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act.2

交換台の前に座り、先程から「うーん」だとか、「む~」だとか、妙な唸り声を発している結菜を、同僚の伊藤葵は心配そうに見つめていた。


「…結菜さん、大丈夫ですか?」

葵が恐る恐る声を掛けると、結菜が顔を上げた。


「んー?」

「あの…体調、悪いんですか?」

「体調?悪い…と言うか、いつもの調子が全く出ない…」

「え?それは大変です!具合が悪いようでしたら、先に部屋へ戻っていただいても…」

焦ったように葵が言う。


葵が言う部屋とは、もちろん結菜の家のことではない。

ホテルの客室のことだ。

家に帰れない結菜の為、ホテル側が用意したVACANT部屋。

連続勤務9日を越えたところで、仮眠室ではあまりにも辛い、一日でも家に帰らせてくれと宿泊部の支配人に泣きついたところ、部屋が用意されたのだ。


そこまでして帰らせたくないのかと結菜は思ったが、彼女がいなければ別の人間が『俺様』の対応をすることになる。

オペ室だけでなく、宿泊部全体としてそれだけは避けたかったのかもしれない。

それに結菜が使用している客室フロアで、客室マネージャー、アシスタントマネージャー、コンシェルジュのトップなど、ベテランクラスのスタッフと、早朝、もしくは深夜にすれ違う。

『俺様』対応のため、ホテルで缶詰になっているスタッフが結菜以外にもいる、また、ある意味、責任ある仕事を任されていると思えば、彼女も強くは出れなかった。


葵の「部屋へ戻れ」のセリフに、結菜は突っ伏している交換台のデジタル時計に目をやる。

AM 1:05

5時間後には『俺様』へのモーニングコールがある。

仮眠を取るなら部屋に戻っても良い時間帯。

勤務中と言えば勤務中だが、連続夜勤を続けている結菜に文句を言う同僚はいない。


「別に具合が悪いわけじゃないの。ただ…」

「ただ?」

「ここのところ、酒を飲んでないから、調子が出なくて」

「は?」

結菜の返答に、葵が間抜けな声を出した。


「だって、ずっと夜勤続きなのよ!ホテルに缶詰で!おかげで家にもゆっくり帰れない上に、飲みにも行けないしっ。こんなことになるなら、チーフみたいに結婚しておけばよかった!」

そう力説する結菜に対し、どう答えたらいいのか判らず、「はぁ」と、葵は再び間抜けな声で返す。


現在オペレータースタッフには、結菜の上にも何人か長く勤務しているスタッフがいるのだが、既にその主任クラスの女性は皆結婚をしているため、会社の方針で夜勤をやることは滅多にない。

殆どが日勤での仕事。

なので、今回のこの五十嵐悠真に対する処遇の扱いも、結菜に話が持ってこられたのだが――。


「結菜さんって、結婚するような相手いたんですか?」

葵が純粋に思った疑問を投げかけると、結菜はジト目で睨んだ。


「葵、もしかして喧嘩売ってんの?」

「まさかっ」

慌てて首を振る。


「もうこれ以上耐えられない~」

そう言って、結菜は再び交換台に突っ伏した。


「疲れているようですし、休憩されたらどうですか?」

「休憩ねぇ…」

結菜はそう呟いた次の瞬間、「そうだ!」と言って突然立ち上がった。


「そうね、そうする!」

言って、葵の手を取る。


「ど、どうしたんですか?」

「葵の言うとおり、休憩に行ってくる」

結菜はそう言うと、フロア出口ではなく、反対側にあるロッカールームへと歩いて行った。


「結菜さん?そっちはロッカーですけど…?」

葵が不思議そうに尋ねると、結菜はニッコリと笑った。






結菜が働くホテル最上階のひとつ下の階には、『coeurs d'ombre』と言う名のバーがある。

夜景が見える上に、落ち着いた雰囲気が若いカップルを中心に人気が出ていた。

出すお酒も美味しいと定評があるのだが、本当はその酒を出すバーテンダーが客を寄せているのではないかと結菜は思ってる。

その客寄せバーテンダーこと、ラウル・リジェ・日向ヒュウガは、彼の蒼い瞳でその人物を捕らえたとき、思わず目を見開いた。


「ハロー、ラウル!」

ロッカーにしまっていた黒いパンツスーツに身を包んだ結菜は、カウンター中にいるラウルに手を振った。

彼の目の前まで歩いて行くと、カウンターにヒジをついて身を乗り出す。


「結菜、久しぶりだな。いいのか?ここに来て…」

「いーのっ。飲まなきゃやってらんないもん」

そう言って頬を膨らませる彼女を見て、ラウルは苦笑した。


黒髪に碧眼、フランス人のような名を持つラウルだが、れっきとした日本人。

彼が話す日本語、フランス語は流暢だが、英語もネイティブに使いこなせるのを結菜は知っている。

そして、彼女にとっては貴重な飲み友達だった。


「夜勤続きか?」

「うん。当分ね。この時間にやっている近場の飲み屋って言ったらここしかないでしょ」

「近場の飲み屋扱いかよ」

呆れたようにラウルが言う。


「一杯だけだから、お願い!」

そう言いながら手を合わせると、

「判った、一杯だけだぞ」

ラウルはあっさり了承した。

やった!と、結菜がはしゃぐと、ラウルはククッと笑った。


「…何よ、そんなに笑うことないでしょ」

「いや、芹沢さんの言うとおりになったなと思って」

「芹沢さん?」

料飲部支配人の名前が出てきて、結菜は首を傾げる。


「芹沢さん、米倉さんから直々に言わられたらしいぞ。結菜がバーに顔出したら、一杯くらい奢ってやってくれって」

「えっ?!」

「家に帰りたいって米倉さんに泣きついた時、酒も飲めないじゃないかって食って掛かったんだろ?」


うわー。

あたしの行動、筒抜けかいっ。


「労働時間の基準とか、いろいろ無視して無茶振りしているって、芹沢さんも米倉さんも判っているから。まぁ、好意に甘えておけ」


実のところ結菜は、翌日出勤となっている夜中『coeurs d'ombre』で飲み明かし、そのままホテルに泊まって出勤すると言うのを何度か経験していた。

だが、その働いている最中に来るのは初めてだった。


「結菜の酒好きは料飲部の皆も知っているからな。当然、上司である宿泊部支配人も知っているだろ」

当たり前のように言われ、結菜は何とも言えない表情になった。



平日の夜中とあってか、いつもはたくさんの人で賑わっているバーも客はまばら。

ラウルが働くカウンター席には、普段なら女性客でいっぱいになっているはずだが、殆どが空席となっていた。

結菜は少し考えた後、ヒジをついているカウンター席にではなく奥へと歩き出した。


「ラウル、あたし、あそこに座るから」

結菜がそう言うと、


「ああ…って、あ!オイ、そっちはっ…」

他の客の注文に気を取られ、適当に答えたのだが、結菜が歩いて行った方向を見て焦ったようにラウルは言った。

が、既に声を上げた時には遅く、結菜はその奥の席へと消えていた。


『coeurs d'ombre』には、VIP御用達のボックス席が設けられている。

入り口から一番奥、照明が暗いせいか一見ただの壁のように見えるのだが、サイドに入り口があり、回り込んで入れるようになっている。

入ると目の前は一面ガラス張りになっており、綺麗な夜景が楽しめる。

そしてコの字型に、アメリカから取り寄せた特注の革張りのソファがいくつか鎮座し、その前には大きな黒い大理石のテーブル。

黒で染められた部屋に、壁に掛かっているエドワード・ホッパーの絵がだけが、夜の明かりを受けて光を添えているようだった。


どうせ誰もいないだろうと思ってそのボックス席にやって来た結菜は、ソファの端に座る人物を見つけ、一瞬だけ足を止めた。

サイドテーブルに置いてある、イサム・ノグチの灯りを頼りに本を読んでいたその彼は、足を止めた結菜をちらりと見上げ、再び本へと視線を落とす。

どうしようかと迷ったが、ここで出て行くのも何だか不自然な感じがし、結菜は先客が座っている反対側へと腰を下ろした。


そこへ、ラウルが同じようにボックス席へと入って来た。

座っている結菜を見つけると、軽く眉を上げる。

結菜は仕方ないでしょうとでも言いたげに、肩を竦めて見せた。


「ご注文はお決まりですか?」

ラウルも他の客の前で何かと言うのは諦め、おとなしく注文を取ることにした。


「ヴェスパー・マティーニ」

結菜がそう言うと、ラウルは一瞬何か言いたそうな顔をしつつも、「かしこまりました」と言って、出て行った。


こんなに頑張って働いているんだもの。

貴重なお酒ぐらい出してもらわないと!

結菜はラウルの言いかけたことを正確に読み取り、心の中で舌を出す。



彼が出て行くと、奥に座っていた人物がフッと鼻で笑った。

そして……「ジェームズ・ボンドか」と呟いた。



――その呟きを、声を聞いた瞬間、結菜の動きが止まった。

たった一言だったが、彼女を緊張させるには十分だった。


不機嫌で、尊大、それでいてどこか心地よい……。


ここ数日、毎日結菜の耳を埋め尽くしていた、五十嵐悠真のものだった――――。



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