~2~
「まずは、生活の改善からですわ!」
と、フェアラートはいきなり食堂で叫び、立ち上がった。朝食を終えて各々自由に過ごしていた一同がぽかんと口を開けてフェアラートを見上げている。
「しばらくの間、ルーイ様の普段の生活態度を観察させていただきました。気になる点がそれはもうたくさんございましたわ。それを一つずつ正していきましょう」
先のニセ演習から早くも一週間が経っていた。ルーイの『花婿修行』を高らかに宣言したフェアラートだったが一向に動き出す気配もなく、あの場の勢いだったのだろうと誰もが忘れかけていた頃合いだった。だがそれはただの準備期間に過ぎなかったらしい。
おもむろに彼女は懐から折りたたんだ紙を取り出し、机に広げる。走り寄ってきたカザネがそれを手に取り目を通すが、半分もいかないうちに苦笑いを零して目をそらしてしまった。
そのA3サイズの用紙にはびっしりと几帳面そうな文字が並んでいた。
「どれどれ。ってこりゃ、朝から晩までほとんど何もかも、じゃねぇか…」
カザネの横からヴォルクが覗き込み、顔を引きつらせて苦言を呈す。フェアラートは紙をひったくり、依然として呆けたままのルーイに突きつけた。
「いいですこと、ルーイ様? わたくしが、ここにある貴方の『駄目なところ』を全て改善して差し上げますわ。音を上げるなんて許しませんことよ。これからの、わたくし達の明るい未来のためですもの! よろしくて?」
突き出された紙面の文章を目で追い、ルーイの眼鏡がずり落ちた。当然のごとく激しく首を振って、悲痛な声を上げる。
「そ、そんな、無理ですよぉ!」
「泣き言を言わない! さっそくお部屋の掃除から始めましょう。お部屋の乱れは心の乱れ、まずは清潔な住環境から!」
ルーイの返事を待たずにフェアラートはさっさと彼の部屋へと歩き出す。呆然としていたルーイが慌てふためきながら先回りし、ドアの前で両手を広げてブロッキング。
「お、お断りします! それだけは、ダメ、絶対」
睨みつけてくるフェアラートに負けじと、珍しくルーイが強気の姿勢をとった。フェアラートが右から行こうとすれば右へ、左に動けば左へ。さながらバスケットボール選手のように機敏な動きで、数度の攻防を繰り返した。そのあまりにも必死な形相に、とうとうフェアラートは根負けした。
「…はぁ、仕方がありません。今回は譲りますわ。ただし、ご自分で必ずお掃除なさってくださいませね」
諦めてくれたフェアラートに、ルーイはほっと胸をなでおろした。そこへ。
「今日のぉ、お昼のメニュー、洋食と和食、どちらがいいですかぁ~?」
食堂からひょっこりと顔をのぞかせたアリアが尋ねてくる。その言葉に天啓を受けたかのように、フェアラートはキラリと瞳を輝かせた。
「そうですわルーイ様! お昼ご飯の支度をいたしましょう! 今の時代、殿方でもお料理くらいこなせなくては務まりませんわ!」
「で、でも、僕今日は食事当番じゃ」
「つべこべ言わない! さぁ、キッチンへ参りますわよ! 大丈夫、わたくしが手伝って差し上げてよ」
困惑しっぱなしのルーイの手を強引に引き、そのままキッチンへと引きずっていく。途中アリアがやんわりと止めに入るが、暴走機関車フェアラートがそれごときで止まってくれるわけがない。困り顔のアリアを残し、キッチンの扉は閉められてしまった。
「昼飯の用意って、まだ10時だぞ?」
時計をちらりと見てヴォルクが言う。確かに、例えば念入りにご馳走の準備をするにしても、いささか早すぎる時間である。同じことを思ったのだろう、アリアが肩をすくめながら呟く。
「聞いてみた、だけだったんですけどねぇ」
「なになに、ルーイが料理すんの? 普段の食事当番もまともにやんないのに、ララちゃんやるなぁ!」
優雅に朝シャンを終えたカザネが興味津々といった面持ちでキッチンに聞き耳を立て始める。その後ろではルカが、カザネの濡れた髪をタオルでわしわしと拭きつつ同様に聞き耳。完全なる野次馬だ。それまで音もたてずにお茶をすすっていたルリと、同じくウーロン茶を堪能していたユウキが顔を見合わせ、お互いやれやれといった感じで目配せをした。
それからしばらくしたが、特にキッチンで面白い…もとい、不穏な動きはなさそうだった。カザネは口を尖らせ、扉から離れた。
「なんもないじゃん。つまんないの~。ぶ~ぶ~」
「なんや面白いこと起きるかと思ったんやけどなー」
後ろからヴォルクが野次馬二人の頭を小突いた。
「何を期待してんだお前らはっ」
「だってさぁ、あのぶきっちょルーイだよ? 派手にオーブンが爆発ぅ! とか、それくらいやらかしてくれると思うじゃーん?」
「アホか。さすがにそれはねぇよ」
「爆発はぁ、困りますねぇ」
「修理すんのウチやしな」
もう二人のことなどどうでもよくなったのか、彼らはその場を離れて話に花を咲かせ始めた。キッチンの扉の隙間から、何やら黒い煙と異臭が漂い始めたのも気づかずに。
最初に異変を察知したのはユウキだった。片手のウーロン茶を置き、怪訝な顔をして宙を見る。向かいに座っていたルリも同じ動きをした。しばらく様子を伺い、ユウキがポツリと呟いた。
「何か…焦げ臭くないか?」
「嫌な…予感…」
ルリが続き、そそくさと湯飲みを持ってキッチンの対角線上の壁際に避難する。
数秒後。
ドォン!!
キッチンからすさまじい爆発音が響き渡った。突然のことに全員が唖然とする。扉からはどす黒い煙がもうもうと巻き上がる。いち早く冷静さを取り戻したヴォルクがキッチンへと駆け込んだ。
「おいおい、マジかよ…」
そこには、黒煙を上げるオーブンレンジと、何かの残骸にまみれた男女の姿があった。フェアラートは完全に腰を抜かし、その場にぺたんと座り込んでいる。それだけではない。流しや調理台、ガスコンロに至るまで、見るも無残に散らかされていた。キッチン内は毎日アリアとステラが丁寧に磨いているのだが、その面影は全くと言っていいほどなくなっている。
顔を引きつらせるヴォルクに気づき、ルーイが慌てて弁明を始めた。
「あ、あの、その、なんか、温めようとしただけなんですけど」
「温めるだけで爆発なんかしねぇだろ! お前ら何やったんだ?」
ヴォルクが腕を組んで二人を交互に睨む。ようやく衝撃から目覚めたのか、フェアラートが立ち上がって目を泳がせた。
「こ、このオーブンが悪いのですわ! わたくしはただ、ツヴィーベルクーヘンを作ろうとしただけですのに…このオーブンが、勝手に爆発したんですの!」
その滅茶苦茶な説明を聞いて、ヴォルクの眉間に怒り皺が刻まれていく。それを見逃さなかったルーイが取り成すように喋り始めた。
「あ、ツ、ツヴィーベルクーヘンっていうのは、ドイツの伝統的な家庭料理なんですよ! 僕も小さいころよく食べましてね、いやー久しぶりに故郷の味を楽しめると…」
「んな事は聞いてねぇ。ルーイ、とりあえず黙っとけ」
「あ、は、はい、すみません!」
見事に剣幕負けしたルーイが一歩引いた。援護を失ったフェアラートがたじろぐ。ヴォルクはふぅ、と一呼吸置き、狙いを彼女一人に定めた。
「フェアラート。お前は、オーブンに、何を、入れたんだ?」
彼女に人差し指を突き付け、一言ごとに一歩ずつ追い詰める。彼女はヴォルクの歩みに合わせて後ずさり、とうとうレンジ横の壁に背中がついてしまった。逃げ場を失ったフェアラートはしどろもどろに言い訳を並べ立てる。
「わ、わたくしは、お野菜などを、オーブンに入れた、だけですわっ」
「ほう。それだけじゃ、オーブンが火ィ噴くはずがないんだがなぁ」
「そ、そうですわよね! やはりこのオーブンが悪いのですわ! わたくしのせいじゃございません、きっと最初から壊れて」
「あれ?」
青ざめながらもまくしたてるフェアラートの言葉は、無残な姿になったオーブンの中を覗き込むカザネに遮られた。見ると彼女の指さす先には、溶けた玉ねぎ…らしき物体やその他ぐちゃぐちゃの何かが沢山。
「これ、玉ねぎ? うーわドロッドロじゃん…あとこの臭い、卵だよね? こっちの粉みたいなのは…もしかして小麦粉かなぁ。袋ごといってんじゃん、やばー」
饐えた硫黄臭に鼻をつまみつつも、彼女はオーブン内の残骸を指先でつついた。目をそらしたフェアラートに、すかさずヴォルクが畳みかける。
「ほほぅ。お前、生卵をそのままオーブンに放り込んだんじゃなかろうな?」
「あ、あの、いえ、わ、わたくしっ」
「しかも、大量の食材を袋のままオーブンにブチ込んだ、と」
「それはっ、その」
「まさかとは思うが、オーブンの使い方も知らねぇのに、料理するとか大見得切ったわけじゃねぇよなぁ、フェアラート・リーネ・クリングベイル?」
ヴォルクの鋭い視線に正面から射抜かれ、とうとうフェアラートはその場に座り込んで泣き出してしまった。
「うぅ…ご、ごめんなさい、ですわぁ~! わたくしっ、料理なんて、したことありませんの~! 材料をオーブンに入れたら、お食事ができるのだと、思っていたんですの~~! う、うぁ~ん!!」
子供のように泣きじゃくる彼女を見て、ヴォルクは深いため息を漏らした。全てを見ていたカザネやアリアたちも、ため息交じりの苦笑を零す。
「オーブンの使い方しらないって、さすがお嬢様ってかんじだよね…」
「でもぉ、オーブンさんが全部やってくれたらぁ、とっても便利、ですよねぇ~」
「ってアーちゃん、そういうことじゃないからっ」
「はぁ、ったく…ま、こんくらいにしといてやるか…」
少しだけ怒りの収まってきたヴォルクが、フェアラートをその場に立たせる。そして脇で我関せずと成り行きを見守っていたルーイに、次の矛先を向ける。
「ルーイ、お前もだ。何で止めなかった? こんなんしたら危ねぇってことくらい、お前はわかるだろうが! 全く…」
「す、すみません! なんか、押し切られちゃいまして…」
「とにかくだ! フェアラートは、当面キッチン出入り禁止! またこんなことされちゃ困るからな。それと、今日の昼飯までに二人でここをキレイに掃除するように! オーブン以外は、元通りにしておくこと。いいな?」
そう二人を叱るヴォルクは、まるで厳しい父親のようだ。二人はおとなしく頷いた。一通り説教を終えて、ヴォルクがその場を立ち去ろうとする。ルーイが胸をなでおろしていると、
「ルーイ…お前が食事当番の時、いつもインスタントばっかりな理由が解った気がするよ。毎回毎回この始末じゃ手に負えんが、『料理くらいできたほうがいい』っつーララの意見には俺も同意する。ってことで、お前はしばらくアリアとステラに特訓してもらえ」
「え、えぇ?!」
予想外の言葉に、ルーイが面食らって奇声を上げた。
「そーだねー。ルーイのご飯おいしくないしー。あたしもおっさんに賛成! ってことでルーイ、隊長命令ね☆」
カザネが便乗して言い放つ。言葉を失ったルーイの眼鏡が盛大にずり落ちた。
キッチンを出たヴォルクを待っていたのは、自前のウーロン茶を差し出して労いの眼差しを向けるユウキの姿だった。
「…お疲れ様でした、大尉」
「お、すまんな…ったく、とんでもねぇな、あいつら…」
その二人の横で、突如ルカがそろばんを弾き出した。
「材料入れたら料理が…斬新な発想やね。そのネタいただき」
「おっ、ルカちゃんが閃いた。これは素敵なオーブンができちゃうカンジ?」
新発明の算段を立てるルカと、それを面白がるカザネ。呆れたヴォルクはもはや無言で、二人の頭を小突くだけだった。
時計の短針が11時を回った頃。朝から調書提出のため本部へ出向いていたステラが宿舎へ戻ってきた。書類を片手に食堂へ入ったステラが、煤けたキッチンを見て驚愕する。カザネが事の顛末をややオーバーリアクション気味に説明すると、ステラは苦笑しながら書類を置いてキッチンへ向かった。
雑誌を手にコーヒーをすすっていたヴォルクがその背中に言う。
「おーいステラ、ほっとけほっとけ。ちょっとくらい罰を与えないと…って行っちまった」
やれやれ、と雑誌に目を戻す。カザネが遠目でキッチンを見ながら首をすくめた。
「ステラちゃん面倒見いいからねー。ま、いいんじゃない?」
未だ爪痕の残るキッチンでは、ルーイとフェアラートが悪戦苦闘していた。例のオーブンレンジは既にルカが引き揚げた後だ。床に散らばっていた残骸はあらかた掃除され、こびりついた汚れを擦り落とそうとブラシを片手に作業する二人。
ステラの来訪に気づき、ルーイが手を止めた。
「あ、ステラさん…す、すみません、こんなにしちゃって…」
同じくフェアラートも手を止め、ばつが悪そうに下を向いた。ステラは微笑み、何も言わずにブラシを手に取った。
「ス、ステラさん! 僕たちだけでやりますから! 悪いのは、こちらですし…」
ルーイの制止にただ微笑を返し、洗剤の入ったバケツにブラシを浸す。その横にしゃがんでいたフェアラートが、もじもじと彼女を見た。目が合い、気まずさから視線をそらしてしまう。ステラは微笑んだまま、床を磨き始めた。
しばらくお互い無言で掃除に勤しむ三名。ふとフェアラートが手を止め、隣で手を動かすステラに小さく声をかけた。
「…あ、あの…」
そしてまた目をそらす。ステラはブラシを持ったまま、フェアラートの方に向き直った。彼女はなかなか言葉を紡ぎだせず、少しの沈黙が流れる。
意を決し、フェアラートはブラシを置いた。
「その……ご、ごめんなさい、ですわ…」
ようやく口を開いたフェアラートに、ステラは優しく笑みを向け、頷いた。その様子に、フェアラートは思わず目を丸くし問いかける。
「お、怒りませんの…? その…こんなに、散らかして…オーブンも、壊してしまいましたのに…」
先程ヴォルクから散々説教されたのが効いたのか、かなり弱気になっているようだ。声を荒げる素振りの全くないステラに意表を突かれたのか、フェアラートは目を泳がせながら彼女の返答を待った。
ステラは相変わらずの微笑をたたえたまま、首を傾げた。
「さっき、隊長から話は聞きました。確かに大変なことになってしまったけれど…オーブンの使い方、知らなかったんでしょう? それなら、仕方ありませんからね」
「ですがっ…わたくし、わたくし…」
ステラが発した予想外の優しい言葉に、フェアラートの瞳が大粒の涙で滲む。ステラはポケットからハンカチを取り出すと、すすだらけのフェアラートの頬をそっと拭った。
「誰だって、最初は失敗するものです。失敗を繰り返して、一つずつ学んでいくの。ララさんも、これでオーブンの正しい使い方、学んだでしょう? だから私は、失敗することを悪いとは思いませんよ」
泣きじゃくるフェアラートの頭を優しくなでながら、ステラは続ける。
「急にいろいろなことをやろうとしたって、上手くはいかないわ。少しずつでいいの。ルーイさんの件も、同じです。ララさんとルーイさんの二人でできることを、少しずつやっていけばきっと良いほうに向かっていくわ」
穏やかにフェアラートを諭していくステラ。怒ったヴォルクが怖い父親だとすれば、彼女はさしずめ優しい母親、といったところか。
ステラに差し出されたハンカチで涙を拭くフェアラートが、潤んだ目でステラを見つめた。
「…ひっく、ステラさん…」
「なんでしょう?」
「…お姉さまと、ひっく…呼んでも、よろしいかしら…?」
「え?」
「わたくし、一人娘なもので…貴女は、わたくしの理想のお姉さま、そのものですわ…! ですから…敬愛を込めて、お姉さまと呼ばせてくださいませ!」
泣きすぎたのか、目を腫らせてしゃくりあげながらもフェアラートがステラの手を握った。多少困惑しつつも、ステラは微笑んで頷く。
「え、ええ、もちろん構いませんよ」
「本当ですの?!」
フェアラートの顔がぱぁっと輝いた。そしてステラの細い腰元にがっしりと抱きつく。
「わたくし、嬉しいですわ! ステラお姉さま!」
「あらあら…」
ステラはすり寄るフェアラートを軽く抱き返し、空いている手でその髪を撫でつけた。
「さぁ、もうすぐお昼の時間ですよ。早いところ片付けてしまいましょうね。私も手伝うから!」
ブラシを片手に腕まくりをするステラに倣い、フェアラートも同じくそれを持ち直す。先ほどまでとは違いにこにこと顔を綻ばせながら、フェアラートは熱心に床をこすり始めた。
蚊帳の外でそれを傍観する男が一人。
ルーイは一連の流れを奇妙な表情を浮かべて見ていたが、二人が作業に戻ると同時に音もなくキッチンから退室した。ふらりと壁に寄りかかると眼鏡を押さえて何かを呟き始める。カザネが気付いて近寄り、彼の目前で手を振った。
「あれ、もう終わったの? っておーい。聞いてる?」
しかしルーイはそれを気にも留めず、相変わらずぶつぶつと言葉を発して怪しい笑みを浮かべている。
「これは…なんという…なんという百合フラグ……レレミィ同人のネタですねわかります!!」
急に顔を上げて奇声を発すると、眼鏡を光らせながら駆け出した。
「これは描ける! 描けるぞぉぉ~!!」
豪速球で姿を消したルーイに唖然とする面々。一様に首を傾げ、肩をすくめてそれを見送ることしかなかった。と、遅れてフェアラートがキッチンから顔を出した。
「ルーイ様! どこに行かれたんですの? もう、途中で投げ出すなんて!」
ぷう、と頬を膨らませる彼女に、カザネが振り返って投げかける。
「あ、ララちゃんお疲れー。どうどう? 終わった?」
「ふふん、バッチリ、ですわっ♪」
腰に手を当ててふんぞり返り、まるで偉大な功績でも挙げたかのように言い放つ。元はといえばもちろん彼女のせいでもあるし、半分はステラとルーイに手伝ってもらっている以上全く褒められたものではないが。
カザネが彼女の台詞を受け、ヴォルクに視線を送る。彼は座ったままキッチンの方向に目をやり、小さく頷いた。
「…ま、いいか。ステラが一緒ってことは問題ないだろ」
と、ステラがキッチンから出てきた。洗った手をタオルで拭きながら、アリアに言う。
「アリアさん、お待たせしました、片付け終わりましたよ。今日のお昼はどうしましょうか?」
「今日はぁ、パスタに、しましょうかねぇ~」
手にした裁縫セットをしまい、アリアがキッチンへ小走りで入っていく。間もなく包丁の小気味よい音と、それに雑じって小さく鼻歌が聞こえてきた。フェアラートはその様子を身を乗り出して見ている。先ほどヴォルクに釘を刺されたことを守り、キッチンには足を踏み入れず。
カザネが謎の小躍りを舞いながら歓声を上げた。
「パスタ、パスタ~♪ あたしもうお腹ペコペコ! あ、そういえばララちゃん。ルーイの改造計画、次は何やんの? 面白そうだからあたしも手伝うよ~!」
くるくるとターンを決めながらデスクに近寄り、そこに置かれたままになっていた「ルーイのダメ出しまとめ」を手に取って眺める。フェアラートは少し逡巡し、カザネに歩み寄って用紙を受け取った。フェアラートを覗き込むカザネの顔からは、興味津々といった感情が隠し切れない。
しかし、フェアラートはそれをくしゃりと丸め、ごみ箱に捨てた。それには全員が驚く。
「…できることから、少しずつ、ですわ」
ステラに教わった言葉を反芻し、フェアラートは皆に柔和な笑みを向けた。
「わたくし、ルーイ様にはもっと男らしくなっていただきたい。けれど…完璧な人間なんて、どこにもいませんもの。だから、少しずつでよいのですわ」
と、ステラに目をやった。答えるように、ステラの口元も綻んだ。怪訝そうに見つめていたカザネが二人を見比べ、腕組みをして言う。
「…あれあれ、なーんか急に大人の発言? おもしろ展開期待してたのになぁ」
つまらなそうに鼻を鳴らすが、そこへステラがふふ、と微笑しながら返事をする。
「見守ってあげましょうよ、隊長。きっとあの二人、いい家族になれる気がするわ」
彼女が優しい眼差しを向ける。その先に入るフェアラートはキッチンの前に張り付き、一歩たりとも立ち入らないようにしながらアリアへ料理のハウトゥーを逐一問いかけていた。
フォート・パイシスの襲撃事件から早くも三か月が過ぎた。あれ以来目立った侵攻もなく、7144分隊が緊急出撃するような機会もないまま平和な日々が過ぎていた。フェアラートの奇襲からキッチンの爆破が十分すぎるほど大きな事件だった気もするが、それも慣れてしまえば些細な出来事である。すっかり彼女も隊になじみ、いつしか彼女がいること自体が日常となりつつあった。
ここで、キッチン爆破事件から細々と続いた彼女の「ルーイ様、素敵な旦那様へ改造計画」のいくつかを回想と共に紹介しておこう。
『その一、生活改善・続き』
規則正しい生活、心身環境の整頓、思いやりと慈愛の心。フェアラートはそんな三大訓示を掲げ、ルーイの傍に張り付いては彼の自堕落を諫めていた。
「ルーイ様、いつまでも寝ていない! 日の出と共に起きろとは言いません、せめて7時までには目をお覚ましになって!」
「深夜何時まで起きていらっしゃるの? 明け方まで起きているから、朝寝坊するのですよ!」
「好き嫌いを言わない! ルーイ様は偏食が過ぎますわ、健康によろしくなくてよ!」
「食器の洗い物とお洗濯くらいはご自分でおやりになって! 当番ではなくても、そのくらいお出来になるでしょう? 何でも人任せになさらないで!」
…以下略。これ以外にも数えきれないほどのダメ出しを四六時中飛ばしていたのだが、あまりにも物量が多すぎるのでここでは省略させていただこう。最初は全くついていけなかったルーイだが、徐々に体が慣らされてきたのか、最近では檄を飛ばされる回数が大分減ってきていた。
ここに挙げた以外のことで大きな進展というならば、やはりルーイの私室の一件だろう。頑なにフェアラートの入室と掃除を拒んできた彼だったが、ある日とうとう痺れを切らしたフェアラートに半ば押し切られるような形で、ついにあの魔窟を総ざらいすることになった。
三角巾にエプロン、ルカから譲ってもらった使い古しの作業用つなぎ、手にはゴム手袋をはめ、フェアラートはルーイの部屋の前で仁王立ちした。もちろん、隣には同じように万全の格好をしたルーイがいる。
「さあ、今日こそはルーイ様のお部屋を、とことんまでお掃除いたしますわよ! ルーイ様、準備はよろしくて?」
戦場に向かう兵士のような面持ちで、フェアラートは意気込んだ。
「はい、もう好きなようにしてください…」
傍らのルーイは完全にあきらめの表情で彼女に従った。手には羽ばたきにモップ、ポケットから特大サイズのゴミ袋がはみ出している。
フェアラートが戦々恐々としながら、扉を開けた。初めて彼女がこの部屋に(事故で)入った時から、さらに散らかったように思える。部屋中に乱立した本やゲームソフトのダークタワーは相変わらず健在だ。カーテンの隙間から夏の日差しがうっすらと差し込み、暗い室内に筋となって光を落とす。フェアラートはまず、カーテンを勢いよく開いた。舞い上がる埃がキラキラと輝いて綺麗に見えてしまうのが皮肉だ。何か月ぶりかにまともな日の光を浴びた魔窟は、その悲惨さをより一層はっきりと浮かび上がらせていた。
「まずは…不用品を片付けてしまいましょう。導線を確保するのです」
いつになく的確な言葉を飛ばすフェアラート。ルーイのポケットからゴミ袋を抜き取り、さっと広げて床に散らばる明らかな廃棄物を次々に放り込んでいく。お菓子の空き袋、空のペットボトル、紙くず…どんどんとゴミが消え、床が姿を現す。しかしはっきりと「ゴミ」とわかる物以外は一度端に除け、ルーイの判断を仰ぐ。家事を一切したことがない、という彼女の告白がまるで嘘のように、プロの家政婦並みの手際だった。
それも当然だ。この日のために彼女は、ステラやアリアから掃除の効率的なやり方を熱心に勉強させてもらっていたのだから。
「ルーイ様、これは不用品ですの?」
「それはいらないですね。それとそれも。あ、これは捨てないで」
ピッタリと息の合ったやり取り。嫌々掃除を許可したルーイだったが、気づけば一心に打ち込み始めていた。
「床のゴミはあらかたなくなりましたね。いやぁ、サッパリした気がします!」
「そうですわね! 次は収納場所の整頓ですわ。本棚とそちらのクローゼット、整理して物をしまっていきましょう」
フェアラートが物を除け、ルーイがそれを選別してしまいなおす。分担しててきぱきと進めていくと思ったより作業は捗り、酷い有様だったルーイの城は着実に人の住む部屋へと変貌していった。部屋いっぱいに敷き詰められていたゴミや服の山も、ダークタワーも、そのほとんどが姿を消していた。改めて見回してみれば八畳ほどの部屋は割り合い広く、すっきりとしている。宿舎の物置に放置されていた本棚を搬入し、少し空きを残して全ての本が収納された。
「ふう、全部入り切りましたわ。洋服も片付きましたし、あとは…」
あらかた物の整理された部屋を見渡し、フェアラートはある場所に目を付けた。そこはルーイのベッド。壁とパソコンデスクに挟まれたそこは折り重なったゴミこそ処分したものの、敷きっぱなしの布団が薄汚れていた。
「そうね、お布団も干しましょうか。今日はお天気もいいことですし」
フェアラートが意気揚々とベッドに近づく。棚に並べたフィギュアの配列に悩んでいたルーイが一拍遅れて気づくが、フェアラートはもう敷布団の端に手をかけていた。
「あ、そ、そこは!!」
ベッドの下。それは健全なる男子達の代表的な隠し場所である。何を隠すかは、賢明な人ならばおおよそ察しがつくであろう。解らない方々のために遠回しに解説しておくが、要はいやんうっふんあは~んな内容のご本である。そして当然、ルーイも健全な男子の一人だったわけで。
「きゃあああぁぁぁっっ!! ルーイ様のエッチ!!!」
…この後の惨劇は想像にお任せしたい。
後日談だが、ルーイの頬の腫れはこの後数日にわたってひかなかった。その理由をカザネにしつこく聞いて回られたが当然話せるはずもなく…こっそりとヴォルクだけには顛末を話し、男同士でしか分かり合えないその深い傷を慰めてもらったとかなんとか。
『その二、性格と社交性の改善』
フェアラートは随分と悩んだような顔をして、ブリーフィングルームの机に頬杖をついていた。今日は軍の定例報告会と訓示会が重なり、宿舎には彼女以外の誰もいない。普段とうってかわって静まり返った建物で、開け放った窓からは小鳥のさえずりさえはっきりと聞こえていた。そんな中、彼女は一人物思いに耽っていた。内容はもちろん…ヘタレな彼女の婚約者についてである。それ以外で悩む彼女を見たことがない。
「はぁ…」
深いため息を一つ。脳裏に浮かんでいるのは、通常時と戦闘時のルーイのギャップ。GiAに搭乗していた時のルーイは臆することもなくクールな言葉を吐き、自身に満ち溢れた射貫くような視線で敵だけを追っていた。
反して普段のルーイは分隊の面子と会話を交わす時ですらどもり、視線はおどおどと落ち着かない。自信や強気などどこへやら、カザネやヴォルク達に言い負かされるだけ。あまりにも激しすぎるその性格の落差に、フェアラートは疑問しか抱けなかった。原因を推測し、色々と試行錯誤もした。戦闘時と同じ状態にすればよいものかとルーイの眼鏡を外したり縛った髪を解いてみたが、結果は変わらず。
「要は…根本、ですわよねぇ…」
そして至った仮説がこうだ。
ルーイの根本的な本質は戦闘時のそれに準じている。なぜなら、「敵との戦闘」という命の極限において発揮される性格こそ、その人の本能や本質と言えるであろうから。そうすると普段の女々しい性格は作られたもので、これまでの生活環境や対人関係によってルーイが被った仮面のようなものである。
「…それを破るには、どうしたら…」
フェアラートは更に仮説を巡らせた。
貴族の一人息子として生まれた彼は、ある程度閉鎖的な環境で暮らしていたため外界から遮断され、一人遊びばかりしていた。それは彼女が見てきた事実である。そしてその環境が変化することもないまま、軍の士官学校へ。ここからは推測だが、軍人の学校というくらいだから周りはライバルだらけ、友人を作ったり楽しい学校生活、といった雰囲気はないに等しいだろう。そして軍属の一兵士となり、基本的には軍の敷地内のみで生活し、一般人との交流などはほとんどない現在に至った。
「…開放的な…軍人ではなく、一個人として…」
そこまで行きついて、彼女はがたん、と立ち上がった。
「思いつきましたわ!」
慌てて手元の携帯電話を操り、カザネにコール。彼女はちょうど休憩時間だったらしく、すぐに電話に出た。早口に何かを伝え、了解を得たのだろう、嬉々として部屋へスキップしていった。
同じ頃。訓示会の静まり返った中でルーイは大きなくしゃみを飛ばして顰蹙を買いつつ、謎の悪寒に身震いしていた。
二日後。
分隊のメンバーはフェアラートから直々の呼び出しを受け、市中にあるホテルのロビーに集結していた。ご丁寧に、全員へ手製の招待状が送られてきたのである。
『〇月✕日、午後6時より、△△ホテルにてわたくし主催のささやかなパーティーを開催いたします。皆様もゲストとしてご招待いたしますわ。堅苦しい会ではございませんが、ドレスコードがございますのでお気をつけて。それでは楽しみになさってください、ごきげんよう』
その紙面に指示されたとおり、全員がそれなりの格好をしている。ヴォルクとユウキ、ルーイはスリーピースのスーツ姿。女性陣は思い思いの華やかなカクテルドレスを身に纏っていた。ロビーにいたボーイに招待状を見せると、恭しく広間へ案内される。
実は(ご想像の通りだと思うが)、このパーティーはフェアラートの仕組んだ「ルーイ改造計画」の一環だった。先日カザネが電話口で今日のことを説明され、途中でサプライズがあるからルーイに内緒で、と計画されたものであった。もちろんルーイ以外の面々はそのことを知っている。何度もカザネがルーイの前で口を滑らせそうになり、その度にヴォルクがひやひやしながらツッコミを入れまくっていた。
赤い絨毯の先、荘厳な両開きの扉が開く。何基ものシャンデリアが垂れたダンスホールにはすでに大勢の人がおり、その中にはもちろんフェアラートもいた。
「皆様! お待ちしておりましたわ!」
早速彼らの姿を見つけ、フェアラートが駆け寄ってくる。ワインレッドの髪に合わせた深紅のイブニングドレスがよく似合う。流石は貴族の令嬢だ。
「おーララちゃん! すっごいね、ちょー豪華じゃん!」
煌びやかな光景にルーイのドッキリ計画も忘れ、カザネははしゃぐばかりだ。
「ふふ、腕によりをかけてご用意いたしましたのよ! さぁ皆様、お楽しみくださいな!」
そう言うが早いか、彼女はルーイの腕に自分の腕を絡ませ、どこかへと消えていった。その背中を視線で追い、ヴォルクがカザネに耳打ちする。
「…おい、本当に大丈夫なのか?」
「大丈夫って、なにが?」
「ララのことだよ。またなんかやらかすんじゃねぇかと思ってよ」
ヴォルクは計画が始まった時から一抹の不安を抱いていたようで、フェアラートの動向を気にかけていた。しかし彼女は目立って不穏な動きを見せず、現状でもこの会場や参加している人々におかしな様子もない。
「まー、そんなに心配しなくてもいいんじゃない? てか、あたしもそこまで詳しく知らないんだよねー。とにかく人集めてくれって言われただけだし」
「あ、私もぉ、同じですぅ。親しい人ならぁ、誰でもいいから、ってぇ」
横にいたアリアものんびりと頷き、知り合いを見つけたらしく小走りで去っていった。ルカとルリは既にいない。テーブルの料理をとり、それぞれに楽しんでいるようだ。呆れてため息をつくヴォルクに、ステラが微笑んだ。
「まぁ、とりあえずは様子を見ましょう? 何もかも疑ってかかるのも感心しませんよ」
「…同意です、大尉」
ユウキも一言いい、ボーイからウーロン茶を受け取って片隅の壁にもたれた。
「そーゆーこと。人いっぱいだし、ララちゃんもそこまで変なことできないでしょ! ささ、ごちそうごちそう♪」
カザネに引っ張られ、ヴォルクはいまいち納得のいかない表情のままでついていくしかなかった。
見る見るうちに、広間へ人が溢れていく。フェアラートが手配したのだろうか、分隊や軍とは直接関係のない人々の姿もあるようだ。あれだけ警戒していたヴォルクも酒が入ってすっかり上機嫌になり、近くにいた見知らぬ人と笑い話に花を咲かせている。
「…皆様。今宵はわたくしのパーティーにお集まりいただき、感謝いたしますわ」
それまで流れていたクラシックの音色が止み、マイクを通したフェアラートの声が響く。一番奥に設置されたステージに上ったフェアラートは照明を浴びて一段と美しく見えた。
「このような会を開かせていただきましたのには、理由がございますの。皆様にご紹介したい方がいらっしゃいますのよ。それは…」
フェアラートがステージの近くに立つ人物に視線を送る。それを追って、スポットライトが彼を照らした。
「ルードヴィッヒ・リッター・ヘルツォーク2世。わたくしの、未来の旦那様ですわ!」
ライトの中心に浮かび上がるルーイの姿。彼は予想もしなかった展開に立ちすくみ、ぽかんと口を開けるだけだった。
「この場を借りて、皆様にご紹介させていただきますわ!」
フェアラートは意にも介せず、優雅にお辞儀をする。彼女の口上が終わると当然会場からは大きな拍手が巻き起こり、続けてルーイはあっという間に群衆に囲まれてしまった。
「おお、君がフェアラート嬢の伴侶かね」
「軍人さんなのですって? ご立派ねぇ」
「早くご両親にお孫さんを見せてやりなよ!」
「で、式のご予定はいつごろかしら?」
口々に冷やかされ、質問攻めにあい、視線にさらされ…ルーイからしてみればまるで見世物扱いだ。愛想笑いを返すこともできず、ただルーイは硬直するのみ。
遠巻きに見ていた分隊の面々は、気の毒そうな顔を向けた。
「…ほれ見ろ、言わんこっちゃない…」
「うわーララちゃんってば大胆」
救いの手を差し伸べようにも、ルーイの周りには人だかりができて近づくことすら困難だ。
一方渦中の当人は、この上ないほどのパニックに見舞われていた。顔はゆでだこ以上に上気し、開いた口は塞がらない。彼の左腕にしっかりと腕を絡めたフェアラートが嬉々として野次馬の応対をするだけで、彼自身は身動きもできずに突っ立っている。心なしか震えているように見えるのは気のせいだろうか。
ぱしゃり、とカメラのフラッシュが光り、その眩しさでルーイは我に返った。目前、群衆の一人が大きな一眼レフカメラを構える。
「もっと寄り添って! はい、笑顔で~!」
再びフラッシュがたかれる。隣にはいつも以上に密着し、カメラに向かって破顔するフェアラート。取り囲む大勢、点滅する光、絶え間ない言葉、言葉。言葉…
限界点だ。
「…っっ!!!」
ルーイはフェアラートの腕を振りほどき、一直線に広間を飛び出してしまった。驚きの声をあげながら、人々がその背中を呆然と見送る。
「おい、ルーイ!」
いち早く彼を追ったのはヴォルクだった。持っていたワイングラスを放り、それが床に落ちて砕けるのも構わず走っていく。遅れて隊員達もそれを追う。
ホテルの外階段。
いつの間にかとっぷりと日は暮れ、青白い月の光がやんわりと降り注いでいた。このご時世、夜間に外を出歩く人の姿はそれほど多くない。まばらに通り過ぎる人の波をぼーっと眺め、ルーイは抜け殻のような顔で石畳に座り込んでいた。背後に聞こえるホテルの喧騒が遠く感じられる。
「大丈夫か、ルーイ?」
彼を追ってきたヴォルクに声をかけられ、振り返る。ヴォルクはルーイの隣に腰を下ろすと、片手に持った缶コーヒーを差し出した。
「あ…」
すっかり魂を抜かれたルーイの声は、いつにも増して弱々しかった。
「ったく…どうせただのパーティーなんかじゃねぇとは思ってたさ…ララが計画することは大概ろくでもねぇことだからよ」
ルーイに渡したものと同じコーヒーをぐいっと煽り、ヴォルクは毒づいた。ルーイは缶を開けもせず、憔悴しきった瞳で手元を見つめるだけだ。精神的ダメージが相当に大きかったらしい。
「…ま、しばらくここで休んどけ。あいつらには言っとくから、アレだったらタクシー呼んで先に帰って寝ちまえばいいさ」
ルーイのなで肩を叩き、彼の返事を待たずにヴォルクは階段を上がっていった。玄関口には様子を見に来たカザネ達の姿があったが、そっとしといてやれ、と一言告げて彼女らをホールに追いやる。
一人残されたルーイは深いため息をつき、少しずつではあるが落ち着きを取り戻していた。冷静さと同時に訪れたのは情けなさ。見知らぬ大勢の前で取り乱した恥ずかしさもあったが、それよりも惨めな気持ちが大きかった。
「…情けないなぁ」
彼自身、自分がダメな男だということは重々承知していた。それが普通であり、今まで誰からもそれを窘められることも、叱られることもなかったからそのままでいいと思っていた。先んじてフェアラートが構想したルーイの性格形成の仮定は真逆の結論が正だった。軍に入ったのも、彼の意志ではなく父親の意志だ。いつまでも親離れせず、友達もまともに作れず、引きこもってアニメに没頭するだけの彼を見かねて、父は半ば強制的に彼を士官学校に入学させたのだった。人一倍メンタルが弱いルーイは同期よりも遅れを取り、それが彼の心を更に抉っていった。「どうせ僕なんか」———染みついた卑下の自嘲は、より一層彼の心を塞いでいく。
GiAに乗っているときの彼の性格は、あるきっかけで無意識に作り出した仮面だった。訓練を仮病でさぼっては見ていた古い日本のアニメに、GiAのようなロボットに乗るクールでニヒルで強い主人公の姿があった。こんな風になれたら。その主人公に憧れ、バイブルのように繰り返し視聴し、自分を投影する。GiA搭乗訓練中に何ともなしに、覚えてしまった決め台詞を独白してみた。『踊れ、愚かな者たちよ』。すると不思議と力が湧いてくるような、恐れも迷いも消えていくような感覚がして、その日の訓練は初めて教官に褒められた。それが嬉しくて、以来GiAに乗るときは呪文のように主人公の台詞をいくつも反芻した。その時だけは万能になれるような気がしたからだ。ルーイのパイロットとしての技術は実際のところ優秀で、臆病さと消極性が才能を埋もれさせていたのだがそれを打破した彼は見る見るうちにトップへと駆け上がっていった。操縦桿がトリガー、GiAに乗っている間は憧れの主人公になれる。卒業し、軍属となってからもそのスイッチは変わらずだった。軍内の個人評価は戦闘功績が何よりも重要で、それさえよければ普段の生活や彼の性格に難をつけられることもなく、ある意味では気楽でいられた。7144分隊の仲間もそうだ。彼と同じくらいかそれよりも癖のあるメンバーばかりで、ありのままの彼自身を許容してくれた。
しかし突然フェアラートが訪れて、彼女はそうではなかった。ルーイの弱いところを叱り、構わず指摘してくる。触れたくない、触れられたくない脆い部分を強引に引き出し、曝け出される。いかに自分が不甲斐ない人間であるか、思い知らされてしまう。
「…どうせ、僕なんか…」
口癖が反射的に出たが、反吐が出そうだった。もしもヴォルクのように強気な男だったら。ユウキのように動じなかったら。あのアニメの、彼のようにいられたら。いつも誰かと比べてばかりで、けれど努力もせずに甘んじている自分が何よりも浅はかで嫌気がさす。いつもならばここで心が折れ、ルーイは全てをフェアラートのせいにしてさっさと帰寮していたことだろう。だがここ数か月間の彼女との生活で、心の内に見えない変化が表れ始めていた。多少無茶の過ぎるようなフェアラートの叱咤激励は、あながち間違いでもなかったのだ。
「…違う、このままじゃ…いけないんだ」
変わりたい。少しでも、少しだけでも。芽生えた感情は彼の前に新しい道を開かせる。憧れた姿に近づくための、初めの一歩を。
ヴォルクのように勢いよくコーヒーを飲み干した。ブラックの苦みが喉を滑り落ち、頭が冴えわたる。立ち上がった彼の瞳からは迷いが消え、振り返りホテルの入り口をしっかりと見据えた。石段を蹴る。空き缶は握りつぶしてくずかごに放り、回転扉の前で大きく深呼吸をした。
ロビーにはいつもの面々が集まり、ソファに座るフェアラートを囲んで慰めていた。彼女はハンカチを手に、しゅんと肩を落としていた。彼女の泣きはらした目元が赤く痛々しくて、ルーイの胸が締め付けられる。
「あ、戻ってきた。大丈夫?」
真っ先に彼の帰投に気づいたカザネがフェアラートの肩をさすりながら問うた。同じようにルーイを見る全員の間を割り、フェアラートの前に立つ。
「…お騒がせしました」
「あ、あの…ごめんなさい、ですわ…わたくし、良かれと思って…」
フェアラートがか細い声でルーイを見上げ、許しを請うて涙を流す。そのあとは声にならないようで、ただ肩を震わせていた。彼女を気遣い、ステラがルーイの耳元でそっと取り成す。
「ルーイさん、怒らないでね。悪気があったわけじゃないし、彼女も反省しているから…」
全員がルーイの動向を見守る。今回ばかりは…そんな空気で押し黙り、全員の緊張感が張り詰めていく。
彼は右手でフェアラートの腕を掴んだ。
「…立ってください」
やけに静かなルーイの声に、彼女は恐る恐るその場に立ち上がった。ルーイの背後では男性陣が、最悪の事態を想定していつでも彼を抑え込めるように構える。もう一方のルーイの手が、フェアラートの顔に伸びる。彼女はぎゅ、と目を閉じ、歯を食いしばった。
「…ごめんなさい、ララさん。僕は大丈夫。だからもう、泣かないで」
彼の人差し指が、そっとフェアラートの頬を伝う涙を掬った。
「え…」
「少し、取り乱してしまっただけです…本当に、もう大丈夫ですから」
「けれど」
ポケットチーフを抜き、優しく彼女の目元をぬぐう。フェアラートのメイクはぐちゃぐちゃに崩れていたが、その無防備さがなんだか可愛らしくてルーイは愛おしそうに見つめてしまう。照れ隠しのように言葉を紡いだ。
「そりゃあちょっとは…怒ってますけど。でも、ちょっとだけです。それよりも…ありがとう、ララさん。僕のことを、真剣に思ってくれてたんですよね。僕が自分の殻を破れるように、ララさんなりに考えてくれてたんですよね。それがわかったんです。だからいいんです、これで」
「ルーイ、様…」
後ろのヴォルクとユウキが警戒を解いたのがルーイには気配で分かった。そして空気を読んで、ステラが二人以外をホールに連れて行ったのは横目で確認した。扉が閉められ、静寂。BGMにはほんのりと聞こえるクラシックの音色、二人を照らすシャンデリアの柔らかな灯り。
フェアラートの涙は、気づけば止まっていた。彼女の少し乱れた髪を撫でつけ、ルーイは微笑んだ。
「行きましょう。まだパーティーの途中ですからね」
右腕に彼女の華奢な腕を絡ませ、歩き出す。きっとホールに入ったら奇異の視線が自分を刺すだろう、だが恐れない。
「ま、待って、ルーイ様」
「どうかしました?」
「あの…お化粧を…」
扉の前でさっと顔を隠すフェアラート。ルーイは小さく笑った。
「大丈夫ですよ。ララさん、そのままでもとてもかわいいから」
「えっ?」
フェアラートは彼の突然の賛辞に目をぱちくりとさせた。しかし考えるより前に口をついて出た言葉に誰より驚いていたのは彼自身だった。
「い、いや、何でもない! さぁ、行きますよ!」
わざと大声を張り上げて、勢いよく開き戸を押す。
連れだって戻った二人を、さっそく野次馬が取り囲もうと集まってきた。しかしルーイは静かに彼らをかき分け、フェアラートを守りながら奥の楽団のもとへ。指揮者に何かを耳打ちすると、初老の紳士は大きく頷きタクトを振った。始まったのは清廉なワルツ。事態の呑み込めない一同が見守る中、ルーイは広間の真ん中に躍り出てフェアラートの前に跪いた。
「…踊って、いただけますか」
右手を出した彼の眼差しは真っすぐとフェアラートを見つめる。その気品に溢れた姿にフェアラートは照れたようにはにかみ、そっと彼の手をとった。
「ええ、喜んで」
指を絡ませ、華麗にステップ。二人ともそれなりの出身だからなのか、ダンスは手慣れたものらしい。実に優雅に、フロアを舞い踊る。観衆たちは見とれ、その美しさに感嘆の吐息を漏らした。
「ねぇ、私たちも踊りましょうか」
同じく見とれていたステラが、ヴォルクの手を取ってフロアへ駆ける。それを皮切りに思い思いの相手とペアを組み、エレガントなダンスパーティーの始まりだ。皆ルーイの失態など忘れ、時間は楽しく過ぎていく。全員の真ん中で踊るルーイとフェアラートは、誰よりも輝いて見えた。
この日を境に、ルーイは少し(誤差程度)だけだが、どもらずに話せるようになった。相変わらず長時間の対話は間が持たなくなるが、適当に言い訳をしてその場を逃げ出すことはしなくなったのでかなりの進歩と言えよう。更に大きな収穫としては、フェアラートの数ある「改造計画」の中で、唯一の大成功&大団円で終わったものだったということだ。
そう、残念ながら唯一、である。
『その三、肉体と根性の改善』
「ここがぁ、日本ベース直属のぉ、士官学校ですよぉ」
平和で暇すぎる休日。暇を持て余したフェアラートはアリアの案内で、居住区から行ける軍内施設を見学していた。本来は外部の人間が立ち入ることなどもってのほかなのだが、アリアの口添えで特別に許可が下りたのである。もちろん「絶対に公言しない」という条件付きだ。大して階級も高くない一介の軍人が普通はそこまでの許可を得られるはずがなく、ではアリア・マーグリー伍長とは何者なのか、と疑問に思う方は少なくないだろう。しかしそれについては今はまだ伏せておこう、いずれ解ることだから。
士官学校の廊下にはまだ初々しい顔の学生諸君が入り乱れ、軍にそぐわない「ゴスロリ少女」と「ど派手な礼装の少女」が堂々と廊下の真ん中を通行する様を、ざわざわと遠巻きに見守っていた。ちょうど昼休みの時間なのだ。
「皆さん、立派な軍人を目指している方々ですのね? 素晴らしいですわ!」
赤い膝丈のドレスワンピースをはためかせながら、フェアラートは感激の声を上げた。先導するアリアの後を追いかけつつも、大きな瞳をきょろきょろと動かして校内の隅々まで観察している。
「あ~!」
「わっぷ!」
アリアが突然立ち止まった。よそ見をしていたフェアラートはまんまとその背中に追突し、よろめきながらアリアの視線を追った。そこには、正面の教室から出てきた制服の女性が立っていた。
「あら、アリアちゃ~ん!」
二人に気づいた女性は明るく顔を綻ばせ、ぱたぱたと駆け寄ってきた。スレンダーだが豊満なボディで、アリアを抱きしめる。
「驚いたわ~! 遊びに来るなら、連絡してくれれば良かったのに~!」
「内緒の方がぁ、びっくりすると、思ってぇ」
熱い抱擁を交わす二人を呆然と見つめるフェアラート。と、女性がフェアラートに気づき慌ててアリアから離れた。
「あらまぁ、お友達さんがご一緒だったのね~。ごめんなさいねぇ、びっくりしたでしょう?」
「い…いえ、お構いなく、ですわ」
「こちらはぁ、フェアラートさんですぅ。私の隊にぃ、遊びに来ているんですよぉ」
アリアがフェアラートの腕をとり、女性の前に引き寄せた。
「フェアラート・リーネ・クリングベイルと申しますわ。以後お見知りおきを」
貴族がするような優雅なお辞儀をする。今度は女性の腕をとり、アリアが言った。
「こちらがぁ、私のぉ、ママですぅ。士官学校のぉ、教官なんですよぉ」
「フィリア・マーグリーです、よろしくね~」
「え…お母様ですの?!」
差し出された握手を素直に受けながらも、フェアラートは素っ頓狂な声を上げてアリアと女性を見比べた。癒し系ほんわかスマイル、美しく揺蕩う銀髪、小柄だがバランスの取れた体つき。確かによくよく見れば…似ているような。
と、いきなりフェアラートの視界が柔らかいバストで塞がれた。フィリアが突如、フェアラートをがっしりと抱きしめたのだ。
「フェアラートちゃん、とっても可愛いわぁ~! お人形さんみたいね~!」
「ママはぁ、カワイイものがぁ、大好きなんですぅ~」
…紛れもない母子だ。アリアが持っている天性の愛くるしさは、きっと幼少期からの英才教育?の賜物なのだろう。たわわな胸に押しつぶされそうになりながらも、フェアラートは確信していた。
「ラ…ララと、お呼びくださいな」
「あ、いけないいけない。午後の訓練の準備があるんだったわ~。もっとたくさんお話ししたかったのに~」
アリアと同様、少し間延びしたおっとり口調でフィリアは言い、名残惜しそうに二人の頭を交互に撫で回した。
「折角遊びに来てくれたのに、ごめんなさいね~。ゆっくり楽しんでいってちょうだいね、ララちゃん」
「はい、お母様。ありがとうございます」
「ママぁ、よかったらぁ、午後の訓練、見学していてもいいですかぁ~?」
「ええ、もちろんよ~! 13時から中央訓練場だから、ぜひいらっしゃいな~。ママ、張り切っちゃう~!」
最後にアリアへキスを送り、フィリアは嵐のように去っていった。気づけば周りには生徒たちで人だかりができ、二人を何とも言えない眼差しで見物していた。「マーグリー教官の…」「マジかよ…」といったようなひそひそ声が聞こえてきたが、フェアラートにはその噂話の理由が全く分からなかった。
中央訓練場はちょっとした野球場よりも広大で、様々な訓練器具が設置されていた。すでに30名ほどの士官生たちが整列し、背筋を崩さず教官を待っている。アリアとフェアラートは少し離れた日陰に用意されたベンチに腰掛け、涼しく見学だ。
間もなくして、訓練用の迷彩服を身に纏い、きっちりと長髪をひっつめたフィリアが警棒を片手に現れた。先のほんわかスマイルから一転、眼光鋭い軍人の顔になっている。
「教官に、敬礼!!」
副官と思わしき男性の兵士が声を張り上げた。一糸乱れぬ動きで、士官生たちが右手を掲げる。その中で堂々と、フィリアは正面に立った。
静まり返った場内いっぱいに、フィリアの怒号が響いた。
「これより、武器携行状態での障害物突破訓練を開始する!」
フェアラートがさっき聞いたものとはまるで別人のようなドスの利いた声に、彼女はあんぐりと口を開けた。
「よく聞け! 戦闘地が常に整備された場所とは限らん! 貴様らはいついかなる場合でも、冷静かつ迅速な行動を求められる!」
隣ではさも当たり前の光景を見ているかのように、アリアがにこにこと母の雄姿を見守っている。
「貴様らには実際の兵士と同じ重量の装備を背負い、ここに設置された全ての障害物を突破してもらう! 訓練だからと言って気を抜くんじゃないぞ!」
生徒らはそれぞれの足元に置かれた銃や携帯品を次々と装備していく。何キロほどあるのかは分からないが、すでに苦しそうな顔をする者もちらほらと見受けられた。それをフィリアは見逃さない。
「貴様! その程度も持てんのか! 腹筋50回! 全く、そんな体たらくで軍人になれると思うなよ!」
檄を飛ばされた者はその場でペナルティだ。その数ざっと6名。
そこからは怒涛の訓練の始まりだった。重たい装備を背負って、張り巡らされた鉄条網を潜り抜けたり、身の丈よりも高い塀をよじ登ったり、片足しか乗らない大きさの飛び石を渡ったり。必死に食らいつく士官生たちだったが徐々に足並みは崩れ、耐え切れずに膝をつく者が続出した。そこに容赦なく浴びせられるフィリアの罵声。
「何をちんたらしている! 立て! さっさと走れ! ここが戦場なら貴様はとっくに死んでいるぞ!」
阿鼻叫喚の縮図さながらを前にして、フェアラートの開いた口は塞がらなかった。軍とはかけ離れた生活をしている一般市民の、ごく普通な反応だろう。彼女の横に腰掛けるアリアは風貌こそ軍人らしくないものの、やはり一兵士、見慣れているのか全く動じていない。何事もないように「頑張ってくださいねぇ~」などと黄色い声援を送っている始末だ。
フェアラートは大きな目を更に真ん丸に見開き、傍らの少女に問うた。
「す、凄いんですのね、兵隊さんの訓練は…どこの国でも、このような感じですの?」
「う~ん、私はぁ、日本ベースしか知らないのでぇ、何ともわかりませんけどぉ~…あとで、ママにぃ、聞いてみますぅ」
「ところで…彼らはあの訓練を、いつまで続けるんですの? もう何周も同じところを回っているようですが…」
「あ~、きっとぉ、ママが終了~って言うまで、ずっとですよぉ~」
「ず、ずっと!」
とんでもないことをさらりと言ってのけるアリアは、いつもと同じ天使の微笑を浮かべていた。フェアラートが豆鉄砲を食らった鳩の様な顔をしたのは、想像に難くないだろう。
小一時間が経過し、ようやく長い長い訓練が終わった。新兵たちは地面に倒れ伏し、フィリアの「終了! 速やかに解散せよ!」という号令がかかっても動けない者がほとんどだった。
フェアラートとアリアはゾンビのように横たわる彼らに小さく会釈をすると、校舎に消えていったフィリアを追う。表の熱気とはうって変わって、校舎内はひんやりと空調が効いていた。
「アリアちゃ~ん、ララちゃ~ん、お疲れ様~」
玄関脇の教官室からフィリアが顔を出す。いつの間に整えたのか、先程の迷彩服からいつもの軍服に袖を通していた。髪も解き、化粧まで元通りだ。
「ララちゃんは慣れてないから、驚いたでしょ~? 今年の新入生は根性があるから、鍛えがいがあるわ~」
訓練中の気迫は微塵も残っていない。娘とそっくりなふんわりオーラだけが漂っている。
「と…とても、迫力がありましたわ」
フェアラートはそれだけ感想を述べるのがやっとだった。フィリアは満面の笑みで答えると、立ち話もなんだからと二人を教官室へ案内した。中には他に大勢の教官がいたが、フィリアの後ろについてきた二人を遠巻きに眺めてやはりひそひそ声で噂話を始めた。だが当の三人は完全にそれを無視し、奥に置かれた応接用ソファに腰掛けた。
「あ…そうですわ。お母様に聞きたいことがございますの」
「なにかしら~?」
「軍人さんの訓練とは、どこの国でもあのような感じですの?」
フェアラートの質問にきょとんとするフィリア。小首をかしげて顎に手を当て、宙を仰ぐ。
「う~ん、どうなのかしらね~。日本ベースは割と厳しい方だけれど、他の国はそうでもないんじゃないかしら~。EUベースの学校とかはそこまででもないって聞いたことがあるくらいね~」
がたっと、フェアラートが立ち上がった。
「そうなんですの?!」
「まぁ、国によって文化とかの違いもあるものね~。あとは教官次第、かしら~♪」
フィリアは悪意も全くなく、うふふ♪と笑った。
フェアラートは姿勢もそのままに、わなわなと震えている。きっとまた良からぬことを画策しているのだろう。本人からしたら大真面目なのだが、巻き込まれる側としてはたまったものではない。彼女の瞳は熱意に燃え、やはり良からぬことを考え付いた顔をしていた。
「お母様。不躾ながら、お願いがございますの」
「なにかしら~? 私にできることなら、何でもどうぞ~」
彼女にひそひそと耳打ちをする。ふんふんとそれを聞いたフィリアは大きく頷くと、「あら~、それくらいお安い御用よ~」と二つ返事で了承した。
三日後。
「貴様! 伍長ともあろうものが、二等兵に後れを取るとはどういう了見だ! 恥を知れ! 腕立て100回だ!」
以前と同じような訓練の地獄絵図。その中に、見知った顔が一つ。ルーイだ。
士官生と同じ迷彩服を着て、泥まみれで地面に突っ伏していた。その横を、彼より体格の大きな新兵たちが駆け抜ける。
「立て! 走れ! 勝手に休むな! 学生からやり直すか貴様!」
どう贔屓目に見ても、彼が現役のGiAパイロット…戦場の最前線を駆けるものには見えない。
サブマシンガンを必死に抱え込み、ルーイはよたよたと走り出す。先に待ち構えるのは巨大な衝立だ。もちろん武器を持ったままで、この壁をよじ登らなくてはならない。ほかの兵士たちは助走を大きくつけて壁を駆けあがり、頂上に手をかけて片手で体を引き上げる。相当な脚力と腕力を必要とするメニューだ。
ルーイもそれに倣い、ずいぶんと遠くから助走をして壁へ向かっていく。弾みをつけて一気に…上がれず、したたかに顔面から激突した。
先日アリアたちが見学したのと同じベンチに座っていたフェアラート、カザネ、ヴォルク、ユウキが、思わず顔をしかめた。
「あー、今思いっきりぶつけたよね…鼻血出そう…」
まるで自分がやったかのように鼻を押さえるカザネ。同じく顔を歪ませたフェアラートだったが、眉根を寄せて頭を振った。
「おいたわしい…ですが、ここは頑張っていただかなくては。お母様の下でなら、きっとあの貧弱すぎる体と心が鍛えられそうですもの!」
彼女が思いついたのはとんでもなく良からぬことだった。EUベースと言えばフェアラートとルーイの出身国・ドイツが所属しているベースである。ルーイは今こそ日本ベースで活躍しているが、士官学生時代はまだ故郷にいたのだった。フィリアの憶測交じりの一言で、フェアラートは勝手な思い込みから「ルーイ様は厳しくない学校で訓練を受けていた」と結論付け、フィリアのクラスに一日体験入学をこれまた勝手に発起したのだった。
そして結果は見ての通りだ。
「うわ、また派手に転んでる」
「ありゃダメだ、踏み外すな。ほれ見ろ、落ちた」
もはや学生時代の訓練がどうのというよりは、単にルーイの体力の問題だ。開始10分にしてペナルティは数えきれず。へろへろである。
「でもよぉ。ララ、こいつぁちっとやり過ぎだと思うぜ?」
気の毒そうにルーイを目で追いながら、ヴォルクがため息交じりに行った。
「どうしてですの? このくらい厳しいほうが、ルーイ様も鍛えられるでしょうに」
「しかしなぁ…あのマーグリー教官クラスだろ? ってああ、お前さんは知らねぇか…」
ヴォルクの吐いた意味深な一言を聞き逃さない。
「なんですの? お母様が何かありまして?」
率直なフェアラートの問いかけに、三人は口ごもった。あからさまに目を泳がせたカザネを彼女は問いただす。
「ねぇ、なんですのよ? 教えてくださいな」
しばしの沈黙。ようやく言いにくそうに口を開いたのは、意外にもユウキだった。冷静沈着な彼ですら、いつになく緊張した面持ちで訓練風景を眺めていた。
「…マーグリー教官のクラスは、配属される士官生がある程度決まっている。入学時に将来有望と判断された者…いわゆるエリート層。もしくはどうしようもないレベルの…つまり、不適合者だ。その相反する2タイプが同じ訓練を行う。当然、エリート層に合わせたメニューでだ。日本ベース学校内…いや、他国の学校と比較しても群を抜いてハードな授業が多いと有名なんだ。教官のクラスには別の呼び名がある。それは…」
言葉を区切り、言い切る。
「『地獄の鬼教官クラス』。毎年ここに入ったもので、最後まで残るのは一握り、だそうだ」
フェアラートの顔が硬直した。
「有名だよね、軍の中では…あのクラスになったら終わりだって、新入生にみんなして吹き込むし。配属決まった瞬間、泣いて逃げ出した奴もいたらしいよ」
「マーグリー教官の噂はどこのベースにも轟いてるぜ。『鬼教官』なんてのはまだいい方だ。『悪魔』『女帝』…他にも聞いたことがあるなぁ」
二人の話に、みるみるフェアラートの顔色が青ざめていく。
「そ…そう、なんですのね…知りませんでしたわ…」
「まぁまぁ。これは軍の中での話だから、ララちゃんが知らないのも当然だよー。仕方ないって」
「だな。始まっちまったもんは仕方ねぇ」
「貴重な機会だ。鍛え直してもらうのは悪くないだろう」
ルーイの不幸を案じながらも、三人は早々に諦めムードだ。
「そ…そんなに恐ろしい方でしたとは…あのお母様が…」
フェアラートは身震いし、心底心配そうにルーイを見やった。全く訓練内容についていけないルーイにフィリアの怒号はいつも以上に轟く。何度目か解らないくらいの転倒の後、這いつくばったままルーイは動かなくなってしまった。
「ル、ルーイ様!」
フェアラートの金切り声。流石に訓練はいったん中止、駆け寄ったフェアラートが彼を仰向けに転がす。目を白黒させ失神寸前だ。ヴォルクとユウキが抱え上げ、ルーイは医務室へと運ばれていった。ぼんやりと霞がかったルーイの視界に、フェアラートが映り込む。そのまま彼は意識を手放した。
走る、走る、走る。重石をつけたようにずっしりと手足は鈍く、足が上がらない。けれど止まれない。止まることを許されない。耳に響くのは罵声。嘲笑。指をさす悪意。闇の中、踏み出した一歩は黒い沼に沈み身動きが取れない。降り注ぐ好奇と蔑みの視線が心をずたずたに引き裂く。名前を呼ぶのは誰だろう。「ルーイ!」呆れた顔で漫画を取り上げる父親か。「ルーイ!」少しの失態ですら笑い物にするクラスメイトか。「ルーイ!」出来損ないと罵る上官か。「ルーイ!」手を握ってくれたあの子は。
「ルーイ様!」
うなされながら目を覚ましたルーイは、全身の痛みに息をのんだ。
「め、眼鏡…」
絶え絶えに絞り出した彼の言葉に反応し、フェアラートがサイドボードの眼鏡を手渡す。レンズ越しにようやく視界が開け、飛び込んできたのは真っ白い天井と泣き出しそうな彼女の顔だった。
「うぅ…ここは…」
「医務室ですわ。ルーイ様、訓練中に失神されましたのよ。それで運ばれましたの。先ほどまでカザネさん達もいらしたのですが、先にお帰りになりましたわ」
「あ、あぁ、訓練…そうでしたね…」
気絶する直前の記憶が蘇り、ルーイに悪寒が走った。体中に走る疼痛は、擦り傷と日焼けと早くも訪れた筋肉痛だ。彼の絆創膏だらけの顔をそっとさすり、フェアラートは大げさに声を上げた。
「あぁルーイ様! またわたくし、軽率なことを…! 本当にごめんなさい!! わたくしルーイ様に、お母様の生徒さん方のような強い男になっていただきたくて…それで…とにかくごめんなさいですわ!」
「い、痛い痛い!! わかったから、離して、ください!」
間髪入れずお見舞いされたハグを振りほどき、痛みを堪えてルーイは起き上がる。
「…なるほど…全部、ララさんの差し金だったんですね」
フェアラートの思い付きから現在に至った経緯はこうだ。
兵役中の実体験をもとに演説や模擬戦闘訓練を実演する『士官学生向けの演習会』があるのでぜひ講師として参加してほしい、とアリアから話があり、7144分隊から4名が抜擢された。ルーイの訓練を観戦していたメンバーも同じく講師という名目であの場に列席していたのだ。階級の比較的高いカザネとヴォルクが朝から演説をし、ユウキとルーイが模擬訓練の実演をする割り振りで一日スケジュールが組まれていた。フィリアとアリアの親子タッグによって周到に用意された演習会をまさかフェアラートのたくらみだとは思わず、何の疑いもなくルーイはそこに参加していたのである。士官学校ぐるみで仕組まれた演習会は割とまともな雰囲気しかなく、ルーイでなくとも勘繰る余地はなかっただろうが。しかしいざ張り切って訓練場に行ってみればそこにユウキの姿はなく、おかしいと思ったが時すでに遅し。あれよあれよという間に士官生に混ぜられ、鬼教官モードフィリアの激しい手ほどきを受ける羽目になっていた…という話である。
鼻っ柱の大きな絆創膏を気遣いながら、眼鏡を直してルーイは大きくため息をついた。
「…そんなに…そんなに僕は、頼りないですか…ダメなヤツに見えてるんですか…ララさんには」
握った拳に少し力が入り、言葉が止まらなくなる。
「確かに僕はへなちょこですよ。まわりと比べたら貧弱だし、弱虫だし、ダメ人間だっていう自覚はありますよ。でも…でも、それでも僕は僕なりに頑張ってるんですよ。強くなろうって…皆から認めてもらえるような人間になろうって、努力してるつもりなんですよ…!」
わけもなく流れてくるのは悔し涙だ。頬を伝っては零れ落ち、じわりじわりと布団に染みを広げていく。まるでルーイの心に巣くう黒い靄のように。
「けれど…無駄、だったみたいですね。どんなにやっても、僕は誰からも、評価されない。僕はずっと底辺で、僕の努力なんて無意味だったんだ」
「いいえルーイ様…そんな、そんなことありませんわ…ルーイ様が頑張っていらっしゃるのは、わたくしも解って」
「解ってなんかいないじゃないか!」
珍しく響いたルーイの咆哮に、フェアラートの唇が止まった。
「解ってない! 現にキミは、僕が何にもできないダメな奴だって思ってるから、こうやっていろいろするんだろ! 僕が周りより劣って見えているから! 僕がここまでどれだけのことを乗り越えてきたのかも知らないで…! そりゃあそうさ、キミは一般市民で、お嬢様で、苦労なんか知らないような人生なんだろう?!」
言葉の鋭い切っ先が、フェアラートに刺さっていく。彼女の顔が青ざめ、噛んだ唇が震える。
「もう…もう放っておいてくれよ…! どうせキミには、僕のことなんて理解できないんだから…!」
そう吐き捨てると、ルーイは布団をかぶって彼女に背をむけた。がたん、と椅子が転がり、フェアラートの駆けていく足音と扉の強く閉まる音。それをルーイは背中越しに見送り、目をつぶって詰めていた息を一気に吐き出した。今にも口から飛び出しそうなほど、心臓が大きく鼓動している。残るのは妙な高揚感と、後味の悪さ。目を開ければ蒼白なフェアラートの顔がフラッシュバックして、それが記憶の底にある何かとシンクロする。前にも同じようなことがあった。黒い思い出の箱にかけられた強固な鍵が外れそうになり、慌ててかぶりを振る。
現実逃避に携帯を取り、ゲームを起動させるがいまいち没頭できず少しやっては閉じる。それを何度も繰り返し、気が付けば橙と濃紺が混ざった空に一番星が輝きだしていた。のそのそと起き上がり、身支度を整える。校舎内に人の気配は少なく、ルーイは足早に学校を出ると宿舎へ向かう。ずっと心に残る重苦しい感覚が拭えず足取りはいつにも増して重たい。なんだか今は誰にも会いたくなくて、街で少し時間をつぶそうかと踵を返した刹那、携帯が鳴った。ステラからだ。通話ボタンを押す指が止まり、逡巡している間に着信は切れてしまった。
続けざまにまた着信。今度は出る。
「…はい」
「あ、ルーイさん! 大変だったそうですね、お疲れさまでした。体調はいかがですか?」
「今は、それほどでも。すみません、ご心配おかけしました」
「いえ、大丈夫ですよ。それよりルーイさん、ララさんと今ご一緒ですか?」
「…いいえ。彼女、先に帰ったと思いますけど」
「…そうですか…」
何やら不穏なステラの声色にルーイは眉根を寄せた。
「…どうか、したんですか?」
問いかけに答えたのはルカの声だった。
「あ、ルーイ? あんな、ララちゃん帰ってきてないんよ。携帯も繋がらへんし。あんたらと一緒に士官学校行ったきりや。なんか言うてへんかったか?」
フェアラートが医務室を飛び出してから、ルーイの目測だけでもすでに数時間が経っている。端末を握る手のひらに、嫌な汗が滲んだ。
「今、隊長らが捜しに行っとる。うちらは連絡要員で留守番しとってん。まだ見つかってへんらしいけど…」
「ルーイさん、とにかく一度戻ってください。詳しいことはまた説明しますから。お気をつけて」
おそらくスピーカーホンにしているのだろう、ルカの声にステラが重なり、通話が切れた。
全身を駆け巡る気持ち悪さ。胸が痛いくらいに締め付けられ、息ができない。彼女が飛び出していったのは確実にルーイのせいで、行方をくらましたのもルーイのせいだ。
「僕は…なんてことを…!」
端末を握りしめ、フェアラートの番号をタップ。呼び出し音が鳴り続けるが一向に取られる気配はない。再度かける、何度も何度も。だがフェアラートの声がすることはなく、無情にも留守電に切り替わってしまう。歯噛みし、ルーイは宿舎に向かって走った。
明かりの灯った玄関先に、ステラの姿があった。彼と同じように端末を握り、心配そうな面持ちで遠くを見ている。走ってくるルーイを見留めると、今にも泣きそうになりながら駆け寄ってきた。
「ああルーイさん! ララさんから連絡はありましたか?!」
「電話したんですが、繋がらなくて。そっちもですか?」
「そうなんです。私やルカさん達もダメでした。さっき隊長にも確認したんですが、まだ…」
「ステラさん、申し訳ないんですが、このバッグ僕の部屋に投げておいてください。僕も探しに行ってきます」
「でも…まだ休まれたほうが」
「大丈夫です、行きます。全部…僕のせいですから」
背負っていたリュックをステラに押し付けると、ルーイは夜の闇に駆け出した。体が痛むのを無視して、息が切れても、走る。
街に出た。がむしゃらに彼女が行きそうなところを駆け巡る。もちろんカザネたちも同じようなところを捜索しているだろうが、それでも頭に浮かんだ場所を片っ端から回っていく。パーティー会場だったホテル、皆で買い物に行ったショッピングモール、レストラン、近くの駅やバス停、思いつく限り全て。行く先々で人波に目を凝らし、ワインレッドの巻き毛を探す。見当たらない、また当てもなく走り出す。
記憶の中、パンドラの箱が開きルーイの脳裏にあの日の情景が見えた。
『恵まれてるアンタに、アタシの気持ちなんてわかんないわよ!』
赤髪の彼女は泣きながら言った。走り去る背中は遠く、何も言えないまま見ていた。弱い自分は手を伸ばせず、いつしか彼女を忘れることで過去にしようとしていた。本当はあの時、追いすがって謝りたかった。もっと一緒にいたかった。ずっとそばにいてほしかった。一人にしないでほしかっただけだった。
彼女の背中はずっと見えない。夜の暗闇は深くなり、気づけば繁華街を離れ郊外に出てしまったことに気づく。閑静な住宅街にルーイの激しい息遣いだけがこだまする。
苦しさのあまり、ルーイは思わず近くの街灯にもたれかかった。首筋を伝う汗を乱暴に拭い、また走ろうとするが疲労で足がついていかない。悔しさに膝を殴りつける。
「ちくしょう…!」
携帯には誰からの連絡もない、もちろんフェアラートからも。息を整え、また顔を上げた。
家々の間を抜け、路地を曲がる。
「7144分隊の人間だな」
「うわっ!」
突然背後から低い声が上がり、ルーイは悲鳴を上げた。警戒しつつ振り返ると、そこには切れかけて明滅する街灯にぼんやりと照らされた長身の男がいた。
「警戒するな、怪しい者ではない」
そう言われても十二分に怪しいが、今のルーイにそれをかまっている暇などない。無視して走り去ろうとするが、男はそれより早く口を開いた。
「赤毛の女を探しているのだろう」
ぴたりとルーイの歩が止まった。
「奴はこの先の公園を越えた先、丘の方向にいる。つい先刻だ」
男は微動だにせず言った。さすがにルーイが振り向き、彼に向かって怪訝そうにしながらも会釈をした。しかし。
「追うのは構わん。だが…あの女に気をつけろ」
男は意味深な一言をぶつけてきた。目深な鍔つき帽子のせいでその顔はわからないが、声には何か確信めいた響きがあった。
「な…どういう…?」
あまりに突拍子もない言葉に、ルーイは思わず問いかけていた。だが男はこう答えただけだった。
「詳しくは言えない。とにかくあの女には気をつけろ」
そして長い外套を翻し、闇に溶け込む。一歩足を踏み出し、肩越しに、
「7144分隊にいる姉妹のことだが……いや、いい。気にしないでくれ」
と言い残すと音もなく去って行ってしまった。ルーイは茫然と立ち尽くしたが、我に返り男の言葉を思い返してまた走り始めた。しばらく行くと、男の言った通り大きな公園があった。そこを抜け、さらに奥へ。
小高い丘の簡素な見晴し台。その真ん中に、探し続けていたシルエットが月明かりに浮かび上がっていた。彼女は手すりにもたれかかり、眼下に広がる街の明かりをぼんやりと眺めている。彼女がかすかに口ずさむメロディーに、ルーイの胸は懐かしさで満たされた。
そっと歩み寄り、驚かせないよう隣に立つ。
「…懐かしいな、その歌。キミが昔教えてくれた子守唄だ」
歌が止まり、フェアラートは顔を隠して涙をぬぐった。
「ルーイ様…」
「綺麗な所だね。街も、ベースもよく見える。こんな場所があったの、初めて知ったよ」
手すりに肘を置いて微笑むルーイ。星明りのように煌めくネオン、その間に聳え立つビル群と広大な日本ベースの景色。まるで観光パンフレットの写真みたいな光景を、二人は静かに並んで見下ろす。
幻想的な光に照らされ、まるで戦乱など感じさせない平和な空間が優しく二人を包んでいた。
「…ごめん、ララさん。僕…キミにひどいことを…言ってしまった」
眼鏡の奥、ルーイは瞳を伏せた。
「キミだって…一生懸命だったんだろう。それなのに僕は、僕のことだけで精一杯で、キミの気持ちとかそういうの…考えてなかった。僕がダメなのはキミのせいでも何でもない、僕がいけなかっただけなのにね。小さいころからキミは僕のそういうところを叱ってくれていたのに、僕はちっとも成長しなかった」
「っ…ルーイ様、思い出されたんですの…?」
「ううん、なんとなく、だけだけど。僕は泣き虫で、よくキミにめそめそしない! って怒られていたなぁ…って、今も変わらないか。あはは」
懐かしさと気恥ずかしさに、軽くルーイは自嘲した。閉じ込めた記憶の引き出しが少しずつ、少しずつだが開いてきているのがわかる。
「キミは…あの時、僕に同じようなことを言って泣いていた。『私の気持ちなんてわからない』…僕らはそれきり、離れ離れになってしまった。それだけははっきりと思い出したんだ」
今度はフェアラートが長い睫毛を伏せ、瞳を翳らせた。噛みしめた奥歯が軋む音は彼女以外には聞こえなかった。
自身の骨ばった指を弄ぶ手を止め、ルーイはフェアラートに向き直り彼女をまっすぐ見つめた。白い肌が満月に神々しく透き通り、深紅の巻き毛がそよ風に揺れている。
「ごめんなさい。さっきのことも、あの時も。僕はあの時そう言えなかった。それを後悔していたんだ。忘れようとして、忘れてしまって、終わらせようとした。ずるいよね。本当に…ごめんなさい」
夜行便のジェット機が低く飛び、二人の上空を行き過ぎる。青年と少女はどちらともなく互いの手を取り、静かに見つめあった。
両目から溢れ出しそうになる露をぐっとこらえ、フェアラートがぽつり、ぽつりと言葉を紡ぐ。
「…いいの…いいの、ルーイ様。わたくしも悪かったのですわ。ルーイ様がどれほど頑張ってきたのか、知りもしないで…理想ばかり押し付けていたのはわたくしなのですから。それに…昔のことは、もう気になさらないで。ルーイ様が悪いのでは…ありませんもの。二人とも子供で、仕方がなかったのですわ」
「ごめん」
「謝らないで。むしろ謝るのはわたくしのほうですわ。ルーイ様、本当にごめんなさい」
「…ごめん」
「わたくしこそ」
終わりが見えない謝罪合戦に耐え切れず、フェアラートが小さく吹き出す。つられてルーイも笑う。
「ルーイ様ったら…そういう実は頑固なところ、変わっておりませんわ」
「キミだって!」
「ふふ…そうですわね」
二人を包むのは月明り、街の灯、葉擦れの音色。繋いだ手が温かく熱を帯びる。すれ違っていた二人の心が、少しずつ寄り添っていく。遥か先の水平線を遠く眺めながら、二人は肩を並べた。
「…これからは、ずっと一緒だ。二人でやり直していこうよ、いろんなこと。初めから、始めるんだ」
「…取り戻せるかしら、わたくし達の時間」
「大丈夫。二人なら、きっと」
ぎこちない所作で、フェアラートの唇を塞ぐ。
子供同士のような初めてのキスは、暖かく、優しい味がした。
「…僕たち、いつかは家族になるんだから」
照れたように、彼は笑った。
———これじゃあまるでプロポーズじゃないの。フェアラートは心の中で呟き、ルーイの頼りなくも大きな肩に身を預けた。
宿舎に戻った二人を出迎えたのは、ステラの抱擁とヴォルクの説教だった。家出した子ども達を待っていた親のような反応に二人は思わず笑い、それで更にヴォルクから小突かれたが。互いに示し合わせ、事の詳細は過ぎたこと、として秘密にしたまま全員に謝罪をした。二人のこれまでとは違うただならぬ雰囲気をあざとく察したカザネが、しつこく冷やかそうとしたのはまぁお約束である。
それ以降の彼らは、まともな恋人同士のような関係性になった。できる限り時間を共にし、時々は二人だけで外出する姿も見られるようになった。当然ながらフェアラートの暴走はめっきりなくなり、唯一カザネだけがつまらなそうに頬を膨らませていたという。
結果的に言えばこの計画も平和的に終わったのだが、一つだけ後腐れが残ってしまったので大成功とは銘打たずにおこう。
地獄の訓練から数日後、フィリアが手土産を持って宿舎へと遊びに来た時のことだ。彼女を出迎えたルーイは、フィリアの顔を見るなりその場で失神した。
彼は心身を鍛えるどころか、『フィリア恐怖症』を患ってしまったのだった。
異常がフェアラートの「素敵な旦那様計画」ダイジェストだ。
もちろん他にも数々の事件があったのだが、それを全て紹介すると危うくこの物語がそれだけで終わりかねないので割愛させていただこう。