心、その向かう先 3
『謹請し奉る──』
己の口が祝詞を唱えるのを他人事のように聴いた。
身体の自由を取り戻した俺は呪力を爆発させた反動で宙に跳び、地面に降り立つまでの一瞬のあいだに呼び出した焔を全身に纏って鎧とする。
なぜそんなことをしたのかはわからなかったが、そうすることでアンナさんの力の影響を受けなくなったことに後から気づいた。異常に体が興奮しているにも関わらず頭はひどく醒めている。
刀を抜いた。
自らの流した血溜りのなかに浸りながら死に向かう獣たちを、刀身から迸る炎の魔法陣で包み込む。
今の俺の実力では、この術が成功する可能性は五割も無い。だがやらなければ獣たちは確実に死ぬ。
謹請し奉る。何卒、我が願いを聞届け給え。
『──火之迦具土神……!』
荘厳なその名を口にした瞬間、全身を見えない巨大な手で握りつぶされたかのような圧迫感に襲われた。
その感触は冷たく、だが熱く。
命を暖めながらも焼き尽くす、まさしく焔そのものだった。
「……ッ……!」
俺は言葉無く眼を見開いた。
──これが、神の焔
その激しさのあまり母女神すら焼き殺した、呪われた神の力。
心臓を内側から弄られ焼かれて、あまりの激痛に悲鳴をあげそうになるが唇を噛んで堪えた。
深紅は、深紅は微塵の躊躇も苦しみも見せたことがない。
俺がこの程度で音を上げてたら、彼女の傍にいる資格なんてない!
かっと見開いた瞳の向こうに獣たちを取り囲む焔が大きくふくらんで、激しく燃え上がる様が映り込んだ。
──わずかに緋色の眼を開いた鎮守神に、血塗れた甘茶色の身体をやはりぴくりとも動かさないグリフィン。
死んでほしくない。
ぜったいに、死なせない!
(全ての魂は……傷つくために生まれてきたわけじゃない)
俺はひとつ呼吸を吸い、星に全神経を集中させた。
身体の内の奥ふかく、体と心が解けあう場所に暴れ狂う七色の焔、それに心の手を伸ばす。
とんでもない暴れ馬だ。まるで野火だが、こいつをねじ伏せないことには先へ行けない。
「大人しくっ……しやがれ!!」
忌々しく吐き捨てた瞬間、焔がその激しさを増して俺の全身を包み込んだ。
生来持っている俺の焔と、猛り狂う神の焔が渦を巻きながらぶつかり合う。
火柱に包まれて、耐え切れぬその熱さに俺は天を見上げて絶叫した。
──負けない
俺は弱いけれど。特別な力も武器も持たないけれど。
でも知っているんだ、どんな闇にも光は届くと。
太陽が隠れても、月が消えても、名も無い星が輝けばいい。
だから俺は。
俺たちは。
「──絶対に、負けらんねぇんだっ!!」
叫んだ瞬間、なにかが俺の中を駆け抜けた。
蒼い焔が燃え上がり、七色のそれを一息に呑み干す。
とたんに熱さも痛みも掻き消えて、俺は焔が体内に戻るのを感じた。
一瞬の間を挟み、表面に何も纏わない手のひらをきょとんと眺めて、焔なしでもアンナさんの影響を退けている自分に気がつく。
だがそれも一瞬で、俺ははっと顔を上げると獣たちを囲んだ魔法陣に眼をやった。
そして心底安堵する。
温かく揺れる火の壁の向こうで──彼らが眼を開いた様子が見えた。
緋色と黄色、その瞳に明らかな意思が宿り、澄んだ命の輝きを取り戻したさまが。
──ああ
目頭に熱いものがこみあげ、同時にすさまじい疲労感に襲われる。
ぐらりと前後に体が傾いだが、休んでいる暇はない。
心臓にナイフで刺されたような鋭い痛みを覚えながら、俺は駆け出した。
立ち止まってはいけない。
俺はまだ、やるべきことを何一つ成し遂げては居ないのだから。
「深紅……」
強く脆い深紅、それに悲しみに囚われた双子。
──あなたたちは知っているのだろうか?
光の届かぬ闇はない。晴れない闇は、無いということを。
どれほど暗く果てしない、太陽も月も隠れた真の夜の中にさえ、”それ”は絶対に存在する。
俺は空を見上げた。
妖気に薄く紗のかかったような夏の夜空、月は見えない。
だがびろうどのカーテンのようなその果てしない空間には無数の星がきらめていた。
***
「深紅──!!」
彼女の星の気配を目指して草むらを駆ける俺の耳に、今一度鼓膜を揺るがす爆発音が届いた。
突風が巻き起こり、大量の土くれと木片が周囲に乱れ飛ぶ嵐が起こる。
顔を腕で庇いながら俺は爆発の起きた地点を眼でさぐった。
気配がぶつかりあっているのは右方前方。
熱気を孕んだ風が吹き抜けた後、耳がわずかな悲鳴を捉えた。
「──……深紅っ!?」
戦慄にも近い悲鳴が口を突いて出た。
あの深紅が悲鳴をあげるなんて、一体何が。
痛む心臓を押さえながら駆ける速度を上げ、彼女の気配めざしてひたすらに前へ進む。
焦る気持ちに足が追いつかずにこの上ない苛立ちを覚えた。
はやく、もっと早く!
木の根を跳び越し、おいしげる茨を搔き分け、目前をふさぐ名も知らぬ植物を斬り払いながら俺は駆けた。
腕や足にあちこち小さな熱が走る。おそらく茨で切ったのかと思われるが、はっきり言ってどうでも良かった。
「ここかっ!」
深紅とアンナさんの気配が押し寄せて、はじけた。
同時に開けた視界に映り込んだ光景は、巨木に背中から叩きつけられた深紅の姿、その無防備な喉元めがけて、今まさに短剣を振り翳したアンナさん。
そしてハル先輩のものである──血走った碧の瞳。
「やめろ!!」
怒りで頭がまっしろになる。
理性の掛け金が弾けとんだ。
俺は刀を引き抜くと、無我夢中で打ち振るった。
「深紅に、触るんじゃねぇーッ!!」
刀を斜め十字になぎ払った途端、全身を走った異様な手ごたえがあった。
刀身がかつてなく重い。ずっしりと、まるで何かが宿ったかのような。
そして刃の軌跡に燃え上がったのは、紫に近い蒼い焔。
──いつもと焔の色が違う……?
だが刀についてそれ以上気にすることができない内に、俺の斬撃がハル先輩の肉体を横殴りに吹き飛ばしていた。
衝撃のままに跳ね上がった体は宙に弧を描き、木立の向こうの暗がりへと突っ込んでいく。
止めようがなく胸が痛んだ。
中身はアンナさんでもあの体はハル先輩のものだ。
手加減できなかった、ときつく眼を細めてから首を振り、俺は深紅の元に駆け寄った。
慣性で木の根元から少し離れた場所に転がり、彼女は意識を失っていた。
破れた着物のあちこちから覗く肌が紙のように白い。
特に大きく切り裂かれた左の脇腹は、ぱっくり開いた傷口と、そこから流れ落ちる血の色のせいで、ひときわ白さを増して見えた。
「……っ!」
頭から絶望に喰われそうになった。
さっきの悲鳴の原因は恐らくこれだ。
僅かな間にどれほど激しく戦ったのか、聞かずとも十分すぎるほどよくわかる。
刀を地面に突き刺して、俺は彼女を抱え上げた。
「み、深紅! 深紅、眼を開けてくれ!!」
右手の星で傷口の出血を抑えながら俺は彼女の名を呼んだ。
細首が支える頭が重力のためにかくんと落ちる。
いつもの艶やかさを失った唇から一筋、血の雫がこぼれ落ちた。
「──コウっ……!」
慄然とした俺は、今一度その名を呼んで細い体を掻き抱いた。
する、と。
なめらかな瞼が僅かに震えた。
同時に地面に投げ出されていた小さな手がぴくりと動く。
息を詰めて見つめている鼻先で、やがて夜空のように果ての無い、あの大きな瞳が開かれた。
「……そう、ろ……」
耳に届いた細い声に全身で息を吐き出した。
ぼんやりと霞がかった瞳が俺を捕え、やんわりと細められる。
まるで笑っているかのようなその表情に戸惑っていると、やがて彼女は口を開いた。
「……なつかしい」
「え?」
「コウ、って……お前がくれた、愛称だった……」
小さな手が俺の手を捜すように動かされる。
応じるようにぱしっと掴んでからその指先の冷たさに驚いた。
手を握られたことに安堵したのか一度ふかく息を吐き出して、それから深紅はふいに顔を歪めた。傷が痛むのだ。
「コウ!!」
「……だい、じょ……ぶ」
ごほ、と鈍く咳をしながら深紅は首を振る。
また鮮血がその唇から伝い落ちた。
全然大丈夫なんかじゃない。
首を振って治癒の術を唱えようとした俺の手を、しかし深紅は押さえて止めた。
「ほんと、に、大丈夫だから……無駄な力を、使わないで」
「──無駄なわけあるかっ!」
思わず俺が大喝すると、彼女は心底びっくりしたように黒曜の眼をみひらいた──そこに一瞬映り込んだ碧の光。
はっと振り返るよりも先に、背後から伸び上がった白銀のひらめきが俺の頭上に躍りかかった。
「蒼……っ」
深紅の声を遮って、肉を切り裂く音が耳の奥にこびりついた。
遅れて灼熱の痛みが背中を斜めに走りぬける。
舌打ちをして振り仰いだ先には狂気に吊上がった碧の眼。
『邪魔するなら貴様も死ねよ、護衛のがきが!!』
俺の血脂で濡れた短剣が今ひとたび空を切った。
裂けた唇からぬらりと長い舌が覗き、涎が飛びちる。
俺のことも完全に忘れてしまったのだと判るその一言を聞いて、胸に走った感情があった。
──心まで奪われて。
けして失くしてはいけないものを、あなたは失くしてしまったのか。
(……許さない)
眩しさにも似たその気持ちに俺はきつく眼を細めた。
時が、ひどくゆっくりと流れているように感じられる。
心の中が真空になり、誰の声も、どんな色も映し込まない。
前触れなく右手のひらに降り立った硬いものを何の躊躇もなく握り締めた。
『……ッ、な……!?』
──実際には、それは数秒だったのだろう。
けれど俺にとっては一分にも二分にも感じられる長い瞬きだった。
アンナさんが、ハル先輩の唇を驚愕に幾度も開閉させている。
その腹には俺の掲げた両刃の剣が深々と突き刺さっていた。
そしてその刀身から燃え上がる紫の焔が──一挙に燃え上がって彼女の、否、ハル先輩の肉体を包み込んだ。
「蒼、路……お前……っ」
俺は剣を無造作に引き抜いた。
腕の中に抱えたままだった深紅が眼前の光景に息を呑んでいる。
「刀が……焔が、変化している! どういうこ──?」
「コウ」
俺は深紅を遮った。
立ち上がり、彼女を抱えなおすとその眼を見つめる。
今一度息を呑む気配が伝わってきた。
「後は、俺に任せてほしい。お前は自分の怪我を治してろ」
「そ」
「俺に何が起きてるのか、俺にもよくわからない。でももう、そんなに長くはかからないから」
深紅を少し離れた木の根元に座らせた所で、闇夜を劈く悲鳴が響いた。
アンナさんだ。
俺の焔は調伏の焔。怨霊と化した彼女に対しては想像を絶する苦しみを与えている筈だった。
──俺は立ち上がった。
天を衝くほどに燃え盛る焔に身を包まれて、アンナさんは、今まさに本当の終焉を迎えようとしていた。