~1~
太平洋海上、真っ青な大海原とそれを映すような青空、そして巨大な一艘の船。
まるで中世の海賊船を模したような貿易船は、沢山のコンテナと船員を乗せて航行する。視界は良好、天候も良し、航海は予定通り全く順調だ。船首に立つ男は満足げに、一つ頷いた。後ろから筋肉も逞しい船員の一人が彼に敬礼を送る。
「キャプテン、もう間もなく日本の領海に入ります」
「予定より早いな、上出来だ。このまま航路通り進め。ヨコハマ港で検問がある、積荷を一部開放しておいた方がいいな」
「サー、キャプテン」
「到着したら私はすぐ下船する。私が戻るまで、君達も自由に過ごすといい。明日の十七時には出発だ。それまでに全員戻るように」
再度の敬礼を一瞥し、再び男は遠い海洋の先を眺めた。まだまだ陸地は見えないが、どことなくアジアの風を感じる。馴染みは無いはずなのに懐かしく思い、薄く笑った。
「…楽しみだな」
男の束ねた長髪が潮風にたなびいた。
珍しく正規支給の軍服に袖を通した7144分隊一行は、全員強制出席の定例訓示会を終えて丁度寄宿寮に戻ってきたところだった。ブリーフィングルームに入るや否やカザネはジャケットを乱暴に脱ぎ捨て、デスクにだらしなく体を預けた。
「あーもう疲れたー! ほんっと訓示会って退屈だよね、立ちっぱだし、上官は話長いし!」
「うちも同感やー」
並んでだらけるカザネとルカの言動を上層部の人間が知ったら大目玉を食らうだろう。二人の前に淹れたての紅茶を置き、アリアとステラは顔を見合わせて苦笑した。
ヴォルクはどかりと椅子に座ると、早速一服タイムだ。最初の一口をうまそうに深々と吸い、大きく吐き出す。
「まぁ俺も同感だな…お偉いさんたちの説教は耳にタコだよ。全く毎回毎回同じ話ばっかり、お前らはオウムかよってな」
いつの間にか手にしたビールを開け、喉を鳴らして飲み干した。すかさずカザネのハリセン。そこからはいつものじゃれ合いだ。その横を静かに通り抜けて着席したルリは既に着替えを終え、いつもの和服をきっちりと着こなしている。そして熱々の緑茶を一口。ユウキも隣でウーロン茶を一口。
この後は指示があるまで宿舎待機。ただしオフではないので、街への外出はできない。その代わり軍の敷地内であればどこにいても、何をしていてもいい、要は自由時間だ。ルーイは早速部屋に引きこもっている。大方録り溜めたアニメの上映会でもしているのだろう。残りの面々はアリアが用意したお茶とお菓子で、優雅なティータイムだ。
「おっさんタバコけむい! 今すぐ消火! 隊長命令!」
「知るかお子ちゃま」
「なにをーー!」
「ステラさん、今日のぉ、お夕飯は、何にしましょうか~?」
「そうね、たまには和食でも作ろうかしら」
「うちはおうどんがええなぁ~」
「あたしミートソースがいい!」
「隊長、それは和食ではないと思うのであります」
今日も彼らは賑やかだ。わいわいと飛び交う会話の中一人静かにお茶を嗜むルリが、着物の袂から携帯端末を取り出し、耳に当てた。ちなみにここまで音もなく行われていたため、誰一人その行動に気づいていない。
「…」
動作からして通話をしているのだろうが、彼女はいつも通りの無言だ。
「…」
無言のまま小さくうなずくと、すっと立ち上がって滑るようにルカの隣へ立ち、彼女の袖を数度引く。三回目でそれに気づき、ルカが振り返った。
「んあ、ルリどないしたん?」
「…」
ルリがルカの目前に端末を突き出す。怪訝そうに見て、通話中の画面に表示された名前に思わず驚愕の声を上げた。
「おにぃ?!」
ルーム内に響き渡るくらいの大声に、何事かと全員が振り返った。ルリは無言のまま、端末のスピーカーマークを押した。
『…相変わらず騒々しいな。元気そうで何よりだ』
スピーカーフォンモードになった端末から低い男の声が聞こえた。ルカは目を白黒させて、端末に向かって唾を飛ばした。
「お、おにぃ、どないしたんや! 急に電話なんか、えらいビックリしたわ!」
『お前にかけたが繋がらなかったから、ルリに連絡した。ルリも元気そうだな、相変わらず無口だが。最近お前たちの隊の噂がよく耳に入る。かなりの戦績を挙げているようじゃないか。さすがは自慢の妹達だ』
「へ、あ、そうなん? いやぁそれほどでも…ってちゃうわ、どないしたんやって」
『まさかお前たち二人が揃って軍属になって、こんなに活躍するとは…つい最近も防衛戦で完勝したそうじゃないか。国の父さんも、天国の母さんもきっと鼻が高いだろう。仲間たちともうまくやっているようだな。二人とも間違っても彼氏なんて作っていないだろうな。俺の目の黒いうちはそんなもの許さんぞ』
まるで会話が成り立っていない。ルカが「おにぃ」と呼んでいる以上、今話している相手は彼女たちの兄なのだろう。
痺れを切らしたのか、珍しくルリが通話口に向かって言葉を返した。
「…用件…」
『おっといけない、忘れるところだった。今は宿舎にいるのか?』
「へ? ああうん、おるよ」
『それは良かった、無駄足にならずに済む。たった今日本に上陸した。これからそちらへ向かうから、そのまま待っていてくれ』
「はぁ?!」
『久しぶりの再会だ、お前たちも嬉しいだろう。俺は物凄く嬉しい。お土産もたくさんあるからな、期待していてくれよ。それじゃあまた後で、ああ迎えはいらんぞ』
一方的に淡々と告げると、ルカが返事を返す前に通話は切れた。
ツーツーという無機質な音。唖然とするルカ。その背後でニヤニヤが止まらないカザネ。
「…ルカちゃん、今のって例のお兄さん?」
兄がいる事はもちろん全員が知っている。あくまで話だけ、だが。年はルカとルリの三つ上で22歳、若いうちから社会に出て、今は全世界を飛び回って貿易をする世界的に有名な交易会社の社長。かなりのやり手でTAF関連の企業とも関係を持っているという。性格は非常に冷静で計算高く切れ者で、しかし優しく思慮深い面もあるらしい。
「あー、せや…今日本にいるとか、ほんま自由人やなおにぃは…」
「お兄さん、これから来るみたいなこと言ってたよね」
「言うてたな。つーことはマジで来るで。おにぃは言ったらやる人やから」
「まぁまぁ、お客様が、来るんですね~? おいしいお茶を、用意しておきますぅ」
「この辺、少し片づけておきましょうか」
ステラとアリアは大変のみ込みが早い、早速出迎えの準備にかかり始めている。いそいそと動き回る二人を横目に、ルカは大きなため息をついた。
「…なんや、ろくでもないことが起こりそうな気がするなぁ…」
そしてその杞憂は当然のごとく現実となってしまうのである。
数刻後、ブリーフィングルームには姉妹と一人の男だけが残り、カザネたちは扉の向こうから遠巻きに会合を見守っていた。
二人の兄、シン・ファルチェ。御伽噺の王子様のように整った容姿を見る限りでは、まさか彼が世界をまたにかける貿易商だとは想像し難い。彼は宿舎に入ると同時に妹達へ熱すぎる抱擁をかまし、他の隊員たちには実に丁寧に挨拶をした。手土産には世界各地を回って集めたお菓子や民芸品など、二人だけではなく隊員たちにもきっちりと用意してある気配りっぷりだ。そして自己紹介もそこそこに、兄弟だけで内輪の話をしたいと申し出たのである。久しぶりの兄弟水入らず、しかし決して和やかとは言えない空気が少なからず流れている。
互いに近況報告を簡単に終え、シンが一呼吸おいて話し始めた。
「突然押しかけてしまってすまない。だがどうしてもお前たちに会わなければならない用ができてな…単刀直入に言う、明日俺と一緒に国へ帰るぞ」
「へ?!」
「…?」
唐突過ぎて二人とも言葉を失った。普段は全く動じないルリですら、微妙に眉根を寄せた。
「明日の十七時に俺の船がヨコハマを出発する。お前たちも一緒に乗るんだ、いいな」
「ちょ、ちょっと待ってやおにぃ! そんな急に言われたって、無理に決まってるやんか!」
「…仕事…」
「せや! 明日は非番とちゃうし!」
「なら今すぐ休暇の申請を出してこい。理由は家庭の事情でな。取れなくはないのだろう?」
「ま、まぁ…忌引きとかやったら…」
慌てる二人をよそに、シンはさも当然のごとく無茶振りをしてくる。
「では忌引きでいい、申請を」
「『でいい』って! 完全に嘘やって言うたようなもんや! それやったら本当の理由教えんかい!」
ルカの怒涛のツッコミ。するとここに来て初めて、シンの瞳が曇った。
「それは…まぁおいおい話す」
「今でええやん!」
確かに、といったようにルリも大きくうなずく。シンは先ほどの僅かな動揺などまるでなかったように、淡々と告げた。
「とにかく休暇を取ってくれ、二週間ほど。明日の十五時に迎えに来るから、荷物も用意しておくように。ルカ、お前は船酔いをするだろう、酔い止めも忘れず準備しておけよ。俺はこれから仕事があるから、そろそろお暇するぞ」
この男は基本的に人の話を聞く気がないらしい。またも電話と同じように一方的に言い、早くも席を立った。
「ちょ、おにぃ!」
「…兄様…」
二人が追いかけるが、シンは既にブリーフィングルームの扉を開けていた。その前で野次馬をきめていたカザネがわざとらしくその場を離れた。
「あれ、お兄さんもう帰っちゃうの?」
「ああ、これからいくつか商談があるものでな。お騒がせした。ではルカ、ルリ、よろしく頼んだぞ」
大変礼儀良く一礼し、後を追う妹二人を全く構う事もなくシンは宿舎を出ていってしまった。
閉じた玄関扉の前でルカは呆然と立ち尽くした。
「なんや…えらい勝手な…まぁいつものことやけど…」
「…通常運転…」
「で、お兄さん何だったの?」
待ちきれないカザネがニヤけ顔を隠しもせずルカを覗き込んだ。ため息を一つ、ルカは頭痛がしたようにこめかみを押さえた。
「あー…おにぃの相変わらずの無茶振りや。なんか、明日から二週間何でもええから休暇取って、国に帰るって」
「え?!」
カザネも理解しきれず大音量で素っ頓狂な声を上げた。
「何しに行くんかはわからん。忌引きでも何でもええから適当に理由付けろやって」
話しながら三人はルームに戻り、遅れて他の面々も集まり始める。
「そんな急に言われたってなー…無理や、とは言うたんやけど、おにぃはそんなん聞かへんからなぁ」
全員に改めて事の経緯を説明し、ルカはべしゃりとデスクに突っ伏した。
「そんな言い方するってことは、よっぽどの非常事態でもあったんじゃねーか?」
「さぁな…」
「中尉と准尉は了承されたのですか?」
「できるかいな。明日は出動待機やし、ギヤのメンテもあるし」
「…」
「まぁ…そうですよね」
「そんな急に休みなんて、取れませんよね、どう考えても」
「そーね。もし出撃あったらルリちゃんいないと陣形崩れるし、そもそもルカちゃん以外あたしたちのGiAメンテできないじゃん」
「その通りや。ここのギヤはうちが全身全霊をかけて改造した特別仕様、そんなん他のポンコツメカニック風情がどうにかできるはずないからな」
「けれど、明日のお昼過ぎには迎えが来てしまうんでしょう? 断るにしても、一筋縄じゃいかないような気がするわ」
ルカとルリを囲んで全員がうーむと唸った。そんな中涼しい顔で刺繍を楽しみながらそれを聞いていたアリアが軽やかに口を開く。
「それならぁ、全員でぇ、休暇を取れば、いいんじゃないですかぁ?」
突拍子もなさすぎる彼女の発言に全員が振り向き、一瞬の間を挟んで笑いが巻き起こった。
「何言ってんのよアーちゃん! そんなの無理に決まってんじゃーん!」
当のアリアはその笑いの理由がわからずきょとんとしたまま小首を傾げる。
「アリアさんもジョークなんて言うんですね、僕驚きですよ」
「ジョークじゃ、ないんですけどぉ…」
「いやいやジョークやなかったら中々やでアーちゃん」
全員が笑い転げる中、アリアは刺繍を中断し首を傾げたまま携帯端末を取り出した。
「じゃあ、パパにぃ、聞いてみますねぇ」
端末を耳に当てる。ワンコールも経たず、通話が始まったようだ。
「あ~、もしもしぃ、パパですかぁ? あのぉ、お願いが、あるんですけどぉ」
ニコニコと会話をする。全員がそれを不思議な目で見ている中、それまで皆と同じように笑っていたヴォルクの表情が少しだけ焦りに変わる。
「あのぉ、隊のみんなとぉ、お出かけするのでぇ、お休みいただいても、いいですかぁ? えーとぉ、二週間ですぅ。はい~、わかりましたぁ、ありがとうパパ~! お土産、買ってきますねぇ~」
シンとルカの通話とは打って変わって大変手短で用件のみのやり取りを終わらせ、アリアは端末をしまいニコニコ顔を全員に向けた。
「パパにぃ、お休み、もらえましたよ~」
「はぁぁ?!!」
驚愕の声に混じって、ルーム内に据え置きされたプリンターの駆動音が聞こえた。ステラが走り寄り、印刷されて出てきた紙に目を通し言葉を失った。
「…み、皆さん…大変です…」
紙を手にしたまま、ゆっくりと全員を見回した。
「休暇届、受理されました…元帥印も、押してあります…」
「えぇぇ?!!」
再びの驚愕。カザネが走り寄ってステラの手から書類をひったくり、紙面に目を走らせる。
「ほんとだ…」
唖然としたカザネの声に我先にルカやルーイも同じことをして、目を丸くした。そこにあったのは確かに軍の正式な休暇届の書類で、ご丁寧に全員分が連続で印刷されてきた。
「…偽造じゃないのか」
あまりにも信じがたい光景にユウキだけが憮然とした顔で書類を何度も見返した。しかし何度見直してもそこに不備はなく、本物と認めるしかなかった。そしてもちろん全員の疑念はアリアへと向く。
「アーちゃん、いったいどういうこと? なんでこんなん届いてんの?!」
「え~、パパにぃ、お願いしたから、ですけどぉ」
「パパ、って…」
カザネの発言を引き継ぎ、ルーイが核心を突いた。
「アリアさんのパパって…何者なんですか…?」
またまたきょとんと首を傾げたアリアに変わって、一人だけ冷静なまま煙草を燻らせるヴォルクが言った。
「よく見てみろルーイ。元帥のフルネーム」
「え、ええと…クロード・マーグリー元帥…え、マーグリー?!」
「…ってことは、もしかしてアーちゃんのパパって」
ふわふわスマイルのまま、アリアは事も無げに言った。
「私のパパはぁ、TAF元帥ですよぉ~」
「と、いうことだ。ってかお前ら、今まで気づいてなかったのかよ。マーグリーなんて珍しいファミリーネーム、同じTAF内にそうそういねーだろ」
ヴォルクとアリア以外の面々が驚きのまま顔を見合わせた。そしてそれぞれに、アリアに対しての態度を一変させる。ユウキはその場で背筋を伸ばして最敬礼をし、カザネとルカはアリアの足元に跪いた。
「ははぁ~アリア様~元帥令嬢様~」
「どうぞよしなに~」
半ば悪ふざけのような二人の頭をヴォルクがすかさず小突いた。
こうしてアリア・マーグリー伍長…もとい元帥令嬢の一声であっさりと7144分隊の休暇は承認され、翌日十七時、八人はシンと共に彼の貿易船へと乗船したのである。
夕刻の大海原は昼間とはまた違った表情を見せる。鮮やかな橙の夕日が水平線へと長く尾を引きながら沈んでいく。潮風は涼しげに船の上を通り過ぎ、カザネは甲板に立ってその空気を胸いっぱいに吸い込んだ。彼女がこうして船に乗るのは初めてだ。滑るように進む海面の景色を楽しみながら、彼女はくるりとターンをした。
「すごーい! 速ーい! 気持ちいー!」
隣ではステラが風に遊ばれる短い髪を撫でつけ、微笑んだ。
「本当ですね。貿易船に乗ったのは初めてですけど、こんなに速いとは思っていませんでした」
「俺の船は貿易船の中でもかなり大きい部類に入る。馬力が違うのだよ」
二人の楽しげな表情を見て、満足そうにシンが答えた。しかしその少し先では、げっそりと青ざめたルーイが舳先にもたれかかっている。わかりやすいくらいの船酔いだ。ヴォルクはその背中をさすりながら苦笑いした。
「ったく、だからルカから酔い止めもらっとけって言っただろうが…お前GiA以外の乗り物全般弱いんだからよ」
「す、すみませ…うっぷ」
「あーもう我慢しないで吐いとけ…しかしいい船だな。核融合エンジン二機か、流石は世界のメイプロード社。そこらの二流商船とはケタが違うってか」
ぐるりと船上を見渡し、感心したようにヴォルクは言う。「メイプロード」とはシンが代表を務める貿易会社の社名だ。
涼しい視線を水平線の彼方に向けながら、シンはヴォルクの発言に少し口角を上げた。
「お褒めに預かり光栄だな。だが君らの使う軍用船にはとても及ばんよ」
「ありゃあ規格外だ、比較対象になんねぇよ。つーことは…ざっと三日ってとこか、オーストラリアまでは」
「ご名答。君は博識だな」
彼らの船は今、オーストラリアに向けて航行中だ。ファルチェ兄妹は生粋のオーストラリア人。祖国へ向けて爆進中である。
話の途中でシンの元へ、マッスルな船員が敬礼を掲げながらやって来た。
「キャプテン、高速航行準備が整いました」
「うむ、ご苦労。さて皆、そろそろデッキへ戻るとしようか」
船員を見送りシンが言った。カザネは彼を振り返り、口を尖らせて不平を垂れる。
「えー、もうちょっと船楽しみたいー。まだ出発したばっかじゃん!」
その発言にシンは足を止めると、不敵な笑みを零した。
「…高速航行に入ると船の速度は40ノットを超える。判りやすく言えば時速80キロ位だ。吹き飛ばされる覚悟があるなら、好きにしてもらって構わんが?」
つまりは幹線道路を走る車に生身でしがみついているようなものだ。意味を理解したカザネの態度が一変、きびきびとデッキに向かって小走りを始めた。
「…はーいみんな中に入るわよー隊長命令よー」
言わずもがな、全員がその後に続いた。
高速航行のまま船は大海をひた走り、ヴォルクの予想通りほぼ三日後、オーストラリアはダーウィン港に到着。そして休む間もなく次の移動だ。
「日本にいては大陸間高速鉄道に乗る機会も中々ないだろう」
オーストラリア国土を縦断する列車に揺られながら目的地へと急ぐ。ロシアやアメリカ、中国などの広い大陸国には当たり前のように長距離の高速鉄道が走っていて、一般的に移動手段として広く利用されている。しかし日本ほどの規模ではそもそも必要とされず、日本育ちのカザネは興奮しながら窓に張り付いていた。
「ちょー速ーい! ねぇねぇ、野生のカンガルーとかコアラとか見れるんでしょ? 楽しみー!」
無邪気な台詞に向けられるヴォルクの呆れ顔。
「バカ野郎、野生動物なんて見れるわけねーだろ! カンガルーもコアラも絶滅危惧種だ、見たけりゃ動物園にでも行ってこい」
「えーいないのー? つまんなーい!」
「目的地のアリス・スプリングの近くに国立保護公園がありますよ。そこにならいるんじゃないですかね」
今度こそ酔い止めを服用し幾分か顔色のいいルーイが手元の地図を広げながら言った。
昨今では野生生物の絶滅が世界中で危惧されており、彼女らの話題に上がったカンガルーなどはもとい、数百年前ならばどこにでもいたであろう犬や猫までもが保護対象になっている。そういった各種動物は一部の地域を除いては全て動物園や保護施設で飼育され、一般的にはそこでしか見る事ができなくなっていた。当然ながらそういった情勢がある以上、密漁などの犯罪が横行しているのも現実である。
荒野を過ぎる車窓の風景を、シンは愁いを含んだような視線で眺めていた。
「観光の時間はいくらでもある、折角だから行ってくるといい」
カザネはその後あっという間にふて寝の体勢に入った。この長旅でもろもろの初体験にはしゃぎまくって電源が落ちたのだろう、無理もない。
ずるずるともたれかかってくるカザネの頭を膝に乗せ、唐突にルカが口を開いた。
「おにぃ、ところでなんでいきなり帰省なんや? おいおい話すって言うたやんなぁ」
それにルリも数度うなずき、兄の顔を見る。シンの怜悧な面持ちがやはり陰った。
「…すまんが、家族の内輪な内容だ。家についてから三人だけで話したい」
煮え切らないような口調に訝りつつもルカはそれ以上の追及を止め、数分後彼女も眠りこけてしまった。連続する長距離移動に疲れたのか、気づけばルーイ、アリア、ステラ、ルリも座席にもたれて眠り始めた。
シンとユウキ、ヴォルクの三人は会話を交わすこともなく、黙って景色を見つめていた。列車は砂煙を立てながらせっせと走り、窓の外には一面の荒れ果てた大地が広がる。植物すらも生えなくなった不毛の土地。ところどころ抉れて赤土をむき出しにし、戦禍の痕は未だ生々しく残り続けている。
「…俺が幼い頃は、もう少しましだったよ、この国も」
独白のようなシンの台詞が小さく車内にこだまし、二人は彼を見た。切れ長の双眸はどこか遠くを見ているようで、郷愁の念を感じさせた。
「戦争でこの国はおかしくなってしまった。TAFと教団の板挟みで政府は手一杯、市民の生活などはどこ吹く風だ。治安も悪いし生活水準も良いとはいえない。俺たち国民は最早何を信じていいのかすらわからない」
惜念のように語られる言葉を静かに聞きながら、ヴォルクがため息をついた。
「…オーストラリアは今教団側についてるんだろ、ニュースで見たよ。全くバカらしい話だぜ…あんな奴らに加担するなんてな。ところであんた、どんなトリックを使ったんだ?」
珍しく人の話に食いつき、身を乗り出したヴォルクをシンは一瞥した。
「教団の傘下にある今のオーストラリアに、俺たちのようなTAFの人間が易々と入国できるなんておかしいぜ。確か入国審査はあんたがやったんだろ、一体どうやって俺たちの身分を誤魔化したんだい?」
「…まぁ、いろいろだ」
「ふーん…まぁいいさ、何かあんたにも事情があるみたいだしな。身内だけの内輪な話、ねぇ…」
「君たちが知る必要はない。あくまで君たちは客人なのだからな」
「そうかい。だがなぁ、あの二人、あんたの妹達も大事な隊のメンバーなんだよ。あいつらが何か危険な目にあうような事情なら、俺としては止めなきゃならんのさ。一応…これでも上官なんでね」
「…」
禁煙の車内で煙草の代わりにガムを噛みながら、彼は臆することもなくそう言った。普段は何事にも無頓着で適当、だが本当は誰よりも仲間想いで情に厚い。ヴォルク・セレブロとはそういう男なのだ。シンは黙り込み、ユウキはなぜか少し目を伏せた。がたごとと走るレールの音がやけに大きく聞こえる。
そして長い長い沈黙の後、シンが重い唇を開いた。
「……他言無用で、頼むぞ。もちろんルカたちにも」
ヴォルクとユウキがうなずいたのを確認し、シンの口から真相が告げられる。
「…近々、この地で大規模な内乱が起こる。この国の政治情勢については周知のことと思う。市民は政府を見限り、反乱組織…レジスタンスを結成したんだ。今向かっているアリス・スプリングから少し、ユーラーラという場所に教団の施設がある。彼らは近日中に…そこを襲撃する」
「…ずいぶんと物騒な話じゃねーか」
「同志たちは教団に恨みを持っている者がほとんどだ。恋人や家族を教団に奪われた人間が多いからな…国が教団についたことで、彼らの不満が爆発したのだよ。この地から教団を追い出すという結論に至ってしまった。当然だが、TAFや他国の協力など得ていない」
「…分が悪すぎる」
呟いたユウキに、シンは大きく吐息を吐き出しながら座席に背中を預けた。
「その通り。勝算などない。ユーラーラの施設規模は相当大きい、それなりの武力も持っているのだろう。それに対してこちらは寄せ集めの人材と物資だ。それでも…止められないのだよ。走り出した列車が、簡単に止まれないようにな。彼らにとって勝ち負けなど二の次なのかもしれない。これはオーストラリア国民の誇りと尊厳をかけた勝負、といったところか」
「…犬死に覚悟、ってことかよ。それじゃあ、あんたもそれに参加するのかい」
「ああ、その予定だ。国を出たとはいえ、俺もれっきとしたオーストラリア国民なのでね」
「…あなたは、どうして中尉たちを? まさか」
ユウキの疑念に、ヴォルクの眼差しが鋭くなった。それを受けて、シンは苦笑しながら首を振った。
「いや…二人を戦いに巻き込むつもりはない。こんな負け戦で死なせるわけにはいかんからな。二人を呼んだのは、父に会わせるためだ。俺らの父はレジスタンスのリーダー。君のように熱い男だ。父は必ず指揮を執り前線に出る。もしかしたら…二人と生きて会えるのはこれが最後になるかもしれない」
あまりにも冷徹に綴られる残酷な未来に、二人は思わず言葉を失った。
「俺は狡い人間だし、第一俺には会社と守らなくてはいけない社員がいる。戦局次第では離脱し、その時は本気で国を捨てる決意をしている。だが父は違う、何があっても退かないだろう。だから最後は家族水入らずで過ごさせてやりたかった」
シンはそこまで言い切ると言葉を切り、ため息を一つ、目を閉じた。
「まぁ君らも一緒に来ることになってしまったが…それはいいとしよう」
重苦しい空気が場を支配する。対角線上の席で仲良く肩を寄せ合いながら眠る妹たちの寝顔を愛おしそうにシンは見つめた。
「…君たちにお願いがあるんだ…ええと、セレブロ大尉」
「ヴォルクでいい」
「…ヴォルク。それにユウキ。どうか事が終わるまでは、二人には何も知らせないでやってくれ。いずれ戦いが始まればルカもルリも嫌でも知ってしまうだろうが、それまではいつもどおり笑っていてほしいんだ。そしてこの地を離れた後も、二人を助けてやってくれないだろうか」
ルカがむにゃむにゃと寝言を言い、シンはふふ、と声をたてて笑った。初めて見せた人間らしい表情だった。そしてヴォルクたちは彼のこの願いが、本当に心から思っているものだとどこかで理解していた。彼が妹たちに向ける優しい視線がそう言っていたからだ。二人は短く了承の返事をし、直後前触れもなくルーイが目を覚まして密談は終了せざるを得なくなってしまった。
列車がダーウィンを出発して約二時間半。彼らはようやくアリス・スプリングの地を踏んだ。オーストラリアの玄関口であるダーウィンに比べれば町の規模こそ小さいものの、住民も多く駅前の繁華街は活気に溢れていた。
早速カザネがヴォルクたちの制止を聞かずに市場の屋台に走り、採れたてフルーツのスムージーを美味しそうに飲んでいた。目を離すと迷子になりそうなカザネを何とか引きずりながら車に乗り込みさらに三十分弱、中心街からほんの少し離れた静かな住宅街の一角で車は停車した。
「ようこそ我が家へ。ここが俺たちの実家だ」
「ほんま久しぶりやなー! てか建て替えしたんか、えらいキレイになってるやないの」
「…リフォーム…」
「父さんにはお前たちが来ることは言っていないんだ。きっと驚くだろう」
兄妹を先頭にして玄関へ。呼び鈴を鳴らすと中から武骨な返事が聞こえ、どかどかと荒々しい足音と共に扉が開く。見るからに屈強そうなこんがり日焼けの男が顔を出した。
「はいはい、待たせたな…ってシンじゃないか! ありゃ、もうそんな時間かよ」
「ただいま父さん。変わりないようで何より。サプライズゲストも一緒だよ」
傍らのルカとルリを指し示し、彼女らを見た男の顔がぱあっと太陽のように輝いた。
「ワオ、こいつは驚いた! ルカに、ルリじゃあないか!!」
その大きな体で二人をいっぺんに抱きしめ、歓喜の声を漏らす。
「ただいまおとん! あいっかわらずのゴリゴリマッチョやんなー!」
「…父様…」
数年ぶりの再会を口々に。微笑ましくそれを見届け、次いでシンは後ろの面々を紹介する。
「こちらは二人の所属している小隊の方々。今回の休暇も皆さんの計らいで実現したんだよ」
男は二人から離れ、順番に全員と握手を交わした。
「こいつはどうも。俺はテオドール・ファルチェ、こいつらの親父だ。気軽にテオと呼んでくれ。まぁ立ち話もなんだ、皆入ってくれ。狭い家だがな!」
豪快に笑うテオに促され、全員は扉をくぐった。家の中はテオの言葉に反して広々とし、小綺麗に整頓されている。大きなダイニングに案内され、隊の面々はやっと落ち着いて腰を下ろした。
「いやぁまさかこんなにお客さんが来るとは思ってなくてな。何も用意してないんだよ、すまんね」
「お構いなくテオさん。私たちこそ、突然押しかけてしまってすみません」
「お茶の用意でしたらぁ、お手伝いしますよぉ」
「ありがとう。ああそうだ、子供たち、母さんにもちゃんと挨拶しておいで。よかったら皆さんも一緒に。母さんは賑やかなのが好きだったから、きっと喜ぶ」
キッチンのテオが指したのはダイニングにある暖炉の上、そこに掛けられた写真だった。シンがその中の一枚を手に取る。シンプルな額縁の中で一人の可憐な女性が、こちらに向かって微笑みかけていた。
シン、ルカ、ルリが順番に写真へキスを送った。
「ただいま、母さん。今日はルカたちの仲間も一緒だよ」
「おかん、うちらは日本で元気にがんばってるで」
「…母様…」
それに倣い、他の面子も写真に挨拶を交わした。彼女たちの母親、キャロル・ファルチェは双子を生んですぐに病気で亡くなったそうだ。ルカとルリは母親の顔を写真でしか知らないという。
テオが両手いっぱいの大きなトレーにカップを乗せて戻ってきたのを合図に、全員が再び席に着いた。
「口に合うかはわからんが、飲んでくれ。いやぁそれにしてもたまげた! 心臓が飛び出るかと思ったよ」
両側をルカとルリに挟まれ、二人の肩を楽しげに抱きながらテオは大笑いした。
「二人とも、日本ではうまくやってるかい?」
「心配無用やおとん! うちらの隊、最近絶好調なんやで~」
「…いい感じ…」
「はは、そうかそうか! 流石は俺の可愛い天使ちゃんたちだ!」
暑苦しいくらいのキスの嵐に、思わず隊員たちの顔も綻ぶ。しかしその中で、ユウキは若干緊張したような面持ちを隠せない。それを察したヴォルクに肘でつつかれ、無理矢理皆と一緒に笑う。
それからしばらく分隊での出来事や隊員たちの話で談笑が続き、一段落したところでテオが言う。
「ところで、何日間滞在するんだ?」
答えたのはシンだった。
「今日から七日間。帰りはまた俺の船で日本に送り届ける予定だよ」
「七日…か」
それまで楽しそうにしていたテオの声色が一瞬だけ揺らいだ。しかしそれは誰も気づくことなく通り過ぎていく。何事もないように、テオはまた大きく笑った。
「なんだ、ならきっとあっという間だなぁ! まぁ皆、自分の家だと思ってくつろいでくれ。そうだ、今日のディナーは知り合いのやってるレストランで食おう。あそこのロブスターは絶品なんだ」
そして団欒の時間は続く。父と話しているうち、ルカがずっと気になっていた帰郷の理由は彼女の頭からすっかり忘れ去られていた。他にその疑問を口に出す者もいない。単純に楽しい観光&帰省旅行として話は落ち着きそうになっていた。
唯一本当の理由を知ってしまったヴォルクとユウキだけが、煮え切らない笑顔でそこに参加していた。