半星の双子
……しかし。
「蒼路!」
ホームルームが終わった後、俺はわざわざ三年生の教室棟に赴く必要はなかった。
深紅が向こうからやってきたからである。
「おお!」
「美人!」
「あれが噂のっ」
たちまち同級生たちが深紅を賛美し、教室の中にも外にもギャラリーができた。
しかし、深紅本人はその身に張り付く好奇の視線をものともせず、つかつかやって来ると俺の机に両手をついた。
「早くするのよ、蒼路! 大変なんだから!」
「いや、ちょ、み?」
「説明している暇はないの! とにかく早くおし!」
言いざま俺の手を取ると、深紅は無理やり教室の外へと引っ張って行った。
俺は驚くやら、周囲の視線に優越感を覚えるやら、なんとなく気恥ずかしいやらで訳が分からない。
けどこういう時の深紅は絶対に止まらないので、取り合えず引っ張られるだけ引っ張られることにする。
廊下をずるずる引きずられていく途中、クラスメートの石岡と眼が合った。呆気にとられた顔をしていた。
はっはっは、ざまー見ろ石岡!!
「ざまーみろじゃないでしょう、この緊急事態に何言ってるのお前!」
いきなり怒られて、優越感に浸っていた俺は現実に引き戻された。
「え、俺、口に出してたっ!?」
「ダダ漏れよ」
「マジかよ……」
がっくりとなった所で、深紅はようやく立ち止った。
掴まれていた手が離れて息を吐く俺をふり返って、彼女は言った。
「蒼路、突撃するわよ」
「は──っ?」
ますます訳がわからなくなる俺に、深紅はすごんだ。
「は、じゃなくて。許せないのよ。馬鹿にしてるわ!」
「だから何の話なんだ一体!」
「あれを御覧!!」
深紅は叫びざま廊下の奥を指差した。
この時には彼女がどうやら怒っているらしいと気づいた俺は、黙って示された場所を見やった。
それは音楽室。
閉ざされた何の変哲もない扉。
だが、その上に──
「……なんで結界?」
驚きに眼を丸くした俺に深紅が答えた。
「挑戦状よ」
今度こそ明確な怒りの色に染まった声である。
見ればその額にも青筋が浮かんでいた。
俺はあー、と頭を抱えた。
そういえば深紅って、エベレストよりプライド高い女だった。
こういう謂れのない中傷とか、侮辱とか、絶っ対に許せない奴なんだよな。
「いい根性をしているではないの! この私に向って結界を張るなんて! 破れるものなら破ってごらんと言っているようなものだわ!!」
完全にブチ切れている深紅は俺の先に立ってずんずんと歩いて行く。
俺は慌ててその背中を追った。
「落ちつけよ、深紅。ハル先輩がこんなことするわけ──」
「他に誰がこのようなことをするというのだ!」
噛みつくように深紅は叫んだ。
彼女は怒ると言葉遣いが古風になるのだ。
なんでも実家ではみんながそういう風に喋るから、それが当たり前だと思って育ったということである。
やがて音楽室の前に立ちはだかり、右腕を掲げると深紅は言った。
「こじ開けるぞ、蒼路」
結界は俺達の眼の前に、見えるものにしか見えない淡い緑の膜として存在していた。
表面に西洋の文字が一面に書きこまれたその結界に、深紅の白い細い手がちょくせつ触れる。
……こいつだから成せる技だけど、良い子は真似しちゃいけないぜ。
なぜって、種類にもよるけど結界とはすなわち空間が不自然に捻じ曲げられたもの。
呪術に耐性のない人間が触れば体ごと結界に吸収されちまうことだってある。
「……相変わらずダイタンだよなぁ……」
半ば感嘆し、半ば呆れながらそう呟いた俺であったが、そうこうしている間にも深紅の白い指先は結界にずぶずぶと沈み込んでいった。
そして、ある一点で急に抵抗がなくなったかのようにすり抜けた。
急にその存在をたわめられた結界は、まるで生き物のように身を震わせて──ぶるりと揺らいだ。
深紅はその一瞬を見逃さなかった。
勢いよく結界から手を引き抜くと、叫ぶ。
『──解!』
強い声に感応し、結界が内側から消滅した瞬間、音楽室の扉も開いた。
同時に風のように中から飛び出してきた影が一つ。
それは完全に深紅を狙っていた、が。
──許すわけねぇだろうが!
俺は跳び出し、深紅の盾となった。
影の振り下ろした一閃を刀で受け止めるっ。
一瞬、きぃん! と金属同士がぶつかりあう高い音が廊下に響いて、それから。
──それから急に、静かになった。
「……誰だてめぇ」
低い声で俺は尋ねた。
すると相手はふっと笑った。
剣が退けられて、俺の刀から重みが離れていく。
「なぁるほど」
耳を打ったアルトの声に、よく見て見れば女だった。
金色がかった茶色の髪に、緑色の眼、それに超ナイスバディ。
明星の制服を着ていないということは部外者だ。
「さすがは五辻のお姫様だね。護衛がいるとは」
「──質問に答えぬか!」
背中の後ろで深紅が吠えて、俺はビビった。
……多分こいつ、名字を出されて更に神経逆なでされたな。
深紅は俺の前に進み出た。
謎の女を真っ向から睨みつけて、そして言う。
「貴様は誰かと聞いているのじゃ、無礼者」
「……これは失礼」
すると女は再び笑った。
長い腕を体の前で組み、余裕さえ感じさせる動作で手にしていた短剣をしまった。
……その長い首の上に浮き出た、三つの星の中に。
俺ははっとした。
深紅も眉をひそめたのがわかった。
「あたしの名前は伊勢アンナ。遙の双子の妹で、半星よ」
「半星──」
その言葉を、俺が思わず反復してしまった時、ふいに背後から足音が立った。
焦ったように駆けてくる足音。
俺はふり返った。
するとそこには。
「アン! 何をしているんだいっ!」
……真っ青な顔をした、ハル先輩がいた。
***
「ご説明して頂きたいわ」
深紅はカンカンだった。
当たり前である。
護衛の依頼を受けたのはこっちだというのに、なんのためかアンナさんによってあれだけ滅茶苦茶なご挨拶を受けたのだ。
心のひろーい俺でさえ怒っているのだから、エベレストプライドの持ち主である深紅が怒らない筈はない。
「……申し訳ない」
しかし、答えたのはアンナさんではなくハル先輩だった。
さっきから吊り上っていた深紅の柳眉が更に吊り上る。
おお怖い。
「謝るべきはあなたの妹さんであってあなたではありませんわ、ハル先輩。私は状況のご説明を求めたのですが」
「──はい」
ハル先輩はかなり恐縮していた。
アンナさんはと言えば、グランドピアノの上に座り込んで完全に傍観者を決め込んでいる。
え? ああ、俺たちは今音楽室の中にいる。
さすがに廊下でいつまでも騒いでいるわけにはいかないからな。
「ええと、単刀直入に言うと──ね。これはアンナが勝手にやったことで、僕はまったく関与してない。大体彼女はこの高校の生徒じゃないし、本来なら入り込むだけで警察沙汰だ」
マジかい。
ハル先輩の説明に俺は内心で思いっきり突っ込んだ。
けど口には出さずに、説明を続けてもらうことにする。
先輩は続けた。
「けど、護衛を依頼したのは実のところ僕じゃなくてアンナだ。だから彼女、こういう言い方はあれだけど……」
「けど?」
言い淀んだ先輩に深紅が先を促した。
その声は静かで落ち着いてはいるものの、逆らえない威厳に満ちていた。
「……君たちを試そうとしたんじゃないかと……」
やがて先輩は言った。
とたんに深紅の額に青筋が浮かぶ。
アンナさんをぶっ飛ばしでもするんじゃないかと思ったが、存外に、深紅は押し殺したような息だけを吐いて堪えてくれた。
あれ?
なんか意外だ。
「お話は理解できました。けれど、はっきり言って私たちが護衛を任じられた理由がわかりませんわ。」
深紅は言い、それからやおら目線をアンナさんに据えた。
「先ほどアンナさんはご自分を半星だと仰った。だったらわざわざ私たちを呼びつけるまでもなく、ご自身でハル先輩を守ることができるはずです」
「それができたら苦労しないんだけどさ」
アンナさんも答えた。
今やピアノの上に寝そべり、気ままな猫のようにごろごろしている。
ちなみに半星っていうのは、俺や深紅の持つ五芒星じゃなくて、三ツ星や二ツ星のように不完全な星を持って生まれた術者のことだ。
星が半分なので力も半分。
だから半星。
一部の例外を除いて、彼らが星師として認められることはほとんどないという。
アンナさんが続ける。
「言った通りあたしは半星だから。力には限度がある。それにルカに憑依している悪霊は段々力を蓄えてきてて、他の魔物も呼び寄せ始めてるから。あたしの手には負えなくなった」
アンナさんは先輩のことをルカと呼んだ。
なんか良い呼び名だなあと思いながら、俺は彼女の言葉を繰り返す。
「……他の魔物?」
「そう。憑依は既に完全なのよ」
そこでやにわにアンナさんは起き上がった。
ぱちりと指を鳴らしてハル先輩を自分の元に呼び寄せ、彼の首元の一点を指さす。
俺たちの視線はそこに集中した。
アンナさんの三ツ星と全く同じ場所に浮き出た二ツ星。
ああそうか、と俺は悟った。
この人たちは双子だから、生まれた時に星が分かれたんだ。
五芒の星を分かち合う、半星の双子。
それはなんて──悲しくて美しい刻印だろう。
「御覧の通り、ルカも半星」
言葉もなく見つめる俺たちに対して、アンナさんは言った。
「だから普段の状態なら彼もある程度の術は使える。けど今は駄目。悪霊のせいで」
「その悪霊だけど」
俺は口をさしはさんだ。
ハル先輩が走ってきた時からずっと疑問に思っていたのだ。
今朝感じた凶悪な魔の気配が、先輩からはカケラも感じられなかった。
あらかじめ聞いた情報の通り、頬が少しこけていたり、目元に隈が浮かんでいたりはするけれど──それだって特筆に値すべきものじゃない。
「……ぜんぜん、気配感じないけど。憑依されてるのは確かなわけ?」
「ええ。間違いない。彼が眠ると出てくるのよ」
「僕はぜんぜん覚えてないんだけどね」
「だから危険なんじゃないの」
横からの先輩の言葉に呆れたようにアンナさんは答え、それからやおら深紅を見た。
彼女はさっきからずっと黙って事の成り行きを見守っていた。
恐らくはその豊富な知識を総動員してハル先輩の状態を観察していたのだろう。
急に自分に視線が向けられた事を察知して、彼女は伏せていた眼を上げた。
「──何?」
その視線を真っ向から受け止めて、アンナさんが言った。
「──改めてお願いするわ」
その顔が、急に歪んだように見えた。
俺はぎょっと体を起こした。
まさか、と思う間もなく、アンナさんの生気にあふれた立ち姿がやわらかいバターのように溶け始める。
深紅は黙っていた。
ただ黙って、アンナさんを見つめている。
『ルカを助けて』
彼女の声はもはや人が発するものではなくなっていた。
それは心に語りかける声だ。
音声ではない、精神に直接ふれてくる言葉。
『ルカにとりついた悪霊は、あたし』
アンナさんの、足が溶け、服が溶け、手が溶ける。
俺は何も言えなかった。
顔が溶けだす寸前に眼が合った。
泣いているように見えた。
──今年の春に。とても大切な人が亡くなったそうよ。
昼の深紅の言葉が脳裏をよぎった。
ずんっと胸に、刺さるような痛みが走る。
そういうことか。
そういうことだったのかよ!
「アンナさん!!」
『あたしはもう死んでるわ』
その言葉を最後に彼女は完全に溶解した。
残ったのは淡く輝く黄金の光だけで、しかし、その光すらも、やがては河のように寄り集まってひとつの方向に流れて行った。
一つの方向。
そう──ハル先輩の元に。
「かわいそうなアン……」
アンナ先輩だったものを、先輩は呑んだ。
文字通り口を開けて、水を飲むかのように喉を鳴らして。
俺は前進がぞっとそそけ立つのを感じた。
だって、先輩の、その、顔。
呆然としているようにも、うっとりしているようにも見える、その綺麗な顔。
このひとだ、と思った。
この人がアンナさんを悪霊にしたんだ。
妹の死が信じられなくて、悲しすぎて。
──どうにかして戻ってきてほしくて。