act.3
座っている男を見た時その場で気付かなかったことに、結菜は舌打ちしそうになる。
しかし、雑誌で一瞬見ただけの顔を、この暗がりの中で判断しろとは酷な話。
「夜中にボンドガールに会えるとは」
皮肉を込めた悠真の物言いに、結菜は感心した。
妙にそれが、目の前の男に似合っていたためだ。
毎日言葉を交わしているのに、まともに会話をしたことがなかった二人。
にも関わらず結菜は、彼は普段からこう言う感じなんだろうと納得した。
「酒も飲めない子供に言われたくない皮肉ね」
声を発すれば、自分が誰だか判ってしまうのではと一瞬思ったが、思うより先に、自分の口からも皮肉なセリフが飛び出していた。
だが、悠真は怒るふうでもなく、軽く鼻であしらう。
「生憎、日本の法律だと19歳では酒が飲めない」
「でしょうね」
「…俺のこと知っているんだな」
「ええ。五十嵐悠真くんでしょう?有名人は身元がすぐにバレて大変ね」
数日前まで悠真の存在など知らなかった、とは微塵も表に出さず、結菜はふふっと笑う。
それを見た悠真は眉を顰めた。
そして結菜の顔をじっと見つめる。
「お前どっかで…。いや……」
言いかけた悠真に、結菜は首を傾げる。
「何?」
「お前、よくここに来るのか?」
そう言った悠真に対し、結菜は軽くため息を吐いた。
「お前じゃないわ。あたしには、鈴木結菜って立派な名前があるの」
「…で?結菜はよくここに来るのか?」
いきなり呼び捨てかよと思いながらも、結菜は素直に頷く。
「ここ、VIP席だろ?貸し切ったつもりだったんだが、まさか他に人が来るとは思わなかった」
「他に人がって…そう言えば貴方、学生よね?こんな時間にこんなところで何をやっているの?」
言いながら、結菜は思わず彼が飲んでいる物に視線を落とした。
いくらVIP客だからといって、未成年に酒を出しているなど知られたら、ホテル側としては大変なことになる。
「ただのコーヒーだ。アルコールは一滴も入っていない」
結菜の視線が言わんとしたことを読み取り、悠真は答えた。
「そう。19歳の五十嵐くんにはとってもお似合いの飲み物ね」
ついつい嫌味っぽく返してしまうのは、悠真の纏う雰囲気のせいだ。
ビジネス上の立場なら尊大。
プライベートなら不遜。
どちらにしろ不満を感じるのは致し方ない。
そんなやり取りの中、ラウルがマティーニを運んで来た。
「おいしそう~」
目の前に置かれたそれを見て、結菜の目が輝く。
結菜はラウルが作るヴェスパー・マティーニが好きだった。
カクテルグラスに添えられているレモンは、太めのマドラーに巻き付くように細い螺旋状になっており、見目も楽しませてくれるからだ。
「五十嵐様は、いかがなさいますか?」
空になったカップの中身を見てラウルが尋ねた。
「いや、俺はもういい」
「かしこまりました」
ラウルは一礼すると、出て行った。
再び二人きりになると、悠真は寛いだ様子でソファの端にヒジを付き、結菜の様子を眺め始めた。
しばらく見ていると、自然と口の端が持ち上がった。
「美味そうに飲むんだな」
思わずそう言う。
「だって本当に美味しいんだもの」
嬉しそうに答える結菜。
「この美味しさが体験できないなんて…人生損しているわね」
グラスの中、マドラーに巻かれたレモンの端を結菜は口に含んだ。
噛んだレモンの皮から染みたジンとウォッカが滴り落ち、彼女の唇から溢れる。
意識せずにそれを舌で舐め上げると、悠真はその唇に釘付けとなった。
「確かに、そんな美味そうな物を目の前にして手を出さないのは、人生損しているな」
そう耳元で囁かれた。
え?
耳元で…?
と思った次の瞬間には、結菜の口は悠真の唇で塞がれていた。
ふいをつかれ、構えていなかった彼女の口内に悠真は舌を滑り込ませる。
まるで結菜が飲んだマティーニを奪い、飲み干すかのように貪ると、彼女の喉奥から甘い声が零れた。
それを聞くと、悠真は満足げに彼女の下唇を舐め上げ、唇を放した。
「美味いな」
言って、悠真が今度は自分自身の唇を舐め上げた。
その仕草を、熱の籠もった瞳でぼーっと眺めていた結菜は、はっと我に返った。
今…。
今、この男!
「なにするの!」と叫びそうになった言葉をぐっと飲み込み、何とか動揺を見せまいと息を吸い込む。
「それは…お粗末様でした」
擦れそうになる声で、どうにかそう答える。
そんな結菜の様子を見て、悠真は意外そうな顔をすると、再びじっと彼女を見つめる。
「な…に?」
「明日またここに来るか?」
「え?」
「明日のこの時間、またここに来い」
聞き返して返って来た言葉は明らかに命令だった。
「何で、あたしが…」
結菜が呆然と答えると、悠真はまた皮肉っぽく笑った。
「俺は未成年で酒が飲めない。だが…、どうやら酒の味を知るには他にも方法があるみたいだからな。だから俺にも…」
そこで言葉を切ると、再びキスが出来そうなほど結菜に顔を近づけた。
「人生を損させないように、明日もレクチャーしてくれ」
そう言い残すと、悠真はテーブル上の本を拾い上げ、ボックス席から出て行った。
――――悠真の姿が見えなくなると、力が抜けたように結菜の体がソファに沈んだ。
熱くなった頬を両手で押さえる。
…あんっの、『俺様』!
絶対にあたしの反応見て楽しんでいた!
しかも、不意をつかれたとは言え……!!
頬の熱は、アルコールからきているものだけではないと、結菜にも十分すぎるほど判っていた。




