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act.8

オペレーター室に戻ると、同僚達の心配そうな顔が出迎えた。


「ユイちゃん、大丈夫なの?何か…女に襲われたようなこと聞いたけど」


そう言って一番の心配顔を見せたのは、一つ年上の葉月玲。

オペ室と言うよりも、宿泊部全体の中でも特に美人に入る玲は、仕事もでき、男女問わず慕われている。

夜勤にも積極的に入っているので、比較的彼女と仕事をすることが多い。

オペレーターになる前はベルガールだったので、オペ歴は結菜の方が長いが、ホテルマンとしても人間としても結菜は彼女を尊敬している。


「玲さん、心配かけてすみません」

「仕事に戻れる?もし無理なら休んでいても良いのよ?」

「大丈夫です。『俺様』へのモーニングコールもありますし」

結菜がそう言うと、玲は目をぱちくりさせ、クスッと笑った。


「そうね、彼の場合、ユイちゃんじゃないとダメみたいだし」


何故か嬉しそうにニコニコしている玲を見て、

「玲さんは五十嵐ホールディングスのこと知っていますか?」

何となく尋ねてみた。


「んー、名前と業界くらいかな?ベルを離れて久しいし、役員とかもう覚えてないわ」

「そうですか…」

「でも、どうして急に?」

毎朝起こしている割には、今まで五十嵐悠真本人に興味を見せていなかった結菜に首を傾げる。


「たまたま…最近、企業買収云々っ話を聞いたので、どうなのかなー?なんて…」

「なるほど。そう言えばニュースになっていたわね。でも、そういう事なら大ちゃんに聞いてみるのが一番かも」

「あ!」


玲の言う『大ちゃん』の名を聞いて、どうして思いつかなかったと自分を叱りたくなる。


「大ちゃんなら、間違いなく何か知っているんじゃないかしら」


そう言いながら、玲はインカムを耳に当て交換台のスイッチを入れる。

話している内容からして、どうやらベルデスクに連絡しているらしい。

「判った、ありがとう」と明るく答えインカムを外すと、

「大ちゃん、今日は早番だって。シフトDって言っていたから、7時半出勤ね」

結菜に教えてくれた。


「モーニングコール終わったら、休憩がてら大ちゃんに会いに行くといいわ」

「え?でも、その後の仕事が…」

「大丈夫、五十嵐様は8時にハイヤーの予約が入っているって今言っていたから。それに、ユイちゃん寝ていないでしょ?少しでも仮眠とらないと」

ね?と、優しく微笑む玲に気持ちが和む。


「すみません…」

「いいの。ユイちゃんがお休みも取らずに頑張っているのみんな知っているもの。少しでもバックアップさせて」

玲の言葉に、周りのみんなからも温かい声が掛かる。


結菜は嬉しくて泣きそうな気持ちになりながら、ありがとうございますとお礼を言った。






『俺様』へのモーニングコールが終わり、少しオペ室が落ち着いたのを見計らって、結菜はホテルのロビーへと向かった。

早朝とあってか、ロビーには空港までのリムジンバスを待つ外国人の客が数人、ソファで寛いでいるだけだった。

ベルデスクにいる夜勤明けのベルマンに声をかけると、『大ちゃん』こと、ドアマンの山口大輔は既に玄関エントランスに居るはずと言われた。


自動ドアを潜り、赤い絨毯が敷き詰められたアプローチに出るが、目当ての人物がいない。

辺りを見渡すと、大きな布を抱えて駐車場へと向かう人物が視界に入った。

結菜は小走りになりながら、その人物を追いかける。


「山口さーん!」

手を振りながら声を掛けると、


「おー、結菜じゃん!イイ所に来た!お前も手伝え」

まだ夏と呼べる季節でも無いにも関わらず、浅黒い肌に笑顔を貼り付けた男――山口大輔が答える。


「え?」

言われて戸惑う結菜に、大輔が持っていた布を手渡す。


「地面に着けるなよ」

手渡されたのは社旗だった。


「これ、どうするんですか?」

「どうするって、そりゃ、掲げるんだよ」

「駐車場近くの旗って、ドアマンが掲げていたんですか?」

「まーな。本来であれば国旗は日の出から日没まで掲げるんだけど、うちの場合は早番が出勤時に掲げて、中番が日没と共に下げてるんだよ」

「知りませんでした…」

「ふつー気にしている奴なんていないだろ」


言われてその通りだと思った。

旗が風に靡いている姿は日常の景観に溶け込んでいて、誰が揚げているかなど気にした事はなかった。


「あれ?雨の日ってどうしてるんです?」

「あのな…国旗は雨の日屋外に掲げねーの」

呆れたようなツッコミが入る。


「無知ですみませんねー」

「安心しろ。ドアに異動してきたら俺が手取り足取り教えてやるから」

「それにしても旗って意外と嵩張るんですね」

折り畳まれた布をよいしょと持ち直す。

「スルーかよ!……遠目からだと判らねーけど、実際は結構な大きさなんだよ」



そんな会話をしながら、三本立っているポールの下までやって来ると、

「先ずは日本国旗から掲げるから、俺のやり方見てろ」

そう言って大輔はポケットから黒い取っ手が付いている金属レギュレターハンドルを取り出すと、ポール下部についているボックスの穴に差し込む。


旗の上部と下部のフックを、同じようにポールに付いているフックに取り付け、旗が地面に着かないように抱えると、差し込んだハンドルを回す。

ハンドルを回す度にフックとポールに巻き付いたロープがポールへと当たり、軽快な音を立てながら旗が見る見る揚がっていく。


「よし、いっちょ上がり。ほら、お前もやってみろ」

そう言って、ハンドルを外し結菜に手渡す。


結菜は言われるまま、見様見真似で社旗を取り付け、ハンドルを回そうとするが…。


「重っ!」

思った以上に回らないハンドルに四苦八苦する。


「そうなんだよ、うちのポール古いせいか、このハンドルが重くて中々回んねーんだよ」

「それを早く言ってください!」

文句を言いつつも力を込めてハンドルを回している結菜を見ながら、大輔は爆笑した。



日本国旗、社旗、ホテル旗の順で掲げられた旗を見上げながら、

「で、ロビーまで結菜が出てくるなんて珍しいな。どうしたんだ?」

大輔が問う。


「実は山口さんに聞きたいことがあって」

「俺に?」

「五十嵐ホールディングスについて詳しいですか?」

「あ…そういやお前、社長の息子の面倒みているんだっけ」

「別に面倒見ている訳じゃないんですけど…」

「俺が知っていると言っても、新聞やネットに載っている情報くらいだけど?」

「最近、買収しようとしている会社があるって知っています?」

「ああ。多分、日鉄エンジのことだな」

「社名判るんですか?!」


大輔がそこまで知っていることに純粋に驚くと、彼は種明かしをしてくれた。

ここ半年くらいの間、五十嵐ホールディングスの役員二人と、日鉄エンジこと、日本鉄鋼エンジニアリングの社長、役員数人が、頻繁に会食をしに来るらしい。

日本鉄鋼エンジニアリングは大手ではないものの、油ガスの探鉱、開発、生産活動に必要な重機や資材を主に輸出している会社で、五十嵐ホールディングスが買収してもそれなりにメリットはあると思われる会社とのこと。


「確か先週も来ていた気がする」

「五十嵐ホールディングスの役員と、日本鉄鋼エンジニアリングの社長、役員ですか?」

「ああ。日鉄エンジの方はたまにメンバー違うんだけど、五十嵐ホールディングスの役員二人はいつも一緒だな。確か名前は…」


大輔はしばらく考え込むが答えが出ないらしく、悪いがドアデスクまで来てくれと結菜を促した。



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