一 前兆
午前中の穏やかな日差しの中、吉田と和泉は港に近い高台の一軒の家を後にした。
「お客様がご満足されていると、何があってもまたがんばろうって思います。」
和泉が愛らしい童顔を紅潮させながら言い、明るい茶髪のショートカットの絹糸のような髪を風に揺らし、まぶしそうに空を見上げる。女性にしては背が高い和泉に比べ、平均的な身長の吉田は隣の和泉の健康的な小麦色の肌の横顔をちらりと見上げた後、前を向き、鼈甲色の縁のメガネの奥の両目を、少し細めた。
「和泉が元気で私も安心してる。」
吉田は、いつもの独特の静かな微笑みを浮かべた。和泉はそれが何を意味するかよく分かり、吉田のほうを向いて軽く一礼する。
「ありがとうございます、もう全然平気です。」
「今日のお客様のご様子だと、またご依頼がありそうね。ご本人か、お知り合いかは分からないけど。」
「はい。」
「さて・・・・ひとつ仕事が終わったことだし、まだ少し今日は時間があるから、食事でもしていきましょうか。ごちそうするわ。」
「ありがとうございます!」
和泉は先に立って歩く吉田の、セミロングの髪と地味な白いシャツ、ベージュのタイトスカートの後姿を追った。吉田は見事なまでに外見上なんの特徴もない女性だ。雑踏に紛れたら二度とみつけられないだろう。しかし、和泉たちにとって吉田という存在は、ほぼ神と同格である。
坂の上から港を見下ろす小さなカフェに入り、窓際の席に座ると、吉田は海のほうを見ながら足を組む。和泉はその足が、すんなりときれいであることに、急に気が付いた。外見に特徴がない、というのは、つまり、目立つ欠点といえるものがない、ということなのだった。
食事をしながら、和泉はこうして二人きりで外食することも初めての光栄な機会であるし、いつも思っていることを伝えたいと思った。
「私、いまだに、仕事をしていてよく迷います。このやり方は影響が大きすぎないか、うちのポリシーにあっているか、忘れていることがないか・・・・って。どんなに準備しても。」
「そうなの?」
「いつか、吉田さんのように、自信を持って仕事ができるようになりたいです。いつも、そう思います。」
吉田は微笑み、その深い湖のような両の瞳で、和泉の淡い琥珀色の目を見る。
「そうなのね。でも、もしかしたらその目標は、あまり適切じゃないかも。」
「え?」
「私は、いつも自信をもってやってる、というよりも・・・迷わずに済む部分でしかやってない、というべきなのだと思う。」
「・・・・」
「あるいは、逆かな。確信という空洞の器に寄りかかって仕事をしてる。」
「空洞の・・・?」
吉田はかすかに頷き、再び海のほうを見た。
「だからこそ、少しでも自分が揺らいだとき、それは自分が去る時だとも、思ってる。」
一瞬吉田の横顔が霞のように遠くに見え、和泉がなにか言おうとしたが、すぐに吉田の表情にはいつもの穏やかな笑みが戻っていた。
河合茂の労働環境の悪化は深刻だった。
平日昼間に勤める会社で、決して自分が有能なわけでも有望なわけでもないとわかっているし、しかし自分にできることを一所懸命しているつもりでもある。しかし、これまでのさまざまな不遇のなかでも、今回のことは群を抜いており、課長に抗議することも検討している。
斜向かいに座っている、カラスのように真っ黒な髪をそつなく整えた、背の高い、不気味なほど整った容姿の若い男のほうを見て、茂は改めて言った。
「どうしてお前が、俺と同じ係にいるんだよ!三村!」
三村英一は端末の画面から目を離し、茂のほうを見て、この世のものとも思えぬ嫌味な笑顔を浮かべた。
「会社の人事のことが、俺に分かるわけないだろう。ただし、いえることは、お前の尻拭いをするためじゃないからね。河合、多くは期待しないから、せめて俺の邪魔をしないでほしいね。」
「・・・・!」
茂の隣の席の、ベテラン係長がまあまあと二人をなだめる。
「河合も三村も、仲良くしてくれよ、これもご縁だからね。お前たち入社同期だろう?三村が来てくれてうちの係も助かるんだし。まあ、ひとつ困るのは・・・」
係長は英一の席の前にできている行列を見てため息をついた。
「大した用もないのに、会社中の女子社員がやたらうちの係に来るようになったことだねー。」
茂が英一を気に入らないのは、別に異常に才色兼備で女子にももてて完璧な人間であることからではない。それも少しはあるが、最も気に食わないのは、彼がこの会社で片手間に仕事をしているくせにやたらと仕事ができて、しかもクソ傲慢で不遜で唯我独尊であることである。本業を別に持っており、そちらだけでも十二分に優れた才能を持っているというのに、である。
ただ、「副業」がある、という意味では、茂も同様なのではあるが。
そして、土日と夜間限定で茂が従事している「副業」(もちろん、平日昼間働いている会社には許可をとってある)においてまでも、茂の不幸は及んでいた。
ようやく長い一週間が終わった金曜の夜、平日昼間働いている会社と同じ最寄駅だが駅の反対側にある、大森パトロール社の事務所に茂が顔を出すと、奥の応接室から茂を呼ぶ声があった。
応接室を覗き込んだ茂が、そのまま顔をひきつらせて固まる。
応接セットには、先輩警護員の高原晶生と、その向かいに三村英一が座り、麦茶を飲みながら談笑している。
英一を指差しながら、茂は高原に向かって抗議した。
「高原さん・・・最近、こいつがここにいることが多い気がするんですが・・・」
高原はよく似合うメガネの縁をちょっと持ち上げながら、いつもの人好きのする笑顔で屈託なく答える。
「ああ、うちの大事なクライアント兼コンサルタントだからねー。」
「いつからそうなったんですか!」
「まあ細かいことは気にするな河合。」
茂は大森パトロール社で、土日夜間限定で警護員の仕事をしている。先輩挌の高原晶生は、大森パトロール社きっての有能な警護員である。だから高原がここにいることに何の不思議もないが、英一はここの社員でもなんでもないのである。確かに一度大森パトロール社の警護契約のクライアントとなったことはあるが、なぜ高原と英一がこんなに親しいのか茂には理解不能である。
高原は英一と同じくらいの長身で、その爽やかな短髪と、英一のような完璧な美青年ではないが知性と愛嬌を兼ね備えた笑顔は、性格の良い科学者といった感じだ。メガネがよく似合う。高校で科学の教鞭をとったら女子高生から大人気になりそうである。
英一が「ではそろそろ失礼します」と言って席を立つ。高原が事務所入口まで見送って行った。
応接室でひとり不機嫌そうに麦茶を飲んでいる茂に、戻ってきた高原がにやにやしながら声をかける。
「河合さあ、素直にみとめちゃいなよ、昼も夜も三村くんの近くにいられてうれしいって。」
「なんでですか!」
「いや、俺も、お前があの人を嫌いなことは知っているさ。」
「そのとおりです。」
「でも安心しろ、あの人はお前があの人を嫌っている以上に、お前のことが嫌いだろうからさ。」
「なんの慰めにもなってないです。」
茂が三杯目の麦茶を飲みほしていると、いつの間にか事務室の反対側の打ち合わせコーナーに移った高原が、再び茂を手招きした。
三十分後、事務所の従業員用入口がカードキーで開き、もう一人の先輩警護員が事務所へ戻ってきた。
「晶生。・・・茂さんも、戻ってますか?」
声をかけながら、戻ってきた葛城怜が打ち合わせコーナーを覗く。
狭いコーナーのテーブルを挟んで、向かい合って座った高原と茂は、机上の書類に向かってペンを持ち真剣な顔をしている。
葛城が笑って二人を見比べた。
「・・・またケーススタディですか。」
茂の代わりに高原が答える。
「過去、うちの会社が請け負った警護業務で、不幸にして犯人の実行行為の着手に至ってしまったケースのうち、代表的なものは、頭に入れておくべきだからね。」
書類に集中していた茂は、一呼吸遅れてはっと気が付き、葛城のほうを向いて挨拶した。
「葛城さん、お帰りなさい。お疲れ様です。」
「今日で今の案件も終わりました。次はまたペアですね。」
葛城は肩の下まで伸ばした髪を相変わらず無造作になびかせている。そして相変わらずこの世の天使のような美貌だ。三村英一がどんな女性も魂を奪われる美男子だとするなら、葛城怜はどんな美女も戦慄する美形である。女性と見紛うその容姿は、しかし彼が実際はもちろん身も心も立派な男子であるため、本人にも周囲にも色々迷惑をかける代物でもある。
「もうすぐ波多野部長が戻ってくるから、それまでに終わらせろよ、晶生。」
「ああ、大丈夫大丈夫。今日は部長からお前たちの新しい仕事の話だね。」
「俺のほうの単独案件も終わったからね。」
高原に肉薄するような有能な警護員である葛城は、自身が新人警護員であったころからのつきあいである高原と話すときだけは、タメ口でしかも自分を俺と呼ぶ。
その後波多野部長よりも先に事務所に到着したのは、出前の配達員であった。
一同が応接室のテーブルに出前の弁当4つと麦茶4人分を並べていると、ようやく大きな足音とともに波多野営業部長が戻ってきた。
「やあ、悪い悪い。遅くなった。」
坊主頭に近い短髪に似合わないメタルフレームのメガネをかけた波多野は、背広の上着を暑そうに脱いで席の背もたれにかけ、応接室のソファに座り麦茶を飲み干す。
弁当を食べながら、空いた手で大型封筒をテーブルに置き、中身を三人に見せた。
「今回の案件は、また怜と茂のペアでやってもらうんだが・・・。二人とも、明日、俺と一緒にクライアントに会いに行くからな。」
「はい。」
「それから」
波多野は高原のほうを見た。
「晶生、お前も資料に一通り目を通しておいてくれ。警護開始は明後日の日曜日からだからそれまでに・・・・念のため。」
「わかりました。」
茂と高原と葛城は、それぞれ自分の分の書類を受け取り、その場でななめ読みをしてみる。
「準備時間が非常に少ないが、それよりも問題なことが、ひとつある。」
「・・・これは・・・、刑期満了後の警護ということですね。」
「そうだよ。久々だよな、怜は。」
「はい。」
「そして茂は初めてだ。良い経験になるかもな。」
葛城と茂は真剣な目で書類を追う。
翌日土曜日の待ち合わせを決めた後、葛城と波多野は先に事務所を後にし、茂は高原に呼び止められて事務所に残った。
応接室のソファの背もたれにもたれ、高原が頭のうしろで両手を組み、向かいに座っている茂のほうを下眼遣いに見る。
「河合、お前さ、今回、波多野部長がなぜ俺にも資料を事前に渡したか、わかるよな。」
「はい。」
「メイン警護員に・・・怜に、緊急事態が発生して、俺があいつに替わってメイン警護員業務に入ることになる可能性が、わりと現実的なものとして存在するということだ。」
「・・・・はい。」
茂は唾をごくりと飲み込んだ。
「まあそんなに肩に力を入れることはないけどさ。ただ常にこのことを頭の隅に置いておけばいい。」
「はい。」
しばらく沈黙した後、再び高原は茂のほうをメガネ越しに見て、口を開いた。
「河合、警護員にとって一番大事なことは、何か知ってるよな?」
「身の危険を顧みずに、クライアントを守ること」
「それは四番目くらいだ。」
「十分な準備をして警護に臨むこと」
「それは二番目。」
「えっと・・・・非常時には、戦うことは最後の選択と心得、とにかくクライアントともども逃げることを第一に考えること。」
「よし、それは三番目だね。」
「うううう・・・」
「警護員の守備範囲をわきまえること、だよ。」
「・・・そうでした。」
「違法な攻撃を防ぐことが、俺たちの仕事だ。だから、その次のステージに事態が進んでしまったときは・・・犯人が実行行為に着手したら、その時点で俺たちは単なる”たまたま一番近くにいるいち市民”でしかなくなる。その先は、基本的には、警察の領分になる。このことをいつも忘れるなよ。」
「はい。」
「つまり端的に言うなら、必要になったとき警察へ通報するのをためらうなということだ。」
「ためらうことは、ないような気がしますが・・」
「そう思うだろ?しかしいざというとき、意外に、警察というものの存在をすっかり忘れる警護員は、多い。自分だけでなんとかしようとしてしまうんだ。警護業務の続きみたいな錯覚の中で。」
「そうなんですね」
「忘れるな。俺たちはSPじゃない。ただの、丸腰の、民間人に過ぎないんだということを。」
駅に向かって歩きながら、波多野部長が葛城に話しかける。
「で、その後どうだ?あの新米警護員は。」
「すごくがんばってますよ。」
「バカなこともそれなりにしてそうだが、なかなか面白い奴だろう?」
「はい。面白い人です。思ってもみないようなことが、最近増えました。茂さんとペアを組んでから。」
「ふーん」
波多野部長がにやにやしながら葛城の顔を横目で見る。
「な、なんですか、波多野さん。」
「怜、お前が今まで警護でペアを組んだ人間は数知れないが、お前がそんなに嬉しそうな顔をして話す人間は、高原晶生以外だと俺は知らんな。」
「・・・・」
「いい後輩になりそうじゃないか、あいつ。」
「・・・・はい。」
海沿いの整然とした街に林立するタワーマンションの一室で、足下の街が金曜の夜らしい賑わいであることが別世界のように、明りの暗い部屋で、一人の痩せた中年男性が背筋を伸ばして来客と対面していた。客はふたりいて一人は男性、一人は女性である。男性のほうの客は、身長百八十センチくらいの長身で、非常にバランスのとれた、見ただけで身体能力の高さがわかる体型であり、顔立ちも精悍だ。しかし怪しげな目の光と耳下までかかる長さの黒髪と無精ひげ、そして少し猫背の姿勢のせいで、スポーツマンというよりは殺し屋のように見えてしまう。女性のほうは男性よりは背が低いが女性にしてはやはり長身であり、すごい美人というわけではないが愛らしい童顔をしている。明るい茶色のショートカットの艶やかな髪が、健康的な小麦色の肌をした顔を縁取っている。
女性のほうの客が書類を片づけバッグにしまい、男性のほうの客が中年男性のほうを改めて見て、硬い表情に少しの穏やかさを交えながら、それをやがてかすかな微笑みに変えた。
「我々を信頼していただいたこと、感謝しておりますわ。」
男性の客の言葉はゆるやかな関西弁で、不思議な包囲力がある。
「我々に最初に依頼してこられたのが、治賀良太氏やったことを考えたら、我々が二重に仕事を受けたんと違うか、と、疑われても仕方がない状況です、川西さん。」
家主の川西は痩せた小柄な体をさらにきちんと伸ばし、白髪の混じる髪をきちんと整えた、学者のような顔をまっすぐに客に向けた。
「酒井さん、貴方がたの・・・・阪元探偵社さんのことは、前から・・・事件直後のあのころから、実際、知人に詳しくうかがっておりました。」
「はい。」
「お声をかけていただいたとき、それが偶然か運命かはわかりませんでしたが、いずれにせよ感謝しました。私の小さな、ささやかな望みを、かなえてくださると思っています。」
「もちろんです。それから川西さん、ちょっと正直に申し上げますと」
「はい?」
「治賀良太から依頼を受けたとき、ほんまは我々、治賀氏の依頼を断った後、川西さんへお声かけするようなこと、普通やったらせえへんかったと思います。どんなにこちらがやるべきと思う仕事であっても、受けるのは、ご紹介によるお客様側からの依頼があったときだけというのが基本です。でも、治賀氏がおんなじことを、大森パトロール社へ依頼していることがわかったんで、半分はうちの勝手な希望で、仕事させてもらえたらと思ったんですわ。」
「商売敵か何かなんですか?そこは。」
「仕事内容は競合しまへん。でも、我々にとってあの会社は、まあ台所で遭遇するネズミみたいなもんです。とりあえず、本能的に、その仕事を駆除したくなるもんで。」
「では、今回のことは、私だけではなく阪元探偵社さんにとっても、意味があることなんですね。それは、私としても、なんだかうれしいことです。」
「ありがとうございます。でも、仕事はもちろんきっちり普通にやりますので。」
「法に反することをさせてしまうのは、本当に申し訳ないと思っています。」
酒井は和泉と顔を見合わせ、微笑した。再び依頼主のほうを向く。
「それが我々の仕事です。死ぬべき人間を法が罰しないんやったら、我々が代わりにやる、それだけのことですからね。」
和泉が優しい目を依頼主に向けて、言った。
「命をもってしても、もちろん十分に償ったとはいえません。が、奥様の味わわれた苦しみの何千分の一でも、返せるならと、思います。」
「我々は、治賀を最後は殺害します。ただ、再三申し上げましたとおり、最後の最後まで、お客様である川西さんには、選択の余地を残します。中止命令があったときは、そこで我々は止めます。実際、止められるお客様も、何割かおられます。このことを、覚えておいてください。」
酒井が念押しする。
窓の下の、コンクリート岸の向こうで、夜の海が深い淵のように静かに揺らいでいた。
依頼主の住まいを後にし、夜の海沿いの街から車で遠ざかりながら、運転席の酒井は助手席の和泉に声をかける。
「お前、ほんまに頑丈にできとるなあ、和泉。」
「は?」
「前回、大森パトロール社とかかわって、まあ全体としてはうちの仕事はできたとはいえ、あんだけ後味悪い思いしたのに、ようまたおんなじあいつらを相手にしたいと思うたなと。しかも今回は前回みたいな上品な案件とちゃうしな。」
「言い方は違うけど、吉田さんもだいたい同じことをおっしゃってました。」
「これは俺の勘やけどな。」
「はい。」
「二度あることは何度でもある。お前はたぶん、あの会社と相性が悪い。また、何度でも、嫌な思いすると思うで。」
「・・・そうかもしれませんけど。二度でも三度でも百度でも、別にかまわない。・・苦手な相手って、逃げるより正面から関わり続けるほうが、よっぽどラクですから。」
「はははは」
酒井は大きな声で、楽しそうに笑った。
「お前、なんか最近、ちょっと恭子さんみたいやなあ。」
吉田を酒井は名前で呼ぶ。
「えええ!なにをそんな、私が吉田さんみたいだなんて、恐れ多い・・・」
「いや、あんなにすごい人はもちろんこの世にほかにおらんけどな。まあ、女ならではの地味なしぶとさっちゅうんかな。」
「吉田さん、そういえばこの間、なんだか気になることを、おっしゃってました。」
「ん?」
酒井が煙草に手を伸ばし、和泉の強烈な視線に気が付いて手を引っ込める。
「私、吉田さんがいつも自信をもって仕事をしておられるから、そんなふうになりたいって言ったんです。」
「そしたら?」
「吉田さんは、自分は自信というようなものじゃなく、なにかその・・・からっぽのものに、よりかかっているだけだ、みたいなことをおっしゃって」
「・・・で?」
「”だから、自分がちょっとでも揺らいだら、それは、自分が去る時”だ・・・って、おっしゃっていました。」
「・・・・。」
酒井は前を向いたまま、表情を特に変えずに、しかしかなりの間だまっていた。
車が海にかかる橋を渡り、街の中心の光の海へと入っていく。
「それは、恭子さんひとりのことというよりも、」
「?」
「うちの会社全体に、いえることなのかも、しれんな。」