部長の顔が近づいてきて、俺の唇に重なった。


「俺は、お前が好きなんだ。部下としてではなく、一人の男として。一生懸命なところも純真なところも、強がっているところも全て」

「部長……。でも……」


 答えを躊躇っていると、部長は俺を抱きしめて言葉を続けた。


「不機嫌に見えたのは、お前があいつに、写真に写っていたあいつに取られたと思って嫉妬したせいだ。

 あんな笑顔を見せる相手に、奪われると思った」


 だから写真を見た時に『戻ってしまう』って言ったのかと納得した。

 その『戻ってしまう』発言の意味を知らなかったから、先輩が戻ってこいと言ったのを聞かれて、俺が勘違いしてしまったということか。 

 部長といい、俺といい、二人とも勘違いが激しすぎないか、と思えてしまう。

 部長ってしっかり者に見えて実はうっかりな人だったりする?


 心の中で秘かに笑っていると、部長はさっき渡したマドレーヌを袋から出し、俺の目の前でひと口かじった。


「これがお前の答えだと思っていいのか?」

「でも部長には奥様が……」

「誰がそんな事言ってるんだ? 俺は独り身だぞ」


『え!?』という顔があまりに間抜けだったのか、思わず吹き出してしまった部長だったが、仕切り直しと言わんばかりに、真面目な顔をして俺をソファに押し倒した。


「お前の作ったお菓子をずっと食べていたい気分だ。でも今はトリックの方がいい」

「トリック?」

「トリック オア トリート。『お菓子くれなきゃイタズラするぞ』だろう。俺は今、お前にイタズラしたくてたまらない」


 再び合わせられた唇は、マドレーヌ以上に甘い味がした。

読んでいただきありがとうございます。

季節的にハロウィンだったので、連想ゲーム的に『イタズラ』しちゃうぞってのが書きたかったんです。

そしたら丁度ドツボにはまって、駄文でだらだら……。

半分まで減らしても、いらないようなところとか逆に足りないところとか出て大変になってました。


まだまだ校正のしようがあったとは思いますが、これ以上直してると全部あかん気がしてくるので、諦めてアップさせていただきました。

少しでもお気に召していただければ幸いです。

自分なりの好評と思えるラインに達しましたら、R18版で続きが出てくるかもしれません。

その時はまたお付き合いくださいませ。


それではまた別な作品でお会いしましょう。


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― 新着の感想 ―
[一言] いつもとても短い文章しか読まないのですが、つい引き込まれて最後まで読みました。 一冊の本を読んだかのような満足感です。
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