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act.20

瞼の裏に眩しさを感じると、結菜は目を開けた。

薄っすらとカーテンから差し込む光に気付くとベッドサイドのデジタル時計を見る。

AM5:35

ディスプレイの表示を確かめると、隣で眠る悠真を起こさないようにベッドから身を起こす。

毎日、彼のために行っていたモーニングコールは、結菜の体内時計をも正確さを刻むように作り変えていた。

どんなに疲れていても、彼を起こすため目が覚めるように出来ているようだった。


悠真の寝顔を見つめながら、昨日の呆けたような彼の表情を思い出し、結菜はクスリと笑った。


『おはうございます、五十嵐様。モーニングコールのお時間です』


幾度と繰り返されたそのセリフを目の前で聞いた悠真は、朝に弱いと言うのが嘘のように、一瞬で目が覚めた。

「マジかよ…」と、19歳らしい素のままで驚いたのだ。

あの驚いた表情を、結菜は一生忘れないだろうと思った。


ううん、それだけじゃない。

与えてもらった熱も疼きも快感も、胸の痛みも、愛おしいと思う気持ちも忘れない。

忘れることなんて出来ない――――。


結菜の目から温かくて厄介な雫が零れ、乱れたシーツの上に落ちる。

一つ、二つと染みができ、声が出る前に何とか引っ込めようと、何度も目を瞬く。


今日は泣き顔ではなく、笑顔で見送るのだ。

ホテルマンらしく、プロらしく。

行ってらっしゃいませ、と。






ホテルの玄関エントランスには、いろんな種類の制服姿が揃っていた。

宿泊部門だけでなく、料飲部門からもスタッフが集まっているようで、まるでホテルの制服オンパレードだ。

そんなスタッフ達が、一同に集まり一列に横並びするのは珍しい光景と言うのもあり、チェックアウトする客達は何事かと興味津々で視線を送る。

ホテルに来た客達も玄関エントランスでたくさんのホテルスタッフに出迎えられ、その殆どが萎縮してしまっている。

今日のメインエントランスを任されているドアマンの大輔は、そんな光景を見ながら苦笑した。

そして、自動をドアの向こうに悠真の姿を見付けると、アプローチに立っていた大輔は手を挙げ黒塗りのハイヤーを呼び寄せる。

総支配人の相楽、宿泊部支配人の米倉と一緒に出てきた悠真は、玄関エントランスのスタッフ達を見ると足を止めた。

その列の端に、結菜が制服姿で立っている。

昨夜、一昨日といろんな意味で何度も泣かせてしまった彼女は、穏やかに微笑んでいた。

悠真も笑顔を返すと、それを見守っていた大輔がハイヤーの後ろドアを開ける。

助手席からは足立が降り、一礼するのを見て悠真はタイムリミットを悟った。

相楽と米倉に挨拶をし、二人と固い握手を交わすとハイヤーへと歩き出す。

一連の動作を一歩も動くことなく結菜が見つめる中、悠真は大輔が開けているドアの前まで行くと再び足を止めた。

何か言いたそうにしている彼を見て、大輔は口を開く。


「結菜って意外とモテるんですよ」

大輔が発言している間も、視線が結菜からブレない。


「仕事は出来るのにプライベートでは意外とドジで単純だから判りやすいし。仕事絡みでも彼女の声を独占したいってヤツも多いし、声に傾倒しちゃってるヤツもいるし…何よりそのギャップが可愛い」

そう言われて、ピクリと反応を示す。

「だから、あまり長い間放って置くと、横から掻っ攫われますよ」

結菜から視線を外すことなく、「…判っている」と答えると、悠真は後部座席に乗り込む。


大輔は重いドアをゆっくり閉めながら、最後に座席へ少し顔を出すと、

「何せ周りにいる『オトナ』ってヤツは経験もあるし、ずる賢いですからね」

そう捨て台詞のように残し、ドアを閉めた。

悠真が言い返す間もなく、ハイヤーはアプローチから離れて行く。


ホテルスタッフ達は走り出す車に向かいお辞儀をすると、その後ろ姿が見えなくなるまで見送った。

結菜は自分の唇が震えるのが判ったが、最後まで涙を零すことなく去っていく車の影を追った。






その後、久しぶりに自宅に戻った結菜は、今までの分とまとめて10日間の休みを貰った。

ぽっかりと心に穴が開いてしまったような空虚感あったが、何とか気持ちを切り替えると、丸2日かけて洗濯、部屋の掃除をする。

部屋の整理が気持ちの整理に比例しているかのように、部屋が綺麗になっていくと、合わせて心が落ち着いていくようだった。

最終日の部屋での別れ際、お互いの携帯電話番号とメールアドレスを交換していたが、一度も悠真から連絡が無いまま、そして結菜から連絡をすることも無いまま、休みが過ぎて行った。


日常へ戻るかのように仕事へ復帰し、更に数日経過した頃、出勤後に交換台を見ると新聞が置いてあった。

手に取って開いてみると、赤ペンで囲った記事を見付けた。

『読め』と一言記載したのは大輔だろう。

そこには、五十嵐ホールディングスの役員、佐々木と村田の退任、日本鉄鋼エンジニアリングの買収取りやめを発表した株主総会の様子が書かれていた。

記事を読んだ結菜は、悠真がホテルを出てから初めて連絡を取ろう試みたが、結局、携帯電話を無駄に見つめるだけで終わってしまった。

そしてその後も、連絡しようと思うタイミングを逃してしまったかのように、電話を鳴らすことも、メールを送ることも出来ずにいた。






更に一ヶ月経過した頃、ホテルへ出勤してロッカーを開けると、パサリと何かが床に落ちた。

ロッカー扉の隙間に誰かが挟んでいったのか、一通の封筒。

結菜はそれを拾い上げて書かれた文字を読んだ。

英語で書かれているホテルの住所と、消印にドキリとする。

エアメールだ。

震えそうになる手で裏をめくると、そこには英語で書かれていたアメリカの住所の下に、漢字で『五十嵐悠真』と書かれていた。


結菜は着替えるのも忘れ、隣接している仮眠室に駆け込むとベッドに腰掛ける。

慎重に封を開けて便箋を取り出すと読み始めた。


手紙には、家の住所が判らないからホテルに送ったこと、今まで連絡も取らずにいたことを詫びた文から始まっていた。

既に知っていた情報だが、会社が買収を止めたこと、佐々木と村田が更迭されたことに続き、父親の許しを得て、アメリカの大学に通い始めたことが記載されていた。


そこまで読むと、自然に口元が緩んだ。


――良かった。

素直にそう思う。


今の生活の様子や、学校での出来事が簡単に続き、三枚目に差し掛かったところで、今回の留学目的が変わったと綴られていた。


『最初は、ただ単に俺の事を知らない人間が居る所に行きたかった。俺を見てくれる人間が居る所に。自由になりたいと思ったが、今は違う。お前になら縛られても良い。近いうち、大人として結菜の横に立てるようここで頑張るつもりだ。だから、迎えに行くまで待ってろ』


待っていてくれでも、待っていて欲しいでもなく『待っていろ』との『俺様』振りに、結菜の目頭が熱くなる。


「バーカ、待たないわよ。待ってなんかやらないんだから…」

そう呟いて、返事をしようとバッグから携帯電話を取り出すが…ふと思い直して、携帯電話をしまう。


帰りに封筒と便箋を買って帰ろう。

シンプルな白い封筒と便箋を。


――――最初は声だけで始まった奇妙な関係、それなら文字だけの関係でも悪くないかもしれない。


結菜は涙を拭い笑顔を作ると、元気に立ち上がった。

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