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星師  作者: 小糸
9/53

闇と呼ぶもの

 

 

 

 突然、空気がその質を違えた。

 ハル先輩がアンナさんを呑みこんだ途端だ。

 さきほどまではとろりとした熱気を帯びていたそれが、今や俺達の皮膚にひんやりと張り付いて、冷酷な温度を主張する。

 いや、温度だけではない。

 空間そのものの在り方が、一瞬前までとは歴然と異なっていた。

 俺達の世界では呼吸の度に体内には新しい空気が取り込まれるが──今のこの空間では、それはできない。

 むしろ息を吸う度に何か澱んだ古いものが、決して未来には進むことのできない存在が、体内へと侵入してくる。

 まるで異界に足を踏み入れたかのように、全身が拒否反応を起こすこの感覚。そう、これこそが。

 俺達が闇と呼ぶもの。

 

「アン……」

 

 先輩が──闇を呼び寄せていた。

 彼は豹変していた。

 さっきまで優しかった瞳からは一切の輝きが失われ、なのにその眼球自体は不気味な程あざやかなエメラルド色に変色している。

 上品で優美な口許が長く伸び、裂けるように吊りあがって、その紅い割れ目からは並びの良い歯と舌が覗いた。

 

「かわいそうなかわいいアン。僕がずっと守ってあげる」

 

 突然、その双眸は焦点を失った。

 左右の眼がてんでバラバラな方角に向き、同時に、彼は体そのもののバランスを崩したように膝をついてしまった。

 

「──おいっ!? しっかりしろ!」

 

 叫びながら駆け寄った俺は、次の瞬間眼にしたものに凍りついた。

 項垂れた先輩の背中から突如として──何かがボコリと隆起したのだ。

 俺は心底恐怖した。

 魔物が怖いんじゃない、先輩の体が怖いのだ。

 悪霊が厄介とされるのは、彼らが自分自身の体を持たず、人の体を奪うからだ。

 中身は悪魔でも肉体は人。

 つまり──壊れれば元には戻れない。

 

「……やめろ」

 

 俺はかすれ声を発した。

 先輩の背中がうごめく。

 まるで巨大な蛇がうすい布の下で暴れているかのようだ、ぼこぼこと、ぬめぬめと、背骨さえ無視して縦横無尽に動き回る大蛇。

 先輩の体は異常な程に痙攣していた。

 苦しそうだ、その表情はとても苦しそう。

 なのに、

 

『アン、ぼくの、アン』

 

 先輩は、さっきから、アンナさんの名しか呼ばない。

 

「やめろって言ってんだろうが!!」

「馬鹿っ、離れるのよ蒼路っ!」

 

 俺が叫ぶのとほぼ同時に深紅が叫んだのが聞こえた。

 その声に俺は振り返ろうとする、しかしできなかった。

 ──先輩の背中から、まるで火柱でも上がるかのような勢いで、その皮膚の下に居たものが飛び出してきたからだった。

 

「……ぐぁっ!?」

 

 触手のようなものが俺を捕獲し、物凄い力で締めあげてくる。

 完全に宙吊りにされた俺は苦痛に絶叫した。

 大蛇ではない──それは、植物だった。

 シダの葉のような赤黒い羽、不気味に枝分かれした根、ぬらぬらと湿った蔦が先輩を呑みこんで、まったく別の生き物と化している。

 

「蒼路!!」

 

 悲鳴のような深紅の声に答えることすら困難だった。

 そもそも、息ができない。

 隙間なくみぞおちに巻き付いた蔦が完全に呼吸経路を遮断している。

 

(焔が……ちくしょう、焔さえ呼び出せればこんな草なんて……っ)

 

 俺はあまりの苦しさに身もだえしながら思った。

 しかしこの忌々しい蔦は俺の両腕の動きも完全に封じている。

 どうすることもできなかった。

 ああクソ、頭が真っ白だ──

 

「──お行き青藍!!」

 

 ──え?

 深紅の声に俺はかろうじて薄眼を開けた。

 すると視界に映った優美な青鹿。

 化け物の魔手をかいくぐって宙を飛びながら、その額に生えた角で俺を捕縛していた蔦を掻き切る!

 

「っは……ッ!」

 

 自由になった俺の体は背中から床に落ちた、が。

 青藍がキャッチしてくれた。

 酸素不足で朦朧とする頭ながら、俺はなんとか体勢を整える。

 

「蒼路! 無事か!?」

「……おかげ……さま、でなっ……」

 

 深紅の声に俺はかろうじてピースサインを送って見せる。

 が、休んでいる暇はない。

 烈しく咳き込みながらも立ち上がると、今しも化け物がその根を這わせてこちらに向ってくるところだった。

 植物の癖に意外と早ぇ動きで、形こそ人型だけれど、シダの翼に虚ろな穴ぼこだけが空いた顔、とこれ以上ないほどグロテスクな眺めだ。

 俺はこの期に及んでまだ信じられなかった。

 

「……これが本当に、全部アンナさんなのか……!?」

 

 触手が伸びてきた。ものすごい数と勢いだ。

 俺は刀でそれらを一閃しながら叫ぶ。

 すると横から深紅が答えた。

 

「違う。これは彼女と、その兄の悲しみが引き寄せた魔の集合体じゃ。しかも二人とも星を持つが故に、かなり強力な魔を引き寄せてしまっている」

 

 言いざま彼女はスカートの裾から長い銀針を取りだして構えた。

 それは毒針だ。

 女の深紅が物理的に相手にダメージを与える時に使う武器。

 

「全く、よりにもよって学校内で暴れるとは……!」

 

 忌々しげに柳眉をひそめながら、一本、二本、三本、彼女はそれをハル先輩に向けて放った。

 全てが見事に命中して、とたんに化け物は物凄い声で絶叫する。

 空気がびりびりと震えてうねり、ガラス窓が割れそうに音を立てた。

 俺はおもわず耳を塞いで叫んだ。

 

「深紅っ!! これじゃ学校中大騒ぎだっつーの!!」

「わかっておる! だからこいつを眠らせるのじゃ、お前も手伝え!」

「眠らせる?」

 

 どういうことだ、と聞こうとした俺の言葉を待たずして──深紅は床を蹴っていた。


「さっき聞いただろう! ハルが眠ればアンナが眠り、アンナが眠ればハルが眠る」


 なるほど。

 と思う間もなく、長い黒髪が宙を舞う。

 ふたたび銀の針が放たれた。

 まるで糸のように細いそれは眼で追うのが精いっぱいだったが、今度は全部で五本あった。

 今や起き上がり、不気味なぬるぬるとした触手を蠢かせながら暴れる化け物にそれは星の形を描きながら命中する。

 深紅の毒は猛毒だ、化け物はまたもんどり打った。

 

『──星・我・以・滅』

 

 すとんっと化け物の目前に着地しながら、深紅は呪を唱え始める。

 細い指先に紅い光が宿り、針と針をつなぐようにして魔法円を描いて行く。

 だが化け物も負けてはいない。

 呪に半ば捕えられながらも、シダの翼を広げて跳び上がろうとし、触手を、根を、やみくもに伸ばしてのた打ち回っている。

 俺は駆け出した。

 刀にありったけの焔を乗せて。

 

『我が星を持って──』

 

 深紅の髪が風を孕んだように膨れ上がった。

 毛先がばちばちと音をたてて呪力を放出する。

 もう少しで呪は完成する、だがその時、狂ったように暴れまわっていた触手の内の一本が彼女の腕を掴んだ!

 

「深紅! 続けろっ!!」

 

 俺は叫びながら跳んだ。

 深紅と瞳が交わる。

 彼女は──頷いた。

 

「いい加減眼ぇ覚ませよぉお、先輩!!」

『我が星を持って汝が闇を祓う──!』

 

 俺が触手を焼き切ったのと、深紅が呪を唱え終えたのはほぼ同時。

 紅い魔法円が輝いて膨張し、先輩の体を取り巻いた!

 ──びくんっ! 

 化け物の体が思いっきり仰け反る。

 眼鼻の部分に虚ろな穴があいただけの顔が、苦痛のような、悲しみのような表情を浮かべて、声にならない声を上げる。

 さっきより凄い悲鳴だった。

 微動だにもせずに化け物を見つめる俺の横で、深紅が静かにこう言った。

 

「……眠れ。生まれた闇の、奥深くに還るがいい」

 

 ──すると。

 まるでその言葉に縛られるようにして、先輩はぴたりと動きを停めた。

 まるで電源が切れたロボットのように急停止したと思ったら、それからゆっくりと前のめりになって、倒れ伏した。

 ずうんっと音を立てて崩れ落ちた化け物の体が、一瞬後にはきゃしゃな人間の体に戻っている。

 

「──ハル先輩!!」

 

 俺は叫ぶと、駆け寄ってその人物を助け起こした。


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