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星師  作者: 小糸
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真実

 

『熱い、熱い熱い熱いぃいっ……』

 

 背筋を仰け反らせて焔に焼かれる、アンナさんの姿を見て俺は理解した。

 星の暴走という言葉が一体何を意味するのか。

 ──それは。

 

『どうして、だ……! どうして私たちばかりが──こんな苦しみを負わされる!』

 

 星に負ける、ということだ。

 己の星を認めず受け入れることができず、その運命に屈した者が迎える哀れな末路。

 

「……ハル先輩だけじゃない」

 

 風が吹いた。

 森の木立がごうと音を立てて葉ずえを揺らし、散った青い葉が闇に呑まれて消えていった。

 俺は一歩前に足を踏み出した。

 さわりと、ごく微かな音が耳を打つ。

 

『なぜ──何故、なぜ、どうして!!』

 

 苦しんでいる心がある。

 もがくように、すすり泣くように──ただ一つの願いのため、あまりにも大きな代償を払ったふたつの心が。

 

「アンナさん。貴女もやっぱり、星を憎んでいたんだ」

『苦しい、熱い……ッ、止めろ!』

 

 頭を掻き毟りながらもんどりうっていたその体は、やがて熱さに堪えかねて地面に投げ出され、転げ回り始めた。

 焔を消し止めたいのだろう。

 しかしそれはこの焔の主である俺だけができる芸当だ。

 そして俺にはまったくその気は無かった。

 再び両刃の剣を手にし、冷徹にアンナさんを見下ろした。

 ──この人はいつか言った。

 誰も憎んでなんかいないと。

 その言葉におそらく嘘はなかった、けれど彼女はきっと、彼女自身気づかない場所に深く暗い傷を負っていたのだ。

 そのことに今更思い当たった自分が本当に愚かで不甲斐なく、そして歯痒い。

 

「家族には疎まれ。お兄さんが星に背を向けて。ただ独りで戦い続けて、あなたは」

 

 あなたは、本当はさびしかったはずだ。

 家族に認められないことが切なくない人なんていない。

 魔物を殺すことが好きでたまらない人もいない。

 己に嘘を続けた結果、その体は、心はいつしか血にまみれてしまった。

 けれど自分が孤独だと認めてしまえば、そうやって必死に守ってきたものがたちまち砂と化して崩れ落ちてしまうから。

 

「だから、あなたは……」

 

 俺はアンナさんの目前に立つと、焔でその手足を絡めとり、自由を封じた。

 抵抗する力さえ奪われて、更なる苦悶の声が上がる。

 俺は静かに剣を構えた。

 ──あなたは、自分を騙したんだ。

 自分は幸せだと思い込み、戦いの日々に逃避した。

 星の力を星を憎むために用いて、だから。

 

「あなたは……死んだ。星に殺されたんじゃない、己の星を認められずに、それに負けただけなんだ」

 

 眼を、見据える。

 焔に焼かれて苦しみもがきながらも尚、エメラルドのように澄んで美しい瞳を。

 

「そしてハル先輩は──あなたの心を知った上で、あなたを守った」

『……ッ……!』

 

 驚くほど長い時間が経過しているように感じられた。

 この瞳と瞳を合わせて確かな言葉を交わした日々を思い出す。

 本当に昨日のことなのに、まるで百年も昔のようで一瞬眩暈すら覚える。

 彼女はどんな気持ちでこの現世に留まって、ハル先輩の傍にいたのか。俺や深紅と言葉を交わしたのか。

 あざやかな金の髪を風に揺らして、鞠のようによく跳ねる体で駆けて、常に笑顔を絶やさなかった彼女が願っていたことはきっとただ一つ。

 

『……て……』

「……!」

 

 俺ははっと眼を見開いた。

 エメラルドの瞳が、俺を──見ている。

 ただ茫洋とした視線を投げているという意味ではない、しっかりと明確な意思を持って俺をその中に映しこんだのだ。

 ずっと、言葉も届かない場所に彼女は深く沈んでいた。

 けれど今。

 そこから必死に這い上がろうとしている、手を伸ばしている。

 

「アンナ、さん……」

『……ろ……、て……』

 

 碧の眼から涙がこぼれた。けれど容赦ない紫の焔に巻かれてそれはすぐに蒸発する。

 動かない両手を必死で動かそうともがきながら、彼女は今度こそはっきりとこう言った。

 

『助けて、蒼路……──!』

 

 俺は、頷いた。

 構えた剣を顔の高さまで持ち上げて息を吸う。

 この声が聴こえるのがほんとうに俺だけならば。

 この人に報いられるのも俺だけだろう。

 

「……助けるよ」

 

 静かに剣を後ろに引いた。

 頬をなにか冷たいものが伝うのを感じながら、俺は剣を振りかぶった。

 片刃の刀は切り裂くもの、けれど、両刃の剣は貫くものだ。

 その思いを──憎しみを、悲しみを。

 滅ぼすもの。

 

「──ごめんな」

 

 焔を受けて紫色の尾を引く剣の切っ先を、俺は一思いにアンナさんの首筋めがけて突き立てた。

 

 ***

 

 握り締めた柄を通して、手ごたえのない感触が手のひらを伝い抜けた。

 俺が貫いたのはあくまでアンナさん、その魂の核たる星。

 ハル先輩の肉体を傷つけたわけではない。

 

『……!』

 

 碧の瞳が言葉無く見開かれ、瞳孔が開く。

 だがそこに浮かぶのはもはや苦痛ではなかった。

 ゆっくりと、瞳の表面に夢のようなゆるやかさで涙が盛り上がってくる。

 やがてしっかりと俺を正面から見据えて、彼女は──アンナさんは、言った。

 

『ありがと……』

 

 俺は言葉を失った。

 その言葉をかけてもらえるようなことを俺は何も出来ていない。

 むしろこの弱さのために、愚かさのために、悲しい想いをさせてしまった。

 長く苦しませてしまった。

 

「……ごめ、……っ」

 

 ひどく小さな呟きは喉に引っかかり、ほとんど声にならなかった。頬を次々と伝うゆるやかな雨がある。

 ゆっくりと、力の入らない手で剣を抜いて、俺はそれを投げ捨てた。

 ふいに頬を撫でたあたたかな感触に気がつく。

 顔を上げれば目の前のその人が、もはや兄の顔を借りずに本来の自分の顔で微笑みながら、俺の頬を拭っていた。

 ──気がつけば。

 金色に輝く影のような姿となって、アンナさんはハル先輩の肉体から解き放たれてゆく。

 光に包まれて宙に浮いたハル先輩は、やがて再び草むらの上に横たえられた。

 

『……ありがとう……蒼路』

「俺……は、何も……」

 

 喉が詰まる。

 視界が一面の銀にかすむ。

 必死に首を振る俺を、しかしアンナさんは抱きしめた。

 

『あんたがいてくれて……本当に、良かった』

 

 感触の無い光の腕。

 だがそれは傷ついた体に染み入るように温かくやさしかった。

 堪えきれずまぶたを閉じる直前、その体が闇に輝く粒子となって溶け始めたのが見えた。

 

『本当に、ありがとうね──……』

 

 ──蒼路、と。

 今一度、本当に、ほんとうに安らかな声でそう俺の名を呼んで。

 アンナさんは、天に昇華していった。

 

 ***

 

「……」

 

 俺は長嘆した。

 水を打ったように鎮まり返った森の中、がくりと地面に膝を折り、そのまま前のめりに倒れ伏した。

 

「蒼路!」

 

 どこかから深紅の声が聴こえた。

 あるいはそれはひどく近くから発せられた声だったのかもしれないが、今の俺には遥か彼方から聞こえるものに感じられた。

 もう……力が残っていない。

 火之迦愚土神の焔を借り受けた。

 鎮守神とグリフィンを死の淵から引き上げた。

 そしてアンナさんを成仏させた。

 重く閉じかけたまぶたの隙間から、地面に転がっていた両刃の剣が星に戻すまでもなく姿を消したのが見えた。

 

(あの、剣……)

 

 俺は深いため息を吐き出した。

 恐らく神の焔の影響なのだろうが、以前と比べて恐ろしく力を使う剣になってしまった。

 ほんの二度ほど振っただけでもう全身の体力を吸い上げられたような気がする。

 俺は眼を閉じた。

 もうほとんど力は残っていなかった。

 しんと、恐ろしく静かな森のあちこちに、次第しだいに虫の声が響き始める。

 ……──妖気が祓われたからか。

 遠のく意識の向こうで俺がそう考えたとき、ふいに鼻腔に甘い香りが流れ込んできた。

 

「蒼、路?」

 

 俺はふたたび眼を開けた。

 それだけでも渾身の力が必要だったが、やっただけの価値はあった。

 体を少し引きずるようにして、深紅が俺の傍に膝を折った所だったのだ。

 なめらかな手がそっと顔を救い上げる。自然と上向いた視界のなか、静かに俺を見つめる瞳と眼が合った。

 

「……よくやったわね」

 

 深紅の口から労いの言葉がかけられたのは初めてだったが、俺はそれに対して驚くよりも喜ぶよりも、ただ首を横に振った。

 

「……いや」

 

 また息を吐き出して、それから深紅の手のひらをやんわりと退けた。まだだ。

 まだ、救われていない魂がある。

 俺の甘い心のせいで恐らくいちばん辛い思いをさせた人。

 まったく力の入らない体を叱咤してなんとか起き上がる。

 心臓が痛い。背中が痛い。

 もうどこが痛いのかもわからないほど全身が痛んでいた。

 

「蒼路? 何してるの、今、治癒の術を──」

 

 怪訝な声と共に引き止めてくる深紅を俺は片手でさえぎった。

 彼女は黙る。

 訪れた沈黙の元、さやさやと静かに葉ずえを鳴らす木々の只中、独り取り残された者が発する呆然とした声が響いた。

 

「──……アン……?」

 

 


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