山へと 2
星が、急に痛みを訴えた。
凄まじい程の羽音と鳴き声が耳を突く。
屋敷の周囲を取り巻く闇が不気味にうごめき、赤や青の光を明滅させている。
「……っ!」
急激に下がった気温に怖気が走り、思わず体を震わせていた。
これは魔の気配。
思い当たって空を見上げれば、破られた結界の綻びから待ち焦がれたかのように黒いものが──妖気が流れ込んで来るのが見えた。
ばきんっと結界の残滓がさらに砕けて飛び散る音が響き渡る。
同時に屋敷の上空に姿を現したのは夥しい数の魔物たち。
俺は眼を剥いていた。
「……マジかよ!?」
──脳裏に蘇るは六年前のあの雨の日。
闇から飛来する魔物の大群を、里の外れから茫然と見つめていた俺と深紅。
そこまで考えてはっと俺は彼女を見た。
深紅は、黒耀の瞳にすさまじい怒りと憎悪を燃えたぎらせて天を睥睨していた。
「深紅」
「……嫌なことを思い出すな」
口調が変わっていた。
同時に豊かな黒髪がばちばちと呪力をはらんで翻る。
俺はとっさに彼女の腕を掴んでいた。
「ちょ、深紅、落ちつけ……ッ」
金糸の刺繍の施された布地に触れた瞬間、ものすごい呪力に手が弾かれる。ばちっ! と放電するような音が響いた。
深紅がぱっと俺を見て叫ぶ。
「ちょ、馬鹿、何をしているのよ!」
「何って、お前を止めてんだろうが! すぐにカッとするの止めろよ!」
「何を言っているの!?」
「……だからっ! この状況をお前一人で打破するのは無謀だって言ってんだよ! 自分の体のこと考えろ!」
「バカにしないでっ」
「してねえよ、逆だ!」
『──星持ち、姫君! 何をしている、前を見よ!!』
言い争っている俺たちに、屋根の上から鎮守神の怒声が飛んできた。
言われたとおりにしてみれば、成る程、今しも先頭の魔物が屋敷の庭先に降り立ったところ。
蛇の体に蝙蝠の羽を持つ気味の悪い魔物が一匹、煙のように大量の魔蟲を引き連れて俺と深紅の方にその頭を振りかぶった。
「……いけない! 蒼路、息を止めて!」
深紅が叫び、俺は咄嗟に口許を袖で覆った。
視線の先で蛇の姿の魔物が首を大きく仰け反り、大きく息を吐く。
闇の中でも白く霞がかった呼気が庭じゅうに大きく撒きちらされた──毒だ、と俺は悟った。だがその刹那。
『しゃらくさいわ!!』
鎮守神が天に飛翔した。
彼が轟くような雄叫びを上げただけで、毒蛇の太い胴体が木端微塵に吹き飛ぶ。肉片が飛び散った。
同時に大気に広がった毒の息も、ハエの如くそこいらじゅうを飛び交っていた魔蟲たちも、一掃される。
漆黒の毛並みを月光にきらめかせながら彼は付き従う二頭の眷属に命じた。
『吟、織!』
『はっ』
二頭の狼は明朗に声を上げて鎮守神の目前に進み出る。
俺がようやく眷属の名前を知ることができたなあ、などと思っていると、鎮守神は厳しい声で彼らにこう命じた。
『今夜この屋敷に一片たりとも闇を引き入れること許さぬ! そなたら二匹で守護を務めよ!!』
『畏まりまして!』
『確かに、承りました!』
眷属──ギンとオリは答えると、そのまま二匹で屋敷の上空、はるか高みへと駆け上がって行った。
銀の毛並みは月光を受けてまばゆく清らに光っている。
二頭で舞を舞うように螺旋を描きながら飛びあがって行った彼らは、天のある一点に辿りつくと動きを止めて、それから甲高い声を上げ始めた。
細く高い、まるで鳴弦のような鳴き声。
屋敷の周囲に群がっている魔物達がその響きに恐れをなしたかのようにじわじわと後退し始めた。
深紅が俺の脇で呟く。
「腐っても神狼ね……それなりの破邪の力を持っているようだわ」
忌々しげな物言いに俺はさすがに呆れて声を上げた。
「腐ってもって、お前もう少し言葉選べよ!! あいつらすげえ良い奴なんだぜ!?」
「お前は魔物に甘いのよ」
「お前は容赦なさすぎるんだよ!」
ふたたび二人で喚いている間にも、神狼たちの鳴き声は細く張り詰めるようにずっと続いていた。
そしてある瞬間、急に自分たちを取り巻く大気が硬く、それでいて清浄なものに変化したのを感じ取り、俺と深紅は口をつぐんだ。
天を見上げる。
ギンとオリが二頭で向かい合い、再び舞うような不思議な動作を見せていた。
魔物達は今や屋敷からかなり離れた場所まで身を退いている。
その闇を纏った姿が、薄く紗を通したかのように霞んで見えることに俺は気がついた。
「結界が……修復されている?」
呟いた時、ふっと呼吸が楽になった。
同時に辺りを色濃く取り巻いていたあの冷たい魔の気配が、闇が。
ぷつりと感じられなくなる。
「……見事なものじゃ」
そう、感嘆に声を漏らしたのは俺の横にいる深紅──ではなく。
いつのまにやら俺たちの背後に出現していた、ババアであった。
「うわあ!!」
「……き、喜代さま!?」
いつも通り叫んで飛び退った俺と、さすがにポーカーフェイスを崩して驚いた深紅。
ババアは俺たちの反応を無表情で一瞥してから口を開いた。
「なんじゃ、お前たち。仲良う驚いて」
「そりゃ驚くだろ!! 今までどこにいたんだよ、この非常時にっ!」
「やかましい!」
思わず突っ込むと怒鳴り返された。ええっ!?
ババアはぎろりと俺を睨みつけ、深紅はそっちのけで説教を始めた。
「そもそもこれはお前達が招いた失態ではないか、馬鹿者がっ! 私の庭をめちゃくちゃにしておいて責任を人になすりつけるでない、未熟者!」
「別になすりつけてなんかねぇだろ! ただどこに居たのかって聞いたまでで!」
「わしに頼ろうという態度が見え見えなんじゃ、この甘ったれ!」
「んなことカケラも思ってねぇよ!」
「顔に出ておるわ、阿呆!」
「あああぁあ馬鹿だのアホだの未熟者だの、どー考えても言いすぎだろッ!?」
「……あのう、喜代様。それから蒼路」
舌戦を繰り広げる俺とババアの間に割って入ったのは、深紅の涼やかで落ちついた声だった。
俺とババアは即座に彼女の方を向いた。
「何じゃ、深紅」
「何だよ!」
重なった俺たち老若の声に深紅は落ちついた様子で答える。
「……お気持ちは分かりますが、今は言い争っている場合ではないかと。一刻も早く我らは山に向わねばなりません」
『姫の言うとおりだ』
深紅に同意する声は低く豊かに、俺たちの立っている軒先のすぐ近くから響いた。
庭を埋め尽くすようにして鎮守神は俺たちの目前に立っていた。
『我が山が吼えている。双子の力が暴走を始めているのだ。キヨ、このままでは街全体が危ないぞ』
「れ。お前、ババアのこと知ってんのか?」
俺は思わず鎮守神に突っ込んだ。
昨日の今日で彼がババアを呼び捨てで呼ぶわけはない、と思ったからそうしたのだが、彼は尾を軽く振ってこう答えただけだった。
『少しな』
「……ふうん?」
さまざまな疑問が頭をかすめていったが、確かに今は時間がない。俺はひとつ息を吸い込むと、思考をきっかり切り替えて、ババアの方に向き直った。
「ババア──師匠」
「なんじゃ、馬鹿弟子」
返ってくる罵声は無視して俺は彼女の足もとに膝を折った。
どちらにせよ、俺たちだけではこの屋敷を脱出できない。
「俺は深紅、鎮守神と共に山へ向かいます。つきましてはなにとぞ後援をお頼み申し上げたい」
「……フン」
ババアは相当厭味ったらしく鼻を鳴らしたが、断りはしなかった。
黙って天に視線を向けると、山から迸る碧色の火柱を見つめていた。
その僅かな沈黙の間に、俺は深紅を見、鎮守神を見、屋敷のはるか上空に控えている眷属たちを見やった。
そして今胸に荒れ狂っている様々な感情の名を確認する。
愛しさ、懐かしさ、哀しみ、切なさ。
けれどそれらよりもっとずっと強いものは──誇り。
俺が己の星に眼を落とした時、ババアがようやく口を開いた。
「……良いじゃろう」
彼女は俺を見た。
「そなたらを屋敷から無事に出してやる。──だがな」
「……何ですか?」
嫌な予感に顔をひきつらせる俺に、ババアは静かな声でこう言った。
「必ず、帰って来るのだぞ。蒼路。深紅とその犬とともに」
「──」
俺ははっと眼を見開いた。
ババアの小さい眼と視線が真っ向からぶつかる。
「お前は自覚せねばならぬ。お前が人を、魔物を愛して止まないのと同じように──……お前も、周囲から愛されて止まぬということをな」
「バ……」
ババア、と、俺は呼ぼうとした。
けれど言葉にはならなかった。
驚きとも、喜びともつかない奇妙な感覚が、身体じゅうを走り抜けてもどかしい。
「さ。わかったらさっさと身支度をするのじゃ。──鎮守神、これらを頼む」
『うむ』
ババアは鎮守神に命じると背を向けて行ってしまった。
俺はその小さな背を見つめて何とも言えない感情が胸に満ちてゆくのを感じる。
ぼうっと見送っていると、深紅が俺の腕にそっと手を置いて声をかけてきた。
「……さ。蒼路」
「……ん」
俺はちいさく頷くと、鎮守神に向き直り、その広い背に飛び乗った。
……なんか変な気分になってしまったが。
俺はとにかく前に進まねばならない。
この夜を、走り抜けなければいけない。
優しい人たちのやさしさには、帰って来てから存分に答えよう。
「──行こう」
***
「頼むぞ、珠枝!」
齢八十八とはとても思えぬ、よく通るババアの声。
それに答えて俺たちの先鋒を務めるのは金色の毛並みに九本の尾を持つ大妖、九尾の妖弧。
『グズの蒼路の手助けをしなきゃいけないなんてねぇ。あたしも見下げられたもんだね、まったく!』
ぶつくさ言いながら光の如き速さで空を滑空する彼女の後ろに俺たちは続いた。
珠枝はババアの召喚獣。
その見かけどおりスーパーウルトラ強くて性格の悪い妖弧で、俺は修行と称されては何度殺されかけたかわからない。
だがその実力は俺の知りうる召喚獣の中でも最強。
げんに今、屋敷の結界を何事もないかのようにすりぬけた珠枝は、そのままうぞうぞと結界の周囲に群がっていた魔物たちの中に突っ込んで行くと、面倒くさそうに数本の尾で宙を煽いだ。
──それだけ。
それだけ、である。珠枝がしたのは。
だのに。
「……恐ろしい……相変わらず恐ろしい獣だ……っ!」
ひいい、と俺は自分で自分を抱いていた。
何が起きたのかと言うと、あれほど大量に蠢いていた魔物達の姿が一瞬で金の灰となって崩れ去ったのだ。
それはあたかも風に砂が飛んでいくかのような、あまりにも静かでゆるやかな変化で、だからこそ俺は恐怖を覚える。
『ほら、これでいいんだろう?』
面倒くさそうにこちらをふり返った珠枝に、俺はがくがくと首を縦に振って答えた。
途端に鎮守神が猛然と滑空を開始する。
うわ、と俺はバランスを崩し、深紅ですら小さく恐怖の声を上げた。
「ちょ、鎮守神……もっと静かに飛べよっ!」
『そんなことを言っている余裕はない! しっかりつかまっていろ、星持ち、姫!』
風を切りながら朗々とした声で鎮守神は叫ぶ。
そしてそのまま凄まじいスピードで山の裾野めがけて飛び始めた。
これでは山に辿りつくまでに死ぬな、と思ったのは、恐らく俺だけではなかったに違いない。
「もう、だから魔物は嫌なのよ──……ッ!!」
深紅の悲鳴が、闇空に尾を引いて響きわたった。