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話の途中と言われても……。
私はつかまれた腕を見ながら、ぼんやりと神無月課長の言葉を聞いていた。
「だから、さっきの事も。君だって言いたいことがあるんじゃないのか? それを、あんな簡単な言葉で終わらせるなんて」
神無月課長はあまりに鬼気迫る表情で。
私は何も言葉が出てこない。
けれど、ぼんやりした頭を回転させる。
あんな言葉で終わらせるなんて、何だというのか。
ああ、卑怯者ってことかなあと、考えをまとめた。
「それを言うために、わざわざ?」
「……」
黙り込んだ神無月課長。
ビンゴだ。
私はそこまで責められることをしたのだろうか? さっきまで、随分怒られたと思う。酷い言われように、こちらの思いをこらえて頭を下げたじゃないか。これ以上、どうすればいいんだろうか。
ぐるぐると、言葉がまわる。
普段なら、トイレで泣いてリセットして頑張るのだ。
でも、今は身体も辛くて、全てがどうでもいい。
限界を迎えていたんだと思う。
私は、本当に、何もかもがどうでも良くなって、気づいたら泣いていた。
下を向くと足元に涙が流れ落ちる。
「え。長月さん……」
よほど驚いたのか、神無月課長は表情を強張らせて私の腕を離した。
「そうですね。私は卑怯者ですかそうですか。別にいいです。課長は私のことなどさぞお嫌いでしょうから。でも、嫉妬に狂って他人の机上の重しのファイルを勝手に取り払うほうが卑怯だと思います。ありもしない新人イジメの抗議をするほうが酷いと思います。今日は朝から窓は開いていませんでした。私は誰よりも早く室内に入って机で作業していました」
「あ……」
「いいえ、良いんです。だって、誰も信じてはくれないでしょう? 私一人我慢すれば全て丸く収まるんですものね? いくら言葉を重ねても、はじめから偏見に満ちている人の何を変えられると言うんです? 謝れというなら先ほど謝りましたが。あれでは足りませんでしたか。土下座でもしろとおっしゃるんでしょうか。嫌っている私を追い詰めて、さぞや溜飲が下るでしょうね」
我ながら、涙を流しても声が震えないのはすごいと思う。
私は言いたいことをすべてぶちまけ、踵を返した。
背後からなにか声が聞こえてくるが、全て無視して通りかかったタクシーに飛び乗る。
ああ、もう、最悪だ。
朝から、今日は最悪だったんだ。
社内でも人気のイケメンで、30歳で、独身で、決まった相手がいるわけでもなくて、誰にでも仕事は厳しくしかし優しいフォローも忘れないと言う、社内のアイドルの神無月課長が、私を嫌っていることをはっきりとつきつけられて。
でも、私はちょっとだけ課長に憧れていたんだ。
どんなに私のことを嫌っても、仕事だけは評価してくれると勝手に思っていた。難しい資料や大切な書類は私に任せてくれることが多かったから、勘違いしたんだ。個人的な感情を押し殺して、仕事と切り離して評価してくれると。
勝手に考えて、憧れていた。
最悪だ。
結局、急性の扁桃腺炎と診断され部屋に帰った。抗生物質を飲まなければ治らないと言われる。なるほど、どんなに我慢しても良くならないはずだ。
布団に潜り込み、手の届く範囲で何か読み物を探す。
手繰り寄せたのは、例の駄菓子屋の長男の釣書だった。
ああ。
もうあの会社にはいられないかもしれない。
何と言っても、目立つビルの入口で、社内のアイドルに色々怒鳴りつけたんだ。
潮時、という言葉が頭の中を回り始める。
駄菓子屋に、嫁ぐ他ないのだろうか。
薬が効いたのか、私はその日ぐっすりと深い眠りについた。
悩んでいたはずなのに、これっぽっちも悪夢も見ず。ただひたすら眠った金曜の夜。
次の日。
目を覚まして着替えを済ませて。
まだだるい身体でぼんやりDVDを見ていると、チャイムが鳴った。
ドアスコープを覗くと、そこにはとんでもない人物が居た。
おそるおそるドアを開ける。
やはり、間違いではない。
「休日の朝から、すまない」
難しい顔をして、頭を下げる。
それは紛れもなく、社内でも人気のイケメンで、30歳で、独身で、決まった相手がいるわけでもなくて、誰にでも仕事は厳しくしかし優しいフォローも忘れないと言う、社内のアイドルの神無月課長その人だった。
「体調はどうだ?」
「……。急性の扁桃腺炎で、薬を飲んで落ち着きました」
「そうか。しかし、まだ熱があるようだが……。少しだけ、話ができないだろうか?」
ちなみに、チェーンはまだ掛けてある。
「もちろん、辛いのならすぐに退散する。あ、これは一応見舞いの品だ。これだけでも、受け取ってはくれないか?」
今まで見たことのない課長の表情。
まるで、叱られた子犬のような、不安な瞳。
目の前に差し出されたのは、大きく膨れ上がったスーパーの袋だ。
わけがわからない。
一旦ドアを閉め、意を決してチェーンを外した。