我らが姫
日没の直前、世界が蒼く染まるのは何故だろう。
手を伸ばせば触れられそうな青い霞、それが君見丘を満たしている。
まるで水墨画のようだ。
蒼く淡い色の薄闇を通して、人の営みを示す灯りがきらきらと明滅しながら輝いている。
寺の本堂の屋根に立ってその景色を見下ろしながら、俺は静寂にじっと耳澄ましていた。
ぬるい風が吹き付けて周囲の木立をざわめかせた。
袴の裾がはたはたと揺れ、焚き染めた香がわずかに香る。
藍染の衣は術者としての正装だ。
着付けていないせいか生地が少し硬く、肌に障る。
やっぱりいつもの紺青がラクだなぁと考えていると、それまで気配を殺していた山牙が背後に顕現した。
俺は振り返らずに問う。
「時間か?」
彼は明確に回答した。
『うむ。獅子鳥が呼んでおる』
「そか。じゃあ行くかな。──吟、織」
夜は闇に乗じて魔物たちの数がふえる。
それを懸念してか境内には昼間よりも多くの数の術者が配置されていた。
姿の見えるものは数人だが、気配をさぐればその数は十を越す。
しかし彼らとまともに相手をするつもりはない俺は、呼び寄せた眷属たちにこう言った。
「吟、織。あいつらを殺さずに無抵抗の状態にできるか?」
『無論よ』
『造作も無い』
吟と織は口々に答えた。
闇は濃くなる一方だというのに彼らの体毛は自発的に輝いている。たぶんその神気のせいだろう。
俺は軽く頷くと、手を伸ばして二匹の頭と背中を撫でた。そして言った。
「では、頼む。──気をつけてな」
『うむ』
機嫌よく尾を打ち振ると、眷属たちは薄闇のなかに駆け上がり、花びらが宙に舞うごとくに消えていった。
程なくして、境内から全ての見張りの気配が消える。
同時に夜闇のなかで銀の光がひらりと舞った──大丈夫だという合図だろう。
そのまま眷属たちは気配を途切れさせ、代わりのように山牙がのそりと立ち上がった。
『行くか、蒼路』
「おうよ」
闇に紛れる漆黒の背に飛び乗ると、俺は夜陰に身を躍らせた。
***
──いいかい。僕が合図をしたら、君はちゃんと正面から寺の中に入ってくるんだ
本堂の長い階段を駆け上がると、目の前に閉ざされた大きな門が現れた。
それを音を立てないように注意してわずかばかり開き、俺は山牙とともにきちんと正面から本堂のなかに侵入した。
一歩足を踏み入れた瞬間、濃厚な線香の香りが鼻をついた。
御堂の奥に鈍く輝く金色の仏像が坐しているのが見える。
俺は草鞋を脱いでたたみの上に一歩を踏み出すと、そのまま正面に位置するダキニ天に手を合わせた。お邪魔します、と呟く。
そんな俺の姿を見て山牙はちょっと首を傾げていたが、やがて自らも後ろ足をしまい込み、お座りのポーズを取った。
どうやら彼なりの敬意を表す姿勢らしい。
俺はちょっと笑ってから、行こうと再び身を翻した。
──君の役目は二つ。メッセンジャーと、プレゼンター。だから君は決して無礼をしてはならない。星師として恥ずかしくない格好に態度で来てくれよ
先輩の言葉を思い出しながら御堂の畳をななめに突っ切り、本堂を経由しなければ入ることのできない奥の建物をめざす。
そこから星の気配がするのだ。
建物の名前はわからんが、位置から察するにはおそらく、関係者しか入ることのできないプライベートな空間だろう。
足音を立てないで渡り廊下を進み、すぐ目の前に見えた木戸をさらに開き、俺は先を急ぐ。
建物の内側は板張りの廊下になっており、左手から奥に広がるようにして座敷が設けられているらしかった。
締め切られた襖が俺の目を奪う。
その奥から、強烈な星の気配がしていた。
「……は、……の」
聴こえてきた声に俺ははっと目を見開く。──深紅だ。
どきん、と高鳴った鼓動に突き動かされるようにして襖の傍ににじりより、その表面に耳をくっつけるようにして俺は耳をそばだてた。
「──人とは弱く、脆いもの」
今度ははっきりと彼女の声が聴こえた。
凛然としたよく通る声。
この声を、ずいぶん久しぶりに耳にするような気がした。
言いようも無い感情が胸にあふれ、俺はたまらず眼を細める。
「そしてそれは、我ら異能を持ちて生まれた者とて同じこと。遙がしたことが完全に間違っていたとは、けっして誰にも言えますまい。まことに畏れながら、我らを束ねる陰陽会の重鎮ともあろう方々がそのような慎みも持ち合わせておらぬとは、私には到底信じられませぬ」
『……相変わらずだのう』
深紅は陰陽会に対して完全に嫌悪感、敵対心を露にしていた。
そのあまりの物言いに俺は絶句したし、山牙はもはや感嘆した。
そして陰陽会の人間は──当然ながら憤った。
「……なんと無礼な小娘か!」
「我ら陰陽会の権威に対して……」
「気にするな。小国の主ほどよく喚くものじゃ」
いくつかの声が低い波のようにざわめいた。
言われている内容はむかつくが、この程度で腹を立てていては到底陰陽会とは対等に渡り合えない。
俺は感情を殺して相手方の人数をさぐった。
どれも老人。男と女が一人ずつ。
──否、もう一人いる。
「畏れながら、星の姫君はまだお若い。ご自分の発言にどれほどの責任が課されているかも理解できておらぬのでしょう」
「……出たな、新巻鮭」
俺は口の中で低く呟いた。
新巻鮭。もとい荒巻源三郎。
こいつこそ、ババアの宿敵にして陰陽会東京本部長を務めるジジイ。
確か歳は九十超。仏教系の術者だったはずだ。
──となると敵は総勢三名か
そう判断を下して息を潜めていると、やがて鮭が再び喋り始めた。
「姫様。あなた様の仰るとおり、人は確かに弱く脆い。だからこそ魔の存在の前にあっけなく屈するのです。けれど我ら異能者は違う」
ねちっこくまとわりつくような、嫌な声。
鮭の得意技はゴマを擂って上に取り付くことだとババアがいつか言っていた。
「我らは神に選ばれしもの。我らは強い。力がある。無能な人間達が魔に負けることがあっても、我々はけっしてそうなってはいけないのですよ。それが我ら異能者のあるべき姿だと、姫様、あなた様も生まれた時から身に叩き込まれて育てられてきたでしょう」
相変わらず、すばらしすぎる考え方だ。
顔が不快感の余り思い切り歪む。
いわれの無い選民思想に浸り続け、半ば腐り始めた魂。
鮭の言葉を聞けば聞くほど、それに自分が汚されていくような気がした。
どろどろと黒く濁った臭い液体が胸の中に渦を巻く。
全身がいやな緊張に硬直した。
「……たとえ周囲がどう言おうとも」
陰陽会の毒に侵され始めた場の空気を、打破したのは深紅だった。
先刻よりも冷ややかさを増した、けれどより一層気高く迷いの無い声で、彼女はきっぱりとこう言ったのだった。
「私はそうは思いませぬ。己の力を過信して他者を虐げ屈服させる。そんなことをしなければ己の足元すらも確認できないというならば、異能者は異能者である資格が無い」
「なっ……」
「いえ、むしろ。異能者であるよりも以前に」
再び絶句した陰陽会の権威に向かって、彼女はさらに言い放った。
きっと、まっすぐに前を見て。
毅然と背を伸ばして、微塵も臆すことなどなく。
「──人としての道を踏み外していると思いますが。いかがでしょう」
俺は口角が上がるのを感じた。
嬉しかった。深紅の毅さが、その信念が。
彼女がここに居てくれることが心底嬉しく、喜ばしかった。
深紅がその生を、己の命を疎んでいることは知っている。
でもそれでも俺は彼女が生まれてきてくれたことに感謝する。
これが、姫だ。
──我らが姫。
「言わせておけばぬけぬけと……!」
さすがに鮭が声を荒げた。
どん、と鈍い音がした。拳が畳を叩いた音だろう。
「貴女は自分を何だと思っているのだ! 星導師など我ら陰陽会においては少数派の弱者! 忙しい中わざわざここまで出向いてやっているというのにそのような態度を取られるとは、我ら陰陽会に対しての侮辱と受け取っても良いのですぞ!」
「慎しみを覚えられませ、星の姫様。貴女様の一挙一動はすなわち全ての星導師たちを現す鏡」
「歯向かえば除名の処置も、こちらとしては厭わないのですよ……」
深紅は陰陽会に波紋を投じた。
おかげで空気の流れが変わり始めている。
いつも嫌らしくこちらの発言の揚げ足を絡めとり、術中に嵌めることが得意な陰陽会。しかし今、彼らは口を滑らせた──中にいる深紅も先輩もそのことはわかっているだろう。
証拠に彼女はこう言った。
「まぁ、これは心外ですわ……”歯向かう”などと。我ら星導師一同、陰陽会には礼を尽くしてお力添えさせて頂く所存でございますのに」
くすり、と声に愉快そうな響きが混じり、陰陽会の奴等が息を呑んだのがわかった。
どうやら一息遅れて失言に気づいたようだ。
老人の声が慌てて弁明を試みる。
「否、私の発言は、そういう意味では──」
「──それにそもそも陰陽会の中に序列は存在しない。いえ、存在するはずがありません」
さえぎって深紅は言葉を続ける。
床に伏せの体勢を取っていた山牙が、かすかに喉を鳴らした。楽しいらしい。
「なぜなら陰陽会とは異能者が互いに力を合わせて日本を護るようにと設置された組織。ために異能者同士が戦うことを禁じたのは、他でもないあなた方重鎮の方々ではありませぬか。はて、それなのに奇妙な──まるで戦う野望でもあるかのような仰りようをあなた方はなさるのですね」
「星の姫様、なんという──!」
「──聞かなかったことに致します。ですから遙をお返しください」
驚愕と動揺に声を荒げる陰陽会を叩き潰し、深紅はついに核心をついた。
やった、と俺は思った。
回りくどく喋って本題を隠し、自分達のペースに巻き込むのが得意な陰陽会。
だが今深紅は彼らの懐に飛び込んだ。その喉元に刀を突きつけ、決断を直に迫った。
「……我らを……我らを脅迫するつもりか……!?」
怒りに声をわななかせる鮭を、深紅はあくまでも軽やかにあしらう。
「あら、これもまた心外ですわ。脅迫とは強者が弱者に対して行うもの。我ら少数派の星導師があなたがた陰陽会の重鎮の皆々様を脅すことなど、どうあってもできることではありますまい」
さっき誰かが彼女のことを小娘、と言っていたのを俺は思い出した。
まあ確かに小娘だろう。十六歳だし。
けれど深紅は只者ではない。その度胸も勇敢さも、さすがに五辻の後継として生まれ育てられただけあって、他の同い年の少女には決して持ち得ないものだろう。
「そうではなく、私はただお願いしているのです。遙を我らの元にお返しくださいと。私はこの場で何も聞きはしませんでした。遙を黙って返していただければ、それだけで全てが終わると申しているのですよ」
「──っ……問題はまだ何も解決していないのだぞ! その者は被疑者だ、否、罪を侵した罪人だ! 彼は三百年の昔に封印された魔物を誰の許可もなく解き放ち、この君見丘を脅威にさらしたのだ!」
「山牙」
そろそろだなと思った俺はちいさく彼を呼んだ。
闇に溶け込む狼は音を立てずに立ち上がり、俺のすぐ脇、ほとんど互いの体が触れ合う位置まで近づいてきた。
俺は手を伸ばして彼の背をそっと撫でた。
深紅が息を吸い込んだ音がした。
「……遙は罪など犯してはおりませぬ」
静かだが厳然たる否定だった。
たちまち陰陽会が噛み付いてくる。
「馬鹿な! これを罪と言わずに何を罪と問う!!」
「罪などには、なりえません。何故ならかの鎮守神は我らの脅威ではないからです。彼は人語を解し、高い知能を有した上で人の理を理解している異形」
「かの魔物はもはや鎮守神ではない──人を喰い、妖の道に堕ちたおぞましき存在だ。自分を封印した人間を憎み襲うことこそあれど共存することなどあり得まい!」
俺はちょっと含み笑いをした。その『魔物』は今俺の手の下で犬のように伏せって尻尾を振っている。
深紅が言った。
「……ではお尋ね申しますが。かの鎮守神が封印を解かれた後、この君見丘で鎮守神がなにか一つでも人に危害を加えたことがあったでしょうか?」
「それは確かに、未だ無い。だが何かが起きてからでは遅いのですぞ、姫君。それを防ぐために我らはここに参じたのだから」
「ならば何故、遙の身柄までをも拘束なさる? 鎮守神の脅威を食い止めるためだけならば彼まで捕えておく必要は無い!」
深紅、陰陽会、ともに一歩も譲らなかった。
審問が白熱化し、場の緊張感が急速に高まってゆくその只中に、ふと──
「……それは、僕が罪を償う必要があるからでしょう」
──場違いなほど甘くやわらかな声が響いた。




