二 クライアント
土曜の朝、波多野営業部長に連れられて、茂と葛城はこれから一か月間の警護を行う新たなクライアントの自宅へ向かった。
私鉄駅から歩いてすぐのところにある、低層のマンション入り口で部屋番号を押して呼び出すと、低い男の声で返事がありオートロックの扉が開いた。
クライアントの部屋は三階の角部屋だ。一階の郵便受けにも、部屋の前の表札にも、名前はない。
「失礼します。」
インターフォンを押すと部屋の扉を開けてクライアントが出迎え、三人をリビングの食卓の椅子へ案内した。
波多野が二人の警護員を紹介する。
「こちらがメイン警護員の葛城怜、こちらがサブ警護員の河合茂です。」
二人が頭を下げると、クライアントも同様にした。
「治賀良太です。お世話に・・・なります。」
治賀が椅子に腰かけ、波多野たちも続いて座った。治賀は体が大きくやや小太りで、一見年齢不詳だが上目使いの目が常に不安そうに泳ぐ、相手を落ち着かない気持ちにさせる男だった。
「よろしくお願いいたします。警護ご依頼人の治賀直見様・・・お母様は、今日はこちらではないのですね。」
「はい、母は郷里のほうで用があり、結局こちらには。でも支払いは母から振り込みしますので。」
茂は警護対象・・・クライアントをしげしげと見た。葛城と初めて会ってその美貌に驚愕しない人間は珍しいが、それどころか治賀は一度も三人の誰とも目を合わせようとしない。
波多野が書類を食卓に広げる。
「警護期間は明日から一か月間。平日は仕事先までの出勤時と帰宅時の移動時警護。土日祝日は、事前にお知らせいただいた外出先とご自宅との間の、やはり移動時警護。外出ご予定はこちらの内容で間違いございませんか。」
「・・・・はい。でもまた追加があったら、全部対応してもらえますよね?」
「大丈夫です。なお、平時の朝の出勤時警護と、平日昼間の臨時の警護については、メイン警護員のみの対応となります。」
「わかりました・・。」
「利用する交通機関は公共交通機関のみですね。」
「はい。」
「予定にない行動をされるときは、くれぐれも事前に警護員にお知らせいただくことを、忘れないでください。」
「はい。・・・僕を狙っている人間は、たったひとりです。絶対にちゃんと、奴から僕を守ってください。お願いします。」
「川西肇、ですね。我々は探偵会社ではありませんので、その人そのものを調査したりマークしたりすることはできません。しかし、川西氏について今回治賀さまから頂いた情報は理解の上で、警護にあたります。もちろん、ほかのあらゆる危険から、同時にお守りいたします。」
「よろしくお願いします・・・。」
「ほかに、ご心配なことはございますか?」
治賀はテーブルの上に置いた両手の指をしきりに動かしていたが、初めて顔を少し上げた。
「僕みたいに、刑務所から出てきたあとで・・・被害者の家族に、狙われて、・・・・そしてほんとに殺されちゃったひとって、いるんですか?」
波多野は少し時間をおいて、穏やかな顔で、答えた。
「それは、わかりません。しかし、治賀さまは、ちゃんと国の法律が定めた償いを、終えられた。今はもう、安全な生活をする資格がおありです。それをお守りするのが、我々の役目です。」
クライアントの自宅を後にし、茂と葛城は波多野と別れてさっそく警護ルートの下見を開始した。時間がほとんどないので、ルートを動画撮影し事務所で確認する方法をとる。
事務所で映」像をレビューし携帯端末へ必要な情報とともに入力すると、二人は警護計画を紙で確認した。
作業のあと、茂は葛城に、事務所には誰もほかにいないのでその必要はないのだが、なんとなく小声で、話しかける。
「クライアントは、なんだかあまり、俺たちを信頼してくださっていない感じですね。」
「それだけ不安が大きいということなのでしょう。出所後の警護依頼では、わりとそういうことが多いです。」
「被害者遺族に狙われるケースは、そんなに多いんですか?」
「実際は、それほど多くはありません。妄想の域を出ないものも多いです。しかし、ケースとして数少ないとはいえ本気の襲撃は、文字通り、本気ですから、警護の難易度は高いです。」
「・・・・・。」
「茂さん、大丈夫ですよ。正直に、言ってください。」
「・・・人を死なせて、数年で刑務所を出られるのって、やっぱりなんだか、軽すぎる気がします。」
「そうかもしれませんね。」
「俺が遺族だったら、確かに、殺してやりたいと、思うかもしれません。」
「はい。」
「でも、やっぱり、今日クライアントに波多野営業部長がおっしゃったことが、正しいとも、思います。なんだか、ちょっとその両方で、ふらふら考えてしまいます。」
「はい。」
「なので・・・。・・・すみません・・・・自分でも、何が言いたいのか、よく・・・・」
「いえ、茂さんのおっしゃりたいことは、わかりますよ。」
葛城は、多くの優しさに少しの苦さが混じった、微笑を浮かべた。
「国の法律は、司法は、ある意味、無力です。」
茂は一瞬、葛城が何を言ったのかのみこめず、固まった。数秒後、驚きを隠さない顔で、目の前の先輩警護員の顔を見た。
「刑罰は、遺族からみても、我々一般人からみても、基本的に、軽いです。そう感じるのが、普通ですし、私も、そう思います。しかも・・・」
「・・・・」
「しかも、犯した罪を、全部正しくカバーすることさえできないことが、むしろ普通でしょう。」
「葛城さん・・・・」
茂の、透き通る琥珀色の大きな両目が、葛城のこの世ならぬ美しさの切れ長の目を、恐怖に似た驚きを湛えたまま凝視している。
「我々の仕事は、なにかを判断することではない。しかし、」
「・・・・」
「迷うことからも、いつも、逃れられない。これも、事実なんだと思います。」
「・・・・」
「そういう・・・そのままの状況で、ひとつのことを、実行するということです。」
「・・・・そうですね。」
茂が小さな声で答えると、葛城は立ち上がり、給湯室から麦茶を取ってきた。笑顔で、茂にグラスをひとつ渡す。
茂の手のグラスにピッチャーから麦茶を注ぎ、首を少し傾けて葛城は優しい目で後輩警護員を見た。
「警護は、一件一件が、貴重な経験でもあります。今回も、なにがあるかわかりません。」
「はい。」
「茂さんが、警護員として、クライアントのためにしっかり対応してくださることを、信じています。」