act.5
金持ちの道楽息子。
当初、悠真をそう思い込んでいた結菜は、彼と話をしながら、日々自分の考えが変化していくのを実感していた。
年下と思えないほどに豊富な知識と社交性。
社会的な自分の立場をきちんと把握しており、『俺様』的な態度はそのままだが、決して我が儘では無い。
何より感心するのは悠真のタフさだ。
毎朝6時に起き、夜は1時を過ぎた頃から、1時間ないし2時間ほど結菜とバーで夜更かし。
結菜が知るかぎりでは日中も精力的に動いているようで、ホテルでのんびり過ごしている様子は無い。
当然、睡眠時間も少ないだろう。
眉目秀麗な容姿と相成ってか、欠点なんてものが無いのではと思うほどだ。
悠真がそんな生活をしていれば、彼に合わせて仕事をしている結菜も同じような生活になる。
しかし、仕事となればそれで根を上げるのは結菜のプライドが許さなかった。
――正直、プライドというより意地と言っても良いのだが…。
つまるところ、偶然出会った結菜と悠真の関係は、更に奇妙なものへと変わっていた。
結菜は朝、悠真を起こし、日中はひたすら外線、もしくは彼からの用件を聞き電話を繋ぐ、インカム越しの声だけの関係。
そして一方。
毎夜、自分の素性を隠しつつ、ホテル上層階にあるバーで彼の話し相手になる。
そんな悠真との意地の張り合いみたいな夜更かしが日増し楽しみになりつつ……悩みもできた。
彼女を悩ませているのは、初めてバーで会ったとき以来見せる、彼の砕けた態度と結菜を見つめる瞳。
そして、彼に会いたいという素直な欲求。
昼間、結菜に聞かせる電話口の声は事務的、冷たいと言っても良い素振りなので、夜会うときに見せる変貌とギャップが、更にその悩みを増長させていた。
年下だから、と自分に言い聞かせても、時折見せる彼の笑顔に胸が疼く。
しかし、初心だと思われる年をとうに過ぎている結菜は、自身の想いに引きずられそうになっていることに気付きつつも、流されることはなかった…………今のところは。
そんな悩ましくも充実した日々が続き、結菜のホテル生活は半月をとうに超えていた。
仕事を終え、例によって『coeurs d'ombre』へ行ってみると、ラウルがいつものように出迎えた。
そして一杯オーダーをすると、そのまま奥のボックス席へと向かう。
ボックス席に入ると、悠真が同じく、いつものように本を片手にソファで寛いでいた。
「本、好き?」
結菜が声を掛けると、
「ああ。暇つぶしには最適だし、何より面白い。こんなに思考が駄々漏れな物って他にないだろ?」
「思考が駄々漏れって…」
確かに、本は著者の思考や想いがそのまま詰まっていると言っても良いもの。
だけど…あたしの顔を見ながら言わないで欲しい。
まるであたしの思考が駄々漏れしているって、言っているみたいじゃない。
悠真は徐に読みかけの本を閉じると、結菜の真横に移動した。
肩が触れ合うほどの距離に、結菜は無意識に緊張する。
相手は十代。
許容範囲じゃ無い、と言い聞かせても、どうしてもこの年下の生意気な彼に男を意識してしまっている。
それを感じ取られるのは癪に障るので、結菜は努めて冷静にいられるようお腹に力を入れた。
しばらく他愛のない話をしていると、ラウルが頼んだカクテルを持って来た。
長深いタンブラーに、黒曜石のような色合いが光っている。
「それは?」
「ブラック・ベルベット」
「ブラック・ベルベット?」
「スタウト・ビールと、シャンパンを同量で割ったカクテルなの」
「ビール好きの俺としては、何も混ぜずにそのまま飲むほうが好きだけどね」
ビールベースのカクテルが好きではないラウルがそう言って結菜にグラスを渡す。
「何とでも言うがいいわ」
「はいはい。ごゆっくりどうぞ」
そう言うと、ラウルはボックス席から出て行った。
「ほら、黒いビロードみたいでしょ?」
受け取ったグラスを眼下のネオンに晒すよう掲げる。
「確かに、綺麗だな」
いつの間にか彼の腕は結菜の背中へと回され、体だけでなく、顔までくっつきそうな距離に座っていた。
グラスに口をつける結菜をじっと見つめる悠真。
一口味わった後、結菜は下唇を舌の先で舐める。
そして無意識に少しだけ口を開いた。
吸い寄せられるように悠真の顔が近づいたとき――――、
鋭い女の声が刺した。
「悠真!」
二人して我に返ったようにその声のする方を見ると、若い女が腕を組んで二人を見下ろしていた。
悠真はその女と思わしき名を呟くと軽く顔を顰めた。
「…このホテルの従業員はこぞって嘘吐きみたいね」
その女の言い方に、結菜はカチンときた。
「どう言う意味?」と、詰問しようとした言葉を何とか飲み込む。
ここでホテルスタッフの立場になって文句を言うのはお門違いだと理性が告げていた。
「何が『五十嵐様は滞在しておりません』よ。しっかり居るじゃない」
「…嘘を吐いているんじゃない。ただここのホテルスタッフが優秀なだけだ」
「そんなことどうでもいいわ!」
女がヒステリックに叫ぶ。
その耳を劈くような声を、結菜はどこかで聞いたと思った。
思考を巡らせる…。
あ!
もしかしてこの人……。
毎日、何十人と人間の声を聞いている結菜はすぐ気がついた。
この声、五十嵐くん宛に電話し、電話口で彼を怒鳴っていた…。
答えが出ると、結菜はマズイと思った。
夜中、ホテルのバーでこんなに体を密着させているのを見られているとなると……。
「私と別れた理由はこの女!?」
そう言って、女が結菜を指差す。
予感的中に、結菜は思わずため息を吐いた。
言い訳をしても無駄かもしれないと思ったが、誤解を解こうと口を開こうとすると、
「そんなわけないだろう?」
悠真が否定する。
「悠真、一体どうしたの?今まで通りの生活ができない、なんて。急にそんなこと言われて納得できるわけ無いでしょう?!」
「お前が納得できる、できないの問題じゃない。俺は今遊んでいる暇は無い、そう言ったはずだ」
「私と会う暇は無いけど、その女とは会う暇があるってわけ?!」
「俺と結菜が会っていることはお前に関係ない」
「なっ…」
「俺が会いたいから会っているだけだ」
悠真の言葉に心が波立ち、顔が火照る。
揺れそうになる心を落ち着けようとひとつ深呼吸すると、結菜はソファから立ち上がった。
「五十嵐くん。ここで彼女とゆっくり話すと良いわ。どうやら貴方達には話し合いが必要みたいだし。ほら、このボックス席なら滅多に客も来ないし、ね?」
そして、足早に立ち去ろうとすると、
「結菜」
悠真が腕を掴んだ。
「……五十嵐くん、離して」
「離さない」
綺麗だ、と悠真が言ったブラックベルベットのような瞳が結菜を見据える。
何度か出会ったことがある、彼の真剣な目がそこにあった。
どうしてそんな目で見るの…?
その目を見る度に尋ねたくなるが、一度も実現したことは無い問い。
「そう…やっぱり、そういうことなのね…」
怒りを抑えたような女の声に、結菜の思考が現実に戻る。
離して、と、再び口を開こうとすると――――、
「結菜!」
叫ぶ声と共に、目の前に何かが迫る。
何が起こったのか判らないまま押し倒された瞬間、結菜の耳に飛び込んできたのは、ガラスが割れる大きな音だった。
そして、生暖かい何かが結菜の頬を伝う。
思わずその生暖かい何かを手で拭うと、結菜は自分の手を見る。
ネオンの灯りに照らされたのは、赤黒く染まった自身の手だった。
「五十嵐くん!?」
何が起こったのかを理解すると、結菜は自分に覆い被さっている悠真を起こした。
彼の肩を掴むと、苦痛に呻く声が聞こえた。
足元には粉々に砕け散ったタンブラーの破片。
それを投げつけたと思われる女はとうに消えていた。
「ラウル!ラウル!!!」
ホテルのバーにいると言うことも忘れ、結菜は真っ青になりながらバーテンダーの名を叫んだ。




