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まったく分からないのだが、神無月課長の話を自分なりに解釈するに、誤解されていると思う。
「営業部に足りない伝票を取りに」
行って来ましたと、最後まで言葉にできなかった。
バサリと、目の前に作業を中断した伝票が投げ出される。
「言い訳はいい。まったく仕事も進めず、花形の営業部に媚を売りに行ったと。長年務めているからといって、勘違いも甚だしいな。長月さんは庶務課の事務員だ。何か行動する場合は報告をする。当たり前のことができないのか。いったい何年社会人をしてきたんだ!」
矢継ぎ早に浴びせられる言葉に、ぼんやりと耳を傾ける。
何か誤解があるのだろうと思っていたけれど、やっぱり私は言い訳も聞いてもらえないほど嫌われているんだなぁと。どこか他人事のように、自分を感じた。
「だいたい、大切な伝票の管理がなってない。どういうつもりで、重しも置かずに放置したんだ。窓は開けてあるし、飛び散ることも考えなかったのか?!」
「え。窓は閉まっていて……重しもファイルを……」
「だから、そう言う見え透いた嘘は必要ない。飛び散った伝票を、みんなで集めた。後で一人一人にお礼を言うといい。それに、この伝票、全然仕分けもされた形跡がない。朝から何をやっていたのか」
まさか、そんなはずは。
自分の机を見ると、重しにしたファイルが見当たらなかった。
伝票を見ると、付箋が全て剥がれていた。
ああ、窓も開いている。風で飛んでしまったのか。
営業部に行くことを誰にも伝えなかったのは私のミスだ。伝票を出したまま席を離れたのも私のミスだ。窓が私のいない間に開けられたのは私のミスか? 重しのファイルが無くなったのは、私が悪いのか?
色々なことを自問して、私は神無月課長を見上げた。
「申し訳ありませんでした」
言って、頭を下げる。
こんな時に、少しでも辛そうな顔ができたなら。泣けたなら。悲しくて怖くて声を震わすことができたなら。
少しでも同情を買うことができるのだろうか。
「形だけ謝られてもな」
神無月課長は盛大に溜息をつき、自分の席へ戻っていった。
悲しい。辛い。消えてしまいたい。溢れてくる思いをぐっとこらえ、私は伝票を拾ってくれた庶務課のみんなに頭を下げて回った。
「全然だいじょうぶですよぉ。気にしないでください」
今朝のトイレで”はっきり言うけど、お局様だよねー”とか言っていた声と同じ声で、後輩の女の子が私を気遣うふりをする。
その手に、重しに使っていたファイルが握られていることに、気がついた。
まさか……。
「まだ何か?」
可愛く首を傾げる女の子に、ファイルのことを問い詰めても、今のこの状態では私一人悪者になるだろう。
針のむしろに座る気持ちで伝票を整理する。
どうにか作業も終わり、昼休みに、私は屋上近くのトイレに入った。
じわりじわりと、心が痛む。
大袈裟に騒いで、可愛く泣いて、言い訳をすれば少しは違うのだろうか。
私にはそれができない。
けれど、みんなの前で泣かないからと言って、泣けないわけじゃないんだ。
はらはらと溢れる涙を拭いながら、声を殺して泣いた。
営業の子を睨みつけたことなんかないし、
伝票は朝からずっと作業してたし、
重しだってちゃんと乗せたし、
営業部や神無月課長から責められたうち、少なくともこれだけは言いたかった。
でも……28歳の女の言うことなんか誰も聞きませんか。可愛くありませんか。謝罪は形だけに見えますか。
いつもより多くトイレットペーパーを使い、鼻をかむ。
掃除のおばさんごめんなさい。私はこのトイレのトイレットペーパーをたまに無駄に消費しています。
掃除のおばさんに心の中で詫びながら、外に出た。
まだ目が赤い。
泣いていることを知られたくなくて、なんとなく気晴らしに屋上へ出た。
まあね。長年社会人をやっていると、こういう日もあるよ。ちょっと体調が悪くて、心が弱っているだけ。
空を見上げる。いい天気だ。白い雲がもくもくと出ていて。
ああ、ソフトクリームみたいだ。
私はとたんにソフトクリームが食べたくなった。微熱のせいか、昼ごはんはほとんど食べられなかったし。
そう思うと、もうここには居たくなくなった。
急いで医務室に駆け込み、熱を測る。
38.5と言う数字を体温計に刻み、これは早退するしかないと勝手に決めた。
「大変申し訳ありませんが、体調不良のため早退いたします」
用件だけ伝え、さっさと帰宅準備をはじめる。
私の報告を無言で聞いていた神無月課長がまた盛大に溜息をついた。
「無責任だと思わないのか? 勝手に早退を決めるなど、これから仕事を続ける意志がないのか!!」
背に浴びせられる言葉を聞きながら、私の手は止まらなかった。
もう良いんです。これでおしまいになったら、私、田舎の駄菓子屋の長男に嫁ぎます。なんとなく、泣きそうになりながら、心の中で叫んだ。
そこへ、開発部の人が現れた。
「あ、長月さん、これありがとう。ちょうどいい重しになったよ。あれ、帰るの? なんか顔色悪いし、結構熱が高いんじゃない? 気をつけてね」
ぽとりと、手のひらに置かれたのは、豚の文鎮だった。
ふと見上げると、私のファイルを勝手に取ったであろう後輩が、ものすごい目で私を睨んでいる。
ああ、と。
おぼろげながら、理解する。
この、名も思い出せない開発の人は、後輩の想い人だなと。
それが、私の私物を使っていたから、嫉妬された、と。
あはは。
ふざけんな、おまえそれでも、しゃかいじんか。
私のイライラは、ついに最高潮を迎えた。
静かに文鎮を机にしまい、カバンを抱えて庶務課を出る。
帰ろう。
途中でコンビニにでも寄って、ソフトクリームを買って、家でぬくぬくしながら食べよう。もはや、誰も私を止めることはできない。ふらつく身体を抑えながら、ビルの出口を目指す。
「待てって! まだ話の途中だ」
ところが、私はビルを出る前に腕を掴まれ強引に引っ張られた。