終焉
──これでいいのか?
自分自身に問いかける。
東の空が色を淡くし始めていた。
地平線から光が湧き上がり闇を排して、大気が紫色に変化してゆく。
黎明の時を迎えようとしているこの中で、しかしながら、ひとりだけ夜に置き去りにされた者がいた。
胸を掻き毟るように号泣して、呼吸すら止まって。
あまりにも深い傷を負ったせいで、きっと先輩はもう目が見えない。
(助けて……蒼路)
アンナさんの振り絞るような最期の願いを思い出し、俺はきつく眼を細めた。
──あの言葉の意味は。
彼女が命懸けて希っていたことは。
眼を閉じた。
ハル先輩のむせび泣く声が聴こえる。
俺はいつか鎮守神と話した。双子の内のどちらも見捨てることはできないと。
でもどうすれば彼らを二人とも救うことができるのか、それがずっと判らなかった。
正直言うと今もわからない。
──けれどこのままでは絶対にハル先輩は救われない。
それだけは判っていた。
「……深紅」
名を呼ぶと彼女は俺を見た。
俺もその瞳を見返して、ずっと握っていた手を離す。
そしてそのまま首筋に手をやると慣れない手つきでペンダントの留め具を外した。
チキ、と微かに金属のしなる音と共に人肌のぬくもりを吸った宝石が手のひらにすべり落ちる。
輝く夏の森と見まごう碧の石。
その鮮やかなきらめきにアンナさんの笑顔が重なって消えた。
「……蒼路?」
何かを感じ取ったように深紅は声に不安を滲ませる。
そんな彼女に俺は堪えきれず謝った。
「──ごめん」
軽く息を呑む気配が伝わってくる。
聡い彼女は気づいたのだろう、俺がこの期に及んでまだ何か無茶をしようとしていることに。
発熱し始めたらしく、潤んでぼんやりとした瞳が俺を見つめてくる。
早く彼女を、静かな場所へ帰してあげたかった。
そしてどんな不安も取り除いてただ穏やかに眠らせてあげたい。
その想いに嘘は無かった。
ずっとそう想ってきた──彼女と初めて言葉を交した時から、ずっと。
できるなら戦いの日々から永遠に解放して、真綿でくるむようにやさしくしてあげたいと。
でも。
「……ごめん。俺は、まだ帰れない」
眼に熱いものがこみ上げたが、涙にはならない。
言葉無く俺を見つめてくる眼から眼を逸らせなかった。
これは、この感情は切なさではない。口惜しさだ。
俺の力が至らない為に、何より大切な人も守れない悔しさ。
「ここで終わりにしたくない。このままじゃ先輩の魂はたった一人で夜に置き去りにされる。俺にはまだやり残したことがあるんだ」
「……」
青ざめた唇が何か言おうとして息を吸った。
けれどそこから言葉は出てこない。
風が一陣吹き抜けて、俺の、彼女の髪を乱していった。
手の内の碧の石を握り締めた。
俺は──俺の最期の力をこれに懸けると決めた。
たとえ深紅が何を言おうと、ふたたび泣いて俺を引きとめようと。
俺は、星導師なのだから。
「……わかったわ」
永い、ながい沈黙が流れた後、ふいに深紅がそう言った。
俺は一瞬なにを言われたのかわからなかった。
まばたきを幾度も繰り返してその言葉の意味を反芻し、ようやく受け入れられたのだと思い当たる。
「え──いいの、か?」
思わず問い返してしまうと深紅はちいさく苦笑した。
「いいも悪いも。どうせお前はもう決めているのでしょう? だったら私がいくら止めようと意味が無いわ」
「……まあな」
さすがに深紅は鋭かった。俺は認めざるを得ない。
そして内心で彼女が引き止めるかもしれないと一瞬でも考えた自分を恥じた。
深紅こそ己の星導師としての運命を受け入れている人はいないと、俺は誰よりもよく知っていたのに。
「ごめん」
再び謝ると深紅は柳眉を跳ね上げた。
「何に対して謝っているの? 考えていることがあるのなら、さっさとやってお仕舞いなさい」
「はは。そうだな」
非常に彼女らしい言い回しに俺は今度は微笑んだ。
要するに、応援すると言ってくれているのだ。
「サンキュ。深紅」
「礼は不要よ。お前の背中を見届けるのは私の権利。邪魔はしない──でも」
言い刺して深紅は眼を伏せる。
熱で赤らんだ頬に長いまつげの影が落ちた。
わずかな間を挟んだ後、彼女は俺を見ずに言った。
「お願い、蒼路。……無事で」
「──うん」
胸に、押し寄せてくるものに心がふるえた。
息も詰まるようなその想いの烈しさに、目の前の華奢な肩を抱き寄せたい衝動にかられたが堪える。
代わりに首を振って立ち上がった。
「鎮守神」
『うむ』
呼びかけた先で短く答える声がした。
沈黙を守っていたが彼はずっとそこにいたのだ。
「深紅を──頼んだ」
言いざま俺は踏み出した。
膝が挫けて全身のあちこちが軋む。
ずきずきと痛みを訴えてくる心臓を無視して再び剣を取り出した。
紫の焔を纏って現れたのはやはり以前と形状を違えた両刃の剣。
柄を握るだけで魂を喰われるような心地がしたが、最後の気力を振り絞り、切っ先で大地に五芳星の陣を描いてゆく。
歪んだ線が完全な陣を描き終える前に膝が折れた。
額から脂汗が滲み出る。
ぐらぐら揺れる視界のなかで何とか陣を描き上げると、俺はその中央にアンナさんのペンダントを置いた。
この魔法陣が現世と常世をつなぐゲートの役を果たす。
ペンダントは代償だ。
──死者を今一度、この場に呼び寄せるための代償。
頼む。
成功してくれ。
「……アンナさん」
深々と剣を大地に突き立てて、俺は祈りにも似たその名前を口にした。アンナさん。
戻ってきてくれ。
「──ハル先輩に、言いたいことがあったんだろう……?」
紫の焔が魔法陣をなぞってゆく。
その焔はいまの俺の力を反映し、ひどく不安定で頼りなげに揺れている。
全身から搾り取られてゆくものに喘ぎながら、俺は顔の前で刀印を組んだ。
自分の夢見の才とやらがどれ程のものなのかは見当も付かないが、少なくともこれだけは言える。
聴こえてくる声があるんだ。
そしてそれに答えることのできる声を、俺は持っている。
「だから……俺の力をぜんぶ貸すから」
戻っておいで。
そしてハル先輩を助けてあげて。
──この夜が明ける前に、彼を闇から連れ出してくれ。
ぽたぽたと、顎から汗が滴り落ちて地面を濡らした。
眼を閉じれば消失してしまいそうな意識を気力だけで奮い立たせ、最後の力で刀印を横一文字に薙ぎ払う。
紫の焔が丈高く燃え上がったと思ったら、次の瞬間には魔法陣の中央目掛けて迸った。
小さな碧の石が衝撃を受けて宙に浮く。
その身になだれこんだ焔の全てを飲み干してから、高い音を立てて砕け散った。
「……!」
失敗か。
思った瞬間気がゆるみ、ふらりと体が前後に揺れた。
そのまま地面に横臥する。
(……力が……)
指で大地を掻きながら俺は呻いた。
力が、足りない。余りにも。
急速に闇に呑みこまれていく意識のなか、心底己の弱さを呪う。
(……畜生……ッ)
俺は。
俺がもっと、強ければ。
「俺にもっと──力が、あれば──……!!」
誰にも辛い想いはさせないのに、と。
足掻くようにそう思った瞬だった。
『──……では、手を貸してやろうか?』
心の最奥に降り立った、紫の瞳の女性が居た。