夢 と うつつ
名古屋から鈴鹿の山々を右に近鉄電車に乗って南へ向かう。松阪駅で普通電車に乗り換え更に南へ、四つ目の駅が斎宮だ。伊勢神宮の外宮がある伊勢市駅は、この斎宮駅からあと四駅先だ。
伊勢平野の真ん中にある斎宮は、山が遠い。斎宮駅で降りて改札口を北側に出ると、平安王朝のロマンをかきたてる建物が見える。そこは『いつきのみや歴史体験館』だ。更に徒歩十分程北に向かえば、『斎宮歴史博物館』がある。この地は、伊勢神宮にお仕えする歴代の斎王が住まわれた所なのだ。
この駅名は、斎宮と書いて「さいくう」と読むのだが、「いつきのみや」とも読む。斎宮とは、そもそも何か? 『斎宮歴史博物館』のホームページに記載されている説明を抜粋しよう。
『斎宮は「いつきのみや」とも呼ばれ、斎王の宮殿と斎宮寮という役所のあったところです。斎王は、天皇に代わって伊勢神宮に仕えるため、天皇の代替りごとに皇族女性の中から選ばれて、都から伊勢に派遣されました。
古くは、伊勢神宮起源伝承で知られる倭姫命など伝承的な斎王もいますが、その実態はよくわかっていません。
制度上最初の斎王は、天武天皇(670年頃)の娘・大来皇女で、制度が廃絶する後醍醐天皇の時代(1330年頃)まで約660年間続き、その間記録には60人余りの斎王の名が残されています』
そんな、うら若い未婚の皇女が斎王となって遠く都を離れ伊勢の地へ下り、天皇が変わるまで斎宮で過ごすのだから、大変だ。
斎王の仕事は年に三度、六月と十二月の月次祭、それに九月の神嘗祭に外宮と内宮に出向き、天皇の名代で式典に出席するだけだ。なかなか毎日が過ぎて行かなかったと思う。都から歌人を呼んで歌会をするなどもあったらしいが、さてどんな毎日だったのか。
伊勢物語(平安初期の歌物語)に斎王のはかない恋が綴られている。
伊勢物語に出てくる主人公は、「昔 男ありけり」の書き出しで有名な、ある男だ。男の名前は出てこないが、在原業平だと言われている。その時の斎王は、恬子内親王で清和天皇の即位時に斎王に卜定された。
少しこの二人を解説すると、在原業平は平城天皇の孫(母方でも桓武天皇の孫)にあたり、世が世なら天皇になれた天皇家嫡流の出自だ。政変があったので臣籍に下り、在原の姓を名乗った。美男の代名詞になるほどの男前だった。多くの歌を詠み六歌仙のひとりだ。
恬子は、文徳天皇の内親王で、腹違いの弟が清和天皇として即位した時に第三十一代の斎王として伊勢に赴いた。生年が分からないが、斎宮に群行した時は十四才程度の若さだったと思われる。恬子は約十五年間を伊勢の斎宮で過ごした。
ふたりの年齢差は二十三才くらい。このはかない恋物語の頃は、恬子十六才、業平三十九才、神に仕える身である斎王が妻ある美男と交わしたはかない恋だ。
伊勢物語を参照しつつ、斎王恬子の心境を現代風に綴ってみたい。
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<1>
「もうぅ、退屈だし…」
「では、貝合わせでもいたしましょうか」
「貝は全部覚えちゃったわ。そうだ!浜へ行って新しい貝を採って来る?」
「でも、先日も浜へ行きましたでしょう。お供の方々のお仕度も必要ですし…」
「もう、いいわよ。お庭でも歩きましょ」
恬子姫皇女は、斎王として斎宮に来て三年が過ぎようとしていた。最初の二年は、斎王としての緊張感もあり、また見知らぬ伊勢の地ということもあり、楽しく過ごせたのだ。しかし、三年目に入り持ち前のやんちゃ姫の性格が現れだした。
頭脳はきわめて聡明、どんな知的な遊びも官女たちでは手におえない。歌も巧みに詠み、度々歌会を開いても、誰も恬子姫皇女をうならせる連歌を詠めない。
そんな恬子姫は、どうして私が、都から遠く離れたこんな斎宮へ来ることになったのだろうと、常にそう思っていた。
「姫皇女様、お母上様、三条町様からお文が届きました」
官女の声に、庭へ出ようとしていた恬子の目が輝いた。
踵を返すと、恬子は裾を踏まないように注意しつつも、小走りで声の方へ向かった。
文箱を開けるのももどかしく、さっそく懐かしい母の文を手に読みだしたのだ。
「あら素敵!」
「どうされました?」
「都から勅命で狩りの使いのご一行が、この地におみえになるみたい」
どうやら、恬子は勅使が来るのを大変と思っていない顔つきだ。これで退屈な日々から少しは解放されると、明らかに顔に出ている。にやにやしている。
「それはそれは、ご準備を整えなければいけません。大変なことですわ」
官女は本当に大変そうな顔をした。
恬子は、更に嬉しそうな顔になって、
「ほらっ、お母様も、よくいたわれと書かれてますよ」
「三条町様がわざわざ姫皇女様にお文をしたためられたのですから、大事な勅使様なのでしょう」、「それは、…大変だわ!粗相のないようにしないと」と、官女たちは口々に言い、本当に困った顔をした。勅命で来られる方々を迎えるのは、それなりの待遇をせねばならず、官人や官女にとっては頭の痛い大問題なのだ。
「狩りのお使いの方は、わたくしの従姉妹のご主人様のようだわ」
文を読みながらぽつりと恬子がそう言った。
それを聞いて官女のひとりが驚いたように、
「えっ! と言われますと…、近衛権少将様ですか」
「うん、身内だからよくいたわるようにって…」
別の官女も、驚いたように、顔を赤らめて、
「あのぉ、そのお方は在原の少将様…、まぁ、業平様!」
と、ざわめくのだ。
その一報に集まった官女たちは、狩りのご一行をどのようにもてなそうか、大騒ぎになった。あの美男で評判の業平が、斎宮にやってくる。官女たちは、ひと目でも近くで会いたいし、言葉でも交わせるならと大喜びだ。
しかし、恬子は、なぜ官女たちがそんなに嬉しそうなのか、とんと想像ができなかった。
恬子は、みんなを見渡しながらひとりつぶやいた。
「近衛権少将 在原業平様って、たいそうな人気者だわね…
ふうぅん、わたし…、そんなお方、知らないし…」
<2>
時代は、藤原良房が天皇の外戚として、朝廷の実権を掌握する野望を、着々と実行している時だ。これまでも良房の横暴ぶりは目に余るものがあった。しかし、先の文徳天皇の叔父であり今上清和天皇の外祖父である良房に立ち向かえる者はいない。
十二年前の承和の変で、無理矢理に当時の皇太子 恒貞親王を廃し、自分の妹が生んだ親王に皇太子を移行させた良房である。後に、人臣初代の摂政にまで上り詰める良房なのだ。これを止めようとする勢力の多くが排除されてゆく時代であった。
在原業平の父である阿保親王も十二年前の承和の変に深く関わっていた。藤原良房の権力を恐れ、一族の危険を感じた阿保親王は、息子たちを臣籍に下らせ、在原の姓を名乗らせた。こうして朝廷の中枢から下りた阿保親王だったが、桓武天皇直系の血筋を、周りの貴族は放っておかなかった。
業平は、父が承和の変にどのように関わったのか詳しくは知らないが、その政変直後に阿保親王が急死したのだ。
勅命で狩りの使いとして斎宮を訪れようとしていた業平は都にあって左近衛権少将であった。位は従五位上であるが、十三年間も昇進がなく不遇の時を過ごしていた。そう、十二年前に父が亡くなってからずっと位は上がらなかった。
そのことに不満を持っている訳ではないが、良房になびく朝廷や貴族たちに嫌気が差している。
「惟喬様はご在宅ですか」
業平は、大炊御門烏丸にある惟喬親王邸を訪ねた。
惟喬は、一旦は皇太子となるも、異母弟の今上天皇(清和天皇)に皇位を譲った形となっている。もちろん藤原良房の策略だ。この時、惟喬は二十歳、きりりっとした目の好感のもてる青年だ。
「おお業平か。少し見なかったが」
「山崎の方に狩りに出かけておりました。親王様にはご健勝で…」
「親王はやめてくれ。そんな気持ちにもなれん」
「惟喬様、近頃大納言様とよく会われているようですが…」
業平は心配そうな顔で尋ねた。
大納言とは、その年に大納言に任ぜられた正三位 伴善男だ。この伴大納言の評判は良くない。狡猾で情けのない性格だが、政務には明るく弁舌は巧みだ。天皇を除けば朝廷で藤原良房に次ぐ第二の地位だ。
「大納言は、何かと気を使ってくれる。
先日も、右大臣を連れて我が邸に遊びに来たぞ」
業平は、今の惟喬は貴族の権力争いに巻き込まれる危険性が大きい、と感じていた。正統な血筋であればあるほど、利用されやすい。かつての自分がそうであったように、若い時期には自分の不遇さをどこかに発散させたいものだ。
業平は、惟喬の前に座り直すと真直ぐに目を合わせ、さとすように話した。
「惟喬様! あなたは若い頃から亡き文徳天皇のご寵愛を受けご聡明にお育ちになりました」
「…」
「我々人臣は皆、惟喬親王様が即位されるものと喜んでおりました。しかし、世の移り変わりは激しく、現時点でこの状況を打破する事は困難です。中には自分の出世しか考えない輩が多くおります。彼らは、その目的のためには他を利用する事を考えます」
「…」
「今の惟喬様は、最も危ない立場です。人臣の多くもあなたを慕っております。権力を手に入れようとする人への妬みが、すべてあなたの御身に集まってきます。そういう時期だからこそ、あなたを利用する輩には都合のよい時なのです」
惟喬は、兄とも慕う業平の言葉を黙って聞いていた。
「あなたは聡明なお方です。周りをよぉく見渡してください。誰が何を考えているか、冷静になれば見えてきます。なぜ伴大納言があなたに近づくのか。まさか、あなたを即位させようと腐心しているとは思えません。右大臣はりっぱな方ですが、あなたに会いに来る目的は何でしょう」
惟喬は、業平の真剣な形相に言葉を失っていた。しかし、よく考えれば話の内容は合点もゆく。話を続ける業平に手で合図をし、惟喬は言った。
「業平、分かった。もうよい。わたしとて即位する気持ちなどはもうない」
話をさえぎったが、業平がわたしの事を心配してくれていると惟喬には痛いほど分かったのだ。
「分って頂ければ幸いです。また、歌会でもやりましょう。それが生きる術です」
「そうだな。それは楽しみだ」
「ところでお母上様は、ご機嫌うるわしゅうございますか」
「ここしばらくは会っていないが…」
「じつは勅命がありまして、伊勢を回って東国に狩りに出かけます」
「ほおぉ、それはまた遠路だな」
「はい、きっとわたしが都に居ては困る御仁がおるのでしょう。昨今は増々、きな臭い話ばかりですから…。旅立つ前に、お母上静子様にもお会いしてゆきます」
「それは喜ぶだろう。そうだ、伊勢に行くのなら我が妹の斎王にも会うか」
「その予定です。斎宮でしばらく泊まることになりましょう」
「ふぅーん。恬子姫にも知らせてやらねば…」
「いやいや、すでにお母上様から文を出されたようです。しかし、わたしは恬子姫皇女様にお会いしたのは、斎宮に群行されるずっと前の事でした。可愛い姫皇女様でしたが…」
「はははっ、可愛い?恬子は…、今は十六歳かな、負けん気が強くて困るぞ。気を付けろ、業平」
ふたりの話はその後も続いた。惟喬を心配する業平は帰り際に再度念をおした。
「惟喬様、わたしの居ぬ間はくれぐれも気を付けてください。冷静に考えれば軽はずみな事はされないと思いますが、何かあれば兄の行平にお申し付けください」
「業平、心配してくれているのはよう分かった。わたしも、お前のようにゆるゆると暮らす事にする」
「お前のように、とは心外ですなあ。はははは」
すでに、大炊御門大路は暗くなっていた。
<3>
「姫皇女様」
恬子が最も身近に置いている童女が呼びかけた。
「どうかしましたか」
「もうすぐ、狩りの人がおみえになりますね」
「そうね。みんなが急いで準備をしてくれました」
「みんなは、おみえになるのが待ち遠しいと言ってます」
「狩りの人は、官女たちの人気者ですからねぇ」
「どうして?」
素直に聞かれて恬子は困った。
恬子は、官女たちがそわそわするのを見るにつけ、狩りの人たちが来る事に徐々に興ざめしていった。確かに、母上からの文が届いてから、いろいろと準備を整える必要があり、日々の退屈からは逃れられた。でも、なんでわたし以上にみんなが騒ぐのだ。
「そりゃあ、都のりっぱな方ですから…」
「でも、姫皇女様は、あまり嬉しくなさそうです」
「都のお話も聞けるし、嬉しいですよ」
「姫皇女様の身内の方って聞きましたけど…」
「そう。でも、よく知らない方です。わたしが小さい時に会ったくらいかな。お兄様は親しくしているようだけど…」
「都は、…行ってみたいな」
童女の言葉に、恬子は心の中で、「やはり都に帰りたい、お母様や兄にも会いたい」とつぶやいた。
狩りの使いの一行が、斎宮に到着する日になった。当時、京の都から斎宮まで約三日の日程だ。業平は、総勢十二名の狩りの一行を率いて昼前に斎宮に入った。途中で二名を次の訪問地である尾張へ向かわせていた。斎宮では軽く昼食を取り、明日の狩りのために、供の半数に斎宮を出て狩場の視察を命じた。業平は斎宮で休息を取った。
「左近衛権少将様、夕餉の支度が整いました」
可愛い童女の声が、業平のうたた寝を起こした。
「斎王様も同席されます」
「そうか。では、支度を致そう」
官女数名が業平の支度を手伝った。斎王に会うのだから、正装をする必要があった。業平は、官女たちの念入りのお世話に、恬子姫皇女の行き届いた躾を感じた。
業平を見る童女の目が少し潤んでいるのに気付いたが、そのまま案内された部屋に通ると、すでに供の者たちも集まっていた。
「斎王のお出ましでございます」
童女が言う方を見ると、十二単に身を包んだ恬子が現れて着席した。業平は、その前に進み挨拶を述べた。
「斎王様にはご機嫌うるわしく、また、この度は我々一行のためにご厄介をおかけ致します。帝から斎王様に、くれぐれも御身体をご健勝にとのお言葉を賜って参りました」
「この斎宮を御身の邸と思い、ご存分にお過ごしください」
「ありがとうございます」
挨拶が終わると、業平は童女に導かれ自席に戻って、宴を楽しんだ。
ふと、気が付くと恬子姫皇女は、すでに退席をしていた。
さすがに斎王として神事をこなすだけあって、堂々とした態度で凛とした返答だったなと業平は感心した。業平が知っていた幼い恬子姫皇女からすっかり成長した姿を見て驚いたのだ。
兄の惟喬親王に目元がよく似ており、先の文徳天皇が寵愛した貴婦人の母静子の血を受け継いで、恬子は清々しい美人になっていた。挨拶が終わり業平が自席に戻る時に見せた恬子の笑顔は、業平をドキッとさせるに充分な魅力があった。
惟喬が言っていた「負けん気が強くて困るぞ」という印象はまったくなかったのだ。
<4>
次の朝は狩りに出るため夜が明ける前から支度を整えた。官女たちがなにかと手伝ってくれる。業平が履物を付けようとすると、別の官女が手際よく手伝ってくれた。
「姫皇女様、私どもがやりますから…」
官女たちが、その女に言っている。姫皇女…?
「いいえ、大丈夫ですよ」
と顔を上げほほ笑んだ女を見て、業平は驚いた。恬子ではないか。
「業平様、お気をつけて行ってらっしゃいませ」
「ああ、…」
官女たちと同じ姿でてきぱきと動く恬子を見て、業平は言葉が出なかった。昨夜の恬子とは、また違う姫皇女がそこにいた。
普通、斎王がこんな事はしない。しかし、負けん気が強く活発な女性の恬子だからこその姿だろう。お忍びでのお出ましだったのだ。
「ここから東に行くと、土師器を焼いている水池という所があります。そこを過ぎて南へ下ってください。狩りには最高の野山が広がっていますから」
「はあ、…」
「ささっ、お供の方々がお待ちですよ」と、恬子は明るくほほ笑んだ。
促されて騎乗の人となった業平を、見えなくなるまで見送っている恬子だ。勅命で狩りをする一行に狩場の案内までするとは、何て変わった斎王だ。きっと恬子も斎宮に閉じこもっていないで、活発に外を出歩いているのだろう。
業平は、「わたくしもお供したい」と、見送ってくれた恬子は言いたかったに違いないと思った。なるほど、男勝りの姫皇女だ。斎宮の中では、みんな恬子姫皇女に手を焼いているのだろうと容易に想像できる。
しかし、そんな恬子に、業平は何となく心惹かれていくのを感じた。吸い込まれるような笑顔だった。
狩りに出る業平を見送った恬子だが、この胸の締め付けられる思いは何かしらと感じていた。退屈しないように準備に気を入れ過ぎたせいかなと思ってみたが、業平の顔、立ち振る舞いがすぐに目に浮かぶ。都の話や兄、惟喬の様子など、もっと聞きたいけど、その時間がないからだろうか。
足元に金水引の花が咲いている。じぃっと可憐な花を見ていると、この花の種のように業平様にくっついて狩りに連れていってほしかった、と思うのだ。
「ふぅ~、…」
「姫皇女様、どうかされましたか」
童女が心配そうに顔を覗き込んだ。
「今日はため息ばかりですよ。やはり、退屈ですか」
「いえいえ、すこし疲れましたね」
「では、お休みなさいませ。狩りの方々は、まだまだ戻られませんから」
<5>
業平は狩りをしつつ、近郷の村々を視察し回った。
しかし、恬子内親王の今朝の明るさはどうだ。けがれを知らない純粋の明るさではないか。都にいては決してできない非常識な行動も、あの姫皇女だからこそ自然に見えてくる。本来の明るさと、神宮の神に仕える厳かな顔と、両方を見事に使い分けている。神聖な斎王としての任務の中に、その明るさや活発さを閉じ込めて健気に暮らしているのだろう。そう思うと、愛おしいと感じる。
惟喬様の妹だが、業平にはそれ以上の存在として心の中で膨らんでいった。
夕刻になり狩りの一行が斎宮に戻った。かなり遠くを駆けたようだ。
「姫皇女様、狩りの方がお戻りになりました」
「そう、ではお迎えに…」
「姫皇女様、いけません。お出迎えは官女たちがいます。今朝のようなお振る舞いが、寮の頭(長官)に知れたら大変です」
「でも、…」
「夕餉はご一緒なさればいいですから。お仕度が整うまでお待ちください」
なんでも相談し、なんでも聞いてくれる童女だが、今朝の恬子の振る舞いには童女も驚いたのだ。恬子も少しは反省しなければいけないか、と思った。この童女が一番わたしの事を心配してくれているのだ。
「分かりました。そうします」
恬子は素直に答えた。
夕餉の支度が整うのを待つのが長かった。もうすっかり陽は落ちた。立待ち月は、まだ登ってこない。
「姫皇女様、お仕度が整いました」
やっと、童女が知らせてくれた。
部屋に入ると、狩りの一行と官女たちが楽しげに談笑している。
「斎王様もお出ましですから、さあ戴きましょう」
業平の言葉で、夕餉が始まった。狩りの一行は、世話をする官女たちと狩場での様子などを口々に話している。業平は、官女たちの話に口数少なく受け答えをしていた。都の話、色々な土地での狩りの話、斎宮での暮らしぶりなどが狩りの一行と官女の間で続いていた。
しかし、恬子も業平も、そんな話には気が入らない。夕餉が終わろうとする頃、業平は恬子の前に移動して言葉を交わした。
「斎王様、…いえ、恬子姫皇女様。都では、お兄様の惟喬親王様と親しくさせてもらっております」
「兄とは、何をなさっていますか」
恬子の瞳が、やっと輝きだした。
「時々、一緒に歌などを詠んだりしております」
「そうですか。それは楽しそう」
「…」
目と目が合い、ふたりは見つめ合ったまま言葉が出ない。ややあって、小声で業平が言う。
「今宵、ぜひお会いしたい」
「…」
恬子は、業平の言葉を理解できないでいた。怪訝そうな恬子の表情を見ながら、業平はにっこりとほほ笑んだ。
「では、楽しい夕餉でした。明日の朝も早いゆえ、このあたりで休ませてもらいましょう」
業平は、みんなの方に向かって言った。
恬子は、「今宵、会いたい」と言った業平の言葉を頭の中で繰り返していた。
この時代では、男と女が二人きりで「会う」という事は、「契る」事であり、結婚する事なのだ。斎王はその夜、気持ちが混乱していた。
「えっ、どういう事よっ!」
「なにを考えているのかしら、わたしは」
「業平様は、都の母や兄のお話を聞かせてくれるだけだよね」
「ええぇ…?今宵、会いたいってぇ?」
「わたし、斎王だわよ。神に仕える身なのよっ!」
「なにこれ?この胸の騒ぎは…」
「従姉妹のご主人様だし…」
恬子は、高鳴る動悸を感じながら、外へ出た。月が東の空高く輝いている。たなびく雲が月を少し隠したりしているのを眺めながら、恬子の頭の中で業平の言葉がくるくると回っている。
しばらく月を眺めていると、妙に気持ちが落ち着いてきた。きっと都での母や兄のお話をしてくれるんだ、と思えてきた。そういえば、ふたりは二言三言しか言葉を交わしていない。惟喬兄さんと親しくしているのだから、兄さんの言葉も伝えようと思われているに違いない。
「そうだわ。きっと…、そう」
「業平様だって、わたしが汚れてはいけない斎王だって知っているのだし」
そのように気が静まると、今度は顔がぽっと赤くほてるのを感じた。
「わたしって、何を考えてるのだろう!」
後ろから童女の声がした。
「姫皇女様、何をなさっているのですっ。もう、こんな夜更けですよ」
恬子は、館に戻りながら言った。
「ほら、月がきれいでしょう」
「…」
童女は、首をかしげながら月を見た。
「今、何時かしら」
「子一(夜十一時)頃でしょう」
「もう、みんな寝たかしら」
「ええ、起きているのはわたしたちだけですよ」
「業平様に会いに行こうと思うの。隣の館でしたよね」
「えっ!…」
童女の驚いた顔といったらなかった。天地がひっくり返ったような驚きようだ。姫皇女様は何を、突然言い出すのだろう。
「あのぉ、姫皇女様、…」
「夕餉の終わりにね。業平様が、今宵会おうって言ってたの。きっと、都の母や兄の話をしたいのだと思うわ」
童女は、姫皇女の言うことを、まだ正確に理解できていない。
「そういえばね、業平様と兄は気が合うので、時々会って歌など詠んでるみたい」
「…」
「わたしも、ぜひ都の話を聞きたいわ。今から会いに行こう…」
「姫皇女様っ!」
童女は、きつく恬子の言葉を遮った。
「姫皇女様、情けないお言葉です。姫皇女様は、帝のご名代として天照大神様にお仕えする身です。斎王としてりっぱにお勤めをなさる姫皇女様に、わたくしは三年間お仕えしてまいりました。姫皇女様の毎日のやんちゃなお振る舞いに、わたくしも驚く事ばかりでした。でも、でも、このような時刻に男に会いに行くとは、斎王様としてはあまりにも無茶なお話です」
童女といっても、恬子と歳はそう違わない。だから日ごろから恬子の話し相手であり相談相手だ。お互いに気持ちはよく分かっているふたりだ。しかし、そんな童女にしても、こんな話はないだろう、と思うのだ。あまりにも無鉄砲すぎる。
「わたしは、ただ都の話を聞きたいだけです。母の話、兄の話を…」
「ただ、…会いに行きたいのです」
恬子は、悲しさを浮かべて静かに言った。目の奥には涙が隠れていた。
何の前触れもなく卜定で斎王に選ばれ、都から遠く離れた斎宮に閉じ込められている姫皇女を、童女は哀れで仕方がなかった。だから、この姫皇女のためにわたしは何でも協力するのだと、いつも思っていた。
本来なら、斎王は伊勢神宮への神事以外は斎宮を出てはいけない。けれど、恬子が浜へ行きたい、野山へ行きたい、と言うたびに官女たちを説得し、協力してきた。だれにも内緒で、ふたり斎宮を抜け出したことも、何度となくある。
この時、童女には、都の話を聞きたいという恬子の言葉の裏に、業平に寄せる思いが隠されていると気が付いた。おそらく、恬子本人もそのことにはうすうす気が付いているはずだ。そしてその事が、どんな結末になるかもわかっているはずだ。それでも、やはり会いたいと、この姫皇女は言うのだ。
童女は、じっと恬子の顔を見た。
<6>
業平は、眠れないでいた。夕餉の終わりに挨拶をした時、あまりにも恬子の目が輝いているのを感じ、「今夜、会おう」と言ってしまった。
恬子が業平を好ましく思っている事は、その目を見て分かった。業平は、後悔していた。神に仕える斎王に言うべき言葉ではなかった。しかし、恬子への気持ちも本物だ。業平は、おそらく恬子は来ないだろうと思いつつ、深いため息をついた。これで恬子に嫌われてしまった…と。
その時、庭先でかすかに音がした。目を凝らすと、おぼろ月にぼんやりと照らされるふたつの影が見えた。近づく影、前を来るのは、見覚えのある童女だ。
恬子姫皇女に付いている童女だ。ようやく顔が分かる所で止まると、童女は業平に軽く頭を下げた。後ろをついて来たもうひとりは、童女の横をゆっくりとこちらに進んで来る。近づきながら伏せていた顔を上げた。
業平は、心で叫んだ。
「恬子だ! ……来たのか!」
恬子の視線は、業平の目を真直ぐに射抜いている。座敷縁の手前一間ほどのところで、恬子は歩を止めた。
先ほどより棚引く雲が増えたのか、月明かりがやや薄くなった。しかし、恬子の顔の表情をうつすには充分な明るさだ。恬子の顔は、月明かりにすっきりとした口元を浮かべながら、青白く無表情だ。目は、やや細めがちに、しかし業平の目線に合わせていた。
業平は、言葉にもならない声を発して、縁を駆け下りると恬子の手を取った。促すように手を引いて館の中へ入った。
童女は、ふたりが月明かりの中でしっかりと見つめ合い、そして館の中へ消えて行くのを、ただ無表情に見ていた。
「これで、……よかったのかしら」
「とんでもない事を、したのかしら」
これまでも、恬子とふたりで秘密の行動をしてきた。しかし、斎宮をふたりで抜け出し野山や浜で遊ぶのとは、今回はわけが違う。童女は、そんな事を考えながら、しばらくその場を離れられなかった。
童女は、業平には確かに魅力的な気配があると感じていた。歌を巧みに詠み、行動力もあり、何より姿や立ち振る舞いが洗練されている。恬子ならずとも、わたしも心惹かれるわ、と感じていた。
恬子に対して、少しばかりの嫉妬も感じた。とんでもない事をしたという思いの中に、自分の嫉妬心も見え隠れするのを断ち切るように、童女は踵を返した。恬子とは、一刻(二時間)の後に迎えに来ると約束をしていた。
丑二(深夜一時半頃)の約束の時刻になった。月が南中にあり、明るい。風はないが、雲がゆったりと月を横切っている。童女は、業平の寝所がある館の庭先で、恬子を待った。寝所に灯りはない。静かだ。庭の隅にある石に腰をおろした。
『きみにより思ひならひぬ世の中の 人はこれをや恋といふらむ』
<あなたのおかげで知ることになりました。
世の中の人はこれを恋というのでしょうか>
という歌を思い出していた。これは業平の歌だと聞いている。
童女は、ため息を噛みこらえた。
丑三(深夜二時頃)になった。御簾の音がした。
恬子が姿を見せると、庭に下りてきた。童女を見つけると、安堵した表情で、「もどりましょう」と言う。
童女は、恬子を先導して斎王の館まで戻った。恬子は、何も言わず寝所に入ってしまった。また、童女はひとりになった。斎王の寝所の隣の控えの間で、童女は再び、深くため息をついた。
業平は寝所で、最初は、恬子の兄 惟喬親王や 母静子や、それに都での様子などを、時間をかけて話した。恬子は、ただ聞いているだけだった。
一辰刻(二時間)をふたりで過ごしたが、恬子は一言も声を出さなかった。恬子がひどく緊張している事は感じたが、業平にとってこのような逢瀬は初めてだ。
業平には、恬子の気持ちが見えなくなってきた。
「やはり、会ってはいけなかったのか」
「しかし、あの眼は真剣だった」
業平は、会う前よりも深く悩んでしまった。
「わたしのことを、どう思ったのだろう」
「会うべきではなかった? そうなのだろうか」
そうこうする間に、夜が明け始めてきた。業平は、こちらから文や人をやって聞くわけにもゆかず、ますます気持ちが沈んでしまった。
<7>
夜が明けた。童女は一睡もしていない。何故か心が高ぶってしまったのだ。恬子の呼ぶ声に我に戻った。恬子は、童女に文を渡すと、「彼の人に届けてください」と言う。今日も狩りに出るはずなので、そんなに時がない。童女は、急ぎ文を届けた。
業平に文を届けると、業平は大喜びでその場で文を広げて読んだ。そこには、歌が一首詠まれていた。
『君や来し我や行きけむ思ほえず 夢か現か寝てか覚めてか』
<あなたが来たのでしょうか、わたしが行ったのでしょうか、覚えていません。
夢だったのか本当だったのか、眠っていたのか起きていたのか>
業平は、「これは、…!」と思わずうなった。
恬子姫皇女は、頭脳明晰で歌も秀でていると聞いていたが、これほどまでの詠み手とは思っていなかった。
しかも、業平の歌の特徴を見事に踏襲しているではないか。
わたしの歌を多く知っているのか?
この歌には、昨夜の恬子の心境を余すことなく表現されている。業平は、恬子はわたしの事を悪く思っていない、そして、暗に返歌を望んでいると思った。
業平は、返歌を書くとそれを童女に託して、狩りに出た。
返された業平の歌に、恬子は思わず微笑んだ。
『かきくらす心の闇にまどひにき 夢うつつとはこよい定めよ』
<心の闇に迷ってしまい何も見えなくなりました。
夢か現実かは今夜はっきりさせてください>
業平は、狩りに出たのはいいが、恬子の事が頭から離れない。恬子の行動は、これまでの業平の経験からずいぶんと外れている。
なぜ、押し黙っていたのだろう。その後で、なぜあんな歌を寄こしたのだろう。どんな気持ちで今はいるのだろう。今夜も会おうと歌を返したが、会いに来るのだろうか。
頭の中は狩りどころではない。恬子が会いに来るなら、みんなを早く寝静まらせて待たねばなるまい。ほとほと頭の中は狩りどころではない。
昼を過ぎた頃、斎宮の長官の使いが業平を追いかけてやってきた。
「近衛権少将様、伊勢の国の国守が今宵は酒宴を催したいと申しております」
「今宵は、…」
「斎宮の長官でもありますので、ぜひともとお越しください」
勅命を受けて来ている業平なので、伊勢国司からの誘いは断るわけにはゆかない。しぶしぶ、宴に赴くことにした。
その夜、酒宴は斎宮寮内で催された。伊勢国司の都での活躍ぶりや、伊勢国の政や、伊勢国での暮らしぶりなどを延々と聞かされた。業平よりかなり年上だが、位は業平と同じだ。
話の好きな男だ。そろそろ宴も終わりにしようと業平が誘い水を出すのだが、この斎宮頭は一向に話を終わろうとしない。都からの使いだから、気に入ってもらい、何とか早く都に戻れるように朝廷に助言をしてもらいたいのだろう。ああ~ぁ、これは夜通しの酒宴になりそうだ。
ようやく酒宴が終わろうとする時になったが、もうすぐ夜が明けるではないか。業平は、酒宴が終わってもさっぱり酔っていない。ただただ、恬子に会えなかったのが悔やんでも悔やみ切れないでいた。夜が明ければ、斎宮を発たねばならない。仕方なく、出立の準備を始めた。
夜が明けた。出立の用意も整い、後ろ髪を引かれる思いで斎宮寮を出る時になった。その時、かの童女が業平に盃を差し出した。
「おお、そなたは、…」
業平が盃を手に取ると、盃に歌の上の句がしたためてあった。
『かち人の渡れど濡れぬえにしあれば…』
<徒歩で渡っても濡れないような浅い入り江でしたね…
それほど浅いご縁でしたね…>
業平は、その歌を読み、感じた。
「ああぁ、やはり恬子姫皇女は、宴が終わるのを待っていてくれたのか…」
しかし、この歌の様子では、もうすでに恬子にその気はなくなったのだなぁと悟った。それでも業平は、側にあった松明の、すでに火の消えている消し炭で、盃に下の句を書いた。
『…又あふ坂の関はこえなむ』
<…また、逢坂の関を越えて来るつもりです
…また、きっと会いに来ますよ>
業平には、これが精一杯の言い訳だった。
童女に、その盃を返すと尾張の国へ旅立つ事にした。
<8>
童女は、業平が後の句を書き足した盃を、恬子に手渡した。恬子は、業平の後の句をちらっと見ると、フフフッと笑った。
「あなたも読みましたか? 業平様らしからぬ後の句ですね、これは」
恬子は、業平ならもっと気の利いた句を付けてくれるものだと期待していた。平凡な言葉しか出てこなかったのね。随分と慌てていらっしゃる、と恬子は考えた。そして、もう一度、フフフッと笑った。
「そうだ! 業平様を大淀の浜までお見送りしてきて。斎宮寮の役人もお見送りに行くでしょう。あなたも行ってらっしゃいな」
「えっ!」と、童女は驚いた。
「わたくしの代わりに、お願いするわ」
童女は、「はい!」と言うと、業平の一行を追いかけた。
恬子は、童女が業平に心を寄せている事に気が付いていた。わたしよりも優しさのある童女の方が業平様にはお似合いかも知れない、と思っていた。それを分かっていながら、度々無理な使いなどを頼んだ事を気にしていた。あ~あ、何て悪い女なんだろう。
恬子は、しかし、業平には感謝しなければとも思う。こんな退屈な生活に、一輪の花を与えてくれた。神に仕える斎王として、これからの長いお役目を全うできるかも知れない。いつ都に戻れるのかわからないけれど…、この地で生涯を過ごすことになっても、業平様との事はこの胸にしっかりと生きているはずだ。恬子は、清々しい気持ちで大淀の浜の方に目をやった。
業平は、情けない心持で大淀の渡しに着いた。恬子の笑顔が頭の中に残っている。浜には松の木が多く、強い風に小枝が揺れていた。見送りに来ている斎宮寮の役人が言うには、「今日は風が強いですね。船を出すのは難しいかもしれません」
「仕方がありません。風が止むのを待ちましょう」
業平は、こんな事ならもう少し長く斎宮にいて、ひと目でも恬子に会えばよかったと考えていた。
風は止む気配がない。見送りの役人たちは、今日船が出せない事もあり得るとして、狩りの一行が泊まる仮宿を準備した。
「近衛権少将様、では私どもはここでお別れいたします。もしものために、仮宿も準備しておきました。後は、船頭にお任せください」
そう言うと、斎宮寮へ戻って行った。
気落ちした業平は、見送りの人々の中に恬子付きの童女がいるのが目に入った。童女を呼び止めると、次のような歌を投げかけた。
『みるめかるかたやいづこぞ棹さして われに教へよあまの釣舟』
<海松が採れる入り江はどこですか、
棹で指し示して教えてください、海人の釣船さん>
<<わたしが会いたい(見たい)お方はどこにいますか、
その方角を指し示して連れて行ってください、使者の童女さん>>
「近衛権少将様、もう姫皇女様には会えませんよ」
童女は、業平に近づいて言った。
「あのお方は、神に仕える本来の斎王に戻られました。ぜひ、その胸の内をお察しください」
「恬子姫皇女は、まことに不思議なお方だ。よく判らないお方だ」
「近衛権少将様は、決してお判りになれないと思いますよ。とても明るくご聡明なお方ですが、斎王としての運命をご一身に背負られています。都にお戻りになられたら、三条町(恬子の母静子)様にも、姫皇女様がお元気で過ごされていたとお伝えください」
「えっ…、あなたは…?三条町様をご存知か」
「わたくしは、姫皇女様のお世話をし、心の支えになってやってほしいと、三条町様から内々に申し付けられました」
「では、あなたも都から群行で下られたのですか」
「いいえ、わたくしは、姫皇女様が伊勢に下られる一年前に斎宮に入り、伊勢の地や斎宮寮を学び、姫皇女様が群行されるのを待ちました。この事は三条町様だけしか知りません」
「そうだったのですか。あなたは三条町様の命で、この地へ…」
大淀の仮宿で、業平は童女と都の話などをして、船出を待った。しかし、夕刻になっても風はいっこうに収まらず、船は明日の朝になると船頭から聞かされた。
その夜、童女は恬子の許に戻らなかった。
恬子は、「あらあら、どうしたのかなぁ」と、茶目っ気な顔でほほ笑んでみた。
<完>