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三 警護

 日曜日から始まった警護は、身構えていた茂にとっては意外なほど何事もなく進んだ。クライアントの交友関係は極めて狭く、仕事場と家の往復以外はなにもないと言ってよかった。初日の日曜日だけは市の外までの外出があったが、昼間の短い時間帯のことで、すぐに自宅まで同行し早い時刻に警護は終了した。翌週も同様だという。

 茂が平日昼間に仕事をしている会社での劣悪な労働条件に耐え、再び週末を迎えたとき、波多野部長から連絡があり警護期間が延長されたことを知った。

 土曜朝、大森パトロール社の事務所に顔を出した茂は、今日は英一がいないことにほっとしながら、事務員の池田さんが置いていってくれた朝食を食べた。

 しばらくして、高原が事務所に現れた。顔が明らかに眠そうである。

「おはようございます、高原さん。そういえば、夕べから徹夜の警護が入っておられたんですよね。」

「今の俺は、五秒でどこででも寝られるよ。襲撃するなら今だ。」

「なに言ってるんですか。仮眠室を池田さんが準備しておいてくれてるみたいですから、おやすみなさい。」

「池田さんはほんとに偉いよねー。三人のお子さんがいるのに、休みの日でも夜中でも、こまめに来て俺たちの面倒みてくれるんだもんな。」

「池田さんひとりで、なんかもうこの事務所の二十六人の警護員全員のお母さんみたいですよね。」

「ほんとほんと。警備員事務所のほうは、人数がもっと多いから事務員さんも複数いるけど、ここは池田さんひとりだもんな。」

 高原はしゃべりながら奥のロッカーの前で寝巻に着替えている。

「あ、警護員の人数は、正確には二十五人だ。この間ひとり辞めたからね。」

「そうなんですね。」

「俺や怜みたいなフルタイムと、お前みたいなパートタイムがいるけど、事務所にあまり立ち寄らない奴も多いから、なかなか顔を覚えられないだろう?」

「はい。たまに立ち寄られても、あんまり会話しない人が多いですね。」

「警護員は、ペアを組んでいる相手を除けば、基本的に個人業務だからね。時間も不規則だし・・。そういえば河合、お前社長に会ったのって、入社式のときだけか?」

「そうですね、そのときだけだったです。」

 寝巻に着替えたままの恰好で、高原は仮眠室ではなく茂のいる打ち合わせコーナーのほうへ来て、近くの椅子に座った。

「警護員は、長く勤める人間と、短期間で辞めていく人間との、両極端なんだけど、社長はその見極めがすごく正確で・・・・」

「はい。」

「ある程度の経験を積んで、それなりの存在になった奴・・・・そう、うちの会社で”ガーディアン”っていわれるようになった奴、と言ってもいいかな・・・・そういう奴らは、全員、入社してわりと早い時期に社長に、なにか言われてるんだよ。それぞれみんな、違うんだけど。」

「そうなんですね。」

「お前にもそのうち、声がかかるかもね。ジンクスに過ぎないかもしれないけどさ。」

 茂は、高原がこういう話をしてなにか時間を引き延ばしているような気がして、先輩警護員に勇気を出して訊ねてみた。

「高原さん・・・・俺に、なにかお尋ねになりたいことが、あるんでしょうか・・・・?もしかして」

「はははは」

 高原は知性と愛嬌の同居した目をメガネの奥でほころばせ、楽しそうに笑った。

「河合、お前、良い勘してるな。そこらへんは、怜に似てきたんじゃないか。」

「そうですか?」

「・・・・どうだ?初めての、”出所後警護”は。」

「すごく順調です。準備期間がほとんどなかったですが、クライアントの行動がとても限定的なので、助かってます。」

「そうだな。たぶん、この先も一か月間、なにも問題ないかもしれないね。」

「はい。」

「行動パターンが限られていて、こちらの予想を裏切らないクライアント。警護しやすい対象だ。」

「はい。」

「ただ、その警護期間が一か月以上の長期間になり・・・三か月、半年、というようになったときは、話は別だ。」

「・・・・?」

「襲撃の危険と確率は、等比級数的に上がっていくんだ。」

「・・・・実際にクライアントを狙う人間がいた場合は、ということですよね。」

「そうだ。」

「高原さんは、治賀さまを実際に被害者のご遺族が狙っていると思われるんですね?」

「それはもちろん、わからないよ。仮定でしか、話はできないからね。そしていつも最悪のことを考えるのが警護屋だからさ。・・・・河合。」

「はい。」

 打ち合わせコーナーの机に両肘をつき、高原は両手を顔の前で組んだ。メガネ越しに、笑みを絶やしたその両目が鋭さを露わにして茂の両目をとらえた。

「お前、最初の予定の一か月が終わったら、この警護を、降りろ。」

「・・・・?」

 ふたりのほかに誰もいない事務室に、沈黙が満ちる。

 高原は茂の、驚いた顔を見ながら、その答えを待つ。

「降りるって、途中で、仕事を断るということですか・・・?」

「そうじゃない。怜は手練れのガーディアンだ。あいつだけで、十分やれるだろう。」

「・・・・」

「たぶん、波多野さんも、そして怜も、同じことを考えているとは思うけどね。念のためだ。俺からも、言っておく。」

「高原さん・・・・。」

「必要なら、ほかのベテラン警護員をサブにつければいいだけのことだ。お前はまだ新人だ。難易度の高い”出所後警護”で、しかもああいうタイプのクライアントは、深入りするのは百年早い。」

 茂は透き通る琥珀色の両目で、先輩警護員の少し厳しい顔を長い間見つめていたが、ようやく口を開いた。

「高原さん・・・ありがとうございます・・・・俺、今まで、これまで・・・・」

「?」

「これまで、親にも、こんなに心配してもらったこと、ないです・・・。」

「・・・・」

「本当は、降りませんと頑張りたいです。でも、俺、素直におっしゃるとおりにします。身の程というものが、あると、思いますから。」

「よしよし。」

「あと残り三週間、葛城さんの足をひっぱらないように、がんばって勤めます。」

「くれぐれも、気をつけろよ。」

「はい。」




 翌週も月曜から毎日、茂はクライアントの仕事場から自宅までの帰宅時移動警護に従事した。波多野部長からも葛城からもまだ何の話もないが、茂は残り二週間少しとなった警護期間を有意義に過ごそうと、全身を目にしてクライアントの周辺に注意を払っている。期間が短いことで、より集中力が高まるということも、実感した。問題といえば、警護を終えて葛城と一緒に事務所に立ち寄ると、高い確率で英一が高原と談笑していることだけである。

 そして、クライアントの様子を毎日集中して観察していて、ほんの少しであるが、何かの違和感が茂の中に生まれ始めていた。それがなんなのか、自分でもよく分からない。葛城に相談しようにも、違和感の名前さえよくわからなかった。

 木曜日、もともと終業時間が遅いクライアントが、さらに残業があり、茂と葛城は夜十時を回ってクライアントとともにその自宅マンションに到着した。

 茂は引き続き、自分の感じている違和感の正体について考え続けている。

 クライアントと茂と葛城は、階段で三階に上がり、葛城がその場で鍵を借りて部屋のドアを開け、茂とクライアントは玄関で待機する。葛城がクライアントの部屋へ入り、窓、バルコニー、クロゼット、バスルーム、そしてあらゆる、人や物が隠れられる箇所をチェックし、不審人物や不審な様子がないか確認する。問題ないことを確かめた後、葛城と茂は廊下に出て鍵を返し、クライアントが部屋に入りドアをロックしたらその日の警護は終了となる。

 マンションの階段を下りながら、茂が難しい顔をしていることに葛城が気付き、声をかける。

「茂さん、どうかされましたか?」

「いえ・・・なんでもないです。」 

 マンションを出て、最寄りの私鉄駅で、すぐに到着した上り列車に乗り込んだとき、ふっと茂の頭によぎった考えがあった。茂は葛城に、今日は別の用があるので事務所には寄らない旨を伝え、次の乗り換え駅で降りた。

 茂はそのまま下り列車に乗り、もと来た道を行き、クライアントのマンションまで戻っていた。自分がどうしてこんなことをしているのか、よく分からなかった。

「あんまり集中してクライアントを観察しすぎて、俺は、おかしくなったのかもなあ・・・。」

 通りから見える、三階一番奥の角部屋が、クライアントの部屋だ。明りがつき、不穏な気配もない。もうすぐ、就寝することだろう。茂はしかしわけもなく胸騒ぎが収まらないので、もうこの際、部屋の明りが消えるまでここで見ていようと思った。マンションに帰ってくるほかの住人にみつからないよう、物陰に身を隠す。

 駅からさほど遠くないのに、低層住宅しかないこの辺りは静かな住宅街で、咳をするだけでそこらじゅうの家に響きそうだ。

 そのとき、マンションの一階入口から、一人の大柄な人間が出てきたのを見て、茂は目を疑った。

 クライアントの、治賀良太に間違いなかった。

「えっ・・・?」

 その瞬間、茂はここ数日毎日自分の中に溜まってきていた違和感の正体が、わかった気がした。マンションの自室に着いたとき、ほとんどの日、クライアントは家に帰ってきたという安堵感を、見せないのだ。それは、室内に不審人物が潜んでいるのではという不安から来るものだと思っていた。しかし、クライアントにとってこのマンションの自室が「ゴール」ではないのではという、そんな感じがしていたのだ。

 そう。ほとんど毎日、彼は、警護員と別れた後、別のところへ行っている。深夜から早朝まで。警護員に知らせずにこことそこの間を往復している。その事実が、茂の目の前で実際に彼に見せつけられていた。

 いざ見せつけられてみると、いったいどうしてそんなことを、と、激しい疑問が茂を襲うが、自問している時間はなかった。足早にマンションを離れるクライアントを、茂はみつからないように後を追う。携帯電話で葛城に連絡しようと思ったが、あまりに周囲が静かすぎて、話ができそうにない。もう少し先に行ってからメールを打とうと思いながら、茂は追跡を続けた。

 徒歩わずか五分程度のところで、治賀が足を止めたのは、二階建ての木造アパートの前だった。周囲を見回し、階段へ向かう。二階の部屋へ行くようだ。茂は階段の反対側へまわり、スリングロープを使って軽々と二階廊下奥の壁の裏まで登る。高原のようにマンションの三十階から降りるようなことはできないが、上り十五メートル、下り三十メートルくらいは、茂も訓練を受けている。

 茂は携帯電話を取り出し、葛城の番号を表示させ発信ボタンを押した。木造アパートの二階廊下は明りがついておらず真っ暗だ。茂は携帯電話を耳にあてながら、廊下奥の壁からそっと様子を見る。道路の街灯の明りで辛うじて、治賀が向こう側の階段を上がってきて、こちらへ歩いてくるのが見えた。茂はコールした携帯電話のスイッチを切り、頭を引っ込めて、耳を澄ます。ひとつ、ふたつ。何番目の部屋の前でクライアントが立ち止まったか、数える。

 クライアントが五つの部屋のうち真ん中の部屋の前で、鍵を取り出したとき、茂はアパートの階下に人の気配を感じた。その様子は、住人ではなかった。茂は反射的に廊下奥の壁を乗り越え、クライアントの後に続いて真っ暗なアパートの部屋へ、無理やり入り、自分の手でドアのロックをした。

 治賀が驚いてふりかえるが、暗くてなにも見えず、茂が慌てて名乗って初めて事態を理解した。



 木造アパートの裏手で、ヘッドフォンのインカムともう少し大型の無線機の両方を持ちながら、酒井が声を殺して苦笑していた。インカムから、メンバー全員へ、酒井の声が入る。

「あーあ・・・。一緒に入ってもうたで。これは今日はちょっと、無理やなあ。」

 インカムから和泉の声が入る。

「でも、今日やめるということは、この方法そのものをやめるということになります。」

「まあな。それにしても和泉、俺、前お前に言ったこと取り消すわ。あの会社と相性が悪い、て言うたやつ。相性悪い、どころの話やないな。お前、絶対、あの会社に呪われてるで。」

「そうかもしれませんけど。・・・・吉田さん、このまま進めさせてください。大森パトロールの新人警護員がひとり中にいても、治賀の殺害に特段の支障はありません。」

 吉田の静かな声が入ってくる。

「和泉、確かに貴女の言うとおりだと思う。でも約束できる?ターゲット以外の人間に、危害を加えないこと。もしも、河合警護員を何らかのかたちで巻き添えにする危険が生じたら、直ちに本件を中止すること。」

「はい、約束します。」

 酒井の声が重ねて入ってきた。

「大丈夫です、恭子さん。和泉が勢い余って河合に襲い掛かったら、俺が責任もって止めますから。」

 近くに停めた車の中で、吉田は、やはり隣の席でインカムをしている川西のほうを見て、直接言った。

「決行します。よろしいでしょうか?」

 川西は、頷いた。


 

 治賀が抗議する前に茂が抗議していた。

「いったい、どうして、こんなことをしておられるんですか・・・?わざわざ、危険なことを・・・」

「・・・なんで、なんで、ここがわかったんです?」

 とにかく明りをつけようと、治賀がドア近くの電灯スイッチを手探りで押すが、何度やっても明りがつかない。茂が、手持ちの小さなペン型LEDライトをつける。室内は、敷きっぱなしの布団とちゃぶ台、そしていくつかの段ボール箱だけがある、殺風景な六畳一間だった。手前に小さな、料理をしたあとのある台所と、トイレ入口らしきものがある。

「おかしいな・・・」

 治賀が茂のペンライトの明りをたよりに部屋に入り、蛍光灯の紐を直接引いてみるがやはり駄目だった。そして「あれ?」と言って、奥のベランダに面した唯一の窓のほうを見た。真っ黒な、ブラインドのようなものが窓を覆っている。「なんだこりゃ」と言って治賀が窓に近づいて触ってみる。その瞬間、茂が入口ドアのカギを開け、ドアに体当たりした。

 ドアは、外側から封印され、開かなくなっていた。

「しまった・・・・!」

 二人は、アパートの部屋に監禁されていた。



 葛城が上り電車を降りたとき、携帯電話が鳴った。すぐに切れたが、腰のホルダーから電話を取り出して着信履歴を見ると、茂からの電話だった。すぐに折り返し電話する。しかし電話はつながらず、「電波が届かない場所にいるか、電源が入っていないため、かかりません」という旨のメッセージが流れた。

「・・・?」

 不審そうに眉間に皺を寄せ、葛城はホームに立ったまましばらく考える。今電話してきたばかりの茂の携帯が、なぜ、圏外や電源オフになるのだ。

 茂はどこにいる?葛城の考えが、素早く巡る。

「茂さん・・・もしかしてクライアントの家に戻った?」

 治賀の携帯電話の番号を表示させ、発信する。やはりつながらない。そして茂と同じ、電源が切られているか圏外である、という旨の自動音声メッセージが流れた。

 葛城の顔色が変わった。

 向かいのホームまで行き、入ってきた下り電車に乗り込みながら、葛城は波多野営業部長へ電話をかけた。数コールでつながった。

「もしもし、怜か?」

「波多野さん、すみません、警護時間は終わっているんですが、引き続きこちらの判断で警護業務を再開してもよいでしょうか。」

「わかった。で、何があった?」

葛城は状況を手短に説明する。

「少なくとも、自宅にいるクライアントの、携帯電話が、こういう状態であるのは不自然です。」

「なるほどな。・・・なんでもないのかもしれないが、しかし・・・・わずかでも可能性があるなら、悪いほうの事態を考えるのが、警護員というものだな。」

「クライアントの部屋に行ってみます。」

「そうだな。部屋の様子を確認して、問題が解決しない場合は、事務所へ電話してみろ。」

「え?」

「今日は確かまだ、晶生が事務所にいるはずだ。あいつの意見を、聞いてみろ。」



 茂は体当たりしたドアから体を離し、治賀のほうを振り返った。治賀はまだ状況を飲み込めずにいるようだ。

「治賀さん、この部屋のブレーカーの場所はわかりますか?落ちていたら、上げてみてください。明りがつくかどうか。」

 言いながら茂は自分の携帯のリダイヤルボタンを押す。しかし携帯電話の画面は、ここが圏外であることを示していた。

 治賀がドア近くの電気ブレーカーを上げる。

「だめです。」

「携帯電話を持っていますか?警察に連絡したいので、貸してください。」

 治賀が携帯を取り出す。

「だめだ、圏外になってます。」

「・・・・!」

 木造アパートの、室内と室外とで、携帯電話の圏外と圏内に分かれるはずがない。クライアントをパニックにしないよう、茂は言葉に出さなかったが、通信機能抑止装置が原因であるとしか考えれらない。

 茂は治賀のほうに体を向け、ゆっくりと言った。

「治賀さん、落ち着いて聞いてください。我々は何者かにここに閉じ込められたようですし、そしてそれは・・・よく計画された、やり方で、です。」

 治賀が返事するより早く、部屋の天井付近から、スピーカーのような雑音が聞こえ、ほどなく女性の声が響いてきた。

「河合警護員のおっしゃるとおりです。おふたりには、しばらくここにいて頂くことになります。」

 和泉の声だった。茂は、もちろんその声をよく記憶していた。

 治賀が震える声で天井に向かって言った。

「あ、あなたは誰ですか・・・?僕たちをどうするんですか・・・?」

 女性の声に、蔑むような色が混じった。

「私ですか?もう、お分かりのはずではないですか?・・・貴方が殺した女性の、使いの者ですよ、治賀良太さん。」

 ばたりと音をさせ、治賀が、持っていたカバンを畳に取り落した。

「ぼ、僕を、殺しに来たんだな・・・・。川西の、命令なんだな・・・。」

 茂はペンライトで天井を照らしスピーカーとマイクの位置を探すが、ライトの細い光では対処不能だった。

 ペンライトを畳と畳の隙間に差して明り代わりにし、治賀に「話さないでください」と手で合図して、部屋のどこかにあるはずの集音マイクに向かって茂は自分が話した。

「河合です。申し訳ありませんが、俺がここにいるので、クライアントに危害を加えることは、させません。」

 和泉の笑い声が部屋に広がる。

「貴方に、我々の仕事を妨害することは、できません。我々は確実に、治賀良太さんを殺します。もしもお邪魔をされるなら、河合さん、貴方も一緒に、殺すだけです。」

 治賀が立ったまま、体を小刻みに震わせ始めた。

「ああ、そろそろ夜中の十二時ですね、治賀さん。貴方の命日になる日が、始まりましたよ。」

「やめてくれ・・・・」

「安心なさってください、まだ少し、お話したいことがあります。」

 茂はかすかな明かりしかない室内を、注意深く見回す。周囲に、なにか、異常を知らせる方法はないか。

 台所に行き、水道の蛇口をひねる。やはり、水は出ない。ガスレンジも念のため確認するが、ライフラインは全て止められていた。最初にアパートの廊下に上がったとき、左右の部屋の明かりが消えていたことは確認した。おそらくは、階下の部屋も含め、無人にされているだろう。

 ベランダに出られるであろう窓を見る。内側から、ブラインドに似せた鉄格子が、ボルトで取り付けられている。窓ガラスにはさらに丁寧に外側から遮光フィルムまで貼られてあった。ガラスを割って叫べば通行人に聞こえるであろうが、それは昼間であればのことだ。

「あ、念のためですが、お二人とも、大きな音を出したり、脱出を試みたりは、なさらないように。その場合は、お話を中断して、直ちに殺害にはいりますので。」

 和泉の嘲笑するような声が響いた。

 茂は窓に取り付けられた鉄格子のボルトに、手持ちの携帯用の小型工具を当ててみたが、とても回るものではなかった。ペンライトを持って、玄関ドアも調べてみるが、外から封印されており、内側から開ける方法は見当たらない。トイレも含め天井もひととおりチェックしたが、やはり無駄だった。

 しかしこのことで、わかったこともあった。室内には集音マイクはあるようだが、監視カメラはない。茂のこれだけの行動に、和泉が無反応だからだ。その前に和泉が「大きな音を出したり」と言ったことも、そのことを図らずも示したと思われる。

「治賀良太さん、貴方が服役した、罪名をおしえてください。」

 茂に制されるまでもなく、治賀は恐怖で声が出なくなっていた。

 和泉が低く笑い、自分で答える。

「監禁致死罪。・・・・これは、大嘘ですよね、実は。」

「・・・・」

「貴方は、殺意をもって、麻里さんを突き落した。」

「・・・・ちが・・・」

「これは質問ではありません、治賀さん。」

「ぼくは・・・し、知ら・・・・」

「貴方には動機があった。麻里さんと貴方を知る人間なら、誰もがこれが殺人であると分かった。状況証拠もあった。でも、証拠不十分で、貴方は、罰せられなかった。」

「・・・・」

「麻里さんは、暗い部屋に長時間閉じ込められ、最後はその部屋から十四階下の地上へ転落させられ、全身を酷く傷つけられ、たくさんの血を流して、死にました。」

「・・・・」

「でも貴方は、数年間刑務所で福利厚生の充実した生活をし、またこうして、無事に生活している。」

「うわあ・・・・」

 治賀はふらふらと歩き始め、部屋の壁にそってぐるぐると回り始めた。段ボールに躓いてまた立ち上がり、トイレのドアノブにつかまって段差を降り、台所の汚れた食器の入った洗い桶に右手をつき、玄関の土間にうずくまる。茂は治賀をつかまえようとする。なんとかしてクライアントを落ち着かせなければならない。

 玄関で再び立ち上がり、畳の六畳間へ向かって戻ってきた治賀のほうへ近づき、茂はクライアントの両肩に手を置き、座らせようとした。

「大丈夫です・・・落ちついてください、治賀さん、俺は貴方の傍を離れま・・・」

 茂の言葉が止まった。

 治賀の握った両手が茂の腹に押し付けられ、その手には水がしたたる包丁の柄が握られていた。

 治賀が叫ぶ。

「お前も奴らの仲間だろう!僕を守るふりをして、ここに閉じ込めて・・・!」

 尋常ならぬ声で叫びながら、治賀は包丁を抜き、しかし手に返り血を浴びてはっとして動きを止めた。

 胃のあたりに激しい衝撃を感じた茂は、押さえた右手に温かい血が絡み付いて初めて、刃物で腹部を刺されたことを知った。

 茂が黙って治賀の手から血まみれの包丁を掴み取る。治賀の抵抗はなかった。茂の左手がゆっくりと包丁を畳の床に置いた。右手は血の流れだした腹部を押さえている。

「・・・傍を離れませんから、どうか、落ちついてください、治賀さん。」

 治賀がそのまま尻餅をつくように座り込んだ。

 続いて、茂が、床に両膝をついた。




 クライアントのマンションの前で、葛城は波多野の助言どおり大森パトロール事務所へ電話をかけた。本当に高原はまだ事務所に詰めていた。ワンコールですぐに電話に出た。波多野部長が事前に連絡しておいてくれたのかもしれない。

「もしもし、警護員の葛城です。・・晶生?」

「ああ、そうだ。どうした?怜。少し前に、波多野部長から、とりあえず事務所からまだ帰るな、とだけ電話があったよ。」

「晶生、お前の意見を聞かせてくれ・・・。」

 高原は、葛城の声が動転していることに気がつき、血の気が引く思いがした。大森パトロール社ができたときからのつきあいである葛城怜が、警護業務中に少しでも冷静さを失ったことは、高原の記憶している限り、たったひとつの例外を除いては絶えて存在しない。そう、あの、茶室での高原の事件を除いては。

「・・・河合に、なにかあったか?」

「今日二十二時過ぎに、クライアント宅で予定通り移動時警護を終えた。その後、茂さんは用があると言って○○駅で降りた。そのあと・・・俺がターミナル駅で降りたちょうどそのとき、茂さんの携帯から着信があった。でも、折り返しかけたら、圏外か電源オフのメッセージだった。」

「・・・・。」

「クライアントの携帯電話にかけたが、同じように、圏外か電源オフのメッセージになっていた。」

「・・・・まずいな。今、クライアント宅前か?」

「管理会社に事情を話して、部屋に入れてもらったが、もぬけのからだった。誰もいない。」

「荒らされたあとは?」

「それもない。」

「手掛かりになるようなものは?」

「手紙や書類、郵便物・・・探したが、なにひとつなかった。携帯電話もなかった。もちろん、血痕も。」

 高原は、一分間近く考え込んだ。

「・・・怜、折り返し電話するから、まだそこを動くな。」

「わかった。」

 事務所の固定電話を切ると、高原はパソコンでいくつか電話番号を検索し、そのうちのひとつに電話をかけた。

 かなり何度もコールした挙句、不機嫌そうな男性の声で応答があった。

「はい、○○市水道夜間受付サービスです。」

「もしもし。○○市○町○丁目○番地の治賀と申しますが、ちょっと大至急お尋ねさせてください。」

「なんでしょうか」

「私は、ちょっと遠方に住んでるんですけど、○○市にみっつ、私の名前で水道をつかってるとこがあるんです。で、この間、一か所、水道を止めてってお願いしたんだけど・・・・。間違ったところを、お願いしちゃったと思うんです。」

「はあ。」

「もう住んでないとこと、まだ親がひとりで住んでるとこがあるんですが、住んでるほうの水道をとめちゃったかもしれないんです。」

「では、そこのお客様番号をおしえてください。」

「こっちに今全然請求書とかがないんです。ちょうど捨てちゃったばっかりで。お願いします、水道契約がとまってしまってないか、確認させてください。」

「住所はわかりますか?」

「同じ市内なんだけど、妻がぜんぶやってて、番地の記憶があいまいなんですよ・・・今回もあいつが電話したからこんなことになっちゃって・・・・一か所は、○○市○○町○丁目○○マンション三階の○○○号室。これは間違いないです。あとほかに二か所、同じ名前で契約してるんです。歩いてすぐのとこのはずだから、同じ町なんじゃないかな。」

「それじゃあちょっとわからないですね・・・」

「どうか、お願いします・・・!!!親父は八十九歳で、最近はちょっと足腰もあぶないんです。確認できたらそれだけでいいんです。来週には妻がまた行けるし・・・」

「・・・○○町の近くですね、では、お客さまの名前と生年月日、登録の電話番号を教えてください。」

 高原は治賀のそれを、手元の資料を見ながらよどみなく答えた。

「・・・はい、確認できました・・・。あ、あとふたつじゃなく、あとひとつですね。」

「○○町の・・・」

「ええ、××番地×丁目×号、××アパート二階の三号室ですよ。あってますか?」

「はい、たぶんそれです!」

「あ、確かに、先週ご連絡をいただいて、水道をお止めしてますね。」

「やっぱり・・・!それ、すぐ開けてください。」

「緊急開栓ですか?でも、バルブの閉栓はお客様にお願いする、と記録にありますから、お父様がご自分でバルブを閉めてないかぎり、水道は止まってませんよ。」

「ああ、そうですか・・!よかった!ほんとにありがとうございました。」

 電話を切り、高原はパソコン画面に住所を入力し、地図情報を表示させるとそれを葛城の携帯へ送信した。

 高原がかける前に、葛城から電話がかかってきた。

「晶生、今メール受信したよ。これってもしかして・・・・」

「ああ、多分、クライアントの”別宅”だね。水道屋さんにおしえてもらった。これは想像だけど、警護が終わったあと、治賀氏は誰にも知られていないその部屋で、深夜から早朝までの一番怖い時間帯を過ごしていたんじゃないかな。」

「そんな・・・」

「普通に考えたら、頭がおかしいとしか思えない行動だけどね。でも人間、恐怖でパニックになると、しばしば、信じられないようなことをする。」




 茂は破れたシャツの前身頃を裂いて折り、右太ももと腹の間で挟んで少しでも止血を試みながら、血で染まった右手をぬぐい、手元のメモ用紙と別のボールペンを取り出して、走り書きした。

 書き終わると、まだ茫然自失状態から抜け切れていない様子でうなだれている目の前のクライアントに、何度か「大丈夫ですからね」と声をかけ、ペンをしまい、右手でゆっくりと治賀の左肩に手をおいた。

「河合さん・・・」

 数分たち、少し落ち着きを取り戻してきた治賀が、畳の上のペンライトの弱い光に照らされた顔をあげ、茂に向けた。

 茂は、二つの携帯電話をいじっていたが、治賀の表情がさっきまでより穏やかになったのを見て、微笑み、畳の上においたメモ用紙の走り書きを見せた。そこには、次の三点が書いてあった。

”-・私が話せなくなっても、夜明(または奴らが襲撃してきたとき)までの間、私と会話しているふりをしてください。

・夜が明けたら(または奴らが襲撃してきたら)、格子の隙間から窓ガラスを割り、私の携帯のメール送信ボタンと、治賀さんの携帯の電話発信ボタンを押して、ただちに窓から、なるべく遠くの植え込みめがけて放り投げてください。

・その後、窓から、大声で「××アパート××号室で、人殺しが!」と、何度でも叫んでください。-”

 メモと一緒に茂が差し出した茂の携帯電話と治賀の携帯電話は、それぞれ、葛城あてメール発信の準備およびオート着信設定、警察への電話発信の準備がされ、背中合わせにビニールテープでつながれていた。

「あ・・・・」

 治賀がなにか言おうとし、茂は制してもう一枚のメモ用紙にさらに走り書きをして示した。”-室内の会話は全部聞かれています。くれぐれも、俺が負傷していることが、ばれないようにしてください。俺が傍で守っていると思わせることで、襲撃のリスクは減ります。-”とあった。

 最後に茂は、もう一行、書いた。

”-あきらめずに、がんばりましょう-”

 茂の顔をしげしげと見て、治賀は複雑な表情をしながらも、頷いた。立ち上がらず四つん這いの恰好で、窓のほうへ行き、音をたてないように格子やガラスの様子を確認している。どこを割るべきか、イメージしているようだ。

 その後ろ姿を見ながら、しかし茂はその場を動くことはできず、座ったまま、腹に当てた服の切れ端に目を落とした。折りたたんだ布全体から血がしたたるほど重く真っ赤に染まっている。血が噴き出すようなことはないが、思ったより深く刺されたようで、圧迫しても流れるような出血が止まらない。

 少しでも出血を和らげ、体力の消耗も防ぐべく、茂はゆっくりと畳の床の上に体をあおむけに横たえた。

 窓の格子の隙間を確認していた治賀が、ふりかえり、不安そうな顔で、床の上の茂を見る。

 茂は顔を治賀のほうへ向け、大丈夫ですよ、というように笑顔をしてみせた。



 酒井は、アパートの裏側で建物から少し離れた物陰に立ち、二階のベランダの窓から目を離すと隣の和泉のほうを見た。部屋につながる無線機を、オフにしたまま和泉はずいぶん長い間、インカムあてにも言葉を発しない。

「和泉、なんや、お前のほうが監禁されてるみたいな顔やで。」

「・・・・」

 和泉は硬い表情で前を見たままだ。

「あの新米警護員さん、しみじみ変人やな。」

「・・・・」

「だいたい、なんでここまでクライアントにくっついて、のこのこ来たんか、そこからもう、変やわ。」

「普通は、考えられません。」

「警護員のイロハのイよりも、まだもっと原則中の原則や・・・警護員の職務範囲をきちっとする、っちゅうんはな。そやないと、あの職業自体が成り立たへん。考えてもみい。ひとりの人間を、一生守れるか?ありえへん。だから、警護時間とか期間とか範囲とかいうものがある。」

「移動時警護が終わって、部屋に戻したクライアントが、その後なにをしようと、警護員が関知する必要はないし、関知すべきことでもない。」

「そうや。警護の範疇を逸脱した瞬間から、それは、単なる個人行動になる。危険で、無駄で、中途半端な、行動や。」

 静かな住宅街の、少し古い木造住宅が肩を寄せ合うこの一角は、植え込みや樹木がそれ以外の場所よりひときわ大きく、夜風を受けて意外なほどざわざわと大きな葉音をたてる。

 四人が持つ無線機に、六畳一間のアパートの室内からの音声が入ってくる。

「・・・河合さん、僕は、刑務所で、少しだけですが本当になにかを、償った気持ちに、なった。」

「はい。」

「でも、被害者のこととか、考えることは、・・・あまりなかったし・・・・」

「はい。」

「こんな・・・・閉じ込められるというのは、怖い・・・怖い・・・」

「そうですね。」

「でも、僕は・・・死にたくない・・・・死にたくないです・・・・」

「・・・はい。」

 震える声の治賀は、しばらく意味不明のことを言っていたが、やがて、明瞭に、言った。

「麻里なんか、あんな女、死んで当然だったんです・・!」

「・・・・」

 車内で、吉田がちらりと川西のほうを見た。その表情から、感情は読みとれない。

 おそらく、四人の中では川西が今最も冷静だった。

 六畳間の畳の上で、茂は、治賀の声が次第に遠くに聞こえることに気がついた。右手を置いた傷口の布から、流れ出した血液は畳に達し、温かい水たまりを背中の下につくっている。唇を噛み、意識を覚醒させようとするが、視界がほとんどなくなっていくのを感じた。

 茂の脳裏に、高原の言葉がよみがえっていた。

 ・・・「忘れるな。俺たちはSPじゃない。ただの、丸腰の、民間人なんだということを。」・・・

 そうだ。そのとおりだ。

 しかし、今、自分がクライアントの傍にいて守らなくて、誰がそれをするというのか。

 茂の両目が閉じられ、やがて、それまでまっすぐ天井を向いていた顔が、力なく少し左に傾き、そのまま動かなくなった。

 血まみれの右手が腹部の上から床へと落ちた。

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