悲しみの果て
双子のうちの一人を片割れと呼ぶことがある。
対になったものの一方、本来は一つであったものが割れた片方という意味だ。
「アン──アンっ……! どこだ、どこに行ったんだ!?」
ただひたすらに妹の名を繰り返す、その声が切なすぎて俺は耳を覆いたくなった。
草むらに投げ出された手が必死になにかを探している。
骨ばって痩せこけたその指先は、しかし何を掴むこともできずにただ宙を、土を、むなしく掻いただけだった。
沈黙が落ちる。
残酷に肩に圧し掛かるそれを、やがて張り裂けんばかりの先輩の慟哭が貫いた。
「……ッ……!!」
横で深紅が顔を背けたのがわかった。
それほど、余りにも悲しい叫びだった。
自分にとって掛けがえのない人、もう一つの心臓にも等しい、ぜったいに失えないあたたかいもの。
──それを、奪われた者の絶望の悲鳴だ。
俺は残る力を振り絞って立ち上がった。
この悲鳴を……俺たちは既に知っていた。
「アン! アン! 僕を置いていくな、行かないでくれよッ」
半狂乱になった先輩は、自分でも気がついていないのだろう、再びあの碧の閃光を纏って泣き叫び始めた。
その悲痛な声が闇を裂くたび、全身に負った傷から血が流れるたび、そして瞳から涙が零れ落ちるたび。
碧の光は混乱したように迸って森を照らした。
ハル先輩はその光すらもアンナさんの面影と感じたらしい、もう既に限界を超えているはずのその体で立ち上がると必死に木立や茂みの中を掻き分けた。
アンナさんの名を、呼びながら。
「……先輩……」
そんな先輩に声をかけるのは躊躇われたが、俺にはそうする必要があった。だってこれ以上力を使わせたら先輩の命まで危ない。
茨の茂みに顔を突っ込んで、その肌が傷つくのも構わずに両腕で茨を掻きまわす先輩の背後に立つと、俺は今一度彼を呼んだ。
「ハル、先輩」
「……ッ……!!」
ぎらりと、憤怒と憎悪にぎらつく瞳が振り向いた。
乱れたぼさぼさの髪の隙間から俺を捕えて先輩は拳を振りかぶる。
稲妻のように素早く宙を斬ったその一撃は、見事に俺の頬を直撃した。
脳天に火花が散る。
骨が割れた音が鼓膜に刻み付けられて、俺は背中から地面に叩きつけられた。
「蒼……ッ」
「──手ぇ出すな深紅!!」
背後から聞こえた彼女の声を全力で遮った、とたん、休む間もなく再び先輩の攻撃が飛来する。
どぐっ! とみぞおちを思い切り殴られて呼吸が止まった。
夕飯を食べていなくて幸いだった。
食べていたら間違いなく吐いている。
ちょっと見当違いなことを考えながら俺は爆発したように咳き込んだ。腹が激しく上下する。
だが先輩は今度はその腹の上に馬乗りになって、ふたたび俺の頬を殴った。
「お前の……ッ!」
激情が、まじりけのないそれが、真っ向からぶつけられて来る。これを拒絶する権利は俺にはない。
だから抵抗せずに先輩のされるがままになった。
「お前のせいで、アンは死んだんだ! 殺されたんだッ!」
何度も殴られた。膝蹴りも受けた。
顔がみるみる腫れ上がり視界が歪む。
余りにも強いパンチを何度も受けたので、頭蓋骨が揺さぶられたのか、次第にひどい頭痛にも襲われた。
脳髄が内側からかき乱されるように痛む。
──それでも俺は反撃しなかった。
「……お前の……ッ、その……星の、せいで……!」
やがて腫れ上がって熱い頬にぽたりと滴ったつめたい感触があった。
俺はかなり制限された視界のなかでその正体を見極める。
それは──涙だった。
先輩の碧の瞳から音もなく流れ落ちる滂沱の涙。
何か言おうかと息を吸ったが口の中は血で溢れ返っていた。
十中八九鼻血が流れてるし、口腔内も切ったためだと思われる。
これは俺の血ではない。
──ハル先輩の心の血だ。
「……返せよ……」
その言葉が胸を刺し貫いた。
決して、けっして応えられない想い。
行き場のない感情。
「僕にアンを、返せよ──ッ!」
俺はただ首を振った。
掛ける言葉がある筈も無かった。
だって誰かを失うということは、こういう苦しみと独りで戦わなければいけないということだ。
死んだ人の時はもう動かない。けれど生き残った自分のそれは、否が応にも前に進んでゆく。
時に癒されて。薄れ行く傷の痛みを感じながら。
やがてはその人のぬくもりを──忘れ。
「ハル、先輩……」
あなたも、本当はもう、わかっているのでしょう。
俺はそう言おうとした。
けれど出来なかった。
「──殺してやる!」
胸元に突き立てられた白銀のきらめきがあったのだ。
俺は先輩が両手に握った短剣を夜闇に振りかざす様を見た。
とっさに横向きに転がって交す、だがまたすぐに覆いかぶさられていた。
膝で膝を押さえつけられ、恐ろしいほどの力で動きを封じられる。
……刺される。
奇妙に冷静に、そう判断した。
逃げることは不可能だ。かといって反撃する力はとうに使い果たしている。
深紅が何か叫ぶ声が聞こえたような気がしたが──耳をそばだてる暇すらも無く、銀の一閃が心臓めがけて振り下ろされていた。
ほんとうに瞬きする間もなかった。
せめてもと眼を閉じようとした時に、ばさりと何かの翼が空を打つ音がした。
***
甘茶色の風切り羽が閉じかけた視界に舞う。
──銀の短剣は俺の心臓に届かなかった。
代わりにそれに刺し貫かれたのは、光の如き速さで俺と先輩のあいだに舞い降りたグリフィンの、その、翼。
「……オっ……」
ハル先輩の瞳が──みるみる自己を取り戻した。
ぽたぽたと頬にかかる血が誰のものなのかを理解した瞬間、彼は、囁く様な声を喉から絞り出していた。
「……オーア……?」
グリフィンは何も言わなかった。
ただ巨大な頭をもたげてじっと主を見つめると、それからふいに傷ついていない一方の片翼を羽ばたかせた。
猛烈な風が舞い起こり、ハル先輩は俺の腹の上からじりじりと脇に押し出される。
よろめくようにして草むらに転がされた先輩は、己の友に歯向かわれたことが未だ信じられないようだった。
裏切られた衝撃にしばし呆然としていた彼は、だがすぐに体勢を整えて起き上がると、再び俺めがけて斬り付けようとした。
だがまたしてもグリフィンがそれを防いだ。
彼女は俺をその背の後ろにかばい、獅子の後肢でそびえるように立ち上がったのだ。
その断固たる態度に、さすがの先輩も動きを止める。
悔しさと怒りに全身を震わせて、彼は触れれば切れそうな視線で己の召還獣を睨みつけた。
「なんの──何のつもりだ、オーア!!」
激しい一喝だった。
今までのグリフィンならきっとここで怯んでいたに違いない。
だがいま彼女は怯まなかった。
主から眼をそらさずに、あの忘れようもなく美しい、楽の音の如き声で言った。
『これ以上、罪を犯さないでください』
「罪……だと……?」
先輩の声が震えた。
グリフィンは明確にはい、と答える。
そしてその背に備わった優雅な翼を、今度は傷も構わずに、見事に両方とも開いて見せた。
右翼から血潮が滴った。痛くないわけがない。
けれど彼女はただひたすらに穏やかな声でこう続けた。
『あなたはもう、十分すぎるほど罪を犯した。アンナのために。けれどもう止めてください。私はあなたに──……私の友であるあなたに、これ以上の罪咎を背負わせたくはない』
──そのとき、俺は見た。
異国の城で王冠を戴いた女王の姿。
聡明なその横顔を誇らしさと畏敬の念持って見守る心を──ああ、これはオーアの心だ。
戦禍が広がって赤黒く染まる都の空に彼らの姿がシルエットとなって浮かび上がっていた。
滅びた都。死に絶えた伝説の獣たち。
けれど遥かな時を経て、冷たく孤独な眠りに沈んだ心に触れてきたのは、二対のちいさく暖かな手のひらだった。
──何者だ
警戒する目線が追った先には、輝くエメラルドと見まごう澄んだ瞳を持つこども。
ひどく幼い男女だった。
──人間が、どうして
──忘れたくせに
──かつて私たちを必要としたことも、共に暮らしたことも、お前たちは忘れてしまったくせに
──もう近づいてくるな!
──人間は嫌いだ、大嫌いだ……!
(ハル、ぼくはハルだよ)
(あたしは、アン。よろしくね、グリフィンさん)
(きみはきょうから、ぼくらのともだち)
太陽の如きこの笑顔を、命掛けて護ろうと決めた。
そのためにだけこれからの自分は生きようと。
けれど護れなかった。悲しみの果てに死なせてしまった。
あまつさえ残された片方の心が道を踏み外しかけたというのに、それを引き留めることすらもできなかった。
──だから。
現実が戻ってくる。
グリフィンが言った。
『もしもあなたが更なる罪を犯すと言うならば、わたしは今度こそこの命懸けてあなたを止めます。そして死なせてしまったアンナのためにも、あなたを全力で護って見せる』
「……っ! 何を馬鹿なことを……そこの星師に絆されたか!?」
『──あるいはそうかも知れません』
激昂する主に対してグリフィンは静かに答えた。
俺が声もなく成り行きを見守っていると、ふいに深紅が傍に寄ってきた。
ぎゅっと強い力で服の裾を捕んだ手を迷わず取った。
『私はこの者に命を救われました。弱いと思っていた。情に甘く、見境のない、魔物を殺戮するだけがとりえの星師だと』
ふいに風が巻き起こる。
俺たちの髪を、ぼろぼろの衣服を乱して、唐突に止む。
闇に溶け込む漆黒の巨体がすぐ傍に降り立った。
驚いてその名を呼ぼうとした俺を、ふたたびグリフィンの声が遮った。
『けれどこの者は──本気で我々を助けてくれた』
「それ以上は……やめろ、オーア……ッ」
ハル先輩が俯いて、低く搾り出すような声を出す。
その手が短剣の柄を強くつよく握り締めた音が俺たちの耳にまで届いた。
グリフィンは無視して続けた。
『やめません。ハル、あなたとて本当はわかっているはず。彼があなたを救ってくれたということを』
「……の、為……に……!」
先輩の声にみなぎり溢れ出したものがあった。
勢いよく顔を上げたその顔に伝うは新たにあふれた涙と、唇を強く噛みすぎたせいで流れ落ちた血の筋。
押さえ切れない激情に翻弄され、痛めつけられて──彼はついに己にその矛先を向けた。
「そのために──……僕なんかのために! アンは、アンナは──死んだんだ!!」
「……ハル先輩……ッ!!」
短剣を両手で握り締め、先輩はその切っ先を己の喉に狙い定めた。
誰もが、止められないと確信した。
俺は前に飛び出そうとしてもつれて転び、既に飛び上がっていたグリフィンの嘴も、主の腕にあと僅かばかりの位置で届かない。
だが俺たちをはるかに凌駕したスピードで闇を飛翔した影があった。
短剣がわずかに先輩の肌を斬り、血潮が飛ぶ。
刃の切っ先が完全に肉の中に潜り込む寸前で──漆黒の狼が雷鳴のように先輩の腕に喰らいついていた。
「……ぐ、ぁッ……!」
先輩は苦痛の悲鳴とともに短剣を取り落とした。
むろん鎮守神は相当手加減していただろう。
だがそれでも彼の牙は確実に先輩の腕に沈んでいた。
『──貴様は真実、愚か者だな』
巨大なあぎとを開いて口内に残った血糊を吐き出し、鎮守神は忌々しげにそう言った。
『自分のためにどれほどの者がその身を投げ打ったか、この場に及んでまだわからぬと申すか!』
グリフィンが低く滑空して先輩の元へ馳せ参じる。
もはや彼は全ての力という力を削がれて膝を折ってしまっていた。
鎮守神はそんな彼の姿を一瞥し、怒気を孕んだ声で吐き捨てる。
『死んで貴様の気が済むのならばいくらでも死ねば良い。我は一向に構わぬよ──だがな』
彼はどうやら怒っているようであった。
さすがに哀れに思えてハル先輩を見てみれば、彼は今しも両手で顔を覆い、背中を丸めて地面の上に突っ伏した所。
俺は堪らず眼を伏せる。
鎮守神の声が空気を震わせて響き渡った。
『貴様が死んで一人でも救われる者がいるかどうか、その愚かな頭でもう一度ようく考えてみることだな!』
肩を丸め、頭を抱え。
固く握り締めた拳を大地に幾度も叩きつけながら。
──ハル先輩は今度こそ、声を上げて号泣した。