act.7
結菜が寝室へ戻ると、悠真がベッドの端に座り窓の外を眺めていた。
窓の外は闇が薄くなり始め、夜明けが近い。
そんな乳白色の空を彼はただ静かに見つめていた。
彼に声を掛けようとして、今更ながらに躊躇う。
ホテルのスタッフであると知られた以上、「五十嵐様」と声を掛けるべきなのか、それとも今までのように「五十嵐くん」と声を掛けるべきなのか……。
無言のまま近づくと、彼が結菜に気づいた。
そして、「悪かった」と一言。
結菜はゆっくりと首を振る。
「私の方こそ…。庇っていただき、ありがとうございます」
結菜の物言いに、悠真は顔を顰める。
「やめてくれ。今まで通りでいい」
「ですが…」
「ここまで醜態見せておきながら、今更、五十嵐様とか呼ばれたくない!」
悠真の強い口調に息を呑む。
そんな結菜に気づき、彼も自分の言動にショックを受けたようだった。
「大概…ガキだな、俺も」
自嘲気味に笑う。
こんな表情を見るのは、今夜二度目だ。
――――『悠真様は、まだ19歳なのです』
足立の言葉が頭を過ぎる。
深夜のバーでひとり、本を持ち込み夜を過ごしていた彼。
あたしと出会う前は、どうしていたんだろう。
独りでずっと――――。
初めて会ったとき、『酒も飲めない子供』と皮肉ったことを思い出すと、胸がチクリと痛んだ。
「足立から何か聞いたか?」
「…何も」
再び首を振ると、悠真は立ったままの結菜に手を伸ばした。
縋るように差し出されたその手を自然と受け取る。
ここに居てくれとでも言うように、ぎゅっと力を込め握り返す彼。
結菜は導かれるように、悠真の隣に腰掛けた。
「このホテルに泊まるよう言ったのは親父なんだ」
「お父様が?どうして?」
「…俺は今、親父と取引をしている。……いや、取引と言うよりも賭けだな」
悠真はぽつりと語り始める。
高校を卒業し大学に進んだ悠真は、自分の境遇にうんざりしていた。
『五十嵐』の名前目的に近づいてくる、自称友人。
悠真の見目と父親の財産目当てで近づいてくる、自称彼女。
高校生までのある意味閉ざされた学生時代とは違い、払っても払っても切りが無い。
かといって、彼の立場では感情のまま無下にすることもできず――。
自由になりたかった。
自分を知らない人間たちがいる場所へ行きたかった。
しかし、今の環境では叶いそうもない。
それならば…、周りが放っておかないのであれば、自分が出て行けばいい。
そう思い留学をすることに決めた。
「留学……」
その二文字に結菜の心はモヤモヤし始めたが、今は敢えて考えないようにした。
「自由と言っても期間限定だけどな。留学先の大学を卒業するまで。その間は五十嵐家に縛られず、ただの学生として過ごす」
「…その賭けはどうしたら成功するの?」
「判らない」
悠真の回答に困惑する。
「このホテルに泊まり、親父の仕事の手伝いをするように言われた。そして何かしらの成果を見せろと。結果が残せたら、留学を許すと。……秘書の足立を付けられ、言われるまま自分なりにこなしているが、何をどうしたら親父が納得できるのか判らない」
「そんな…」
「今、うちの会社で買収しようとしている企業がある。それに関することだろうとは目星が付いているんだ。だから多分、リミットは次の株主総会まで」
「と言うことは、後二ヶ月強…」
結菜の言葉に頷く。
「その買収について、会社の中でも意見が二分している。だけど、買うべきか買わざるべきか、決定的な判断ができずにいる」
「…ここまで聞いておいて何だけど、そんな話をあたしにして良いの?」
「別に隠すことでもない。うちの会社が買収かけているのはニュースにもなっているからな」
彼が語った事情を頭の中で整理する。
滞在している理由も、大学に行かず何をしているかも理解できた。
騒ぎを起こしたくないと言った理由も。
この大事な時期に、社長の息子が女とトラブルを起こしたなどとは騒がれたくないだろう。
当然、悠真の賭けにも影響が出る可能性がある。
しかし、腑に落ちないのは、何故このホテルに滞在しろと父親が指示したかだ。
仕事を手伝うなら、自宅でも良いはず。
どうしてなんだろう…?
買収にうちのホテルが絡んでる?
――まさか。
直ぐにその考えを否定する。
五十嵐ホールディングスは、確か石油や天然ガスの開発事業、輸入などを主に手がけている会社だ。
そんな業界にホテルが絡んでいるとは思えない。
――判らない。
そこにヒントがありそうなのに。
「結菜?」
急に黙り込んだ結菜を訝しんで悠真が顔を覗き込む。
強い意志を宿したビロードの瞳。
彼に対して、あたしが出来ることは何だろう?
――ううん、考えるまでもない。
あたしが出来ることなど決まっている。
悠真の顔を見返して、結菜はふわりと微笑んだ。
「少し寝たほうがいいわ」
「今更寝ろと言われても…」
「どうせ明日もその賭けのために動かなきゃいけいんでしょう?それなら、少しでも休んだほうが良いわ」
「…朝は苦手なんだ」
悠真の渋面顔にクスリと笑う。
そんなことは百も承知だ。
彼は結菜のモーニングコールで、一度で起きた試しがない。
「大丈夫、ちゃんと起きれるから」
それだけは間違いなく約束できる。
悠真にしてあげられる事の、数少ない内のひとつだから――――。
悠真には寝るように指示したものの、結菜にはまだやる事が残っていた。
今回の騒動を大きな事にしたくないと悠真は言ったが、ホテル側としてはそうもいかない。
結菜たちが滞在客にしてあげられるのは、快適な空間とサービスを提供すること、そして何より滞在時の安全確保。
ホテルを安心して使ってもらえないなど言語道断である。
事の説明が必要だとレセプションのバックヤードへ行ってみると、既に当直のアシスタント・マネージャーとナイト・マネージャー、そしてラウルが結菜を待っていた。
結菜は悠真を付け回す女の事を詳細に話した。
電話だけで飽き足らず直接乗り込んできたのだ、付け回すと言っても良いだろう。
安全確保のため、より一層の警戒が必要だと伝える。
それから、今夜の経緯だけでなく、毎夜バーで悠真と会っていたことも含め報告する。
昼間、ホテルがまた活発に活動し始める頃には、支配人の耳にも入るだろう。
従業員がホテル客と業務中に会っていたなど、許されることではない。
もう、会うなと言われる。
結菜はそう思ったが、二人のマネージャーは至って静かに話を聞いた後、何も言及せずに職場に戻れと言った。
単純な報告だけで終わったことを不思議に思い、ラウルが何か言ったのかと視線を送るが、彼は片眉を上げただけだった。
何のお咎めも無く開放され、心配が杞憂に終わった事にホッとしつつ、結菜はオペレーター室へと足を向けた。




