最愛の
(──……ごめん)
歌が、聴こえた。
異国のことばでうたわれる優しい旋律。
それに重なるようにして、誰かと誰かが話している。
俺ははっと眼を見開いていた。
(こんなに傷つけて、苦しめて。なのにまだ、行ってほしくないよ……!)
ハル先輩が、そこに居たのだ。
そしてその両手がすがるように求める先には、彼の誰より愛する妹が。
(……あたしはずっと、あんたと一緒よ。ルカ)
それは、いつか俺が夢で見た、あの美しい薔薇園だった。
紅、紫、黄色、色とりどりのバラが淡い光にかすむようにして咲いている。
むせかえるほどの甘い薔薇の香りが満ちているその足元の芝生に、ふたりは膝をついていた。
(嘘じゃないわ。もう二度と会えないけれど、いつもあんたの傍にいる)
(……っ、僕は……!)
己の傍を離れつつあるその存在に、先輩は必死に、もどかしそうに、心のなかにあるものを言葉にしていた。
ふるえる手が、アンナさんの肩を、腕を、引っ張るように掴んで。
(僕は、君に謝らなくちゃいけない。ずっと君を疎んでいた。優しくできずに眼を背けた)
離れないでと、行かないでと、訴えているんだ。
(ごめん、ごめん。本当はいつも、話したかったんだ──きみと話がしたくて、さびしくてたまらなかった)
(……わかっていたわよ。そんなこと)
兄のあまりに切ない声に、妹の碧の瞳に涙が浮かんだ。
(あんたは優しすぎるから、あたしの痛みまで一緒に背負い込んでいるんだってわかってた。あたしには、確かに独りの夜があった。とても寒くて、とてもとても寂しかった)
(アン)
(でもそれはお互い様)
とめどない後悔に瞳を揺らす兄に対して、ごまかすように微笑んで、アンナさんは先輩の手を取った。
(やあね、そんな顔しないでよ! あんたがあたしに謝るなら、あたしもあんたに謝らなきゃいけなかった。ずっとそれを悔やんでいたのよ。……独りで勝手に行動して、勝手に死んで──取り残すなんていう辛い思いをさせてしまって……本当に、ほんとうにごめんなさい)
(……アン……)
妹の思いがけない告白に、兄は眼を大きく見開いて、それからきつく、きつく細めた。
双子の顔はお互いの表情を映し出している。
まるで鏡のようだった。
(……僕たちは)
やがて先輩が、囁くようにそう言った。
アンナさんは涙を流しながらも、愛らしく首を傾げて微笑んだ。
(なあに?)
(僕たちは、最高の双子だった。──……そう思っても、いいだろうか?)
そのとき、俺は気が付いた。
光が──二人の周りを取り囲み始めている。
否、よく見ればそれは妹の体から発せられていた。
蒸発するように天へと霧散してゆく金の粒子。
輝くその金色のひかりが薔薇園じゅうを満たしていくその只中で、アンナさんは最高の笑顔を浮かべた。
(……あたりまえじゃない!)
その笑顔に引き寄せられるようにして、お兄さんも微笑んだ。
(……ぼくの)
(え?)
(僕の、太陽。──君はずっとそうだった)
今だから思う。
君がいるから僕は生まれて、生きてくることができた。
(……ありがとう)
優しい声でそう言って、先輩はまた、笑った。
空に溶け行く妹の体をいとおしげに抱き寄せて、ほとばしる感情に目元を歪ませる。
けれど彼はもう泣かなかった。
アンナさんも泣かなかった。
(ありがとう……)
きつく、きつく。
兄の背中に爪を立てるようにして抱きしめ返して。
彼女は心底安堵した表情で眼を閉じた。
その足が、背中が、砂が崩れるようにして消えていく。
歌が──途切れた。
やがて兄を掻き抱いた二本の腕もさらりと崩れて。
(──さよなら)
彼女はまさしく、太陽のように。
金色に輝く光となって、消えていった。