声、聲 2
「……あの、さ」
俺は慎重に、というかややビビりながら、口を開いた。
深紅に怒られるのはゴメンだし、泣かれるなんてもっての外だが、前述したとおりに俺はいま黙って寝ているわけにはいかないのだった。
「あの、先輩と……アンナさんは?」
深紅が返事をしないのをいいことに俺は思いきって尋ねた。
昼過ぎに北の対を訪れたあとから今まで、俺の中には何時間も空白の時間が在る。
鎮守神があの凄まじい力を見せた後、双子はどうなったのか。
そして今、どうなっているのか。
確認しない事には気が済まなかった。
──しかし俺の質問に対して、深紅はまず深いため息を吐きだすことで答えた。
「……まったくお前は……」
はじめ剣呑な、次いで呆れたような視線を深紅は投げかけてくる。
ともすればそれだけで竦みそうになる心を俺は必死で堪え、彼女の次の言葉を待った。
「いつもいつも、人の事ばかり考えて。自分の身を省みない。だからかしら、お前が鈍感なのは」
「えー……と?」
どうにも要領を得ない。
首をかしげてしまった俺に対し、深紅はもういちど息を吐くと、行燈に油を追加しながらこう言った。
「安心おし。鎮守神が、一時的にハル先輩の体を侵していた瘴気を祓った。いまは体調が落ち着いて眠っているわ」
「……それじゃ、アンナさんは?」
俺は尋ね返す。
双子の片方だけが無事と聞いてもまったく安堵できなかったのだ。
すると深紅は顔を上げた。
冴え冴えと落ち着いた黒曜の瞳が俺を見据え、嫌な予感が胸に走る。
「蒼路。わかっているかもしれないけれど──彼女とはもう、触れ合うこと叶わぬ」
ずきん、と、鋭い痛みが脳天から爪先を刺し貫く。
俺はすぐには答えられず、黙って拳を強く握りしめた。
呼吸ができなくなる。
喉に、なにか硬くて張り詰めたものがつかえているようだ。
「兄に長い間憑依していた結果、彼女はもう、本当に悪霊になってしまったの。……それも、兄が生きていることを恨む怨霊にちかい存在へと変化してきている」
「……見えたのか?」
「ええ」
深紅の答えは短かった。
しかし、その声音の強さに、俺は自分が眠っているあいだに何かが起きていたことを悟る。
「そんな……違う、アンナさんは……っ」
アンナさんは、そんな人じゃない。
俺は言おうとした。でも、喉からはやはり声が出せなかった。
代わりに俯いて、左手で布団をぎゅっと握りしめた。
深紅のしずかな声が暗い視界の向こうから響く。
「……お前、真にはわかっているのでしょう?」
迷いのない声が、甘さに引きずられそうになる心を現実へと引っ張り上げる。
俺はかすかに顎を引いた。
そうだ──わかって、いたことだ。
最初からわかっていた。アンナさんはもう死んでいる人なんだと。
本来ならばとっくにこの世を去って、成仏しているべき魂なのだと。
それなのに、今まで何をぐずぐずしていたのだろう。
俺の役目はこれ以上アンナさんを苦しめることじゃない。
彼女をハル先輩の体から解き放って──成仏させること。
そして双子をふたりとも、自由にすることだ。
「……ああ。わかってる」
苦しい、重い塊をなんとか呑み下して、俺はようやくそう言った。
ゆっくりと顔を上げると、深紅が先ほどと変わらずに俺を見据えていた。
その瞳の輝きは、勇気だ。
いつだって変わらない彼女の信念。
この眼がずっと昔から俺を強くしてくれた。
「わかってる……ありがとう」
深紅の眼を見据えながら俺はそう言い、ひとつきっぱりと頷いた。
ようやく、決意が固まった。
アンナさんも、ハル先輩も、どちらもこれ以上傷つけたりはしない。
見据える闇がどれほど深く、果てのないものに思えても──どんな場所にも光は射すと、俺は信じる。
俺は俺の星をもって、双子を闇から解き放って見せる!
***
「……肩の傷は、まだ痛む?」
長い沈黙が流れた。
それを破ったのは深紅だった。
深く瞑目していた俺は、突然声をかけられて反応が遅れる。
何を言われたのかわからなくて顔を上げると、彼女が自分の肩をとんとんと手で叩き、それから俺に向けて首をかしげる仕草をした。
「え、肩? ああ」
慌てて自分の右肩を見下ろして、そこに意識を集中しながら俺はつぶやく。
「……そういえば、痛くない。全然。なんでだ?」
「私が治療したからよ、もちろん。バカ。大変だったのよ、萌芽した種子が筋肉すれすれまで根を張っていて。あと少しで神経に傷がついていたかもしれないんだから」
睨みつけられて、俺はうっと軽く身を仰け反らせた。
毎度のことながら、我ながら深紅にはほんと弱いと思う。
「……すまん。ありがとう」
戦々恐々しながら頭を下げると、深紅はなぜかほほ笑んだ。
眉を少し下げて、困ったような顔で。
俺はとまどった。
──なんで、こんな顔をするんだろう。
さっきも泣きそうな顔を見せた。それに昼間も、俺がハル先輩と一戦交えたあとで、彼女はこんな顔をした。
心細そうで、寂しげな、けっして良い表情ではない。
──俺のせいか……?
俺は思案した。
が、いくら考えをめぐらせてもその理由が思い当たらない。
大体、深紅の幼馴染でありながら俺は意外に深紅のことは知らないのだった。
気が強くて頭の良い容赦のない美人、とかいうことはわかっていても、それはしょせん表向きの彼女。
苛酷な運命を担ったその心がふだん何を想い、何を考えているのか──そんなことは俺には全然わからないのだ。
……わかりたいとは、焼けつくように思っているけれども。
「……蒼路は……」
やにわに、深紅が口を開いた。
俺は遠慮がちに顔を上げる。が、深紅は俺を見ていなかった。
伏し目がちに俯いて、その手を膝の上で所在なさげに組み合わせている。
「蒼路は、いつもそうね。いつも独りで考えて、行動して。無茶ばかりする。毎日怪我をして満身創痍なのに、笑うから……日毎わたしの足もとはおぼつかなくなってゆくわ」
「……みこう?」
俺は珍しい事態になっていることに気がついた。
深紅が、心の内を、喋っている。
それは──とても稀なことだった。
聡明で誇り高い深紅。
人にも厳しいが、誰よりも自分に厳しい彼女は、己の心を他人にさらけ出すことを恐らく弱さとみなしている。
彼女が弱音を吐いたり涙を見せたことは、俺の記憶の限りではただの一度だけ。
──そう、彼女の親父さんが亡くなった時だけだった。
「お前の事が、わからなくなりそう。わかっていると思っていたのに」
深紅は言葉を続ける。
静かな空気を、その声はやわらかく揺らし、俺の心に大きな波紋を広げてゆく。
「幼馴染なのに、こんなに遠いと思わなかった……」
遠くなんか──ない。
俺はここにいる。ずっとお前の傍に居る、そのために強くなったんだから。
そう思っている、そう言いたい。
なのに何故だ──声が出ない。
情けない俺を尻目に深紅の瞳はいよいよ潤んできた。
ど……どうしよう!
「お前はわかっていないでしょう? お前が怪我をするたびに、私を置いてどこかへ行ってしまう度に、私がどんな気持ちになるか。だからバカだって言っているのに、お前は懲りてくれない。私の声など届かないのだわ、お前には。お前は、自分の信じるものしか信じない。だったら──だったら、私がお前の傍にいる意味は何よ?」
「それ、は」
違う、と動揺しまくりながらも俺は口をさしはさもうとした。
けれどできなかった。
深紅が──顔を上げたからだ。
濡れた黒い瞳で、今しもそこから一粒の涙をこぼしながら俺を見つめる。
白い手が伸ばされて俺の手のひらに触れた。
驚くほどやわらかで、そして冷たい手だった。
「蒼路」
酷くか細く、頼りなげな声色に、俺は動けなくなった。
こちらを訴えるように見上げてくる瞳は涙にぬれている。
今や喉は完全にその動きを停止して、ただ心臓だけが異常なほど速く脈打っていた。
「──お願いだから、自分だけで無茶をするのはもうやめて」
彼女は言った。そしてその言葉で俺は気がついた。
深紅は……俺を、心配してくれていたのだと。
思い付きで突っ走り、いつも一人で無茶ばかりをする俺を案じ、見守ってくれていたのだと。
あのビンタもいわれのない大喝も、つまりはそういうことだったのだ。
「私が何も知らない間にお前が怪我をするなんて、耐えられないわよ……!」
なのに俺はそんな彼女をどれほどないがしろにしてきただろう。
考えてみれば、今回の依頼は俺と深紅が二人で引き受けた依頼だ。
なのに俺は自分ばかりが気を張って身勝手に行動していた。
深紅がそれによって何を思うかなどと、考えもしないで。
「──深紅……」
ぽろぽろと涙をこぼし、俺の手にすがる彼女に、俺は弱り果てて息を吐いた。顔が熱い。
心臓がばくばくして、触れられている手からそれが伝わるんじゃないかと思う。
でも、そんなことはとりあえず脇に置いて、俺には言わなければいけない事があった。
「あの、さ、深紅。……──ごめん」
声がふるえたのは、鉄の意思で無視した。
俺の手を取っている深紅の手を、恐る恐る握り返して、俺は再度繰り返した。
「……ごめん。俺が、悪かった」
だから頼む。
泣かないでくれ、そんな風に。
お前に泣かれると──俺、どうしていいかわからなくなるから。
「泣くなよ……」