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星師  作者: 小糸
38/53

心、その向かう先 2

 

 

 森が──その姿に感応してざわりと蠢いた。

 片膝の下で大地が一際不穏に呻ったのがわかる。

 碧の光が広がり、触れてゆく先から倒れていた木々が起き上がり、草花は枯死しては萌芽を促され、異常な速度で成長してゆく。

 みしみしと苦しげな音を立てながら周囲の木立が太く、高く伸び上がり、瞬く間に辺りは密林と化していた。

 天が閉ざされ、狭められた空間内に濃密な妖気が漂う。

 

『おの……れ……』

 

 眼前の光景が信じられずに呆然としていた俺は、耳朶を打った低い声にはっと状況を省みた。

 足元に際限なくひろがる血溜まりがある──俺たちと同じ、真っ赤な血。

 それを流しているのは心も体も傷ついた二頭の異形の獣たちだった。

 尋常でない妖気のせいでひどく下がった気温の中、彼らの血潮は湯気を立て、命が流れ出す如くにとめどなく溢れ続けている。

 

「──鎮守神……っ!」

 

 叫ぶ自分の声がまるで他人の声に聞こえた。

 次の瞬間には何時の間に移動したのか、俺は彼らの体躯にすがり付いていた。

 

「鎮守神、グリフィン! おい、しっかりしろ、大丈夫か!?」

『……あの、女……我が山、を……!』

 

 鎮守神は怒りに燃えた瞳で俺の肩を通り越した先を睨みつけた。

 漆黒の毛並みの一部、ちょうど肩甲骨の辺りを刺し貫かれた彼は肺を損傷したらしい、吐き出す呼気が赤く染まっていた。

 愕然とする俺の瞳に今度は、鎮守神と折り重なるように横臥したグリフィンのぴくりとも動かない姿が映り込む。

 心臓が張り裂けるように痛んだ。

 一刻も早く治癒の術を施さなければ彼らは間違いなく死んでしまう。

 

「──深っ……」

 

 深紅、はやく、早く治療を!

 俺はそう彼女を呼ぼうとした。だができなかった。

 ──何かが、起きたのだ。

 全身に見えざる強大な力が圧し掛かり、俺は獣たちの血塗れの体の上に叩きつけられた。

 肩が、背中が、鉛か何かで押しつぶされたかのようだ。起き上がることができない。

 突っ伏した毛並みの下で鎮守神が苦痛の呻き声を上げる。

 彼らが横たわる下の大地があまりの負荷に大きくぼごりと凹んだ様子が、かろうじて開いた視界の端に見えた。


(……なん、だ……)


 かは、と喉を引きつらせて呼吸しながら俺は愕然と視線を動かす。

 なんだ──この圧倒的な力は。

 人の、操ることのできる力じゃない!

 

「ハル……せん、ぱ……?」

 

 つむぎかけたその名を遮ったのは深紅だった。

 

「ちがう、あれは遥ではない!」

 

 彼女は俺から少し前に出た場所で、圧し掛かるこの凄まじい負荷をものともせずに立っていた。

 怒りとも苛立ちとも知れぬ感情に細められた眼が見つめるのは眼前の光景を照らす碧の光。

 そしてそれを纏った細身の──ごくあたりまえの、青年の姿だった。

 

「あれはアンナだ! 蒼路!」

「……じゃ、憑依、が……っ?」

 

 体をみしみしと押しつぶし続ける負荷に抵抗しながら俺は深紅を顧みた。

 眼前に立っているのは紛れもなくハル先輩その人だ。

 だが彼が彼でない、という事は──つまり。

 向けた視線の先で張り詰めた横顔が一度ゆっくりと頷く。

 胸が引き裂かれるように痛んだ。

 最も恐れていた事態が、起きてしまったのだ。

 

「完全、憑依……!」

 

 ハル先輩はついに、その身も心も奪われてしまった。

 愛する妹に。

 否、愛しているからこそ其の死は自分のせいだと己を責めて、歪んだ形での彼女の再来を喜ぶことしかできず。

 たぶんそれがどんなに愚かで無意味なことかわかった上で、彼は。

 ハル先輩は。

 ──もう死んでいるアンナさんを守ることを、選んだ。

 

「ばか、やろう……っ!」

「まったくもって同感だ」

 

 堪え切れず呟いた俺に答えた声があった。

 深紅だ。

 抑えきれない怒気を孕んだその声音に俺ははっと目を瞠る。

 呼吸すら妨害するほどのこの重圧を、まるで感じていないかのように伸ばされた気丈な背中。

 そこにかかる豊かな黒髪が風も無いのにざわりと揺れた。

 ──怒ってる?

 俺が思った瞬間、ハル先輩──否、アンナさんが、色の無い唇の端をもちあげてほほえんだ。

 

『……五辻の姫……』

 

 凄惨と形容するにふさわしい表情で彼女は暗く眼を光らせた。

 ──ささやくようなその声も、深紅には聞こえないのだろうか。

 彼女の声は、もう俺にしか届かないものなのだろうか。

 瞬きよりも短い間に俺は考えて、だが次の瞬間圧力を増大した負荷に声にならない悲鳴を上げていた。

 体の骨が鎮守神の背骨にぶつかり、双方いやな音をたてて軋む。

 

『なぜ貴様が生きている? ──……私を殺したお前が!』

 

 爆発するような怨嗟の念がアンナさんから放たれる。

 碧の閃光が視界を埋め尽くし、森を、俺たちを、呑みこんでゆく。

 凍てつく寒波が押し寄せて体温を奪う。一瞬で凍えた。


(やっぱり、変だ……)

 

 俺は寒さに震えながら必死に思考をめぐらせる。

 アンナさんの、この異常とも言えるほどの力。

 まさしく怨霊こそが持ち得る力だが、そもそも怨霊とは憎んでも憎み足りない相手を持ち、死して尚その者を憑り殺そうとする存在のことだ。

 ──私を殺したお前が!

 それはむろん真実ではない。

 深紅がアンナさんと知り合ったときには彼女は既に死んでいたのだから、そんなことはありえない。

 だったらその言葉が意味する所は。


(……もしかして……)

 

 俺は冷たい感触が心臓を撫でてゆくのを感じた。

 いやな予感が胸を逸らせる。だが心に反して身体はまだじりじりと負荷をかけられたまま、指先すら動かすことができない。

 かろうじて動かすことのできるのは目線だけで、その先に今しも地面からばっくりと大口を開いて現れた、大蛇にも似た植物の存在が映り込んだ。


(──もしかして、アンナさんは……!)

 

 俺は言葉なく瞠目した。

 本体らしきものが一本に、天地八方からぼこぼこと飛び出してきた触手が四本、合わせて五本の緑の大蛇が、俺たちの先頭に立っていた深紅に踊りかかったのだ。

 

「深ッ……」

 

 背筋を凍りつかせながら俺は叫んだ、何より大事なその人の名を。

 蛇が彼女の華奢な手足を絡めとる、首を締める。

 

「──深紅!!」

『死ね! 死んでその罪を贖え、呪われし姫君!』

「……ッ、やっぱりか……!」

 

 高笑いするアンナさんに俺は本気で殺意を覚えた。

 ぎりぎりと歯噛みする。あまりにも強くそうしたので唇を噛んだ。

 鉄錆の味が口内に広がる。

 やっぱりそうだ。認めたくはなかったことだが。


(──アンナさんは深紅のことを憎んでる……!)


 五辻の、姫だから。

 天から初めて星を賜り、俺たちに戦う運命を定めた一族の、その後継たる人だから。

 

「けどっ、そんなの……」

 

 俺は呻った。

 唇から一筋、つうと血が伝い落ちる。

 

「そんなの、深紅のせいじゃねぇんだよ……っ!」

 

 ──刹那。

 視界に、紅蓮の光が迸った。

 凄烈な呪力が凍てつく妖気を押し返す。

 光の眩しさに思わず閉じたまぶたの向こう、怒りの咆哮が響き渡った。

 

「舐めるな──この愚か者がッ!!」

 

 いかづちのような怒声と共に、その身を拘束していた碧の大蛇が弾け飛ぶ。

 現れた深紅はどうしたことかおどろに溶けた着物の袖を振り払いながら、鮮やかな手つきでアンナさんに銀の針を放った。

 

『……何、というっ……!』

 

 ずぶりと胸にもぐりこんだ銀針にたちまちその動きを束縛されて、アンナさんはハル先輩のものである顔を醜く歪めた。

 深紅はそんな彼女を憤怒にきらめく瞳で見据え、叫ぶ。

 

『──天照皇太神あまてらすおおみかみたまわく、人はすなわち天下あめがした神物みたまものなり!』

「っ……!」

 

 俺はぎょっと息を呑んだ。古式の祝詞!

 高天原に居わす神々を讃え、その力を借り受けるために唱えるものなのだが、俺たちが普段使う術と比べて威力も身体に掛かる負担も半端ではない。

 生半可な実力しかない術者が使えば神の怒りを買い命を落とすことすらあると、俺はババアに教えられた。

 

「深紅、やめろ! そんな術をつかったらお前、体が……ッ」

すべからく鎮まることを司る心は即ち、神とかみとのもとの主たり』

 

 が、深紅は俺の声などまるで聞いていなかった。

 低く祝詞を唱えながら同時に放出する呪力でアンナさんを押さえつけ、一息に大祓おおばらいの術を完成させる。

 

『我が魂を傷ましることなかれ、是ゆえに──無上霊宝むじょうれいほう神道加持しんどうかじ!』

 

 刀印を形作った指先が、刃のように鋭く宙を切り裂いた。

 

 ***

 

 世界から全ての音という音が消えうせる。

 かと思えば瞬きひとつに満たぬ次の瞬間、今度は爆音が生じて俺たちを包み込んだ。

 ……俺は深紅と再会して以来、彼女が本気でパワーを爆発させるのを見たのは初めてだったが、はっきり言ってそう何度も遭遇したい現場ではないと思った。

 爆風が襲い来る。

 鼓膜をつんざく轟音に両手で耳をふさいでしまいたい衝動にかられるが、動けないためそれもできない。

 苦し紛れにまぶただけ下した視界において、尚その存在を凄烈に主張する深紅色の光の洪水が感じられた。

 

「私が死んで、全ての星導師が救われるのならば死にもしようよ──だがな!」

 

 深紅が吼える。怒りのあまりその声色すら変化させて。

 俺は堪らず眼を開けた。

 彼女がその身を削るようにして戦う様を、俺だけは見逃してはいけないと思ったのだ。

 真っ赤に染まった眼前で、声と共になぎ払われた指先の軌跡が大地を抉った。

 

「そうではないとわかっている以上、私には、果たさねばならぬ責任があるのだ!!」

 

 紅蓮の光が密林を焼き払い、凶暴な龍と化して、碧の閃光を纏うアンナさんに頭からに突っ込んでゆく。

 紅と碧の色の衝突が眼に焼きついた。

 わずかな力の競り合いの後、勝ったのは紅蓮の龍。

 碧の大蛇はその光に飲み込まれて消失し、直後、俺たちの頭上にふたたび闇空が姿を現した。

 開けた視界のなか休みなく深紅が次の術を繰り出し、それに対してアンナさんが猛然と短剣を打ち振るって応じる様子が映りこむ。

 

『憎い──姫、貴様が憎い、憎い憎い憎い!!』

 

 蝋のような唇の端が頬のなかほどまで切り込んで、眼と鼻がぬうっと前にせり出している、まさしく鬼とよぶにふさわしいその形相。

 俺は背筋を悪寒が這い上がるのを止められない。

 だが深紅は毅然とした表情を変えずに、今度は降魔の術を唱えた。

 紅の波浪がアンナさんを追い詰める。

 

「悲しみに呑まれて星の運命を放棄し、あまつさえ星を暴走させたその罪は、いくら半星といえども許されん!」

 

 二人は壮絶に力をぶつけ合いながら、俺たちから次第に離れた場所へと移動してゆく。

 暗い森のあちこちで星の力が爆発し、周囲の木々をなぎ倒し、地面に亀裂を穿っていく。

 その、目の前で繰り広げられる光景に冷や汗を流しながら俺はなんとか鎮守神の背に語りかけた。

 

「……っ、鎮守……神……!」

 

 応えは、無い。

 聞こえるのはひゅうひゅうと弱弱しく風に混じる、文字通り虫の息の呼吸音。

 ──まさか。

 心の臓にナイフを突き立てられたような激痛を覚えながら俺はなおも彼と、グリフィンの名を呼んだ。

 

「っ、おい、鎮守神!? ……グリフィン!?」

 

 だが、いくら呼んでも返答はなかった。

 俺はそこではじめて、腹の下の鎮守神の身体が冷たくなり始めていることに気がつく。

 全身がぞっと総毛だった。

 あたたかな体温が──魂が、彼らの肉体を離れ始めている。

 あるいは、もう。


「……っ……」

 

 俺は強くつよく唇を噛んだ。口の中に鉄錆の味が広がる。

 圧し掛かる負荷に抵抗してなんとか起き上がろうと試みた。


(嫌だ……っ)


 このままじゃ──六年前と何一つ変わらない。

 無理やり人に封印を解かれ、だが、なぜか俺の傍にいてくれた鎮守神。

 ハル先輩を、アンナさんを守ろうと必死だったグリフィン。

 そしてその身に封呪という戒めを受けながらも気高く気丈に戦っている深紅。

 ──俺だけが。

 ぐ、と鉛のように重く感じられる指先に、渾身の呪力を流し込み負荷を押し返す。

 

「──俺だけが、何にもできていない……!」

 

 嫌なんだ。

 自分が弱いせいで、誰かが泣くのは。悲しむのは。

 魔物であろうが人間であろうが、俺は誰が傷つくのも見たくない。

 だって、傷を負えば痛いだろう。

 そして痛みの記憶は生涯けして忘れ得ないものなんだ。


(何もできないで……ただ見ているだけで)

 

 指先が、わずかに自由を取り戻した。

 続けて見えない枷を嵌められたかのように動かなかった全身に、電流の如く呪力が流れる。

 ぎりぎりと左手を引きずるようにして、右手に刻まれた星に触れた。

 

「大切なものを失うのは、もう……!」

 

 輝く焔が顕れ出でて心を焼く。

 燃え盛る壁の向こうに憧れて止まぬ背中が見えた。

 

「──絶対に、嫌だ!!」

 

 


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