温厚質実
暫しの沈黙の後、男性はふと思い付いた様に女性に尋ねた。
『これ、洗い終わったらお風呂の用意するから、良かったら入らない?』
お風呂と言う言葉に女性は感激にも近い喜びの表情を露にし、思わず高い声が出てしまう。
『お、お風呂!此処はお風呂も入れるんですか?』
女性の驚き様に男性は少しびっくりしていたが、優しい笑みを浮かべながら洗い物と自分の夕飯の準備をしながら女性の質問に返事をした。
『あぁ………此処は太陽光と風力発電で蓄電してるし、電力が足りない場合はガスでも沸かせるから………』
男性の言葉に女性の元気が一気に増した様に見えた。市街のみならず日本中、いや世界中で引き起こされた、感染者の襲い来る世界、そんな中でも誰だって清潔で居たいものだが、ライフラインが止まってしまった現状では、それすら儘ならない。だから女性は其処までの喜びを露にしたのだろう。
洗い物を済ませた男性は蓄電量を確認すると、風呂場へと向かって行った。女性の頭の中はお風呂への喜びでいっぱいと言った状態だ、パックはそんな女性の傍らに伏せて居た。
風呂場へと向かった男性は浴槽の汚れを確認し、綺麗である事を確認すると蛇口を捻る、同時に蛇口からは勢い良くお湯が出る。後は十分程待てば風呂の支度が完了する。男性は軽快な足取りでダイニングに戻ると、女性は大人しく座って居た。ふと疑問に思っていた事を女性に問い掛ける。
『着替え用の服とかはある?』
女性と遭遇した際リュックを背負って居たので最低限の衣服や下着は持ち合わせていると男性は思っていた。男性の問い掛けに対し、女性は申し訳無さそうに答えた。
『し、下着はあるんですが………代えの服が………』
女性の言葉に男性は軽く頷くだけだったが、何か策があるかの様にダイニングを後にし、一階の祖母が使っていた寝室に向かった。祖母の寝室にはところ狭しと段ボールが積み上げられており、男性は段ボールにマジックで書かれた文字を頼りに何かを探していた。数分後、男性は一つの大きな段ボールを抱えて戻ってきた。その段ボールを女性の横の床に置くと、女性に語りだした。
『以前、道路に放置されたトラックから調達して来たんだ、サイズ合うのがあったら使って良いよ』
男性が段ボールを開くと、女性物の新品の衣服が入っていた。女性はこの事にも喜びと共に驚いていた。女性はあまり力が入らないながらも、服を取り出し物色していた。男性はその場を離れ風呂場へと赴き、湯がどれ程溜まったのかを確認した。丁度良い位に湯が溜まり、蛇口を閉める。男性がダイニングに戻ると女性は段ボールから上下お揃いのジャージを見付け喜んだ顔をしていた。
風呂が沸いた事を女性に告げ、女性の眠っていた座敷からリュックを持ってくると、力の余り入らない女性に肩を貸し風呂場へと連れて行った。脱衣場で今着ている衣服を洗濯する事と、風呂場でのちょっとした注意事項を伝え、ジャージのタグを切る為のハサミを女性に渡し、ドアを閉めると男性はダイニングに戻って行った。
脱衣場や風呂場には祖母の為に取り付けられた手摺が、まだ力の入らない女性にはとても役にたった。もう何週間も風呂とは無縁だった女性はシャワーを使い髪を濡らす、久々に浴びるお湯がこんなにも嬉しい事を実感した。濡れた髪にシャンプーを馴染ませ様としたが、数週間ぶりで中々泡立たず、かなり濁った水が流れるのを見て汚れて居た自分が悲しくなった。何度か洗い流しを繰り返すと漸く泡立ち始め、普段通りのシャンプーが出来る事に感謝した。髪のトリートメントを終え身体も入念に洗うと漸く浴槽にはられた湯に浸かる。この現状において最高に贅沢な時間かも知れない。久々の風呂を女性は満喫していた。
女性が風呂に入っている間に男性は女性が使って居た布団カバーを変え、消臭除菌のスプレーを吹き掛け、女性が少しでも快適に眠れる様にした。その後、自身の夕飯の準備をし、出来上がるとパックと共に夕飯を簡単に済ませた。女性は何度となく髪や身体を洗ったりで一時間以上浴室から出てくる気配はなく、風呂場で倒れてはいないかと心配だったが、元々女性は風呂が長いものだと、自分を納得させ、片付けや明日の朝食の準備等を済ませて行った。
周囲は既に夕闇が迫り、陽の光が及ばなくなって来ていた。二時間程経過した頃、女性が髪を少しだけ濡らし、浴室から出て来た。やはり足下はまだふらついて居たので、男性が肩を貸す、ほんのりとシャンプーの良い香りが鼻につく、女性は自身を洗いあげる事に力を使い果たしたと言った表情ではあったが、風呂に入れた事で自然な笑みが漏れていた。ダイニングの椅子に座らせ、男性は冷蔵庫からスポーツドリンクを取り出すとキャップを軽く捻った状態で女性の前に置いた。
『喉が渇いたでしょ?飲みなさい』
風呂で力を使った女性には男性の厚意が素直に嬉しかった。スポーツドリンクを一口飲む、冷えたスポーツドリンクは喉越しが良く、適度な甘さに女性は思わず吐息を漏らして肩を落とし、椅子の背もたれに身体を委ねた。頭にタオルを掛けたままダイニング内を照らす明かりをボーっと眺める。以前は当たり前だった事が、今は如何に困難で、男性に助けられた自分が如何に幸せな立場かを考えると、避難所での生活を思い出し、自然と涙が目尻に溢れていた。
女性の目に涙が溢れている事に気付いた男性は自分が何か気に障る事をしてしまったのでは無いかと少々慌てたが暫くすると落ち着いた様で、少し気不味くもあった男性は、女性を座敷へと連れて行った。布団に寝かせると、女性が言葉を発した。
『あ、あの………色々と………有難うございます………あの、まだお名前を聞いて無かったので』
女性が其処まで言葉を発すると男性は言葉を遮る様に人指し指を口元に近付けた。
『気にする事はない………今はゆっくり休みなさい………』
そう言って優しく微笑みを浮かべ座敷を後にした。女性は布団の横に置かれたライトを見付け、自分の居る部屋を照らし見回した。布団の横には他に女性のリュックと先程のスポーツドリンク、ティッシュに何かあった時の為のホイッスルと警棒が置かれていた。女性は警棒を手に取ると、抱き締める様な体勢で眠りについた。
男性は一度家から出ると懐中電灯で行く手を照らしながら周囲の警戒や裏口のロック等を確認し、中に戻ると家中の戸締りを確認して回った。確認を終えた男性は静かに二階へと上がり着替えを手にすると再度一階に戻る。それからパックと共に風呂場へと向かいパックの身体を洗った。パックは暫くシャンプーがついたまま放置され、その間に男性は自身の頭と身体を洗う。洗い終えるとパックのシャンプーを洗い流し、男性は湯槽に浸かった。ぷふぅーと息を吐き湯で顔を洗う。パックは早くシャンプーを洗い流して欲しそうに男性を見ていた。
『もう少し我慢しろよ。ノミを殺さないといけないから………』
ある程度時間を置き、シャワーで洗い流してやると、全身を震わせて水気を弾き飛ばすパック、男性は水しぶきを全身に浴び目を閉じて堪える。風呂場から脱衣場に戻り、自分の身体を拭うと次はパックを拭き上げた。さっぱりとしたのだろう。パックはご満悦と言った表情だ。脱衣場のドアを開けてやるとそそくさとダイニングに戻って行った。男性は風呂の残り湯を使い洗濯機を回しす。男性もダイニングに戻ると冷蔵庫からスポーツドリンクを取り出し自室へと戻って行った。
自室ではランプに火を灯し窓を少し開き外の音に耳を澄ます、いつの間にか雨は止んでいた。中々良い感じに湿り気の多少入り交じった風が入ってくる。センサーなは反応した形跡は無く男性は安堵した。パックは寝床を調えて万全の体勢で寝る準備を終えた様だった。
一方その頃、闇と静寂と感染者の支配する市街地のとある建物内に3人の生存者の姿があり、感染者に見付からぬ様、小声で何かを喋っていた。
『ちっ!………此処も殆ど残ってねぇな!』
『仕方ないだろ!皆考える事は一緒だろうしな………』
『でも、此処に居る感染者が倒されて、そんなに日が経ってないな』
3人の内一人が指した感染者は額を撃ち抜かれ、その際流れ出た血はまだ完全に凝固してはいなかった。
ここは先日、男性が物資を調達したスーパーだ。彼らの話は尚も続く、
『この近くにまだ俺達以外にも生き残りが居るって事だな………もしくは単に移動中に寄っただけかも………』
『もし、見付けたらどうする?』
『そりゃ………殺っちゃうでしょ!』
『賛成!………あぁ………せめて女でも手に入れたいもんだな………』
会話の内容から明らかに質の悪い生存者の様だ、
『まぁ………手ぶらで帰ったら俺らも只じゃ済まねぇし、違う所探そうぜ………』
『そうだな、今や感染者も怖いが、あの人はそれ以上に恐ろしいしな………』
『しっ!………外に奴等が寄ってきてんぞ!』
その言葉通り建物の外には数体の感染者がよろよろと近付いていた。彼等は持っていた鉈やナイフを構えて感染者の様子を伺った。バックヤードの扉を押し開き侵入してきた3体の感染者を物陰に隠れ背後に回り手慣れた様に排除する。迷彩服に身を纏った彼等は様相から自衛隊崩れだろう。
国中がこんな事になっては生きる為に致し方ない現実ではあったが、彼等の言動からして生き残った自衛隊は既に愚連隊へと成り下がったと言えよう。
『ちっ!全く面倒な奴等だ』
気だるそうに三人の内の一人が口にした。いずれにせよ、今の世の中で危険なのは感染者だけではないらしい。法や秩序の崩壊により、生存者も驚異であった。