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四 破綻

 六畳間から、治賀の声が、集音マイクに拾われ無線機に届きつづける。

「麻里は、あの女は、僕にずっとお金をくれていたのに、もうくれないと・・・。いままでのことも、みんなに言うと・・・どうしてだよ?じゃあどうして初めから、だめっていわないんだよ。やさしいふりなんかして・・・・ぼくを騙したんだ・・・・・ひどいよ、ひどいよ・・・・。一晩中、あそこに閉じ込めた。携帯で何回も電話したんだ。でもだめだって。あいつのせいだ。・・・・しょうがないじゃないか・・・・・僕は、誰もだましていないのに・・・・こんなところでどうしてこんなにされなきゃいけない・・・・。」

 ゆっくりゆっくり、絞り出すような、治賀の声が、途切れ途切れに聞こえ、和泉の顔から次第に血の気が引いていく。

 車の中で、川西は目を伏せ、両手を硬く膝の上で握りしめ、無線機に耳を澄ましている。

 数秒後、吉田が、ふっと顔を上げた。

 まだ、無線機からは、河合に向かって話しかける治賀の独白が、永遠に続くかのように聞こえてきている。

 吉田の顔色が、急速に変わり、隣の川西のほうを向いた。

「川西さん」

 インカム越しでなく、直接川西に吉田が話しかけた。

「・・・どうされました?吉田さん?」

 ただならぬ雰囲気に、川西が驚いて吉田の顔を見る。

「川西さん、申し訳ありません。計画を、中止させてください。」

「え?」

 インカムに向かって、吉田が言葉を発した。

「酒井、和泉、聞こえてる?」

 二人から応答があった。

「確認だけど、部屋から脱出しようという動きは、まったくないわね?」

「ありません。ドアも、窓も、破ろうという試みはありません。壁や床をたたいたりする気配も。」

「・・・計画は中止する。酒井、部屋に入って、河合を救護しなさい。」

「ええっ!」

「脱出の試みが一切ないこと、治賀の今の話が始まってから河合の反応がないこと、これらを考えると・・・・」

「・・・・」

「おそらく、河合警護員は、自ら動くことができない程度の、重傷を負っている。」

「な・・・」

「そしてたぶん、もう意識がないはず。・・・・早く、急ぎなさい!」

 聞いたことのない剣幕で吉田が指示を出すのと同時に、酒井がアパートの外階段を三段飛ばしで駆け上がり、部屋のドアを手元の工具で一瞬で破った。

 吉田は大きく息をしながら、川西のほうを見た。

 川西は、数回、頷いた。


 破った部屋のドアを大きく開き、大型のライトを酒井が室内に向かって照らした。

 酒井の目に、室内の光景が明瞭に飛び込んできた。

 奥の鉄格子の取り付けられた窓に背をもたれるようにして、治賀がこちらを向いて両足を伸ばして座っている。

 そしてその手前に、向かって左側を頭、右側を足にして、こちらから見て横向きに、茂が畳の床の上にあおむけに横たわっていた。

 入口から見てもわかるほど、おびただしい血液が、畳に血の池をつくっていた。

 酒井が踏み込むより先に、彼を追い越して和泉が部屋に駆け込んだ。

「河合さん・・・・!」

 和泉が茂のすぐ脇まで走り寄り、自分の薄手のカーディガンを脱ぐと、手持ちのナイフで身頃の中央から横に裂き、身頃部分を折りたたんで傷口に押し当て、袖部分を使ってそれを茂の胴体へ圧迫しながら結びつけた。まだ血が止まっていない。

 酒井は、ドア脇の通信機能抑止装置のスイッチを切り、携帯電話を取り出したとき、後ろの気配に初めて気づいて振り返った。

 酒井の後ろに、肩で息をしながら葛城が立っていた。

 葛城の両目は、酒井の手元のライトが照らしている室内をまっすぐ見つめていた。

 道を開けた酒井の脇をすり抜け、室内へ葛城が入っていく。

 そして、茂のところまで来ると、座ったまま見上げる和泉がそこにいないかのように、両膝をついて上体をかがめ、両手で茂の両頬を包み込むようにして顔を覗き込んだ。

 右手がそのまま首に滑り降り、頸動脈に触れ脈を確認する。次に左耳を茂の口元に近づけ、呼吸があることを確認した。

 茂がゆっくりと目を開け、葛城を見た。

 唇が動き、なにか言おうとするのを、葛城が制する。

「しゃべらないで。」

 茂は目の前にいるのが葛城であることを確認するように、その顔をじっと見て、安心したような表情になる。

 しかしすぐに目を閉じ、沈むように再び意識を失った。

 葛城はそのまま、左腕を茂の背中に、右腕を両膝の裏に回し、茂を抱き上げ立ち上がった。入口のほうを向き直り、後ろのクライアントに向かって、「治賀さん、行きましょう。」と声をかけた。治賀が我に返ったように立ち上がり葛城につづいた。

 入口ドアまで来た葛城は、激しい怒りをあらわにした目で酒井を見て、そして立ち去った。



 深夜といえる時刻は過ぎつつあったが、まだ明け方は遠い暗がりの中、乏しい照明の下で、高原は窓際まで行き携帯電話をかけていた。

 三回だけコールし、出なければ切ろうと思っていた。

 三度目の呼び出し音のあと、相手が電話に出た。高原はむしろ少し焦りを感じながらも、言葉を出した。

「もしもし、夜分に申し訳ありません・・・・・。大森パトロール社の、高原です。」

「三村ですが。」

 英一の声は意外に眠そうではなかった。

「こんな時刻に恐れ入ります。」

「大丈夫です。明日の稽古までに仕上げる書類があって、徹夜していたところですから。」

「・・・今、市立××病院の待合室から電話しています。お知らせしたいことがあって。」

「はい。」

「河合警護員が、負傷し、病院に搬送されました。」

「えっ・・・・!」

「警護中の事故です。家族には既に連絡してありますが、三村さんにもと、思いました。・・・河合は、余計な心配をかけたくないと思うかもしれませんが、私があなただったら、知らせてほしいだろうと、思ったからです。」

「ありがとうございます。・・・河合の、容体は?」

「重症ですが、余程の急変がない限り、命に別状はないそうです。まもなく意識も戻るだろうとのことです。ただ、内臓に損傷があり、まだ危険はあるため、いずれにせよ当分の間入院です。病院の住所を申し上げます。」



 金曜日の午前、約束した時刻に、吉田と酒井は海沿いの街のタワーマンションの一室を訪ねていた。

 応接室で向き合った川西氏は、テーブルの前で頭を下げる二人に恐縮した様子で、椅子をすすめた。どんよりと曇った空と、同じ色に染まった海面が、境目をあいまいにして窓の外に漂って見えた。

「お詫びのしようもございません。契約解除の手続きと、お支払させていただきます慰謝料については、後日改めてご連絡をと存じますが、まずは謝罪の、ごあいさつに伺いました。」

「そのような・・・・。まあとにかく、おかけください。」

 吉田と酒井がソファの長椅子に腰を下ろすと、川西は隣室から用意していたコーヒーセットを持ち込み、三人分のコーヒーを淹れた。

「私は、コーヒーにはちょっとうるさいんです。どうぞ、召し上がってください。」

「ありがとうございます。」

 川西は、昨夜車の中でずっと隣にいた、そして今日は目の前に座っている、鼈甲色の縁のメガネをした静かな目の女性をじっと見た。昨日と今日とで、ほとんど別人のように見え、川西は内心驚いていた。

 コーヒーを飲みながら、川西が尋ねた。

「今回のような場合、契約解除の扱いになるのですか?」

「はい。計画の遂行途上で、わたくしどもの都合で、中止いたしました。この場合、”全部解除”になります。代金は全額お返しするとともに、ご迷惑をおかけした部分を賠償させていただくことになります。」

「そうですか・・・。」

 窓の外の灰色の空に少し目をやり、再び二人の客人のほうを向いて、川西は言葉をつづけた。

「私は、今日から、新しい人間として、生きられそうなんですよ。」

「・・・・」

「和泉さんが、昨夜、犯人に言ってくださった言葉、覚えておられますよね。・・・”麻里さんは、暗い部屋に長時間閉じ込められ、最後はその部屋から十四階下の地上へ転落させられ、全身を酷く傷つけられ、たくさんの血を流して、死にました。でも貴方は、数年間刑務所で福利厚生の充実した生活をし、またこうして、無事に生活している。”・・・。」

「はい。」

「あの言葉を、言ってくれる人が、この世にいた。それも、肉親でもなんでもない、赤の他人で。そのことが、どれだけ私を、救ってくださったか、お分かりでしょうか。」

「・・・・」

 川西の両目に、涙が浮かんでいた。

 うつむいて酒井は唾を飲み込み、そして隣の吉田の顔を見た。吉田は唇を噛んで、下を見ていた。

「そして・・・最後の、犯人の・・・治賀の言葉を聞いているうちに、なんというか、何かが吹っ切れたんです。そう、これは人間じゃなくて、鬼畜なんだな、と。妻は、鬼畜に、殺された。そういうことだと。」

「・・・・」

「もちろん私が犯人を許すことはないでしょう。しかし、相手が人じゃないとわかり、ある意味で、あきらめがついたんです。」

 吉田の唇に、さらに歯が食い込むように噛みしめられた。

「・・・ひとつだけ心残りなのは、・・・・関係のないあのボディガードさんに、ご迷惑をかけてしまったことですが・・・しかしあれは、あのボディガードさんの行動は誰にも予想できなかったわけです。」

「・・・・」

 ここまで言葉の出ない吉田は極めて珍しく、酒井はむしろそのことが不安になって上司の顔を見た。

 すると、ようやく吉田が口を開いた。

「あのボディガード・・・河合警護員ですが、幸い命に別状はないそうです。和泉が、彼の搬送された病院から情報を得ております。」

「それはよかった。」

「はい。」

 吉田と酒井を見送って一緒に玄関まで来た川西は、二人が玄関で一礼したあと、吉田に続いて酒井が廊下へと出て行こうとするのを、呼び止めた。

「あ、あの、酒井さん。」

「はい。」

 長身の男性エージェントが振り返る。

「私は、非常に感銘を受けています。」

「は・・・」

「あのとき、吉田さんが、迷わず計画中止を命じられたことです。」

「・・・・」

「たったあれだけの材料で、ボディガードさんの状況を理解した、その判断力はもちろんですが、それよりも・・・・なんというか・・・」

「必死でした・・・彼女。」

「そうです。私はよくわかりました。貴方がたが、人というものを、どう捉えて仕事されているか。」

 川西は、優しい表情で、酒井を見送った。



 街の中心部にある高層ビルの事務所に吉田と酒井が到着すると、もう和泉が戻ってきていた。

「お帰りなさい、吉田さん、酒井さん。」

「おお、お疲れさん、和泉。」

 酒井は和泉に答え、上着を席の背もたれにかけると、応接セットに座り背もたれに体を預けた。

「あ、コーヒーは今飲んできたから、紅茶にしてな。」

「はいはい。」

 和泉はパントリーで三人分の紅茶を準備する。

 吉田はいつもの地味なタイトスカートがよく似合う、きれいな足を組み、紅茶を運んできた和泉のほうを見た。

「お疲れ様だったわね。和泉。」

「吉田さん・・・」

 テーブルにティーカップを置くと、和泉は改めて吉田のほうを向き、一礼した。

「すみません、吉田さん、お客様にお詫びに行っていただくことになり・・・・・それに、契約も・・・・」

「貴女が気にすることじゃない。会社として、普通の対応だし、珍しいことでもないし。」

「・・・・・すみません・・・・。」

「仮眠はとったの?」

「はい。吉田さんは・・」

「この後、自宅でゆっくり寝るわ。酒井も、これ飲んだら今日は上がりなさい。」

「そうさせてもらいますわ。」

 紅茶を飲みながら、和泉は目と鼻の頭を赤くしている。

「元気出しなさい、と言っても、無理だろうけれど・・・・」

 吉田が声をかける。

「今回のケース、レビューは和泉、貴女が書きなさい。問題点を、残さず分析して、次の仕事に活かせるように。」

「はい、了解しました。」

 三十分後、まず和泉が、次に酒井が、事務所を後にした。吉田も事務所の明りを消しながら机を片づけていたから、すぐに帰宅するだろう。

 車で酒井は自分の自宅へ向かって高速道路を三十分ばかり走り、その後は一般道路を走り、一時間ほどで自宅のすぐ近くまで到着した。が、ふと思い立ち、車をUターンさせた。来た道を戻り、逆方向の高速に乗り直し、事務所へと戻る。

 事務所を出て二時間ほど後に戻ってきた酒井は、もちろん誰もいない室内を見て、自分で自分にあきれた。

「考えすぎやな。そやそや、何心配しとんのや、俺は。」

 しかし酒井は、自分が、懲りるということがあまりない性格であるということを、さらにその半日後に実感した。

 金曜夜の、渋滞しまくる道路をイライラしながら走り、自宅から二時間かけて再び酒井が高層ビルの事務所に到着したのは、もう日付が変わりかかった時刻だった。

 室内に入ると、誰もいない事務室にふさわしく、真っ暗だった。が、明りをつけるまえに、酒井は、奥のカンファレンスルームの扉からかすかな光が漏れていることに気が付いた。

 そのまま大股で事務室を突っ切って歩き、カンファレンスルームの扉を開ける。

「恭子さん、早く帰って寝ろって確か部下に言うてはったのに・・・」

 こちらに背を向けてテーブルに向かい、椅子に座って窓の外に目をやっていた吉田が、そのまま、少しだけ頭を上げた。

「なのに、ご自分がこんなことでは、いかがなもんですかな。」

 カンファレンスルームは、奥の壁が広いガラス窓になり、下界の街の光がよく見える。そして両脇の壁は天井まで書庫になっている。おびただしい数のファイルが整然と収納されている。

 吉田は入口の酒井のほうは見ず、ドアに背中を向けて座ったまま、そして反対側の窓の外に目をやったまま、低い声で答える。

「入るな。酒井。」

「・・・・」

 酒井は何も言わず、しばらくそこにいた。

 吉田も、長い間、黙って窓の外を見ていた。

 少しして、再び吉田の声が、酒井の耳に届いた。

「・・・我々は、よくよく考えて、この方は・・・と思える人を、お客様としている。」

「そうですな。」

「当然、お客様は、基本的に、良いかたばかり。何があっても、我々を責め立てるようなかたは、ほぼ、おられない。」

「そうですな。」

 頭を上げて、吉田は少し天を仰いだように見えた。

「だとすると・・・・誰がいったい、私たちを、責めてくれるのかしらね。」

 吉田の語尾が、かすかに震えたような気がした。酒井は、息をのんだ。

 さらに数分間も沈黙が続いたような気がした。

「恭子さん、今回の我々の仕事、間違うとったと、思てはりますんか?」

「間違い・・・・」

 吉田はまっすぐに窓の外を見たようだった。

「そうね、間違い。私が、いまさら・・・心底、怖くなったのは、間違うことというより、・・・・・誤りを犯しても、それを修正する人間がこの世のどこにもいないということね・・・。」

「・・・・そうですかな・・・」

「ごめん、恥ずかしいことだわ。」

「恭子さん、怖いって言いはりましたな。」

「・・・言った。」

「殺人事件をめぐる、人間の心の奥底っていうやつは、どんだけすごいか・・・・俺も、毎回、正直言ってびびりますわ。ほんまに、そうです。怖いのは、当たり前ちゃいますか。そんなものの前で、さらに間違いについて考えとったら、誰があの人たちのために仕事なんかできます?」

「私は、川西様を、はっきり今回、苦しめた。さらには、川西様を巻き込んで、新たな犯罪を生んだ。」

 酒井は沈黙した。吉田の言葉に、心の底から同意であると同時に、心底、不同意だった。

 さらに、とどめを刺すように吉田の言葉が続いた。

「人殺し、がつくる人間の心の暗闇に、踏み込む資格は、自分にはないと、思う。」

 上司の命令に背くことになろうと、たとえ殺されようと、今すぐ部屋に入っていきたいと酒井は思った。しかし、辛うじて踏みとどまった。

「恭子さん、この仕事、辞めるつもりですか・・・?」

「・・・・」

 酒井は喉がつまり、声がかすれるのを感じた。しかし勇気を奮い起こして、言葉を続ける。

「夕べ、あのアパートで、ケガした新人警護員さんを抱きかかえた葛城さん、すごい目で俺を睨んでいかはりました。それがどんな理由であろうと血を流した後輩警護員を、守ることは、迷うこともない先輩警護員の責務です。そして同時に、そんな彼らは・・・・・あのクライアントの警護することについて、正しいと思うてはりましたかね?、果たして。」 

「・・・・・」

「思うてなかったんとちゃうか、と、俺は想像してますよ。正確な表現やないかもしれまへんけどな。少なくとも、なんの確信もなかったんとちゃいますやろか。」

「・・・・・」

「それでも、やる。そういうことですやろ。」

 吉田が、机の上で、うつむいたままじっとしていた。

 酒井が、足を一歩、踏み出した。

「・・・・入るな、酒井。」

「入りませんよ。でも・・・ここで、待ってます。何時間でもね。」

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