心、その向かう先 1
「──破ッ!!」
気合一閃、振り下ろした刀の腹をグリフィンの嘴が掴みとる。
キイン! と硬質な音が夜の森に響き渡った。
同時にそれを合図としたかのように、鬱蒼と周囲に茂る木々がぼこぼこと幹を脈打たせて動きはじめる。
緑の性質を持つ双子の妖気に取り込まれて変化したのだ。
さっき屋敷の庭で暴れてた苔だの松だのも同じ理屈だろう。
「いよいよバケモンになってきたんじゃねえのか……お前の主人は?」
その嘴をぎりぎりと受け止めながら俺が口走ると、グリフィンは巨大な翼を羽ばたかせた。
『お黙り小僧──ハルの元へは、行かせない!』
風が巻き起こり、抜けた羽が視界を舞う。
思わず眼を細めた俺は、グリフィンの声に違和感を感じた。
なんだろう。楽器のように美しい声なのは以前と同じだが。
何か耳に障る、呼吸の響き。
──もしかしてこいつ、消耗してるのか……?
思ったのと、背後で深紅が叫んだのはほぼ同時。
「蒼路、飛んで!!」
そう言われ、咄嗟に刀に体重をかけて反動で一端背後に飛び退った。とたん、深紅の体を中心として、凄烈な呪力が解き放たれた。
『──汝らの魂、魔の道を行くものにあらじ! 汝らは、神より生まれし其の御体!!』
邪気祓いの呪文だった。
鋭利な声と共に柏手が森の闇を切り裂いて、紅い光が視界を奔る。
宙で体勢を整えてやや離れた場所に降り立った俺の眼に、苛烈な呪力が森を薙ぎ払う光景が飛び込んできた。
光はまるで意思を持ったかのように的確に蠢く木々を捕え、その邪気を呑みこんでゆく。
呑まれた木々は引き攣ったような悲鳴を上げて全身を硬直させ、それからどうと次々に地面へ倒れ伏した。
直後、青藍が空を駆け上がり、先刻屋敷に降らせたのと同じ浄化の雨を再び降らせた。
「すっげ……」
額をつうと汗が伝った。
次元が──違う。
俺の非力な術から比べれば、彼女のそれはさながら龍だ。
凶暴で絶大な力持つ紅き龍を完璧に手懐けて操っている。
「何をしているの、蒼路、魔物! さっさとグリフィンを倒して先へ進むわよ!!」
唖然として目の前の光景を見つめていた俺に深紅の叱責が飛んだ。
はっと我に返った俺の頭上を今度は漆黒の巨体がかすめてゆく。
俺はごくりと息を呑んだ。
自分でも手に負えない感情が喉元に迫り上げるのがわかる。
深紅の術はあくまでも悪しき力、悪しき物を祓う術であるため、人を手助けする召喚獣という位置づけにあるグリフィンには直接ダメージを与える類のものではなかった。
だがそれでもその力は、彼女の翼から飛翔するエネルギーを奪うには十分な威力を持ち合わせていた。
「……待ってくれ」
俺はたまらず唇を動かしていた。
獅子の足で体を支え、弱った翼を足掻くように羽ばたかせる彼女の姿には、なにか、見るものの胸に迫るものがあった。
おかしい。戦い始めてまだ十分と経っていないのに、グリフィンはもう小山のような背中を思い切り上下させている。
よく見ればその黄色い眼は濁り、甘茶の毛並みはところどころ毛が禿げていた。
「待ってくれ──鎮守神ッ!」
制止の声もむなしく、鎮守神は黒い矢の如くグリフィンの胸倉に齧り付いた。
どおん、と轟くような衝撃が森を揺らす。
巨大な狼と巨大なグリフィンの一騎打ちだ、その凄まじさたるや眼を疑うものがあった。
鎮守神が前脚でグリフィンの腹を抑えつけ、その喉元めがけてあぎとを開く、グリフィンは鋭い鉤爪の生えた前脚でそれを猛然と阻止する。
獣の咆哮がびりびりと空気を揺らし、血しぶきが、抜けた毛と羽が視界を覆った。
俺は胸がはげしく痛むのを感じ、矢も盾もなく走りだしていた。
深紅がぎょっとしたように声を荒げる。
「蒼路!? ばか、近づくんじゃないわよ!」
「うるせぇ、放っとけっ──鎮守神、止まるんだ!!」
吐き捨てながら俺は二頭の巨大な獣がもつれ合う只中に駆けよって行く。
彼らは全く聞く耳をもたなかった。
壮絶な唸り声を上げながら、互いの急所を狙っては離れ、狙っては離れを繰り返している。
彼らが取っ組み合う度に地面が揺れ、倒れた木々に足を取られながらも、俺はなんとか彼らの元へと近寄った。
「止まれ! 止まれって、言ってんだよ!!」
「やめなさいってば、蒼路!」
「止めんな深紅!」
制止せんと追いかけてきた深紅に対して怒号を発し、刀をざしゅっ、と地面に深く突き立てると、俺は記憶を探り探り印を組んで術を唱えた。
『焔よ、紅く燃える命の火よ、災いを縛りて封じる檻と成れ!』
刀に焔が燃え上がる。それはそのまま地面に走る亀裂を辿り、二頭の獣を囲う様に大地の上を走り抜け行く。
……ところどころ火が消えているのは御愛嬌、と思いたい所だが、いつのまにか俺の横に駆けつけていた深紅がそれを見て頭を抱えた。
「──あいかわらず、ほんとうに、術が下手っ!」
「うるっせえな、言われるまでもなくわかってるよ!」
がおうと怒鳴り返してから、俺は勢いに任せるように術を発動させた。
『──焔縛!!』
ぼごんっ、と耳に籠る音を立てて大地から焔の触手が飛び出した。
めらめらと燃え上がるそれが自分たちの体めがけて巻きついてくると、さすがの獣たちも冷静さを取り戻す。
すんでのところでそれを避けた鎮守神だが、俺の姿を省みて、狼狽したように緋色の眼を白黒させた。
『な……何をするのだ星持ち!?』
「退けと言ったのにどかないから実力行使に出たまでだっ。いいから下がれ!」
焔の壁のなかに飛びこんで、グリフィンを背中の後ろに守るようにして立つと、俺は鎮守神を睨みつけた。
彼は俺の言葉が信じられないように、じわじわと少しずつ後ろに下がってゆく。
俺は舌打ちをした。
その退行の速度と、未だ戦意を喪失していないむき出しのしろがねの爪に業を煮やして、さらに大きな声で怒鳴り付ける。
「聞こえないのか!? 下がれ、でないと、ご自慢の毛皮を燃やすぞ!」
これが決定打になった。
鎮守神は衝撃を受けた顔をして、数歩大きく後ずさると、そのまま犬のように後ろ足をしまいこんでお座りの体制を取った。
尖った耳に長い尻尾が打ちひしがれたように垂れているのを見て、やりすぎたかな……と俺がちょっと反省したとき。
「──ちょっと蒼路!! さっきから黙っていれば、何好き勝手にやっているのよッ!」
深紅の平手が飛んできた。
***
鮮やかな一撃に思い切り頬を打たれながらも、俺は足を踏ん張って、グリフィンの前から動かなかった。
烈火のごとく怒った深紅が俺の胸倉をつかみ、堪りかねたように矢継ぎ早に、怒声の嵐を叩きつけてくる。
「……この馬鹿者が! 一度ならず二度までも魔物を庇うかっ」
「すまん」
「先ほど私が恥を捨てて頼んだばかりだというのに、お前はこうもあっさりと、また無茶をするというのだな!?」
「ごめん」
「今度こそ見捨てるぞ、一刻の猶予もない状況であるという事は、誰よりも依頼を受けたお前が一番理解していなければならぬことであろうがっ!」
「……その通りだな」
彼女の言葉の全てに対して、いちいち答えながら、俺はそれでも動かなかった。不思議な程気分が落ちついていた。
だがその冷静さが逆に深紅の怒りを煽ったようだ。
次に息を吸い込んだ時には、俺の首筋には小刀があてがわれていた。
「そこを──退け! そのグリフィンは、私が殺す!」
怒りに頬を紅く染め、深紅は迷うことなき眼で言った。
たぶん本気だろう。彼女は何より自分の感情に正直だから。
──が。
迷いが無いのは、この俺とて同じこと。
「……それはできない」
低く言うと、小刀の刃に加わる重みが増した。
小さな痛み、熱さに近いその感覚が、俺の首の皮膚に沈む。
「深紅。こいつは──獅子鳥は、他でもないハル先輩の召喚獣だ」
深紅の瞳を真正面から見据えながら俺は言葉を紡いだ。
小刀は動かない。
深紅は黒耀の瞳を怒りに細めた。
「だから、なんだ? だから情けをかけると言うのか。お前のその情の甘さに、こちらを巻き込むのも大概にしろ」
「そうじゃない。──……見ろ」
言いざま俺はすっと右手を宙に掲げて、深紅の視線が背後のグリフィンに向けられるようにと促した。
酷薄で苛烈な、相対する感情を併せ持つ深紅の瞳が背後にわずかばかり向けられて、すぐに戻る。
が。彼女は一瞬のちまたグリフィンに視線を戻した。
その瞳に、驚きの色が宿り、次いで疑惑の念が浮かぶ。
紅色の唇が物言いたげに開かれて、それから閉じた。
俺は彼女の小刀を握る手首を取った。
そして、ゆっくり背後を省みた。
「……わかっただろう?」
そこには──グリフィンが、横たわっていた。
甘茶色の禿げた毛並を荒い息に上下させ、全身のいたる所に付いた傷から血を流して。
震える鉤爪で地面を掻き、なんとか身を起こそうとしているが、その動きは幾度繰り返されても途中で挫けた。
フーッ、フーッ……と、怒った猫のようにしゅうしゅう息を漏らしながら、彼女は濁った瞳で、それでも俺たちを睨んでいた。
俺まいま一度深紅を見た。
「こいつの体力は既に十分、削り取られている。主であるハル先輩の体が限界を迎えた今、その僕であるこいつにもまた尋常でない負担がかかっている。俺にはわからないけれど──召喚獣と主の絆は、それほど密接なものなんだろう?」
尋ねると深紅がはじめて迷う色をその眼に浮かべた。
青藍のことを想い浮かべたのだと、容易にわかる。
俺たちは──星師は、こう教えられて育つ。
召喚獣は己の移し身、今一人の己自身だと。
星師の血肉を分け与えることを条件として、彼らは俺たちと主従の契約を交わす。
だが、その存在はただ便利な召使、都合の良い時に振りかざす盾ではない。
彼らは──いくら代償をもらうとはいえ、闇に生きる運命を負った俺たちと、一生共に歩んでくれる。
時に苛酷で凄惨な道を進む俺たちの、かけがえのない朋であるのだと。
「深紅」
俺は彼女の小刀を草の上に投げ捨てた。
「わかるだろう──戦う必要なんてないんだ」
「……こいつは、敵よ……」
深紅はじっと俺の背後を見据えながら、小さな声でそう言った。
「違う。敵とは、俺たちと戦わんとする輩のことだ。でも、彼女には、もう戦う意思は無い」
その、瞳を見れば。心が見える。
言葉を交わせば、通じ合える。
信じている、俺は。
獅子鳥も──ハル先輩にオーアと名付けられた彼女も、主を助けたいと願っているのだと。
「……そうだろう、獅子鳥?」
やがて俺はグリフィンの傍に膝を折った。
見るからに苦しそうに嘴を開いては閉じるを繰り返し、彼女は黄色い瞳をぎょろぎょろと動かした。
掠れた声が、その喉から漏れる。
『……を、る、な……』
聞きとりずらい。
思わずもっと近くに顔を寄せた俺は、一瞬後、耳に火がついたような痛みが走るのを感じた。
深紅が術を唱えかける。全力で吼えて止めた。
「──止めろ深紅!!」
ぼたぼたと、耳元から首筋を流れるぬるい感触は、血だ。
耳朶を食いちぎられた。
でも先刻痛み止めを受けたせいか、対して痛くはない。
俺は深紅を制したまま、グリフィンに視線を注いだ。
「……意外と元気じゃん。何か、言いたいことが、あるんだろ? ……言ってみろよ」
『情けを……かけるな!!』
調子の狂った喇叭のような声でグリフィンはようやくそう絞り出した。俺は軽く眼を瞠ったが、一瞬後にはふっと鼻で笑っていた。
くだらねー。
思ったので、実際そう口に出してみる。
「この期に及んでプライドだけ高ぇんだな、おまえ。……下らねぇよ」
『な……ん、だと……!?』
「蒼路、下がれ」
怒りに眼をむいたグリフィンを見て、深紅が固い声音を発した。
恐らくまだ術を唱える体勢を崩していないのだろう。
俺は彼女を振り向かずに首だけを横に振った。
「言っただろう。こいつにはもう戦う意思はないって」
「けれど、その耳は!!」
「大丈夫だ。……悪あがきみたいなもんだろ」
言い募る深紅に呟いて、俺はふたたびグリフィンに尋ねた。
「さあ。一度くらい、お前の。お前自身の心の本音を言ってみろよ」
『……何を、言っている……?』
さくさくと、背後から草を踏む音がする。
土の香りが鼻孔に流れ込むまでもなく、鎮守神だと解った。
彼は俺のすぐ脇にやってくると、そこで再びお座りの体勢を取る。
見下ろされて、グリフィンはさらに屈辱的に身を震わせた。
『……うぬれ……私の体の動きが利かないことをいいことにっ……汚らわしい魔物に見下ろされるなど誇りが許さぬ!』
『──貴様の誇りは、何のためだ』
鎮守神が低く言った。
グリフィンが眼を剥く。
『何ですって?』
『己の保身のためならば、そんなものは無いに等しい。そなたは主を持つ異形。ならば、そなたの誇りはそなたの主を守るべきものではないのか』
落ちついた声であったが、グリフィンを鎮静化させることはできず、むしろ逆の効果を及ぼした。
『──……お前に……お前に、何がわかるというの!?』
驚いたことに、そう金切り声を上げるやいなや、彼女は今までどうしても起こせなかった上半身を奮い立たせたのだ。
鋭い鉤爪が地面にめり込み、湾曲した嘴が猛々しく二つに開かれた。
驚きに眼を見張る俺の体を、ふいに押す力があった。
見れば鎮守神がその長い尾で俺の肩を押している。まるで下がれ、というように。
「鎮守神?」
『下がれ、星持ち。……我はこやつと話がしたい』
「危ないぞ」
『そなたに言われても説得力が無いわ』
低く笑う声に、思わず成程、と納得してしまう。
俺が一歩下がると、彼は逆に一歩踏み出した。
今や獅子の下半身までをも何とかふんばろうとしているグリフィンの、その鼻先(……嘴先?)に佇んで、静かな緋色の眼で彼女を見つめる。
グリフィンはふらつく後ろ足で地面を探りながら、苛立った瞳で鎮守神を見返した。
『……貴様こそ下がれっ! 人を喰らった汚らわしい身で、この私に近づくな!!』
その言葉に、胸を氷刃のように冷たいものが走り抜けた。
──人を、喰らった。
思わず鎮守神を見つめてしまうが、彼は俺の方を見ずに答えた。
『我が人を喰らったは我が意思のみに非ず。それは、他でもない我が友の望みであった。──貴様にとやかく言われる筋合いはない』
耳を疑った。
本当、だったのか。
全身を落雷に打たれたように硬直する俺のそばに、いつの間にか深紅がやってきて、耳の怪我に治療の術をかける。
彼女は何も言わなかった。
俺も──何も、言えなかった。
グリフィンの声が嘲笑を含んで森の中に響き渡る。
『ついに認めたわね、人を喰らい、畏れ多くも神から魔の道へ堕落したと! ……そうよ、お前は鎮守神などではない。人を殺して黒妖犬に成り下がり、あまつさえ人に封印されてしまった食人鬼なのよ!』
狂ったようにけたけたと嗤う、その、声が。
森の闇を、俺の心を、めちゃくちゃに掻き乱す。
俺は拳を強く強く握りしめていた。
口の中に鉄錆の味が広がった。どうやら、唇をかんだらしい。
悔しかった。
鎮守神が黙っていることが。
何も言い返さない、彼が。
「……言い返せ……」
俺は喉の奥から声を絞り出した。
深紅が俺の名を呼んで肩に置いた手を、振り払う。
「……言い返せよっ、鎮守神!!」
自分の声が鋭利な余韻を伴って、大気を震わせた。
『言い返すことなど』
彼は、だが、笑いすらした。
『なにもない。星持ちよ。我が友を──八宵を喰らいしは、まごうことなき事実なのだからな』
「……っ、けど、どうして!! あの人は、八宵さんは……お前を友人だって、言ってたじゃないか!!」
『……何故それを、知っている?』
俺の言葉に、鎮守神がこれ以上ないほど驚いて、眼をみはった──その一瞬の隙。
碧の閃光が一筋空から奔り抜け、鎮守神を、グリフィンを、串刺しにするように突き刺した。
深紅が喉の奥で悲鳴を漏らした。
俺は何が起きたのかわからなかった。
茫然と見送る視界のなかで、その胸を貫かれた鎮守神とグリフィンが、もつれ合うようにひと塊りとなって地上に沈み込んだのがわかった。
どおん……と、重い地鳴りが足を伝ってはじめて、意識のピントが現実にあった。
「──鎮守、神……?」
ふらりと、一歩踏み出した俺の目の前で、彼は信じられない量の血塊をその口許から吐き出した。
ごぼりと嫌な音が耳朶を打つ。
全身から血の気がひく音がした──どうして。
「どうして……お前達が……っ」
傷つかなければいけないんだ。
そう、言おうとした。けれどできなかった。
『……決まっているでしょう……』
肌を焼くような──怨嗟の念が、ふいにその場を振って来た。
同時に俺は周囲が明るくなっていることに気がつく。
碧の光が足もとを照らしていたのだ。
今やその光は──冷たくさえざえと、太陽の光のように俺たちの姿を曝け出していた。
『……あたしの邪魔をするものだからよ……?』
この世のものとは思えない冷徹な声に、思わず全身が竦み上がった。
彼の女は、死蝋の唇を吊り上げてほほ笑みながら、ゆっくりと歩み寄って来た。
森の奥から──全く物音も立てずに。
「……来たわ、ね」
深紅がごくりと生唾を呑みこみ──そして、その名を紡いだ。
「……アンナ……!」