act.22
「ハイ、カットー!結構でーす!」
チャペルに響き渡るその声に、結菜はパチリと目を開けた。
と同時に、顔に近付いていたラウルの気配が遠ざかる。
「はああぁ…」
思いっきり息を吐いて結菜は脱力する。
思わずしゃがみ込みそうになるが、ドレス姿なのでそこは我慢する。
「結菜、大丈夫か?」
「何とか。あたし、ちゃんと笑えてた?」
「うん。まぁ、思わず本当にキスしそうになるくらいには可愛かった」
「嘘くさっ!」
「嘘くさいってお前な…」
「普段から玲さんしか見てないクセによく言うわ」
「当たり前だ、俺の素敵な奥さんだからな」
「あっそ」
「結菜こそ俺を見てなかっただろ?」
「見てたわよ?」
「違う。絶対に途中、他の男の事考えてた」
「うっ…」
図星を指され言葉に詰まる。
「で?悠真とはどうなってるんだ?」
「どうもこうも別に…同じだけど」
「相変わらず文通続けてんの?」
「悪い?」
「いや、悪いとかそう言う問題じゃなくて…」
ラウルの言わんとしたいことは判る。
悠真が留学してから進展のない二人の関係にヤキモキしているのだろう。
あまりにも焦れったいので、どうなっているんだと時々ラウル自身も悠真に連絡を取っている内に、彼も『悠真』と呼ぶまで親しくなってしまっている。
「会ったのだって一年以上前だろ?」
「うん…」
悠真が渡米して、既に三年の月日が経っていた。
その間、結菜はずっと文通を続けている。
意外な事に悠真は筆まめらしく、二、三週間に一度は手紙を送ってくる。
内容は他愛のない物が多いが、今では無くてはならない生活の一部になっている。
そんな結菜を傍で見ていたラウルに促されて、一度だけ悠真に会いに行ったのだが、それも一年以上前の話だ。
「ラウル、ユイちゃんにはユイちゃんの考えがあるの。そんなに責めないで」
そう言って、大きなお腹をした玲がやって来ると、ラウルは彼女に近付き背中に手を添え、支えるように横に立つ。
玲を見つめる目は甘く優しい。
料飲部イチの美男と宿泊部イチの美女。
実は二人が付き合っていたと結菜が知ったのは、結婚すると聞かされる数ヶ月前だったが、寧ろ思いつかなかったのが不思議なくらい、誰がどう見てもお似合いのカップルだ。
「ラウルは今回の件でユイちゃんにお世話になっているだから、イジメたりしないの」
「別にイジメたりしている訳じゃないんだけど…」
そう言ってラウルは肩を竦めた。
婚礼が少なくなる夏場のこの時期、結菜が働くホテルでもブライダルフェアが開催される事になった。
営業用の撮影も兼ねたサンプルとして模擬結婚式、披露宴が実施される事となったのだが、新郎役は社内人気投票ダントツ一位でラウルがゲット。
しかし、彼は演りたくないと辞退しようとした。
理由は単純、相手役が玲じゃないから。
彼の横に立つ花嫁として、それ相応の相手に玲なら問題ないが、彼女は丁度一年前にラウルと結婚。
現在は妊娠してお腹が目立ってきてしまっているので、花嫁役はちょっと難しい。
となると当然、玲以外のホテルスタッフか、はたまた何処かのモデルを連れて来ると言う事になるのだが、ラウルが嫌がった。
相手が玲じゃないから、と言うだけでなく、新婦役をする女性に勘違いされても困るからだ。
以前、似たような事で痛い思いをしたラウルは、演りたくないと散々ごねた。
しかし、客寄せにこれ以上の人物はいないと、ブライダル部門のスタッフ達も一切引こうとしなかった。
そんなやり取りの中、終止符を打ったのは玲だった。
彼女がラウルの相手役にと推薦したのは結菜。
ラウルも結菜なら問題ないと言ったため、玲とブライダルのスタッフ達に説得され、この度、花嫁役を演じる羽目になった。
「それでは皆さん、チャペルのシーンは以上です。次は外でライスシャワーの動画撮影となりますので、移動をお願いしまーす!」
大きなカメラを抱え、先ほど「カット」と大きな声で言った撮影スタッフが、再び大きな声でチャペルにいる人達に伝える。
「ねえ、ラウル。これって後どれくらい続くの?」
「あー…多分、ライスシャワーの後は中庭でのツーショット撮影を幾つか。それから模擬披露宴があって、二次会用衣装の撮影か?」
ラウルの回答に結菜はウンザリする。
「まぁまぁ、ユイちゃんも今後の予行練習だと思って頑張って」
「玲さん…正直、こんな大変なのもうやりたくないです…」
「終わったら約束通り、酒を奢ってやるから。それに、やり遂げれば良い事あるかもしれないぞ」
「また適当なこと言って…。何でもいいけど、とっとと移動して終わらせますか」
ドレスの裾を翻し勇ましく扉に向かう結菜に、玲とラウルは顔を見合わせて笑った。
「で?一体どうしてラウルは普通に働いているわけ?」
最後の撮影があると言われ『coeurs d'ombre』にやって来た結菜は、バーカウンターの中に立っているラウルを睨んだ。
彼はその視線に怯むことなく、
「夜景をバックに撮りたいのは花嫁だけなんだと」
そう言ってのけた。
昼間のブライダルフェアを乗り切り、ようやくドレスを脱ぐことができると喜んだところで、更に別のドレスに着替えて『coeurs d'ombre』に来いと言われたのだ。
終始隣に居たラウルが、いつの間にか消えていたのを不思議がりながらバーへと足を踏み入れれば、彼は何故か制服姿で通常業務に戻っている。
深紅のバラを連想させるような膝までの真っ赤なドレスを着た結菜の姿は、黒を基調とした薄暗いバーの雰囲気には馴染んでいたが、当然ドレス姿の客など他には居ない。
昼間と違い一人だけ好奇な目に晒されているようで、何となく落ち着かない。
「ホントにここで撮影するの?」
「安心しろ、フロアじゃない。ボックス席貸し切って撮影するみたいだから。それなら他の人間気にしなくて良いだろ?」
「何であたしだけ…」
「文句言わずに行く。後で酒飲ませてやるから」
「約束だからね!」
ラウルの言葉に念押しすると、結菜は言われるままボックス席へと向かった。
席の入り口でふと足を止める。
――ここに来るのはどれくらい振りだろう…?
ボックス席は、悠真と結菜が会っていた三年前から、時を止めてしまったように何も変わらず、そのままの状態で存在していた。
壁に鎮座しているエドワード・ホッパーの『ナイトホークス』も相変わらずだ。
結菜は絵の前まで歩くと、ぼんやりと描かれている人物を眺める。
絵の中の女性は、今の結菜と同じように真っ赤なドレスを着ている。
そして、隣に座っている男性が飲んでいるのはコーヒー。
――会いたい。
そう強く願ってしまった瞬間、目に熱いものが溢れる。
だが、ここで泣くわけにはいかない。
撮影用に、きっちりプロにメイクまでしてもらったのだ。
結菜が必死に零れそうになる涙と格闘していると、背後に人の気配を感じた。
少しだけ指で涙を拭うと、結菜は振り返った。
後から本人に聞いた話によると、この時結菜はもの凄く間抜けな顔をしていたらしい。
メイクとドレスで綺麗に着飾っているのに、表情だけまるでコメディ役者のようだったと。
「悠真…」
そんな顔をさせた男の名を、結菜は小さく呟いた。




