~3~
日本の夏は暑い。今年も例年と同じく酷暑で、眩しすぎる太陽が街をじりじりと焦がしていた。アスファルトに陽炎が立ち昇って鏡面のように反射する。『節電』と大きく書かれた張り紙を忌々しげに睨みつけ、カザネは手に持ったうちわで顔面をせわしなく仰いだ。
「あっつー。宿舎はクーラー禁止ってどういうことよ…横暴だわ!」
つい先日行われた軍の定例会議で、環境問題が議題に上がった結果の処置だった。居住区全体でクーラーの使用が禁止され、7144分隊寮も例に漏れず節電の波を受けていた。
「仕方ねぇだろ、お偉いさんの取り決めだ…ジジイ共、きっと誰かが熱中症で死ぬまでやめねぇだろうよ」
巨大な業務用扇風機の正面に陣取り、ヴォルクがうだうだとのたまった。物騒な話だが、この気温ではそれすら事実になりそうで空恐ろしい。
非番の彼らはなぜか全員そろってブリーフィングルームに固まり、思い思いに暑さをしのいでいた。ルーイに至っては床に直接這いつくばり、少しでも冷えている場所を探して転がっている始末だ。それぞれの私室は蒸し風呂状態で人がいられる環境になく、必然的にここへ終結したのだがクーラーを取り上げられた以上、どこにいても変わらない。
「暑いですわね…」
数日前までは涼しい顔で生活していたフェアラートも、さすがに堪えたのかぐったりとデスクに頬をこすりつけていた。このメンツでただ一人、アリアだけは暑さなど微塵も感じていない様相でいつも通り趣味の刺繍を楽しんでいる。相変わらずの暑苦しそうなゴスロリで汗一つかいていない。
うだる空気の中、くぐもった電子音が鳴った。
「誰か、携帯鳴ってるよー」
カザネの声で何人かがポケットを探った。発生源はフェアラートのスカートだ。
「…わたくしでしたわ」
音が途切れ、フェアラートが画面をタップする。メッセージでも受信したのだろう、画面をまじまじと凝視するフェアラートの表情はいつになく強張っているようだ。
「…ちょっと、失礼」
固い面持ちのまま、部屋を出る。廊下の隅に移動すると、意を決したように通話ボタンを押した。
「…連絡が遅れてすみません。いえ…特にそういうわけでは」
時々周囲をきょろきょろと見まわし、口元を覆い隠して声を落とす。
「…そんなことはありません…忘れてなんか……はい、必ず…わかりました、早急に帰国します…ええ…はい、それでは」
最後に短く挨拶を済ませると、端末を下ろして大きく息を吐いた。真っ暗な画面を睨むように見、ぎり、と歯を鳴らす。
「……私は…どうすれば…」
「ララさん?」
「きゃあ!」
いつの間にか背後にいたルーイが声を上げると、彼女は大きく飛び上がって端末を取り落とした。
「ご、ごめん!」
彼女の大袈裟な反応に慌てたルーイが端末を拾おうとするが、
「っ、触らないでっ!」
フェアラートが怒声を飛ばし、手を引っ込める。戸惑うルーイをよそに彼女は素早く端末を拾い上げ、隠すようにポケットへねじ込んだ。明らかに不審なその行動にルーイが怪訝そうにフェアラートを見る。彼女は目を泳がせつつも、動揺を隠そうと咳払いをした。
「あ、あらルーイ様、どうかなさいまして?」
「いや…なんか怖い顔で出て行ったから、何かあったのかと思って」
「そ…そうでしたの」
「…大丈夫? 顔色悪いけど」
「え? いえ、別に、なんでもありませんわ」
「…本当?」
そわそわと落ち着かないフェアラートを覗き込みながらルーイが問う。その純粋な瞳に見つめられ、フェアラートは思わず目を逸らす。
「本当に…なんでもないのですわ。大丈夫です」
「…それなら、いいけど…」
首をかしげながらもそれ以上の追及はせず、ルーイは戻っていった。彼の背中を思い詰めた顔で見送り、ブリーフィングルームの扉が閉じると小さくため息をついた。ポケットを漁り、コンパクトミラーを取り出して鏡に映る自分を見た。確かにひどい顔色だ。
「…大丈夫」
言い聞かせるようにそっと呟くと、額に浮いた汗を拭って前髪を整え、にっこりと笑って部屋に帰っていった。デスクに戻ってからもルーイの心配そうな視線がずっと追ってくる。平静を装い、澄まして笑みを返すとルーイもやっと微笑んでくれた。
「皆さん、お昼にしましょうね。今日は暑いですし、夏らしくそうめんでも茹でましょうか」
ステラがキッチンに立ち、「流しそうめんやりたい!」とはしゃぐカザネ、それを小突くヴォルク、緩やかな日常が進む。一人フェアラートの心だけが重苦しく沈んでいた。
深夜。日中に比べれば少し涼しくなった廊下で、ルーイがフェアラートの部屋の前にたたずんでいた。彼は今日一日ずっと、フェアラートの様子が気になっていたのだ。あの場ではごまかされてしまったが、彼女はその後も元気がないように感じられた。覇気がないというか、上の空というか、とにかく何か。どことなくルーイを避けているようにも思えた。今日に限ってなかなか二人きりになれる時間がなく、考えあぐねているうちにこんな夜半だ。気になって眠れない彼は意を決し、フェアラートの部屋をノックする。
「…ララさん、遅くにごめん。起きてる?」
反応はない。が、物音はする。扉に耳を押し当てると、物音に交じって時折嗚咽のような声が聞こえた。湧き上がる不安と緊張を押し殺し、ルーイはドアノブに手をかけた。鍵は開いているようだ。
「…ごめん、入るよ」
手首を返し、ゆっくりと扉を開く。薄暗い部屋の中はフェアラートにしては珍しく乱れていた。服や小物、化粧道具などが散らかり、見覚えのあるトランクケースとボストンバッグの前、フェアラートは背中を向けて座り込んでいた。
後ろ手に扉を閉め、ルーイはおずおずと声をかける。
「…ララさん…?」
彼女は答えず、一心不乱に散らかされた物品をバッグに詰め込んでいる。嫌な予感がして、ルーイはフェアラートの肩を多少乱暴にだが掴み寄せた。
振り向いた彼女は、泣いていた。目が合ったがすぐに逸らされ、ルーイの手を振りほどいてまた作業に戻ろうとする。歯を食いしばり、叩きつけるようにしてワンピースをバッグに突っ込む。
「ララさんってば!」
細い手首を掴み、無理矢理ルーイは彼女の手を止めさせた。
「なんで…こんなこと。荷物なんかまとめて、何してるんだよ…」
「…っ」
「答えてよ…昼間の電話のせいだろう? 何があったのかちゃんと教えてよ!」
「やめて!」
まるで悲鳴にも近いフェアラートの声色。とめどなく溢れる雫が白いネグリジェにぱたぱたと落ちる。ルーイの顔を見ず、フェアラートは絞り出すように言った。
「…お願い、何も聞かないで…お願いだから…」
彼女の腕を握るルーイの手のひらが緩み、解けるとフェアラートは自らの肩をかき抱いた。全身を震わせ、唇を噛んで嗚咽を殺しながら。
「ごめんなさい…ごめんなさい…」
刹那、フェアラートの華奢な体をルーイの両腕が包んだ。しっかりと抱きしめる、強く強く。堰を切ったように、フェアラートは大きく泣いた。縋りつくように彼の背中に手をまわし、皴が出るほどシャツを握りしめた。
「もう…もうここには、いられないの…私は…私は…」
うわ言のように紡がれる言葉が儚く消える。ルーイはただ黙って、彼女を受け止めていた。彼女の肩はこんなに小さかっただろうか。いつも強気で気丈な彼女の体は、今にも壊れてしまいそうなくらいに脆く感じた。優しくあやすように小さな頭を撫でていると、少しずつだがフェアラートの震えは治まっていった。
ルーイが静かに問いかける。
「…電話、もしかしてご両親…かな。そういえばララさん、家出したって言ってたもんね。ここに来てからもうだいぶ経ってるし、そりゃあ、心配するよね。帰って来いって、連絡だったのかな」
答えが返らないことは肯定と受け取った。口に出して改めて、その長かったような短かったような時の経過を思い知る。
「…仕方がないよ」
小さく呟かれたルーイの台詞に、フェアラートは一層強く彼の背中に爪を立てた。
「ルーイ様…わたくし…帰りたく、ない…ずっと…ずっとルーイ様のそばにいたい…!」
絞り出された声は心からの叫びだ。もちろんルーイも同じ気持ちで、けれどそれを口に出してはいけないと飲み込み我慢する。必死に抱きつくフェアラートをゆっくりと引き離した。
「…ララ、聞いて。今はご両親に従おう。一度帰って、次はきちんと了承を取ってから遊びにおいで。僕は…異動とかにでもならない限り、ここにいるから」
「…ルーイ様…でも…」
「大丈夫だよ、もう会えないわけじゃないんだから。僕はずっとキミを待ってる。もちろん、僕も長期休暇が取れた時にはドイツに遊びに行くよ、必ず」
泣きはらした彼女の頬を両手で包み込み、安心させるように微笑んだ。
「ね?」
フェアラートの涙は止まらないが、それでも無理矢理に泣き笑いを浮かべた。
「…ええ」
キスを重ねて、額をくっつけて目を閉じた。夜闇の静寂。遠く、下弦の月が二人を見守っていた。
翌朝フェアラートが急遽帰国するという速報が分隊内に流れ、ルーイを除く隊員たちは一様に驚き、別れを惜しんだ。
「まぁ、仕方ねぇよ。遅かれ早かれ、こうなることはわかってたんだからよ」
とヴォルクはあくまで冷静にコーヒーをすするだけだったが。
フェアラートは目を伏せ、隣に座るルーイの手を握って小さく頭を下げた。
「本当に、急なお話で申し訳ないのですわ。夕方にはフランス行きのジェットに乗る手配が出来ましたので、それで」
「今日の夕方?! ほんとに急だね…って、ごめん…」
いつもなら悠々と煙草に火をつけたヴォルクにチョップをかますカザネだが、今日ばかりはそんな元気もないようだ。その両隣、ステラとアリアもしょんぼりと眉尻を下げる。
「寂しく、なりますねぇ」
「そうね…でもララさん、またいつでも遊びに来れるわ」
皆口数も少なく、二人が淹れたお茶の湯気だけが悲しげに立ち昇った。
わざとらしくルカが明るい声を上げる。
「…ま、夕方までは時間あるんやし。盛大に見送ったろ!」
「そうだね! パーティーする? ケーキにごちそう、ぱーっとやっちゃお!」
「じゃあ、私はぁ、おいしいケーキ、焼きますねぇ~」
カザネの一声で女性陣はわいわいと送別会の計画を始める。いつものような明るい空気に俯いていたルーイたちも顔を上げた。ステラがそっとフェアラートの肩に手を置いた。
「ララさん、お料理の支度、手伝ってもらえるかしら?」
「は…はい、お姉さま!」
ステラに手を引かれ、フェアラートは笑顔でキッチンに消えた。残されたルーイの周りを、今度は男性陣が囲む。ヴォルクはふぅと長く煙を吐きながら苦笑した。
「ったくカザネのやつ、ただ宴会してぇだけだろ。まぁ…辛気臭いよりはいいか」
「はは、隊長らしいですね…でも、ありがたいです。ララが楽しそうにしてれば、僕はそれで」
「いっちょ前なこと言いやがって。ちったぁ男らしくなったんじゃねぇか、なぁユウキ?」
「…自分には、わかりかねます」
「相変わらずお前はお堅いねぇ。しかし…昨日の今日で航空券が取れるとはな。さっすがお嬢、金のチカラってのはおっかねぇな」
余談だが、一般人の国外移動手段で最もポピュラーなのは船での渡航だ。石油資源の枯渇とGiAやその輸送機に関する事情諸々があり、今や航空機の利用は制限が多い。当たり前のように飛行機を利用できるのは特定の階級に属する政治的要人やビジネスマン、もしくはいわゆるセレブ層だけだ。ちなみに軍属の人間は軍所有の輸送機があるため国外への移動は比較的安易にできる。しかし所定の手続きや渡航許可を貰えるレベルの理由が必要であり、私用で使えるような代物ではない。
「ちょっと男ども! 何遊んでんの、手伝って! ルーイとおっさんは飾り付け、ユウキは買い出しね! 隊長命令!」
カザネが口を尖らせながら談笑する男性陣を叱咤し、三名は顔を見合わせて苦笑しつつも従うことにした。皆で食堂を飾り、少しだけ豪華な料理とケーキ、あり合わせだが温かい、素敵なパーティーの始まりだ。思い思いに食事を楽しみながら、フェアラートとの話に花を咲かせる。失敗を重ねたルーイの旦那様改造計画をカザネが面白おかしく持ち出しフェアラートが「もう!」と顔を赤くするが、それも今ではいい思い出だ。皆に囲まれて破顔するフェアラートに向かって、ルーイは使う機会がなくてしまい込んでいたデジタルカメラを構えた。ぱしゃり。切り取られた液晶越しの彼女はこれまでで一番美しい笑顔を見せていた。
楽しい時間はどうしてこんなに一瞬なのだろう。並べられた料理があらかたなくなり、刻々とタイムリミットは迫りつつあった。
「さて、と…そろそろお開きにするか。ララも支度あんだろ」
「…ええ、そうですわね…」
テーブルを片付け始める全員の口数が少なくなる。
「…僕、写真印刷してきますね」
ルーイは一言告げるとブリーフィングルームへ駆け出した。がらんとしたルームでプリンターの印刷音だけが響く。メモリいっぱいまで取りつくした写真のすべてにフェアラートが映っていて、泣き出しそうになる。ヴォルクにからかわれて頬を膨らましたり、ステラに抱きつき猫のように甘えていたり、カザネのくだらない話でおかしそうに笑っていたり、いろいろな表情のフェアラートがそこにいた。
全てを2枚ずつ印刷して、片方を封筒にまとめた。それはフェアラートに渡す用だ。これでいつでもお互いに、思い出せるから。
長い現像作業を終えて廊下に出ると、支度を終えたフェアラートを送り出すところだった。荷物は昨晩から今朝のうちにまとめてあり、朝一で宅急便の手配も終えたので大きな荷物は何もない。ハンドバッグだけ持ったフェアラートは赤いドレスワンピースとレースの手袋をつけ、それはここに来た時と同じ格好でまたルーイは泣きそうになってしまった。
全員で玄関まで見送る。扉の前で彼女は振り返り、涙ぐみながらお辞儀をした。
「…それでは、長らく大変お世話になりました。皆様のこと、絶対に忘れませんわ」
「あたしも! 楽しかったよ!」
カザネはそういうが早いか、フェアラートをぎゅっと抱きしめた。そこに重なるようにして、アリアとステラが続く。
「またぁ、遊びに来て、くださいねぇ」
「元気でね。いつでも待ってるわ」
ルリとルカは無言でフェアラートと抱擁を交わした。ユウキは一言「元気で」と言い、握手をした。
「…湿っぽいのは苦手だ。まぁ…お前がいて、退屈しなかったよ」
ヴォルクは照れたように言い放ち、軽く肩を叩く。
ルーイに手を引かれ、歩き出す。彼らは遠ざかるフェアラートをいつまでも見守り、彼女もまた宿舎が見えなくなるまで何度も振り返っては手を振っていた。
ベースの通用口前にはルーイが手配したタクシーが止まっていた。乗り込み行き先を告げると、車はゆっくりと走り出す。車内では無言のまま、時間と風景だけが通り過ぎていく。だんだんと街中を抜け、旅客機のエンジン音が聞こえ始め、家々の隙間に滑走路が見え隠れし始めた。この道がずっと続けばいいのに、二人の想いはきっと同じだったであろう。到着した週末の空港はそれなりに混雑していて、人々の間を縫うように搭乗カウンターへ急ぐ。
フェアラートが搭乗手続きをしている間、ルーイは巨大な電光掲示板をぼんやりと眺めていた。16時発、フランス・EU国際空港行294便。その文字は最初真ん中くらいにあったが、少しずつ上にずれていく。彼女との別れの時間は、着実に近づいていた。
「終わりましたわ」
フェアラートが航空券を片手に戻ってきた。まだ出発までは一時間ほどある。不謹慎にもルーイはそれを喜んでいた。もう少しだけ、一緒にいられる。
「出発まで、一緒に待つよ」
二人は待合ロビーのベンチに腰かけた。他愛もない話をする。こうしていると、もうすぐ離れ離れになってしまうなんてまるで嘘のようだった。だがそれは現実で、運航掲示板の表示は刻一刻と更新されていた。
会話が途切れた。繋いだ手と手が強く握り合う。フェアラートが立ち上がる。
「…もう、行かないと」
もうそんな時間だ。ルーイも立ち、並んで歩きだした。フランス行きの搭乗ゲートは目と鼻の先で、ガラス扉の前で二人は止まった。
「…ありがとう。ララが来てくれて、ララにまた会えて、本当に良かった」
ルーイから言葉を紡ぐ。
「寂しくなるけど…日本で、キミのことを想っているから」
「ルーイ様…」
耐えかね、フェアラートが彼の胸に飛び込んだ。少しよろめきながらも、彼女をしっかりと抱きとめた。
「わたくし…行きたくありませんわ…ずっと…ずっとルーイ様と、一緒にいたい…!」
抱きしめ返したい。けれどその気持ちを必死にこらえ、唇を噛んでルーイは彼女の体を離した。
「…僕もだ…僕だって、ララと一緒にいたい。だから…必ず、迎えに行くよ」
彼女の瞳を見つめる。恥ずかしさも何も、もう消え去っていた。
「戦争が終わって、僕がドイツに帰ったら…結婚しよう。だから、待ってて」
気障なプロポーズなんて言えないから、自然と口から出た言葉で。気持ちだけは誰にも負けない自信があった。フェアラートにもそれは伝わり、大きな瞳が涙で滲む。溢れてきた雫を、ルーイはそっと指で掬った。目を瞬いて満面の笑顔で、フェアラートは大きく頷いた。
「ええ…ずっと、ずっと待っていますわ。おばあちゃんになっても、ずっと」
最後の口づけを交わした。後ろを通り過ぎて行った黒人男性が短く口笛を吹いて二人を冷やかしたが、気にもならなかった。
フェアラートは大きく手を振りながら、ゲートに消えていった。彼女が見えなくなってもルーイはそこにいて、彼女が行った先をずっと見届けていた。
あの喧騒など幻だったかのように、7144分隊はいつもの日常を送っていた。しかしフェアラートがいた痕跡は分隊寮の至る所に残っていて、それを見つけるたびに隊員たちは懐かしさに思いを馳せていた。吹っ飛んだオーブンレンジも、今ではいい思い出だ。
「あーもー! ルーイ! いい加減ここに置きっぱの荷物、何とかしてよね! もー、邪魔くさいったらありゃしない!」
食堂の片隅に積まれた段ボールに蹴躓いたカザネが地団太を踏んだ。大きさもまちまちのそれらは、ルーイがネット通販で買いあさった「レレミィたんお宝グッズ」の数々だ。
実のところ、フェアラートが帰国してからというものルーイはまるで腑抜けだった。何か月かの間に染み付いた生活スタイルこそ変わりはしないものの、言いようのない無気力感は誰の目から見ても明らかなほどだ。かといって恋人との逢瀬を失った彼に誰も何も言いづらく、本人が吹っ切れるまでそっとしておこう、の暗黙で隊員達は彼を見守るだけに徹していた。
その反動…なのかは定かではないが、持て余したルーイの情熱はまた二次元キャラクターに注がれることとなる。フェアラートと再会する以前より増してレレミィ関連に没頭し、時間も金も惜し気なくつぎ込んでいた。結果、整頓した自室にも入りきらなくなった大量のグッズが寮内を占拠し、共有スペースを徐々に侵食していったのである。もしも彼と似たような趣味のある読者がいるのなら解るかもしれないが、グッズ一点につき観賞用、保存用の最低2個+ものによっては購入特典やイベント参加券目的で大量購入をしているので、物量は尋常ではない。
そしてその横暴に、とうとうカザネがしびれを切らした。
「部屋に入んないならどっか空き部屋使っていいから! とにかく、ここに置きっぱ禁止! 隊長命令!」
「あー…す、すみません…」
読みかけのコミックを傍らに置き、ルーイはのそのそと立ち上がった。未開封の箱を手に取ると、音もなく小型の台車が横付けされる。差し出されたルリの手には鍵。箱の上にそっと乗せ、空気のようにその場を立ち去る。その一連の流れに少し懐かしさを感じながら、ルーイは荷物を積み上げた。
割り当てられた空き部屋は、ほんの少し前までフェアラートが使っていた私室だった。
台車を押して廊下を進み、部屋に近づくにつれてルーイの胸は切なさで締め付けられていった。扉のロックを外して少し躊躇う。開けたら彼女がいつもの笑顔で出迎えてくれるような気がして、けれど彼女はもういないという現実が夢想を押しつぶす。ため息を一つ、扉を開けた。
ふわりと一瞬、フェアラートの匂いがしたように感じた。がらんどうの室内は少しだけ埃っぽくて、静かだった。扉の傍らに台車を放置し、空のベッドに倒れこむようにして顔をうずめる。マットレスだけになったそこにも彼女の面影はない。窓から差し込む残暑の日差しだけが焼くようにルーイを照らしていた。
「…馬鹿だな、僕は。何やってるんだか」
呟きは虚空に吸い込まれる。こんな堕落した生活をしていたら、きっと彼女に激怒されるんだろうな…そんなことをふと思い、勢いよくベッドから跳ね起きた。両手で顔をぱちんと叩き、段ボールを部屋の隅に積み上げ始める。
幾つめかを手に取った時、張り付けられた宅配伝票を見て思わず手を止めた。他の通販伝票と違う、手書きのもの。久しぶりに見た実家の住所と母親の少し癖がある文字。実家からの荷物が紛れていたことに今まで気づいていなかった。
「…何だろう」
故郷から荷物が送られてくるなど、入隊して間もなくぶりだった。テープをはがして箱を開けると、なんだかいろいろとごちゃごちゃに押し込まれている。一番上にあったメモを手に取った。
『愛しいルーイへ。元気にしていますか? 母さん達は変わらず元気です。掃除をしたときに出てきたあなたの私物を送ります。差し入れも同封するので、皆様と召し上がってね。人づてにあなたの隊の活躍をたくさん聞いて、父さんも喜んでいます。次の休暇にはぜひ帰省を、久しぶりにあなたの顔が見たいわ。体に気を付けて、頑張ってね』
温和な母の顔を思い出し、ルーイは微笑んだ。メモの下にあるドイツの菓子や軽食を丁寧に取り出して並べると、昼食前の腹の虫が鳴いた。奥には本と子供時代によく遊んでいたおもちゃとアルバムのようなものがあり、ぼろぼろの冊子を慎重に引っ張り出す。表紙をめくるとそこには、幼い泣きべその男の子がいた。
「…うわ。こんなのまだ残ってたんだ」
ぺらぺらとめくり、気恥ずかしさと郷愁を胸に写真を眺める。映っている自分は八割泣き顔かぎこちない笑みを浮かべていてなおのこと恥ずかしい。泣き虫で、弱くて、いつも誰かの陰に隠れてべそをかいてばかりのダメな過去を記憶の底に押し込め思い出さないようにしていた。
ページをめくる手がふと止まった。色褪せた一枚には半べそで手を繋がれている小さな自分と、赤毛にそばかすの女の子。
「…!」
ルーイの隣で白い歯をニカっとむき出しにして笑う女の子の姿に、ルーイの記憶が逆巻いていく。彼のそばには、いつでもその子がいた。上級生に手ひどくいじめられた時も、父と喧嘩をして家を飛び出した時も、友達が出来なくて泣いていた時も。小学生のころ彼女は両親の都合でドイツを離れることになり、ささいなことから言い合いになって、そのまま彼女は行ってしまった。
『恵まれてるアンタに、アタシのつらさなんてわかんないわよ!』
癖のある紅い巻き毛に、勝気な瞳。この間まで隣にいたフェアラートと、写真の彼女は同じ瞳で笑っていた。
まじまじと写真を見つめる。長い月日はこうも人を変えてしまうのか。少なくとも今のフェアラートは、写真の面影からだいぶ変貌していた。そばかすはきれいになくなっていたし、何となく鼻の形や目の大きさが違うように感じる。少なくとも美しくなった…ただ成長した、というだけではなく。ピンときた———整形したのだろう、多分。医療技術が発達したこの時代では、美容整形もそれなりに安価で受けられる。カザネの読むような女性向け雑誌には、メイクの延長くらいの感覚で美容整形のハウトゥーが特集されるほど身近なものだ。ルーイは整形に対して偏見こそないものの、なんとなくタブーのような気持ちはあった。
そっと、アルバムを閉じた。これはきっと彼女にとって触れられたくない秘密だろう。自分にも忘れたい過去があったように。いつか彼女自身から打ち明けてくれるまで、決して誰にも知られてはならない。
立ち上がり、残った荷物を適当に積み上げてルーイは部屋を後にした。
食堂に戻ると彼が出て行った時のまま、それぞれが好き勝手に過ごしていた。ルーイが持ち戻った母からの差し入れにカザネが目を輝かせて飛びつき、ヴォルクがそれをやれやれと制し…変わらない光景だ。何事もなかったようにルーイは定位置に腰かけ、読みかけのままテーブルに伏せた漫画を手に取るや否や、彼のズボンの右ポケットが震えた。珍しく、軍から支給された携帯端末が呼び出しを告げている。
画面を見ると、心当たりのない番号が表示されていた。不穏に思いながらも、耳に当てる。
「もしも」
『お久しぶりですわ、ルーイ様!』
彼が言い切る前に、甲高い声が耳に響いた。この声、この口調。ルーイの心臓がどくん、と跳ねる。
「ちょ、ま、え?!」
素っ頓狂な声を上げて本を取り落とし、立ち上がる。
『どうしても伝えたいことがあって、我慢できなくて電話してしまいましたの!』
「いや、ララ、どうしてこの…じゃなくて、何が」
ララ、という単語を耳ざとく聞きつけたカザネが不気味な笑みを浮かべてにじり寄ってくる。気配を察し、慌ててルーイは廊下に転がり出た。追いかけようとするカザネの首根っこを、素早くヴォルクが掴む。
「あーん! 面白そうなのにぃ!」
「馬鹿野郎、野次馬とか最悪だぞお前」
ぶすっと頬を膨らませて、ルーイが出て行った先を見る。カザネを捕まえたままのヴォルクの背後に、ユウキがそっと寄って耳打ちした。
「大尉。奴が使用していたのは軍用端末ではありませんでしたか」
「あ? ああ…ってあいつ、部外者に番号教えたのか。教えんなら個人用でいいだろうに…バレたら始末書モンだぞまったく」
舌打ちをするヴォルクの後ろで、ユウキはやや腑に落ちない表情を浮かべてウーロン茶を飲み下した。
一方ルーイは自室に駆け戻り、改めて端末の向こうの彼女へ声をかける。
「ごめん、突然だったから、びっくりしちゃって…元気にしてるかい?」
答えるフェアラートの声は底抜けに明るく、何か興奮しているようにも思えた。
『ええ、私は元気よ。そちらもお変わりないようで、何よりですわ。大事な報告があって、お教えしたくてかけたのよ』
前よりも言葉遣いが砕けたような感じがする。些細な変化だが、ルーイには嬉しい新鮮さだった。
『きっと驚くわよ。私、もうすぐそちらに行くことになったの!』
「え、本当に?!」
『もちろん! またあなたに会えると思ったらうれしくて、じっとしていられなくて、本当は内緒にしておこうと思ったのだけれど、我慢できなかったの!』
はしゃいで笑うフェアラートの嬉々とした声。つられて、ルーイも笑った。
「そうなんだ! こんなに早く、またララに会えるなんて、僕もうれしいよ。ご両親、許してくれたんだ?」
『あ…え、ええ、何とか説得して、黙って出て行かないならいい、って…』
急にフェアラートの声色が落ちたが、ルーイは気づかなかった。
「そうなんだ、なら良かった。もうご両親に心配かけないようにしなきゃね。今度僕からも謝っておくから。それで、いつ来るんだい? 今度は近くまで迎えに行くよ。空港? それとも船で? あ、どれくらい滞在するの? 君の部屋もまた用意しないと」
沸々と湧き上がる喜びに饒舌になる。少しの間を置き、フェアラートはふふ、と笑った。
『ルーイったら…子供みたいにはしゃいでる』
「あ…いや、あはは、なんか恥ずかしいな」
『そんなあなたも好きよ。昔から、今でもずっと愛してるわ。じゃあ、わたくし支度があるから切るわね。驚かせたいから到着の日は秘密。お迎えは大丈夫よ、王子様! ああ、待ちきれないわ! じゃあ、待っててね、大好きよ!』
「え、ちょっと待って、ラ…」
まくしたてられるように告げられ、一方的に通話は切れた。唖然と端末を見つめながら、心を落ち着かせる。ひとしきり状況を整理して、また喜びが湧いてきた。
「ララに会える…また一緒に過ごせるなんて…夢みたいだ」
ついつい口元が綻んでしまう。いつ来るのだろうか。次の非番にはどこに行こうか。まずあの部屋を彼女のために誂えなくては。そうだ、彼女の好きな赤いバラを両手いっぱいに買ってきて飾っておこうか。そんなことを止めどもなく巡らせながら、うきうきと自室の扉を開けた。
「わわわ!!」
急に支えを失ったカザネとルカが部屋になだれ込んできた。見下ろすルーイと目があい、ばつが悪そうに愛想笑い。
「あ、あはは~はは…」
「へへ…き、気にせんといて~」
「…な、なにやってるんですか! 盗み聞きなんて、ひどいですよ!」
「ごめんごめーん、だってララちゃんからの電話だったんでしょ? 気になるじゃん!」
「にしたって…! はぁ、まぁいいです。僕やることが山ほどあるんで失礼しますね!」
「あー、何かイイコトあったんだ! 絶対そうでしょ! 隠さないで教えてよ、隊長命令ぃ!」
「職権乱用です! プライベートには通用しません!」
「そんないけずなこと言わんで、教えてーなー」
「お断りします、黙秘権を行使します」
ずるずると食い下がってくる二人を振り切ろうと、毅然とした態度で颯爽と立ち去ろうとした、その時だった。
けたたましいサイレンとともに、非常灯が赤く明滅した。
『警報、警報、第7144分隊へ緊急連絡。ベース南方より敵襲あり、直ちに出撃せよ。敵数不明、レルアバド教団と思われる機体多数。市街地へ被害の可能性あり。第7144分隊、直ちに出撃せよ』
三人は一瞬だけ顔を見合わせ、同時に走り出した。同じくして食堂を飛び出してきた面々と合流する。格納庫には一足先にステラが待機していた。
「状況を報告します! 現在ベース南方五時の方角に敵小隊接近中! 本部より指令、輸送船で敵背面に直接降下、市街地への被害が出る前に鎮圧もしくは撃退せよ、との通達です!」
インカムと携行モニターの情報を正確に、簡潔に知らせるステラの声。それぞれ素早く自分のGiAに乗り込み、ルカの誘導で輸送船へ機体を運び込む。先ほどの彼らとは違う兵士の面持ちで、着々と出撃準備が進んでいく。最後にアリアの機体を乗せ、轟音を上げて船は飛び立った。
ステラの指示は的確だった。彼女が言ったのと寸分の狂いもない方角に、土煙と硝煙が巻き上がっていた。敵はベース近くまで乗り込んでいたが、割と端の方に陣取っている。背後は少しの空き地を挟んでもう市街地だ。そこに向かわれる前に、防ぎきらなくては。
「発進と共に敵は個別撃破を狙ってくるでしょうね。着地次第こちらも散開して配置、戦力を分散させてひきつけましょう」
「せやな。見たところ…軽めの強襲型が多いわ。隊長とユウキはんはいつも通りで。おっさんとルリは市街地側から弾幕張って進行を阻止、アーちゃんは索敵優先、ルーイはベース側からサポートで」
「了解」
ルカとステラの呼びかけに、パイロットたちはいっせいに呼応した。
奴らを刺激しないよう上空高くから輸送船は敵の背後に回り、やや高度を落としてハッチが開く。6体のGiAが降下していく。
降りてくる彼らを発見した敵機はステラの予想通り、散開しながら向かってきた。まずカザネとユウキが持ち前の機動力を生かして左右に分かれる。先頭にいた4機は二手に分かれ、二人を追っていく。後方にルリ、迫撃砲で先制。逃れた3機をヴォルクが待ち構え、バルデルが火を噴く。煙幕に躊躇した1機をルーイが狙撃、すぐさま移動して敵を撹乱する。弾をかわしながらアリアが偵察機を走らせ、全員のモニターに赤い点が順次表示される。見事、狙い通り敵の戦力は四方に分断されたようだ。しかし。
「気をつけてください、狙撃兵がいるようですぅ!」
アリアの通信で、真っ先に動いたのはルーイだった。サブモニターの敵影に目を走らせるが、それらしい点は見当たらない。ステルス機能搭載機か。
「…小賢しい真似を」
唇を歪ませ、ルリの弾幕に隠れながらGiAを走らせる。狙撃手の心理は同じ狙撃手の自分が一番理解している。自分ならどこに隠れる? どこから、音もなく相手を仕留める? GiAを振り返らせると、前線から少し離れたところにぽつんと立つ廃ビルに目がいった。
「そこか!」
ナルキッソスを秒で構え、スコープも見ずに撃ち抜く。金属を貫く轟音、完璧な射撃だった。予備電力を搭載したバックパック部分を破損したのだろう、迷彩が解け、背景に同化していた機体がゆらりと姿を現した。
「うわ、あの敵さん…あれ元々はマルスの試作モデルと同じ型のやで。それをステルス付きのスナイパーカスタムとか…ようやるわ」
ルーイのモニターを映したスクリーンを見上げ、ルカが感嘆とも畏怖ともつかないため息をついた。マルスはどの兵装にも合わせやすいバランス型のシャムス(ちなみにルーイはシャムスの改造機に乗っている)とよく似た機体だが、どちらかと言えば機動力よりはパワーを重視している。故に小回りが利きづらく、動作の繊細さを求められる狙撃兵装には向かないというのがGiAメカニックの間では常識だ。試作モデルとあらば尚のことだが、例の敵機は何の不利もなく役目を果たしている。それほどまでに教団の戦闘機研究は発展しているということで、残念ながらTAFはその点で後手に回っているのだ。
話を戻そう。狙撃兵と対峙したルーイはナルキッソスの照準を敵の動力部に合わせた。一撃で仕留める、無駄な弾は使わない。それがポリシーだ。
トリガーを引こうとした瞬間だった。耳障りなノイズと共にメインモニターに砂嵐が走り、味方の通信がぷつと途切れた。敵が電波ジャマーでも使ったのか。舌打ちをしてなんとか生きているサブモニターを見る。砂嵐は激しくなり、そして次第に落ち着く。ちらつくスクリーンに映し出されたのは。
『…迎えはいらないって、言ったでしょ?』
紅く燃える瞳が、画面の中からルーイを見つめていた。
時が止まる。トリガーにかけていた指が解ける。瞬きもできず、ルーイはただ口を開いた。
「ラ、ラ…」
ワインレッドのパイロットスーツに身を包んだフェアラート。その頭上には、輝く天使の輪のような機構が取り付けられていた。AH———聞いたことがある。教団の機体にもれなく備わるその機関は、搭乗する人間の力を投影し遺憾なく発揮させる。感情、経験、深層心理を映し出すそれは、対価としてその人の人格を破壊するのだ、とも。確か士官学校時代、授業でそう習った気がする。もちろん本物を目にするのは初めてだ。天使の象徴を戴いたフェアラートは狂おしいほどに歪んだ笑みを湛えていた。
「どうして…どうして、キミが…」
訳も分からないまま、ルーイが口にできたのはそれだけだった。
『言ったじゃない、会いに行くわ、って。だから会いに来たの、私の大好きなあなたに』
ルーイの機体に衝撃が走った。ナルキッソスが地に落ちる。フェアラートの乗る機体の右腕にはライフルが握られ、銃口からは白く硝煙がたなびいていた。
『ああ…愛しのルーイ。驚いたでしょ? ふふ、私に会えて嬉しいのね、言葉も出ないくらい。そんなに見つめないで、恥ずかしいじゃない』
うっとりと言葉を紡ぐフェアラート。明らかに様子がおかしい。しかしそれがAHの影響下にあるからなのか、今のルーイには考える余裕もなかった。
薔薇色に頬を染め、フェアラートはただ語り続ける。
『私ね、あなたを迎えに来たの。一緒に行きましょう、二人だけの世界へ。誰にも邪魔されないところへ。ずっとずっと幸せでいられるわ。いつでも一緒。二度と離れない。命を懸けて戦う必要もない。つらいことなんかひとつもないのよ。素晴らしいと思わない? 永遠に、私とあなたは結ばれるの』
再びの衝撃。背中に背負った定点狙撃用ライフル・ガラティアがはじかれ宙を舞った。沈黙し動けないルーイはもはやただの的だ。
『ねぇ…愛してると言って? 好きだと言って。私を抱きしめて。永遠を…誓って』
三発目で左肩を撃ち抜かれた。ばちばちと回線がスパークし、発光する。
うつむいたまま小刻みに肩を震わせていたルーイが、ようやく絞り出すような声を出した。
「……どうして…」
それだけ小さく吐き出すと、ゆっくりと顔を上げてモニター越しにフェアラートと視線を合わせた。涙が一筋、ルーイの頬を伝った。
フェアラートは陶酔したままルーイへ微笑みかけた。しかしその笑顔はどこか異常に歪み、魔性にも見える。
『あなたを守るため。あなたには私がいなきゃだめなのよ。私と一緒でなければ、あなたは幸せになれないわ。私も一緒、あなたなしでは生きていけない。私とあなたは切れない運命の糸で結ばれているの。きっと神様が生まれる前からそう決めていたのね。なんて素敵なこと!』
大げさなくらいに頬を紅潮させて、体を震わせながら愛の言葉を紡ぎ続けるが、燃える瞳は狂気に滲む。
『私があなたを永遠に幸せにしてあげる。そうよ、永遠に。ね? ルーイ、あなたを誰よりも愛しているわ。私だけはあなたを裏切らないし、あなたを傷つけない。あなたに降りかかる辛いことなんか、すべて私が排除してあげる』
悪魔の囁きだ。呪文のように、フェアラートの言葉がルーイの心を突き刺していく。
『本当は忘れてなんかいないでしょう、昔あなたに酷いことをした人たちのことを。あなたをいじめた奴らのことを。あなたの気持ちを無視して言いなりにさせている家族のことを。この世界はあなたにとって辛いことばかり。守ってくれる人なんか誰もいないわ。今の仲間たちだって、きっといつかはあなたを裏切るのよ。今だってそうでしょう? みんなあなたを馬鹿にしてるじゃないの。誰もあなたのことをわかってくれない、認めてくれない、どんなにあなたが頑張ったところで、みんなはあなたを見下している。ねぇ、そうでしょう?』
「そんな…そんな、ことは…」
『本当はわかっているの、認めたくないだけよ。絶望するのが怖いから…仕方のないこと、誰だって絶望は恐ろしいもの。けれどルーイ、私はあなたを理解しているわ。あなたがどんなに弱くても、私はあなたを傷つけないわ。あなたの良いように、あなたが何も恐れなくていいように、私があなたのそばにいてあげる。あなたを傷つけるものは私が許さない。何だってできるわ、あなたのためならば…』
心をかき乱すような、甘い誘惑。呆けたようにそれを聞いていたルーイの手が、操縦桿から離れた。彼のGiAは気力を奪われたように、呆然とただ、立ち尽くす。フェアラートがさらに狂ったような笑みを浮かべた。
ルーイはゆっくりと顔を上げ、どこか寂しそうな顔でフェアラートを見据えた。
「…キミの言うとおりだ…僕は弱いよ。いつだって、辛いことから目を背けるしかできなかった。忘れたふりをして、自分を守ってたんだ…」
『けれどもう大丈夫、私がいるわ。あなたはもう、傷つくことはないのよ』
その誘惑を断ち切るように、ルーイは強く首を振った。
「…違う…違うよ、ララ…もう、逃げ続けるだけの人生なんか、嫌なんだ…!」
ルーイの眼差しに、強い意志の光が灯る。
「僕はもう、逃げたくない! 目をそらして、忘れたふりなんて、そんなこと、もうたくさんだ! 僕は強くなりたい、僕を、僕の大切な人たちを守りたいから…!」
モニターの中、堕天の少女をしっかと見た。今まで見せたこともないくらいの、激しい感情を露にして。
「絶望したっていい、傷ついたっていい、怖くても前に進むって、決めたんだ! 人に笑われても、馬鹿にされても、僕には誇れるものだってあるんだ。こんな僕を信じてくれている人たちがいるんだ、だから、だから…」
言葉も、涙も止まらない。顔面を涙と鼻水でぐしゃぐしゃにしながらもなお、彼女を見据えた。彼女はそれまでの余裕が崩れ、微笑が少し陰る。
ルーイの言葉が詰まり、刹那の沈黙が流れる。とめどなく溢れる雫を拭いもせず、けれど視線はそらさない。と、ルーイの全身にこもった力が一瞬だけふっと緩み、薄く笑った。
「もちろん、キミのこともだよ…ララ……ずっと僕を守ってくれた、素敵な女の子」
ルーイの脳裏に、あの写真が映る。共に思い出す、幼い日の記憶。
「…僕は嫌な記憶全部に蓋をして、思い出さないようにしてた。でも、大切な記憶まで、思い出せないようにしてしまった…弱くて、馬鹿な僕を、キミはずっと隣で支えてくれていたのにね…」
彼の言葉に、今度はフェアラートの言葉が詰まる。動揺に視線が泳ぎ、唇が震える。
『ルーイ…まさか…もしかして、思い出して…』
「ああ。全部、思い出せたんだ。そばかすを嗤ったやつを蹴り飛ばして、そのあとキミは一人で泣いていたね。僕は見てるだけで、何もできなかった。僕がいじめられているとすぐに飛んできて、僕の代わりに喧嘩してくれたよね。体の大きな上級生の男子にも怖がらないで向かっていくその子に、僕はずっと憧れてた。羨ましかった。馬鹿にされたって強くいられる、その子のこと」
フェアラートは顔を覆った。彼女の消した過去、人より劣った醜い自分を隠すように、最高の技術で作られた美しい仮面を歪ませながら。
『やめて…いや…私は生まれ変わったのよ…』
「僕は…あの時からずっと、キミが…好きだったんだ」
静かに紡がれたのは、十数年越しの告白だった。フェアラートの瞳が揺らぎ、驚きに大きく見開かれた。
「でも言えなかった…嫌われるのが怖かったし、きっとキミは僕のことなんかなんとも思ってないって、勝手に決めつけていたから。格好悪くて、弱くて、泣き虫の僕なんか、絶対相手にしてもらえないってね。キミのそばかすも、赤毛のくせっ毛も、他のみんなはからかってたけど、僕は大好きだったんだよ。お転婆で男勝りな性格も」
二人の視線が交わり、絡み合い、心が重なっていく。兵器の中で、二人はあの日の少年と少女に戻った。戦場の喧騒はもう聞こえない。
赤毛のお転婆な女の子は、両目から大粒の涙をぽたぽたとこぼし、画面の中の泣き虫な男の子へと震える指を伸ばした。彼はもう泣き虫ではない、精悍な顔立ちで、美しく生まれ変わった彼女を見つめていた。
『ルーイ…わたし…わたしは…』
先ほどまでの狂気じみた雰囲気は消え、ただ恋する純粋な乙女の瞳で、フェアラートは応えようとしていた。彼女が必死になって手に入れた顔や体、それはただの上辺でしかなかった。彼は自分が忌み嫌った自分を愛してくれていた、そのことに初めて気づかされ、彼女の心は大きく揺れていた。締め付けられるような胸の痛みと、それを超えるくらいの喜び。触れた指の先、画面の彼は静かに微笑み、まっすぐに自分を見つめている。
フェアラートがしているのと同じように、彼は画面の中で泣き崩れる彼女の頬に触れた。
「ララ。何度でもいうよ。僕はキミを心から愛してる。昔も、今も、ずっと。今まで僕を守ってくれて、こんな僕のそばにいてくれてありがとう。これからは僕がキミを守る。キミが僕にしてくれたように、キミを全力で守り続ける。キミのどんな過去も受け入れる。キミが、そうだったように」
気持ちが、つながる。
「何があっても、もうキミを離さない。僕はキミのそばにずっといるよ。キミがおばあちゃんになっても。どんな姿になったとしても、一生をかけて愛し続けると…誓う」
フェアラートの表情が、喜びに崩れた。だらしなく垂れる鼻水すら気にならない。きっとどんな顔でも、この人は自分を可愛いと笑ってくれるから。止まっていたフェアラートの時間が、ようやく動き始める。
父親が事業に失敗し、家も地位も何もかも失ったあの日。半ば夜逃げするような形で街を追われ、それでも最後に彼に会いたくて、こっそり家を抜け出した。誰にも見せたくなかった涙を見られた。優しい彼は慰めの言葉をかけてくれたけれど、天邪鬼な自分はそれを突っぱねて、突き放してしまった。傷ついた彼の顔は、今でも脳裏に焼き付いて離れない。
転落した人生。両親は救いを求めて教団に入り、彼女のことなんかお構いなしで教団の活動に明け暮れた。生活に困り、夜の女になった。毎晩毎晩好きでもない男の相手をして、心が擦り減っていく。容姿が何よりも武器になる世界。周りよりも見た目で劣っている彼女はそのことを心底恨んだ。自分をこんな風にした両親を恨んだ。世界のすべてを憎んだ。
『復讐したいなら、私と共に来るといい』
ある日客の男にそう言われ、彼女は迷わずその手を取った。皮肉なことに、男は両親を奪った教団の幹部だった。男は彼女が求めるものを何でも与えてくれた。彼女が望んでいた美貌も、金も、地位も。世界が一変した。もう誰も彼女を見下さないし、蔑むこともない。底辺だった自分を忘れ、派手に着飾って驕る。男の言うとおりに兵器に乗り、名声を上げてもっと高みへ昇り詰める。そんな日々の中、一つだけずっと忘れることが出来なかったのは、あの泣き虫な男の子のこと。
幾度目かの仕事で、TAFへの潜入任務を提示された。詳細に書かれていた懐かしい名前。もちろん自ら志願し、彼のいる分隊に潜入した。彼は仲間に囲まれて屈託なく笑い、それが彼女の自尊心を嫌でも刺激する。令嬢だったころのように振舞っていても、刻まれた心の傷は叫ぶ。彼が自分とは違う世界の人間なのだと。汚れた自分が彼のそばにいるなど許されないと。それでも彼に優しく手を握られ、キスをされ、抱き寄せられると心地が良くて、任務など忘れて素直に逢瀬を喜ぶ自分がいた。いつか来る別れの時を見ないようにしながら。
呼び戻されて教団に帰った後のことは、よく覚えていなかった。ぼんやりと残っているのは男の命令とAHの眩しい光と爆発する感情。そして遠く、彼の微笑み。
彼はおぼろげな記憶と変わらない、優しいまなざしで、ここにいた。
『ルーイ…ごめん…ごめん、なさい…』
フェアラートはそれしか言わなかった。しかしルーイには聞こえていた、彼女が「イエス」と答えたのが。
頭上に戴く天使の冠が明滅する。光が弱くなり、呪縛が解けていく。だが、彼女は突然聞こえてきた声に全身をびくり、と引き攣らせた。
『クリングベイル大罪司教、これは命令だ。その異端者を殺せ』
その声は彼女にしか聞こえない。AHに搭載された耳小骨伝導通信機構によるもので、彼女の脳内に直接響き渡る。声は呪詛のように数度同じ言葉を繰り返し、沈黙する。
フェアラートは涙を浮かべ、誰もいない虚空に向かって大きく首を振った。
「嫌…できない…できないよ…!」
まるで見えない何かに怯えるように、何度も首を振りながら身をよじらせる。彼女の異様な行動に、ルーイは怪訝な表情を浮かべた。彼にはフェアラートがただ独白しているようにしか見えていない。
再び低く冷たい声がフェアラートの脳に響いた。
『首飾りを主に返せ』
謎の台詞はフェアラートの全身を貫き、駆け巡る。途端に沸き起こる、抗えないほどの衝動。一度は消えかけた負の感情が溢れ出す。フェアラートの身体が大きく跳ねた。光を失っていたAHが煌々と輝いた。
「嫌…いや…!!」
目を見開き、何かに抵抗するようにフェアラートは激しく悶える。止まらない激情を抑えようと両手で顔を覆い、しかしその指先は彼女の意思に反して離れていく。痙攣する指が操縦桿に届き、握った。呼応するように機体がライフルを構える。トリガーに指がかかり、そして。
「ララ!!」
彼女は引き金を引いていた。銃弾はルーイのわずか数センチ横を掠めて、中空に消える。あまりにも突然の出来事に呆然とするルーイを構うこともなく、彼女はライフルを持ち直した。再度の発砲。狙いが定まっていないのか、弾は明後日の方向に大きくそれた。
フェアラートは必死に手を止めようとするが、まったく体が言うことを聞かない。
「嫌だ…嫌だよ…! どうして! こんなこと、したくない!!」
言葉とは裏腹に、指は勝手にトリガーを引き続ける。彼女の容赦ない銃弾をかわしながら、我に返ったルーイはナルキッソスを構えた。スコープを覗き、彼女の手元に照準を合わせた。緊張で指が震える。一歩間違えれば、彼女を傷つけてしまうかもしれない。息を止め、しっかりと狙いを付けた。撃ち込む。高い金属音と共に、彼女のライフルが弾け飛んだ。
ナルキッソスを下ろし、安堵のため息をつこうとした刹那、ルーイはGiAごとその場に組み敷かれていた。
「ぐっ!!」
衝撃に息が詰まる。サブモニターにひびが入り、破片が彼の額を破る。視界連動のスクリーンに青空と巨大な機影が映りこんで、彼はフェアラートの機体に押し倒されたと理解した。次に映ったのは鈍くきらめく刃で、もうそれは目の前にあった。間に合わない。GiA用大型コンバットナイフは深々と彼の機体に突き立てられた。激しく鳴る警報と非常灯。視界が真っ赤に染まる。
フェアラートは壊れた人形のように呆然と首を振りながら、二振り目の斬撃を振りかざした。今度はとっさにその両腕を掴み、寸手のところで止める。すさまじい力で押し返されるが、歯を食いしばってルーイは耐えた。
「ララ、大丈夫。落ち着いて、僕の声だけを聴くんだ」
ルーイは彼女の攻撃を受け止めたまま、語り掛けた。優しく、言い聞かせるように。
「僕はここにいるよ。いつだってキミのそばにいる。絶対をキミを一人にしない」
少しだけだが、彼女の力が弱くなった。声は、届いている。
「大丈夫、キミは悪くない。キミのせいじゃない。キミは絶対に僕を殺せない。だってキミは、優しい人だから」
『……し、て…』
フェアラートが何か呟いた。先ほどの一撃で通信機器に異常が発生しているのか、ノイズがひどくて聞き取りづらい。ルーイは必死に耳を澄ませた。
『…アタシを、殺して…』
耳を疑う。しかし彼女はもう一度はっきりと、そう言った。押し戻す腕の力がまた強くなる。
画面越しのフェアラートは充血した目で、諦めたように言う。
『ルーイ、お願い…早く…でないとアタシ…あなたを、殺してしまう…そうなる前に…殺して…!』
「そんな、そんなこと、できるわけないだろ! 馬鹿なことを言うな、ララ!」
『…もう、止められないの…アタシが死ぬまで、この子は止まらない…だから、早く…!』
「やめろ!!」
ルーイの怒号が飛んだ。それでもフェアラートはうわ言のように「殺して」と呟き続ける。さらに腕が迫ってきた。ナイフの鋭い光が目前まで到達した。ルーイは焦りを押し殺し、冷静に考えを巡らせた。彼女を止めるには、彼女を救うには、最善の方法は。
ふと視界を過ぎったのは、天使の輪だった。明滅は止み、今や初め対峙した時よりも強く光を放っている。パイロットの心を支配し、戦わせる悪魔の象徴。知識と推察が間違っていなければ、彼女は確実に今その支配下にあるだろう。彼女の意思を惑わせ、体を操るくらいに何か強い影響をもたらしているのかもしれない。ならば本当に叩くべきは彼女ではなく、その元凶であるそれ、だ。一瞬で計算する。彼女の機体が電力で動いているのならば、AHも同じく電力を動力源としているはずだ。AHを止めるなら、電源を落としてしまえばいい。
彼女を傷つけず、機体だけを沈黙させる。解はそれしかなかった。
きっと構造は自分のGiAとほぼ同じなはず。今までの経験で急所は理解している。隙は、作ればいい。
「ララ、愛してる。心の底から、大好きだ。キミを離さない。一緒に生きよう」
思いつく限りの、愛の言葉を。胸の内にあるすべての愛を、ぶつける。
「ずっとずっと、最後まで一緒にいよう。キミを絶対に幸せにしてみせる。世界を敵に回したって、僕はキミと生きていく」
想いよ、届け。
フェアラートの力が緩む。切っ先が遠ざかる。その瞬間を、ルーイは待っていた。
その先はあっという間だった。出力を最大にし、ブースターを起動させて形勢を逆転。間髪入れずに自分のナイフを抜き、肩口に突き立て、腕の駆動を止めた。爆ぜる白光。フェアラートの握ったナイフが地に落ちる。すかさずナイフを抜き取り、駆動部数か所を刺し抜いた。亀裂から見える回線がショートし、焦げる匂いが充満していく。先んじて予備電源を失っているフェアラートの機体は攻撃する手もなくなり、動くことすらできない。
荒い息を吐きながら、ルーイはサブモニターを見た。呆然とした表情のフェアラート。頭上のAHはゆっくりと点滅し、やがて光が消えた。電力が落ちたのだろう、計算通りだった。
「…ララ、もう、大丈夫」
彼はようやく、本当に安堵の息をついた。見つめたフェアラートの瞳に、見る見るうちに大粒の水滴が溜まる。彼女は言葉も出せず、ただ静かに泣いた。
サブモニターの彼女が砂嵐にかき消されていく。非常電源以外の動力を失い、ジャマーも切れかけているのだろう。映像が大きくぶれた。ノイズ交じりの嗚咽に重なるようにして、仲間たちの声が通信機から聞こえた。
「…迎えに行くよ、お姫様。必ず」
それが最後の交信だった。
戦況はいつの間にか終わりを告げようとしていた。残党を蹴散らし、ヴォルクがルーイに駆け寄る。
「おい、大丈夫か!」
通信は完全に回復したようだった。フェアラートの機体を傷つけないようにそっと機体を上げ、ルーイが額の血を拭った。
「大丈夫です、すみません」
「悪ぃ、なんとか助けようと思ったんだが、いかんせん数が多くてな…奴ら、わざとお前たちを孤立させるよう仕向けてたようだ」
「ルーイさん、大丈夫ですか! すぐに回収に向かいます、そのまま待機していてください!」
ステラの短い通信があり、間もなく上空から輸送機が姿を見せる。しかし、ルーイは仲間たちに向かって一言だけ言い残してマイクを切った。
「…少しだけ、時間をください」
近くに敵の機影はない。皆があらかた片付けてくれたようだ。感謝を胸にシートベルトを外す。ポケットの端末をいじり、あの番号へ着信を入れる。3コール、通話になったが声は聞こえない。代わりにくぐもった嗚咽だけが耳に入った。何も言わず、繋げたままで、コックピットを抜け出した。
GiAから降りて地面に立つと、砂埃が頬を叩いた。乾ききった瞳からコンタクトレンズを外して、眼鏡をかける。右のレンズにひびが入っていたが、気にしない。
対峙した黒い機体の前には、少女がいた。地面に視線をさまよわせ、唇をかみしめている。目が合い、その後はどちらともなく駆け出していた。抱きとめる、今度はしっかりと。
「ルーイ…ごめん…ごめんなさい…」
「もういいんだ。何も言わないでいい」
あやすように彼女の乱れた髪を撫でる。
「…僕と…僕たちと、一緒に来てくれるね」
「…でも…アタシは、教団の…」
「大丈夫、何とか取り成してもらうよ。僕の人生をかけてもいい、キミが安心して暮らせるように、どうにか足搔いてみるさ。僕には心強い味方が…仲間たちがいる。一人じゃないから。キミも」
涙でぐしゃぐしゃになったフェアラートの顔。そっと挟み込むようにして包み、もう一度口にする。
「愛してる。キミを、誰よりも愛してる」
「ルーイ…」
口づけた。戦場には不釣り合いな、優しいキスだった。
パン
乾いた音が鳴った。
肩に回された腕がだらりと落ちた。小さな唇から暖かい赤が溢れ、ルーイの唇を濡らした。力を失った身体がゆっくりと傾いだ。深紅の瞳から光が消えた。糸の切れた操り人形のようにその場へ崩れた。全てがスローモーションで、刹那だった。
「ラ、ラ……」
まだ温もりの残る彼の手のひらが、空を切った。仰向けに倒れた彼女の脇腹には小さな風穴があき、とめどなく赤い液体が流れ出る。膝をつき、かき抱いた華奢な体は少しづつ体温を失っていった。もう何も映さないガラスのような眼球に、間抜け面の自分と青い空がただ反射していた。
狙撃された。冷静に判断する自分に辟易する。
「う…うああああああああっっ!!!」
空を睨み、咆哮した。
それしかできなかった。
「くそっ、くそぉぉぉっっ!!」
仲間たちが何事かと駆け寄ってきて、二人の姿を見、目を伏せた。カザネは驚愕し、アリアは顔を覆って泣き、ヴォルクは忌々しげに犯人を捜した。しかし辺りは静けさに包まれ、彼ら以外には誰も存在しない。
戦場に咲いた真っ赤な華を、鮮やかすぎる秋晴れの空が静かに見下ろしていた。