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夢 と うつつ

作者: 柴垣菫草

 名古屋から鈴鹿の山々を右に近鉄電車に乗って南へ向かう。松阪駅で普通電車に乗り換え更に南へ、四つ目の駅が斎宮(さいくう)だ。伊勢神宮の外宮がある伊勢市駅は、この斎宮(さいくう)駅からあと四駅先だ。


伊勢平野の真ん中にある斎宮(さいくう)は、山が遠い。斎宮(さいくう)駅で降りて改札口を北側に出ると、平安王朝のロマンをかきたてる建物が見える。そこは『いつきのみや歴史体験館』だ。更に徒歩十分程北に向かえば、『斎宮(さいくう)歴史博物館』がある。この地は、伊勢神宮にお仕えする歴代の斎王(さいおう)が住まわれた所なのだ。


 この駅名は、斎宮と書いて「さいくう」と読むのだが、「いつきのみや」とも読む。斎宮(いつきのみや)とは、そもそも何か? 『斎宮歴史博物館』のホームページに記載されている説明を抜粋しよう。


『斎宮は「いつきのみや」とも呼ばれ、斎王の宮殿と斎宮寮さいくうりょうという役所のあったところです。斎王は、天皇に代わって伊勢神宮に仕えるため、天皇の代替りごとに皇族女性の中から選ばれて、都から伊勢に派遣されました。

  古くは、伊勢神宮起源伝承で知られる倭姫命やまとひめのみことなど伝承的な斎王もいますが、その実態はよくわかっていません。

  制度上最初の斎王は、天武天皇(670年頃)の娘・大来皇女おおくのこうじょで、制度が廃絶する後醍醐天皇の時代(1330年頃)まで約660年間続き、その間記録には60人余りの斎王の名が残されています』


 そんな、うら若い未婚の皇女が斎王(さいおう)となって遠く都を離れ伊勢の地へ下り、天皇が変わるまで斎宮(いつきのみや)で過ごすのだから、大変だ。


斎王(さいおう)の仕事は年に三度、六月と十二月の月次祭、それに九月の神嘗祭(かんなめさい)に外宮と内宮に出向き、天皇の名代で式典に出席するだけだ。なかなか毎日が過ぎて行かなかったと思う。都から歌人を呼んで歌会をするなどもあったらしいが、さてどんな毎日だったのか。


 伊勢物語(平安初期の歌物語)に斎王(さいおう)のはかない恋が綴られている。

 

 伊勢物語に出てくる主人公は、「昔 男ありけり」の書き出しで有名な、ある男だ。男の名前は出てこないが、在原業平(ありわらのなりひら)だと言われている。その時の斎王(さいおう)は、恬子(やすこ)内親王(ないしんのう)で清和天皇の即位時に斎王(さいおう)卜定(ぼくじょう)された。


 少しこの二人を解説すると、在原業平(ありわらのなりひら)は平城天皇の孫(母方でも桓武天皇の孫)にあたり、世が世なら天皇になれた天皇家嫡流の出自だ。政変があったので臣籍に下り、在原(ありわら)の姓を名乗った。美男の代名詞になるほどの男前だった。多くの歌を詠み六歌仙のひとりだ。


 恬子(やすこ)は、文徳天皇の内親王で、腹違いの弟が清和天皇として即位した時に第三十一代の斎王(さいおう)として伊勢に赴いた。生年が分からないが、斎宮(いつきのみや)に群行した時は十四才程度の若さだったと思われる。恬子(やすこ)は約十五年間を伊勢の斎宮(いつきのみや)で過ごした。


 ふたりの年齢差は二十三才くらい。このはかない恋物語の頃は、恬子(やすこ)十六才、業平(なりひら)三十九才、神に仕える身である斎王(さいおう)が妻ある美男と交わしたはかない恋だ。


伊勢物語を参照しつつ、斎王(さいおう)恬子(やすこ)の心境を現代風に綴ってみたい。

----------


<1>


「もうぅ、退屈だし…」


「では、貝合わせでもいたしましょうか」

「貝は全部覚えちゃったわ。そうだ!浜へ行って新しい貝を採って来る?」


「でも、先日も浜へ行きましたでしょう。お供の方々のお仕度も必要ですし…」

「もう、いいわよ。お庭でも歩きましょ」


恬子(やすこ)姫皇女(ひめみこ)は、斎王(さいおう)として斎宮(いつきのみや)に来て三年が過ぎようとしていた。最初の二年は、斎王(さいおう)としての緊張感もあり、また見知らぬ伊勢の地ということもあり、楽しく過ごせたのだ。しかし、三年目に入り持ち前のやんちゃ姫の性格が現れだした。


頭脳はきわめて聡明、どんな知的な遊びも官女たちでは手におえない。歌も巧みに詠み、度々歌会を開いても、誰も恬子(やすこ)姫皇女(ひめみこ)をうならせる連歌を詠めない。


そんな恬子(やすこ)姫は、どうして私が、都から遠く離れたこんな斎宮(いつきのみや)へ来ることになったのだろうと、常にそう思っていた。


姫皇女(ひめみこ)様、お母上様、三条町様からお文が届きました」

官女の声に、庭へ出ようとしていた恬子(やすこ)の目が輝いた。

(きびす)を返すと、恬子(やすこ)は裾を踏まないように注意しつつも、小走りで声の方へ向かった。


文箱を開けるのももどかしく、さっそく懐かしい母の文を手に読みだしたのだ。


「あら素敵!」

「どうされました?」


「都から勅命で狩りの使いのご一行が、この地におみえになるみたい」


どうやら、恬子(やすこ)は勅使が来るのを大変と思っていない顔つきだ。これで退屈な日々から少しは解放されると、明らかに顔に出ている。にやにやしている。


「それはそれは、ご準備を整えなければいけません。大変なことですわ」

官女は本当に大変そうな顔をした。


恬子(やすこ)は、更に嬉しそうな顔になって、

「ほらっ、お母様も、よくいたわれと書かれてますよ」


「三条町様がわざわざ姫皇女(ひめみこ)様にお文をしたためられたのですから、大事な勅使様なのでしょう」、「それは、…大変だわ!粗相のないようにしないと」と、官女たちは口々に言い、本当に困った顔をした。勅命で来られる方々を迎えるのは、それなりの待遇をせねばならず、官人や官女にとっては頭の痛い大問題なのだ。


「狩りのお使いの方は、わたくしの従姉妹のご主人様のようだわ」

文を読みながらぽつりと恬子(やすこ)がそう言った。


それを聞いて官女のひとりが驚いたように、

「えっ! と言われますと…、近衛(このえ)権少将様ですか」

「うん、身内だからよくいたわるようにって…」


別の官女も、驚いたように、顔を赤らめて、

「あのぉ、そのお方は在原(ありわら)の少将様…、まぁ、業平(なりひら)様!」

と、ざわめくのだ。


その一報に集まった官女たちは、狩りのご一行をどのようにもてなそうか、大騒ぎになった。あの美男で評判の業平(なりひら)が、斎宮(いつきのみや)にやってくる。官女たちは、ひと目でも近くで会いたいし、言葉でも交わせるならと大喜びだ。


しかし、恬子(やすこ)は、なぜ官女たちがそんなに嬉しそうなのか、とんと想像ができなかった。


恬子(やすこ)は、みんなを見渡しながらひとりつぶやいた。

近衛(このえ)権少将 在原業平(ありわらのなりひら)様って、たいそうな人気者だわね…

ふうぅん、わたし…、そんなお方、知らないし…」


<2>


 時代は、藤原良房(よしふさ)が天皇の外戚として、朝廷の実権を掌握する野望を、着々と実行している時だ。これまでも良房(よしふさ)の横暴ぶりは目に余るものがあった。しかし、先の文徳天皇の叔父であり今上清和天皇の外祖父である良房(よしふさ)に立ち向かえる者はいない。


十二年前の承和(じょうわ)の変で、無理矢理に当時の皇太子 恒貞つねさだ親王を廃し、自分の妹が生んだ親王に皇太子を移行させた良房(よしふさ)である。後に、人臣初代の摂政にまで上り詰める良房(よしふさ)なのだ。これを止めようとする勢力の多くが排除されてゆく時代であった。


 在原業平ありわらのなりひらの父である阿保あぼ親王も十二年前の承和(じょうわ)の変に深く関わっていた。藤原良房(よしふさ)の権力を恐れ、一族の危険を感じた阿保(あぼ)親王は、息子たちを臣籍に下らせ、在原(ありわら)の姓を名乗らせた。こうして朝廷の中枢から下りた阿保(あぼ)親王だったが、桓武天皇直系の血筋を、周りの貴族は放っておかなかった。


業平(なりひら)は、父が承和(じょうわ)の変にどのように関わったのか詳しくは知らないが、その政変直後に阿保(あぼ)親王が急死したのだ。


 勅命で狩りの使いとして斎宮(いつきのみや)を訪れようとしていた業平なりひらは都にあって左近衛(このえ)権少将であった。位は従五位上であるが、十三年間も昇進がなく不遇の時を過ごしていた。そう、十二年前に父が亡くなってからずっと位は上がらなかった。


そのことに不満を持っている訳ではないが、良房(よしふさ)になびく朝廷や貴族たちに嫌気が差している。


惟喬これたか様はご在宅ですか」


業平(なりひら)は、大炊御門おおいのみかど烏丸からすまにある惟喬(これたか)親王邸を訪ねた。

惟喬(これたか)は、一旦は皇太子となるも、異母弟の今上天皇(清和天皇)に皇位を譲った形となっている。もちろん藤原良房(よしふさ)の策略だ。この時、惟喬(これたか)は二十歳、きりりっとした目の好感のもてる青年だ。


「おお業平(なりひら)か。少し見なかったが」

「山崎の方に狩りに出かけておりました。親王みこ様にはご健勝で…」

親王(みこ)はやめてくれ。そんな気持ちにもなれん」


惟喬(これたか)様、近頃大納言様とよく会われているようですが…」

業平(なりひら)は心配そうな顔で尋ねた。


大納言とは、その年に大納言に任ぜられた正三位 伴善男とものよしおだ。この(とも)大納言の評判は良くない。狡猾で情けのない性格だが、政務には明るく弁舌は巧みだ。天皇を除けば朝廷で藤原良房(よしふさ)に次ぐ第二の地位だ。


「大納言は、何かと気を使ってくれる。

先日も、右大臣を連れて我が邸に遊びに来たぞ」


業平(なりひら)は、今の惟喬(これたか)は貴族の権力争いに巻き込まれる危険性が大きい、と感じていた。正統な血筋であればあるほど、利用されやすい。かつての自分がそうであったように、若い時期には自分の不遇さをどこかに発散させたいものだ。


業平(なりひら)は、惟喬(これたか)の前に座り直すと真直ぐに目を合わせ、さとすように話した。


惟喬(これたか)様! あなたは若い頃から亡き文徳天皇のご寵愛を受けご聡明にお育ちになりました」

「…」

「我々人臣は皆、惟喬(これたか)親王様が即位されるものと喜んでおりました。しかし、世の移り変わりは激しく、現時点でこの状況を打破する事は困難です。中には自分の出世しか考えない(やから)が多くおります。彼らは、その目的のためには他を利用する事を考えます」

「…」


「今の惟喬(これたか)様は、最も危ない立場です。人臣の多くもあなたを慕っております。権力を手に入れようとする人への妬みが、すべてあなたの御身に集まってきます。そういう時期だからこそ、あなたを利用する(やから)には都合のよい時なのです」


惟喬(これたか)は、兄とも慕う業平(なりひら)の言葉を黙って聞いていた。


「あなたは聡明なお方です。周りをよぉく見渡してください。誰が何を考えているか、冷静になれば見えてきます。なぜ(とも)大納言があなたに近づくのか。まさか、あなたを即位させようと腐心しているとは思えません。右大臣はりっぱな方ですが、あなたに会いに来る目的は何でしょう」


 惟喬(これたか)は、業平(なりひら)の真剣な形相に言葉を失っていた。しかし、よく考えれば話の内容は合点もゆく。話を続ける業平(なりひら)に手で合図をし、惟喬(これたか)は言った。


業平(なりひら)、分かった。もうよい。わたしとて即位する気持ちなどはもうない」

話をさえぎったが、業平(なりひら)がわたしの事を心配してくれていると惟喬(これたか)には痛いほど分かったのだ。


「分って頂ければ幸いです。また、歌会でもやりましょう。それが生きる術です」

「そうだな。それは楽しみだ」


「ところでお母上様は、ご機嫌うるわしゅうございますか」

「ここしばらくは会っていないが…」

「じつは勅命がありまして、伊勢を回って東国に狩りに出かけます」

「ほおぉ、それはまた遠路だな」


「はい、きっとわたしが都に居ては困る御仁がおるのでしょう。昨今は増々、きな臭い話ばかりですから…。旅立つ前に、お母上静子しずこ様にもお会いしてゆきます」

「それは喜ぶだろう。そうだ、伊勢に行くのなら我が妹の斎王(さいおう)にも会うか」


「その予定です。斎宮(いつきのみや)でしばらく泊まることになりましょう」

「ふぅーん。恬子(やすこ)姫にも知らせてやらねば…」


「いやいや、すでにお母上様から文を出されたようです。しかし、わたしは恬子(やすこ)姫皇女(ひめみこ)様にお会いしたのは、斎宮(いつきのみや)に群行されるずっと前の事でした。可愛い姫皇女(ひめみこ)様でしたが…」


「はははっ、可愛い?恬子(やすこ)は…、今は十六歳かな、負けん気が強くて困るぞ。気を付けろ、業平(なりひら)


 ふたりの話はその後も続いた。惟喬(これたか)を心配する業平(なりひら)は帰り際に再度念をおした。

 

惟喬(これたか)様、わたしの居ぬ間はくれぐれも気を付けてください。冷静に考えれば軽はずみな事はされないと思いますが、何かあれば兄の行平ゆきひらにお申し付けください」


業平(なりひら)、心配してくれているのはよう分かった。わたしも、お前のようにゆるゆると暮らす事にする」

「お前のように、とは心外ですなあ。はははは」


すでに、大炊御門(おおいのみかど)大路は暗くなっていた。


<3>


姫皇女(ひめみこ)様」

恬子(やすこ)が最も身近に置いている童女が呼びかけた。

「どうかしましたか」


「もうすぐ、狩りの人がおみえになりますね」

「そうね。みんなが急いで準備をしてくれました」

「みんなは、おみえになるのが待ち遠しいと言ってます」

「狩りの人は、官女たちの人気者ですからねぇ」


「どうして?」

素直に聞かれて恬子(やすこ)は困った。


恬子(やすこ)は、官女たちがそわそわするのを見るにつけ、狩りの人たちが来る事に徐々に興ざめしていった。確かに、母上からの文が届いてから、いろいろと準備を整える必要があり、日々の退屈からは逃れられた。でも、なんでわたし以上にみんなが騒ぐのだ。


「そりゃあ、都のりっぱな方ですから…」

「でも、姫皇女(ひめみこ)様は、あまり嬉しくなさそうです」

「都のお話も聞けるし、嬉しいですよ」


姫皇女(ひめみこ)様の身内の方って聞きましたけど…」

「そう。でも、よく知らない方です。わたしが小さい時に会ったくらいかな。お兄様は親しくしているようだけど…」


「都は、…行ってみたいな」

童女の言葉に、恬子(やすこ)は心の中で、「やはり都に帰りたい、お母様や兄にも会いたい」とつぶやいた。


 狩りの使いの一行が、斎宮(いつきのみや)に到着する日になった。当時、京の都から斎宮(いつきのみや)まで約三日の日程だ。業平(なりひら)は、総勢十二名の狩りの一行を率いて昼前に斎宮(いつきのみや)に入った。途中で二名を次の訪問地である尾張へ向かわせていた。斎宮(いつきのみや)では軽く昼食を取り、明日の狩りのために、供の半数に斎宮(いつきのみや)を出て狩場の視察を命じた。業平(なりひら)斎宮(いつきのみや)で休息を取った。


「左近衛(このえ)権少将様、夕餉(ゆうげ)の支度が整いました」

可愛い童女の声が、業平(なりひら)のうたた寝を起こした。


斎王(さいおう)様も同席されます」

「そうか。では、支度を致そう」


官女数名が業平(なりひら)の支度を手伝った。斎王(さいおう)に会うのだから、正装をする必要があった。業平(なりひら)は、官女たちの念入りのお世話に、恬子(やすこ)姫皇女(ひめみこ)の行き届いた躾を感じた。


業平(なりひら)を見る童女の目が少し潤んでいるのに気付いたが、そのまま案内された部屋に通ると、すでに供の者たちも集まっていた。


斎王(さいおう)のお出ましでございます」

童女が言う方を見ると、十二単(じゅうにひとえ)に身を包んだ恬子(やすこ)が現れて着席した。業平(なりひら)は、その前に進み挨拶を述べた。


斎王(さいおう)様にはご機嫌うるわしく、また、この度は我々一行のためにご厄介をおかけ致します。みかどから斎王(さいおう)様に、くれぐれも御身体をご健勝にとのお言葉を賜って参りました」


「この斎宮(いつきのみや)を御身のいえと思い、ご存分にお過ごしください」

「ありがとうございます」

挨拶が終わると、業平(なりひら)は童女に導かれ自席に戻って、宴を楽しんだ。


 ふと、気が付くと恬子(やすこ)姫皇女(ひめみこ)は、すでに退席をしていた。

さすがに斎王(さいおう)として神事をこなすだけあって、堂々とした態度で凛とした返答だったなと業平(なりひら)は感心した。業平(なりひら)が知っていた幼い恬子(やすこ)姫皇女(ひめみこ)からすっかり成長した姿を見て驚いたのだ。


兄の惟喬これたか親王に目元がよく似ており、先の文徳天皇が寵愛した貴婦人の母静子の血を受け継いで、恬子(やすこ)は清々しい美人になっていた。挨拶が終わり業平(なりひら)が自席に戻る時に見せた恬子(やすこ)の笑顔は、業平(なりひら)をドキッとさせるに充分な魅力があった。


惟喬(これたか)が言っていた「負けん気が強くて困るぞ」という印象はまったくなかったのだ。


<4>


 次の朝は狩りに出るため夜が明ける前から支度を整えた。官女たちがなにかと手伝ってくれる。業平(なりひら)が履物を付けようとすると、別の官女が手際よく手伝ってくれた。


姫皇女(ひめみこ)様、私どもがやりますから…」

官女たちが、その女に言っている。姫皇女(ひめみこ)…?


「いいえ、大丈夫ですよ」

と顔を上げほほ笑んだ女を見て、業平(なりひら)は驚いた。恬子(やすこ)ではないか。


業平(なりひら)様、お気をつけて行ってらっしゃいませ」

「ああ、…」


 官女たちと同じ姿でてきぱきと動く恬子(やすこ)を見て、業平(なりひら)は言葉が出なかった。昨夜の恬子(やすこ)とは、また違う姫皇女(ひめみこ)がそこにいた。


普通、斎王(さいおう)がこんな事はしない。しかし、負けん気が強く活発な女性の恬子(やすこ)だからこその姿だろう。お忍びでのお出ましだったのだ。


「ここから東に行くと、土師器はじきを焼いている水池という所があります。そこを過ぎて南へ下ってください。狩りには最高の野山が広がっていますから」

「はあ、…」


「ささっ、お供の方々がお待ちですよ」と、恬子(やすこ)は明るくほほ笑んだ。


 促されて騎乗の人となった業平(なりひら)を、見えなくなるまで見送っている恬子(やすこ)だ。勅命で狩りをする一行に狩場の案内までするとは、何て変わった斎王(さいおう)だ。きっと恬子(やすこ)斎宮(いつきのみや)に閉じこもっていないで、活発に外を出歩いているのだろう。


業平(なりひら)は、「わたくしもお供したい」と、見送ってくれた恬子(やすこ)は言いたかったに違いないと思った。なるほど、男勝りの姫皇女(ひめみこ)だ。斎宮(いつきのみや)の中では、みんな恬子(やすこ)姫皇女(ひめみこ)に手を焼いているのだろうと容易に想像できる。


しかし、そんな恬子(やすこ)に、業平(なりひら)は何となく心惹かれていくのを感じた。吸い込まれるような笑顔だった。


 狩りに出る業平(なりひら)を見送った恬子(やすこ)だが、この胸の締め付けられる思いは何かしらと感じていた。退屈しないように準備に気を入れ過ぎたせいかなと思ってみたが、業平(なりひら)の顔、立ち振る舞いがすぐに目に浮かぶ。都の話や兄、惟喬(これたか)の様子など、もっと聞きたいけど、その時間がないからだろうか。


足元に金水引くっつきぐさの花が咲いている。じぃっと可憐な花を見ていると、この花の種のように業平(なりひら)様にくっついて狩りに連れていってほしかった、と思うのだ。


「ふぅ~、…」

姫皇女(ひめみこ)様、どうかされましたか」

童女が心配そうに顔を覗き込んだ。


「今日はため息ばかりですよ。やはり、退屈ですか」

「いえいえ、すこし疲れましたね」

「では、お休みなさいませ。狩りの方々は、まだまだ戻られませんから」


<5>


 業平(なりひら)は狩りをしつつ、近郷の村々を視察し回った。


しかし、恬子(やすこ)内親王の今朝の明るさはどうだ。けがれを知らない純粋の明るさではないか。都にいては決してできない非常識な行動も、あの姫皇女(ひめみこ)だからこそ自然に見えてくる。本来の明るさと、神宮の神に仕える厳かな顔と、両方を見事に使い分けている。神聖な斎王(さいおう)としての任務の中に、その明るさや活発さを閉じ込めて健気(けなげ)に暮らしているのだろう。そう思うと、愛おしいと感じる。


惟喬(これたか)様の妹だが、業平(なりひら)にはそれ以上の存在として心の中で膨らんでいった。


 夕刻になり狩りの一行が斎宮(いつきのみや)に戻った。かなり遠くを駆けたようだ。

 

姫皇女(ひめみこ)様、狩りの方がお戻りになりました」

「そう、ではお迎えに…」


姫皇女(ひめみこ)様、いけません。お出迎えは官女たちがいます。今朝のようなお振る舞いが、寮の頭(長官)に知れたら大変です」

「でも、…」

夕餉(ゆうげ)はご一緒なさればいいですから。お仕度が整うまでお待ちください」


なんでも相談し、なんでも聞いてくれる童女だが、今朝の恬子(やすこ)の振る舞いには童女も驚いたのだ。恬子(やすこ)も少しは反省しなければいけないか、と思った。この童女が一番わたしの事を心配してくれているのだ。


「分かりました。そうします」

恬子(やすこ)は素直に答えた。

 

 夕餉(ゆうげ)の支度が整うのを待つのが長かった。もうすっかり陽は落ちた。立待ち月は、まだ登ってこない。


姫皇女(ひめみこ)様、お仕度が整いました」

やっと、童女が知らせてくれた。


部屋に入ると、狩りの一行と官女たちが楽しげに談笑している。

斎王(さいおう)様もお出ましですから、さあ戴きましょう」


業平(なりひら)の言葉で、夕餉(ゆうげ)が始まった。狩りの一行は、世話をする官女たちと狩場での様子などを口々に話している。業平(なりひら)は、官女たちの話に口数少なく受け答えをしていた。都の話、色々な土地での狩りの話、斎宮(いつきのみや)での暮らしぶりなどが狩りの一行と官女の間で続いていた。


しかし、恬子(やすこ)業平(なりひら)も、そんな話には気が入らない。夕餉(ゆうげ)が終わろうとする頃、業平(なりひら)恬子(やすこ)の前に移動して言葉を交わした。


斎王(さいおう)様、…いえ、恬子(やすこ)姫皇女(ひめみこ)様。都では、お兄様の惟喬(これたか)親王様と親しくさせてもらっております」

「兄とは、何をなさっていますか」

恬子(やすこ)の瞳が、やっと輝きだした。


「時々、一緒に歌などを詠んだりしております」

「そうですか。それは楽しそう」

「…」


目と目が合い、ふたりは見つめ合ったまま言葉が出ない。ややあって、小声で業平(なりひら)が言う。


今宵(こよい)、ぜひお会いしたい」

「…」 


恬子(やすこ)は、業平(なりひら)の言葉を理解できないでいた。怪訝(けげん)そうな恬子(やすこ)の表情を見ながら、業平(なりひら)はにっこりとほほ笑んだ。


「では、楽しい夕餉(ゆうげ)でした。明日の朝も早いゆえ、このあたりで休ませてもらいましょう」

業平(なりひら)は、みんなの方に向かって言った。


 恬子(やすこ)は、「今宵(こよい)、会いたい」と言った業平(なりひら)の言葉を頭の中で繰り返していた。


この時代では、男と女が二人きりで「会う」という事は、「契る」事であり、結婚する事なのだ。斎王(さいおう)はその夜、気持ちが混乱していた。


「えっ、どういう事よっ!」


「なにを考えているのかしら、わたしは」


「業平様は、都の母や兄のお話を聞かせてくれるだけだよね」


「ええぇ…?今宵、会いたいってぇ?」


「わたし、斎王(さいおう)だわよ。神に仕える身なのよっ!」


「なにこれ?この胸の騒ぎは…」


「従姉妹のご主人様だし…」


 恬子(やすこ)は、高鳴る動悸を感じながら、外へ出た。月が東の空高く輝いている。たなびく雲が月を少し隠したりしているのを眺めながら、恬子(やすこ)の頭の中で業平(なりひら)の言葉がくるくると回っている。


しばらく月を眺めていると、妙に気持ちが落ち着いてきた。きっと都での母や兄のお話をしてくれるんだ、と思えてきた。そういえば、ふたりは二言三言しか言葉を交わしていない。惟喬(これたか)兄さんと親しくしているのだから、兄さんの言葉も伝えようと思われているに違いない。


「そうだわ。きっと…、そう」


業平(なりひら)様だって、わたしが(けが)れてはいけない斎王(さいおう)だって知っているのだし」


そのように気が静まると、今度は顔がぽっと赤くほてるのを感じた。

「わたしって、何を考えてるのだろう!」


 後ろから童女の声がした。

姫皇女(ひめみこ)様、何をなさっているのですっ。もう、こんな夜更けですよ」


恬子(やすこ)は、館に戻りながら言った。

「ほら、月がきれいでしょう」

「…」

童女は、首をかしげながら月を見た。


「今、何時かしら」

子一ねのひとつ)(夜十一時)頃でしょう」


「もう、みんな寝たかしら」

「ええ、起きているのはわたしたちだけですよ」


業平(なりひら)様に会いに行こうと思うの。隣の館でしたよね」

「えっ!…」


童女の驚いた顔といったらなかった。天地がひっくり返ったような驚きようだ。姫皇女(ひめみこ)様は何を、突然言い出すのだろう。


「あのぉ、姫皇女(ひめみこ)様、…」


夕餉(ゆうげ)の終わりにね。業平(なりひら)様が、今宵会おうって言ってたの。きっと、都の母や兄の話をしたいのだと思うわ」


童女は、姫皇女(ひめみこ)の言うことを、まだ正確に理解できていない。


「そういえばね、業平(なりひら)様と兄は気が合うので、時々会って歌など詠んでるみたい」

「…」

「わたしも、ぜひ都の話を聞きたいわ。今から会いに行こう…」


姫皇女(ひめみこ)様っ!」

童女は、きつく恬子(やすこ)の言葉を遮った。


姫皇女(ひめみこ)様、情けないお言葉です。姫皇女(ひめみこ)様は、みかどのご名代として天照大神あまてらすおおみかみ様にお仕えする身です。斎王(さいおう)としてりっぱにお勤めをなさる姫皇女(ひめみこ)様に、わたくしは三年間お仕えしてまいりました。姫皇女(ひめみこ)様の毎日のやんちゃなお振る舞いに、わたくしも驚く事ばかりでした。でも、でも、このような時刻に男に会いに行くとは、斎王(さいおう)様としてはあまりにも無茶なお話です」


童女といっても、恬子(やすこ)と歳はそう違わない。だから日ごろから恬子(やすこ)の話し相手であり相談相手だ。お互いに気持ちはよく分かっているふたりだ。しかし、そんな童女にしても、こんな話はないだろう、と思うのだ。あまりにも無鉄砲すぎる。


「わたしは、ただ都の話を聞きたいだけです。母の話、兄の話を…」


「ただ、…会いに行きたいのです」


恬子(やすこ)は、悲しさを浮かべて静かに言った。目の奥には涙が隠れていた。

 

 何の前触れもなく卜定(ぼくじょう)斎王(さいおう)に選ばれ、都から遠く離れた斎宮(いつきのみや)に閉じ込められている姫皇女(ひめみこ)を、童女は哀れで仕方がなかった。だから、この姫皇女(ひめみこ)のためにわたしは何でも協力するのだと、いつも思っていた。


本来なら、斎王(さいおう)は伊勢神宮への神事以外は斎宮(いつきのみや)を出てはいけない。けれど、恬子(やすこ)が浜へ行きたい、野山へ行きたい、と言うたびに官女たちを説得し、協力してきた。だれにも内緒で、ふたり斎宮(いつきのみや)を抜け出したことも、何度となくある。


この時、童女には、都の話を聞きたいという恬子(やすこ)の言葉の裏に、業平(なりひら)に寄せる思いが隠されていると気が付いた。おそらく、恬子(やすこ)本人もそのことにはうすうす気が付いているはずだ。そしてその事が、どんな結末になるかもわかっているはずだ。それでも、やはり会いたいと、この姫皇女(ひめみこ)は言うのだ。


童女は、じっと恬子(やすこ)の顔を見た。


<6>


 業平(なりひら)は、眠れないでいた。夕餉(ゆうげ)の終わりに挨拶をした時、あまりにも恬子(やすこ)の目が輝いているのを感じ、「今夜、会おう」と言ってしまった。


恬子(やすこ)業平(なりひら)を好ましく思っている事は、その目を見て分かった。業平(なりひら)は、後悔していた。神に仕える斎王(さいおう)に言うべき言葉ではなかった。しかし、恬子(やすこ)への気持ちも本物だ。業平(なりひら)は、おそらく恬子(やすこ)は来ないだろうと思いつつ、深いため息をついた。これで恬子(やすこ)に嫌われてしまった…と。


 その時、庭先でかすかに音がした。目を凝らすと、おぼろ月にぼんやりと照らされるふたつの影が見えた。近づく影、前を来るのは、見覚えのある童女だ。


恬子(やすこ)姫皇女(ひめみこ)に付いている童女だ。ようやく顔が分かる所で止まると、童女は業平(なりひら)に軽く頭を下げた。後ろをついて来たもうひとりは、童女の横をゆっくりとこちらに進んで来る。近づきながら伏せていた顔を上げた。


業平(なりひら)は、心で叫んだ。


恬子(やすこ)だ! ……来たのか!」


恬子(やすこ)の視線は、業平(なりひら)の目を真直ぐに射抜いている。座敷(えん)の手前一間(いっけん)ほどのところで、恬子(やすこ)は歩を止めた。


先ほどより棚引く雲が増えたのか、月明かりがやや薄くなった。しかし、恬子(やすこ)の顔の表情をうつすには充分な明るさだ。恬子(やすこ)の顔は、月明かりにすっきりとした口元を浮かべながら、青白く無表情だ。目は、やや細めがちに、しかし業平(なりひら)の目線に合わせていた。


業平(なりひら)は、言葉にもならない声を発して、(えん)を駆け下りると恬子(やすこ)の手を取った。促すように手を引いて館の中へ入った。


 童女は、ふたりが月明かりの中でしっかりと見つめ合い、そして館の中へ消えて行くのを、ただ無表情に見ていた。


「これで、……よかったのかしら」


「とんでもない事を、したのかしら」


これまでも、恬子(やすこ)とふたりで秘密の行動をしてきた。しかし、斎宮(いつきのみや)をふたりで抜け出し野山や浜で遊ぶのとは、今回はわけが違う。童女は、そんな事を考えながら、しばらくその場を離れられなかった。


 童女は、業平(なりひら)には確かに魅力的な気配があると感じていた。歌を巧みに詠み、行動力もあり、何より姿や立ち振る舞いが洗練されている。恬子(やすこ)ならずとも、わたしも心惹かれるわ、と感じていた。


恬子(やすこ)に対して、少しばかりの嫉妬も感じた。とんでもない事をしたという思いの中に、自分の嫉妬心も見え隠れするのを断ち切るように、童女は(きびす)を返した。恬子(やすこ)とは、一刻(二時間)の後に迎えに来ると約束をしていた。


 丑二うしふたつ)(深夜一時半頃)の約束の時刻になった。月が南中にあり、明るい。風はないが、雲がゆったりと月を横切っている。童女は、業平(なりひら)の寝所がある館の庭先で、恬子(やすこ)を待った。寝所に灯りはない。静かだ。庭の隅にある石に腰をおろした。


『きみにより思ひならひぬ世の中の 人はこれをや恋といふらむ』


<あなたのおかげで知ることになりました。

 世の中の人はこれを恋というのでしょうか>


という歌を思い出していた。これは業平(なりひら)の歌だと聞いている。

童女は、ため息を噛みこらえた。


 丑三うしみつ(深夜二時頃)になった。御簾みすの音がした。


恬子(やすこ)が姿を見せると、庭に下りてきた。童女を見つけると、安堵した表情で、「もどりましょう」と言う。


童女は、恬子(やすこ)を先導して斎王(さいおう)の館まで戻った。恬子(やすこ)は、何も言わず寝所に入ってしまった。また、童女はひとりになった。斎王(さいおう)の寝所の隣の控えの間で、童女は再び、深くため息をついた。


 業平(なりひら)は寝所で、最初は、恬子(やすこ)の兄 惟喬(これたか)親王や 母静子や、それに都での様子などを、時間をかけて話した。恬子(やすこ)は、ただ聞いているだけだった。


一辰刻いちしんこく)(二時間)をふたりで過ごしたが、恬子(やすこ)は一言も声を出さなかった。恬子(やすこ)がひどく緊張している事は感じたが、業平(なりひら)にとってこのような逢瀬は初めてだ。


業平(なりひら)には、恬子(やすこ)の気持ちが見えなくなってきた。


「やはり、会ってはいけなかったのか」


「しかし、あの眼は真剣だった」


業平(なりひら)は、会う前よりも深く悩んでしまった。


「わたしのことを、どう思ったのだろう」


「会うべきではなかった? そうなのだろうか」


そうこうする間に、夜が明け始めてきた。業平(なりひら)は、こちらから文や人をやって聞くわけにもゆかず、ますます気持ちが沈んでしまった。


<7>


 夜が明けた。童女は一睡もしていない。何故か心が高ぶってしまったのだ。恬子(やすこ)の呼ぶ声に我に戻った。恬子(やすこ)は、童女に文を渡すと、「彼の人に届けてください」と言う。今日も狩りに出るはずなので、そんなに時がない。童女は、急ぎ文を届けた。


 業平(なりひら)に文を届けると、業平(なりひら)は大喜びでその場で文を広げて読んだ。そこには、歌が一首詠まれていた。

 

『君や来し我や行きけむ思ほえず 夢か(うつつ)か寝てか覚めてか』


<あなたが来たのでしょうか、わたしが行ったのでしょうか、覚えていません。

 夢だったのか本当だったのか、眠っていたのか起きていたのか>


業平(なりひら)は、「これは、…!」と思わずうなった。


恬子(やすこ)姫皇女(ひめみこ)は、頭脳明晰で歌も秀でていると聞いていたが、これほどまでの詠み手とは思っていなかった。


しかも、業平(なりひら)の歌の特徴を見事に踏襲しているではないか。

わたしの歌を多く知っているのか? 


この歌には、昨夜の恬子(やすこ)の心境を余すことなく表現されている。業平(なりひら)は、恬子(やすこ)はわたしの事を悪く思っていない、そして、暗に返歌を望んでいると思った。


 業平(なりひら)は、返歌を書くとそれを童女に託して、狩りに出た。

 

 返された業平(なりひら)の歌に、恬子(やすこ)は思わず微笑んだ。

 

『かきくらす心の闇にまどひにき 夢うつつとはこよい定めよ』


<心の闇に迷ってしまい何も見えなくなりました。

 夢か現実かは今夜はっきりさせてください>



 業平(なりひら)は、狩りに出たのはいいが、恬子(やすこ)の事が頭から離れない。恬子(やすこ)の行動は、これまでの業平(なりひら)の経験からずいぶんと外れている。


なぜ、押し黙っていたのだろう。その後で、なぜあんな歌を寄こしたのだろう。どんな気持ちで今はいるのだろう。今夜も会おうと歌を返したが、会いに来るのだろうか。


頭の中は狩りどころではない。恬子(やすこ)が会いに来るなら、みんなを早く寝静まらせて待たねばなるまい。ほとほと頭の中は狩りどころではない。


 昼を過ぎた頃、斎宮(いつきのみや)の長官の使いが業平(なりひら)を追いかけてやってきた。


近衛(このえ)権少将様、伊勢の国の国守が今宵は酒宴を催したいと申しております」

「今宵は、…」

斎宮(いつきのみや)の長官でもありますので、ぜひともとお越しください」


勅命を受けて来ている業平(なりひら)なので、伊勢国司からの誘いは断るわけにはゆかない。しぶしぶ、宴に赴くことにした。


 その夜、酒宴は斎宮(いつきのみや)寮内で催された。伊勢国司の都での活躍ぶりや、伊勢国のまつりごとや、伊勢国での暮らしぶりなどを延々と聞かされた。業平(なりひら)よりかなり年上だが、位は業平と同じだ。


話の好きな男だ。そろそろ宴も終わりにしようと業平(なりひら)が誘い水を出すのだが、この斎宮(いつきのみや)頭は一向に話を終わろうとしない。都からの使いだから、気に入ってもらい、何とか早く都に戻れるように朝廷に助言をしてもらいたいのだろう。ああ~ぁ、これは夜通しの酒宴になりそうだ。


 ようやく酒宴が終わろうとする時になったが、もうすぐ夜が明けるではないか。業平(なりひら)は、酒宴が終わってもさっぱり酔っていない。ただただ、恬子(やすこ)に会えなかったのが悔やんでも悔やみ切れないでいた。夜が明ければ、斎宮(いつきのみや)を発たねばならない。仕方なく、出立の準備を始めた。


 夜が明けた。出立の用意も整い、後ろ髪を引かれる思いで斎宮(いつきのみや)寮を出る時になった。その時、かの童女が業平(なりひら)に盃を差し出した。


「おお、そなたは、…」

業平(なりひら)が盃を手に取ると、盃に歌の上の句がしたためてあった。


『かち人の渡れど濡れぬえにしあれば…』


<徒歩で渡っても濡れないような浅い入り江でしたね…

 それほど浅いご縁でしたね…>

 

 業平(なりひら)は、その歌を読み、感じた。

「ああぁ、やはり恬子(やすこ)姫皇女(ひめみこ)は、宴が終わるのを待っていてくれたのか…」


しかし、この歌の様子では、もうすでに恬子(やすこ)にその気はなくなったのだなぁと悟った。それでも業平(なりひら)は、側にあった松明たいまつの、すでに火の消えている消し炭で、盃に下の句を書いた。


『…又あふ坂の関はこえなむ』


<…また、逢坂おうさかの関を越えて来るつもりです

 …また、きっと会いに来ますよ>

 

業平(なりひら)には、これが精一杯の言い訳だった。

童女に、その盃を返すと尾張の国へ旅立つ事にした。


<8>

 

 童女は、業平(なりひら)が後の句を書き足した盃を、恬子(やすこ)に手渡した。恬子(やすこ)は、業平(なりひら)の後の句をちらっと見ると、フフフッと笑った。


「あなたも読みましたか? 業平(なりひら)様らしからぬ後の句ですね、これは」


恬子(やすこ)は、業平(なりひら)ならもっと気の利いた句を付けてくれるものだと期待していた。平凡な言葉しか出てこなかったのね。随分と慌てていらっしゃる、と恬子(やすこ)は考えた。そして、もう一度、フフフッと笑った。


「そうだ! 業平(なりひら)様を大淀おいずの浜までお見送りしてきて。斎宮(いつきのみや)寮の役人もお見送りに行くでしょう。あなたも行ってらっしゃいな」


「えっ!」と、童女は驚いた。


「わたくしの代わりに、お願いするわ」

童女は、「はい!」と言うと、業平(なりひら)の一行を追いかけた。


 恬子(やすこ)は、童女あのこ業平(なりひら)に心を寄せている事に気が付いていた。わたしよりも優しさのある童女の方が業平(なりひら)様にはお似合いかも知れない、と思っていた。それを分かっていながら、度々無理な使いなどを頼んだ事を気にしていた。あ~あ、何て悪い女なんだろう。


 恬子(やすこ)は、しかし、業平(なりひら)には感謝しなければとも思う。こんな退屈な生活に、一輪の花を与えてくれた。神に仕える斎王(さいおう)として、これからの長いお役目を全うできるかも知れない。いつ都に戻れるのかわからないけれど…、この地で生涯を過ごすことになっても、業平(なりひら)様との事はこの胸にしっかりと生きているはずだ。恬子(やすこ)は、清々しい気持ちで大淀の浜の方に目をやった。

 

 業平(なりひら)は、情けない心持で大淀の渡しに着いた。恬子(やすこ)の笑顔が頭の中に残っている。浜には松の木が多く、強い風に小枝が揺れていた。見送りに来ている斎宮(いつきのみや)寮の役人が言うには、「今日は風が強いですね。船を出すのは難しいかもしれません」


「仕方がありません。風が止むのを待ちましょう」

業平(なりひら)は、こんな事ならもう少し長く斎宮(いつきのみや)にいて、ひと目でも恬子(やすこ)に会えばよかったと考えていた。


風は止む気配がない。見送りの役人たちは、今日船が出せない事もあり得るとして、狩りの一行が泊まる仮宿を準備した。


近衛(このえ)権少将様、では私どもはここでお別れいたします。もしものために、仮宿も準備しておきました。後は、船頭にお任せください」

そう言うと、斎宮(いつきのみや)寮へ戻って行った。


 気落ちした業平(なりひら)は、見送りの人々の中に恬子(やすこ)付きの童女がいるのが目に入った。童女を呼び止めると、次のような歌を投げかけた。

 

『みるめかるかたやいづこぞ(さお)さして われに教へよあまの釣舟』


海松みるが採れる入り江はどこですか、

 棹で指し示して教えてください、海人の釣船さん>

 

<<わたしが会いたい(見たい)お方はどこにいますか、

   その方角を指し示して連れて行ってください、使者の童女さん>>

   

近衛(このえ)権少将様、もう姫皇女(ひめみこ)様には会えませんよ」

童女は、業平(なりひらに近づいて言った。


「あのお方は、神に仕える本来の斎王(さいおう)に戻られました。ぜひ、その胸の内をお察しください」


恬子(やすこ)姫皇女(ひめみこ)は、まことに不思議なお方だ。よく判らないお方だ」


近衛(このえ)権少将様は、決してお判りになれないと思いますよ。とても明るくご聡明なお方ですが、斎王(さいおう)としての運命をご一身に背負られています。都にお戻りになられたら、三条町さんじょうのまち)(恬子の母静子)様にも、姫皇女(ひめみこ)様がお元気で過ごされていたとお伝えください」


「えっ…、あなたは…?三条町様をご存知か」

「わたくしは、姫皇女(ひめみこ)様のお世話をし、心の支えになってやってほしいと、三条町様から内々に申し付けられました」


「では、あなたも都から群行で下られたのですか」

「いいえ、わたくしは、姫皇女(ひめみこ)様が伊勢に下られる一年前に斎宮(いつきのみや)に入り、伊勢の地や斎宮(いつきのみや)寮を学び、姫皇女(ひめみこ)様が群行されるのを待ちました。この事は三条町様だけしか知りません」


「そうだったのですか。あなたは三条町様の命で、この地へ…」


 大淀の仮宿で、業平(なりひら)は童女と都の話などをして、船出を待った。しかし、夕刻になっても風はいっこうに収まらず、船は明日の朝になると船頭から聞かされた。


その夜、童女は恬子(やすこ)の許に戻らなかった。

恬子(やすこ)は、「あらあら、どうしたのかなぁ」と、茶目っ気な顔でほほ笑んでみた。


<完>



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― 新着の感想 ―
[一言] 斎宮および斎王といえば……Youtubeにある「斎王の舞」の映像は、見る価値が有りそうですよ。
[一言]  初めまして。  実を言うと私、過去、妄想したことが有るのです。  斎王制度が、明治時代に復活し、その後も存続していたなら、どうなっただろうかと。  復活するのは、日清戦争と日露戦争の間…
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