act.1
都内のホテルで働く鈴木結菜の朝は早い。
早いと言っても、いわゆる夜勤により昨夜から夜通し起きているのだから、彼女にとってみれば一日の延長上でしかない。
モーニングコールの準備で慌しくなるオペレーター室の片隅、自分の定位置で耳元のインカムをいじりながら、結菜はジリジリとその時を待つ。
交換台のデジタル時計と睨めっこしながら、ディスプレイがちょうどその時を指すと同時に、手元のスイッチを入れた。
耳元で軽快なコールが鳴り、8コールあたりで音が突然切れた。
…切ったわね。
結菜はそれに対し微かに苛立ちを覚えつつも、もう一度同じ操作を繰り返す。
再びコールが鳴り出し、今度は10コールで音が切れた。
そして、耳に入る「俺だ」と言う短い一言。
「五十嵐様、おはようございます」
友人には『別人28号』
オペ仲間からは『妙に色の入ったうぐいす嬢』
褒められているんだか貶されているんだか判らないコメントをもらっている声音で、インカム越しの相手に話し掛ける。
これ以上なく愛想よく挨拶したにも関わらず、相手は無言で電話を切った。
その反応に結菜は落ち込むこともなく、10分後に同じことを繰り返すべく再びその時を待った。
結菜が働くホテルの最上階、一泊55万もするインペリアルスイートに宿泊する人がいる。
殆ど支配人の仮眠室としてしか使われていないその部屋に宿泊、ましてやその人物は連泊することになったと言うことで、オペ室でも密かな話題になっていた。
一体どんな人物なんだろうと、好奇心から宿泊部フロントサービスの主任に聞いてみれば、あの五十嵐ホールディングス社長の一人息子、五十嵐悠真だと答えが返ってきた。
五十嵐ホールディングスと言う名は知っていたが、社長の一人息子の存在など知らなかった結菜は、同僚が話題づくりに持ってきた週刊誌でその人物を知ることとなった。
どこそこのパーティに出席、チャリティーイベントに参加、社交界で注目の……等、話題に事欠かない。
そして華やかな見出しの下を飾る彼の写真。
家柄もよければ顔も良い…が、結菜はその多数の写真に写る彼の皮肉めいた笑顔が気になった。
だが、自分とは全く別の世界に住む彼にこれと言って惹かれることも無く、ただの金持ちのボンボン、結菜はそう思っていた。
しかしその金持ちのボンボンはその家名に相応しく、どこまでも我が道を行くタイプだった。
通常ホテルでは、外線からの電話はまず結菜が働いているオペレーター室へと繋がる。
そこから各施設や、客室へ、オペレーターと呼ばれる交換手が繋げるのだ。
宿泊客に電話を繋げると、大抵「はい」もしくは「もしもし」と言うのだが、五十嵐悠真だけは違っていた。
いつでもどんな時でも、掛かってくる電話には「俺だ」と出るのだ。
相手に対してはかなり失礼だと思うのだが、失礼だと思っていないのか、はたまた失礼に当たる人物からの電話は掛かってこないと判っているのか、ここ数日ばかり、結菜が知っている限りでは別の言葉で出た験しは無い。
実のところ、自分から掛けている電話も、普段から「俺だ」と言っているのではと想像に難くない。
だから、付いたあだ名は『俺様』
恐ろしいくらいに似合っているそのあだ名が、オペ室だけでなく宿泊部、いや、ホテル全体へと浸透するのは時間の問題だと誰もが思っている。
そしてその『俺様』振りが改めて発揮されたのは、彼が宿泊して3日目のことだった。
その外線を取った子が、新人だったのも運が悪かったのだと思われる。
彼女が取った外線は、女性からの電話だった。
言われるままその電話を彼に繋げ……電話越しの(一方的な)修羅場が始まった。
あの噂の『俺様』に女性からの電話と言うことで、その場にいた誰もが会話をモニタリング(つまり盗み聞き)をしていた。
会話の内容からして、数日前に彼がその女性を振ったようだったのだが、電話を切る前の女性のあの罵詈雑言は凄まじいものがあった。
そしてそのすぐ後に、電話を繋げたのは誰だと彼から苦情が入ったのだ。
電話を繋げた新人の子は自分の仕事をしただけなのだが、その繋げた電話自体を彼がお気に召さなかった。
それはそうだろう。
別れた女からの、一方的なヒステリック声なら誰だって聞きたくない。
VIP扱いの客に言い訳をするなどできるはずもなく。
その後の対応としては、彼の要望により女性からの外線は一切接続禁止。
更に彼に関わる主だった通話接続、及びモーニングコールは、オペ室のお局になりつつある、結菜の仕事となった。
年季が入っている分、こいつなら間違いないだろうと、素直に喜べない事情で担当となった結菜の心情は複雑だ。
おまけに彼が宿泊している間は、結菜のシフトも彼に合わせて作り直しとなり、まさしく一心同体。
家に帰るのは洋服の替えを取りに行くだけ。
その事件があってからというもの、6日間ずっとホテルに缶詰状態が続いていた。
「それで、今日の『俺様』はどうだったの?」
モーニングコールのひと仕事を終え、楽しそうに話しかけてきた同僚に対し、結菜は、
「別に、いつもと一緒」
肩を竦めて見せた。
結菜が毎朝行なっているモーニングコール。
愛想の欠片もない『俺様』対応に、結菜は怒りを通り越して呆れていた。
反対にどんだけこの男は偉いんだと、興味さえ覚えるようになった。
オペレーターの宿命とでも言うべき、顔の見えない、声だけの奇妙な関係。
それが結菜と『俺様』五十嵐悠真の間でも確立しつつあった。
しかしその関係も、数日後には崩れ去ることとなる。
きっかけは、結菜の禁断症状が現れたことだった――――。