迷い
しかし──そのあと、俺たちは異常に気がついた。
ハル先輩の様子がおかしいのだ。
否、もともと性格に二面性があるし、厭味ったらしいし、変わった人には違いないのだが、俺がここで言いたいのはそういうことではなくてだな。
つまり、いきなりもんどり打って、死ぬほど苦しみ始めたのだ。
俺たちは彼を暴れないようにと拘束したのだが、動かない手足をイモムシのようにばたつかせ、全身をのけぞらせて苦しげな悲鳴を何度も何度も上げて。
痙攣しながら白眼を剥き、口からは血の混じった泡を吹いた。
「せ……先輩ッ!? どうしたんだよ、おい!!」
当然ながら動転し、その身にすがりつこうとした俺を深紅が止めた。
何だよ! と噛みつくと逆に怒鳴り返された。
「落ちつきなさい!」
「ああ!? これが落ち着いていられるかよっ、この人いちおう依頼人だぜ!?」
「だからこそ、でしょう! バカ!」
叱咤とともに強く腕を掴まれる。
深紅のまっすぐな黒曜の瞳と瞳が交わり、俺ははっとした。そこには──彼女の眼の中には、俺と同じように不安と心配の色が確かに浮かんでいたからだ。
……そうだ、先輩は、俺だけの依頼人じゃない。
俺は思った。
動揺が少しだけ冷めて我に返る。
軽く息を吸い込むと深紅が言った。
「蒼路。これは予期していたことだわ──キヨ様の御屋敷へ、運び込むわよ」
「……先輩の、限界か……」
深紅の言葉には答えずに、俺は逆に小さく問いかけをした。
ハル先輩を見つめる。
全身を横倒しにして、獣のような吠え声を上げながら苦しんでいる。
その肌は全身土気色に染まり、もはや生者の色をしていない。
なのにじわじわと体の内側から染みだし、先輩の全身をぬめるように覆って行く、暗い緑の瘴気があった。
──アンナさんだ。
先輩が意識を失えばアンナさんは先輩の体を乗っ取りやすくなる。
だから恐らく今、先輩は必死で意識を失うまいと戦っているのだろう。
己の身体を喰らおうとする妹の霊と、精神が壊れるぎりぎりのラインで激しく攻防を繰り広げているのだろう。
「……っ……お、あぁあっ!!」
「先輩……」
悶える先輩の姿を前に、俺は唇を噛んだ。ちくしょう。
わかっていたことだ。
このままアンナさんに憑依され続ければ、ハル先輩の肉体が持たないと。
俺たちがもたもたしていればしている程、先輩の命は確実に削られる。
わかっていたのに──今だって、苦しむ先輩を前にして、痛いほどそのことはよく理解しているのに。それでもためらってしまうのは。
アンナさんを殺さなければ、先輩が助からないから。
けれど悪霊と化して先輩を苦しめている彼女を──俺は友人として好きになってしまったから。
「蒼路」
深紅がいま一度、俺の名を呼んだ。
責めるような強い音ではなく、むしろ逆に俺をいたわっているかのような柔らかさのある、静かで穏やかな声色だった。
「屋敷に、先輩を運びましょう。このままではどちらにしろ──この人は助からない」
俺はすぐには答えられず、しばらく黙ってハル先輩を見つめた。
きつくきつく唇を噛んで、右手を拳に握りかためながら。
どちらにしろ──俺たちがアンナさんを祓おうと、祓うまいと。
このままでは確実にこの人は死ぬ。
「……わかった」
やがて俺は、低くひくく、呟いた。
「行こう」
***
屋敷ではまるで俺たちの来訪を予期したかのように、ババアが庭先に立って待っていた。
鎮守神の背に乗っていた俺たちは空から屋敷へと飛び降りて、そのあと漆黒の狼が庭先へ降りてくるのを見守った。
巨大な狼は突風を巻き起こしながら地面に四肢を付き、しなやかに身を屈めると、背中にしょっていたハル先輩を下ろした。
「この者が遥か。アンナから聞いてはいたが、見えるのは初めてじゃの」
小股で近づいてきたババアは、苦悶しているハル先輩の様子を見ながらそう呟いた。
はじめは何の表情も浮かべていなかったしわくちゃの顔が、みるみる厳しく引き締まり、それから俺達を見た。
「状況説明を」
「はい」
問いかけに対して答えたのは深紅だった
よく通る、明朗な声で持って彼女は言葉を紡ぐ。
「本日正午過ぎ、学校にてこの者が蒼路を襲いました。
蒼路は結界のなかに取り込まれ、戦いの際に右肩を負傷。応急処置は済んでおりますが、解毒はできておりません。
また、蒼路を救うためにそこな黒妖犬と眷属が屋敷を抜け出して参りました。眷属の方が下肢を負傷しています。
伊勢遥は私が麻酔を打ち拘束しましたが、直後に様子がおかしくなり、このように苦しみ出しました。──以上です」
「ふむ。成程な」
ババアは満足そうに頷くと、ハル先輩の頭の脇あたりに片膝をついてしゃがみ込んだ。
小さく、なめし皮のような質感の手のひらがふいに宙に掲げられる。と、音もなく白い袴に身を包んだ二人の男たちが顕現した。
俺と深紅は軽く息を呑む。ババアの式神だ。
壮年の男の身かけをしたその式神たちは、呻くハル先輩の体を抱え上げると、屋敷の奥へと運び始めた。
同時にババアは立ち上がった。
「蒼路、深紅」
名を呼ばれ、俺たちは同時に返事をすると膝を折った。
凛々しい深紅の声と沈んだ俺の声が不調和に響き合う。
ババアはその音にちらと俺を見やったが、すぐに眼を閉じていた。
「──これはあくまで、そなた等の受けた依頼、そなた等の仕事じゃ。私は介入はせん。最低限の手助けはするが、それはそなた等のためでなく私自身のためと覚えておけ」
「わかっております」
「……」
深紅が優雅に一礼する横で、俺は答えに詰まっていた。
当惑しきっていたのだ。
これが俺たちの仕事であり、自分たちで完遂しなければ一人前の星師として認められない重要な任務であること、それは無論わかっている。
わかってはいるが──俺は自信を失いかけていた。
(……怖いんだよな?)
自分で自分に問いかけた。ほとんど責めるように。
そうだ、俺は怖い。
アンナさんを祓うことが。ハル先輩が苦しむことが。
そして双子のどちらもが、これ以上悲しい想いをすることが──本当に嫌で、本当に怖い。
俺の役目はハル先輩を助けることなんだ。既に死んだアンナさんを救う事じゃない。
今生きて、苦しんでいる生身のハル先輩を助けること。
ああ、わかっている。わかっている。
けど、頭では理解していても──どうしてもどちらかを選ぶことができないんだよ!
「……蒼路?」
ババアの怪訝そうな声が耳に届いたが、俺は顔を上げられずに俯いた。
胸元を手で探る。ワイシャツごしに、固く小さな感覚が指にぶつかった。
これは、アンナさんがくれたペンダント。
彼女が俺に、輝くような笑顔で渡してくれた、あの夏の森の色をした宝石。
俺は見た。
さっき、苦しみに悶えるハル先輩の首元から、全く同じ石が顔をのぞかせていたのを。
(あげる。きっとあんたを守ってくれる)
ペンダントをくれた時の、まったく明るいアンナさんの声と笑顔を思い出して、俺は溜まらず両手で顔を覆った。
あの人を。
自分が消滅するかもしれない恐怖の中ですら、他人を思いやってくれるあの優しい人を、俺は殺さなければいけないのか。
それが──星師の仕事だっていうのか?
本当に?
「……深紅。先に行って休んでいなさい」
ババアの声がとても遠くに聞こえた。
深紅の答える声はしなかった。あるいは俺が聞きとれなかっただけなのかもしれないが。
全身が石になったような気がした。
重く冷たく沈みこんで、このまま凍りついてしまいそうな。
さわさわと、軽く土を踏む音が聞こえ、やがてババアの草履の足もとが視界の端にちらと映った。
「……蒼路よ」
「……はい」
俺は投げやりに答えた。
怒られることは予期していた。
どうせまた甘いとか、毎日怪我ばかりして心構えがなっていないとか、そんな風に怒鳴られるのだろうと。
──だが違った。
「犬が、そなたを心配しておるぞ」
「……え?」
意表をつかれ、俺はゆるゆると顔を上げた。
すると感じた、ふわりと鼻腔をつく大地の香り。
俺は僅かに眼を見開いた。
影が──酷く巨大な影が、俺を包みこみ、夏の日差しから遮ってくれていた。
「鎮守神……?」
いつの間にか漆黒の巨体がすぐ傍に控えていたのだ。
緋色のまなざしが俺に据えられている。静かで深く、底知れない瞳をしていた。
彼は口を開いた。
『そなたでも、迷うことがあるのか。星持ちよ』
「……お前に俺の何がわかる」
思わずぶっきらぼうな口を利いていたが、鎮守神は気にせずに言葉を続けた。
『そなたと同じ眼をしていた人間を知っているのだ』
「え?」
『そなたと同じ場所に星を持っていた。女だったが、そなたと同じように真に変な人間で、異形を人と同じ程に愛していた。よせと言うのに我ら異形に心を砕いた』
「鎮守神?」
彼が何を話し始めたのかわからなくて、俺は思わずババアを見た。
が、気がつけば彼女はもういなかった。
屋敷の庭先に取り残されたは俺と巨大な漆黒の獣、それからその眷属だけ。
『その者は言っていた。道を、選ばねばならぬ時、二つの内どちらか片一方のみしか選べない時。そういう時は、自分のためにならない方を選ぶのだ、と』
俺は落雷に打たれたような気がした。
脳天から足もとまでをも突き抜ける、白く静かな稲妻。
それは衝撃というやつだった。
早い話、鎮守神の言葉に俺は思い知らされたのだ。
自分が悩んでいるのは双子のためなんかじゃない。
ただ自分の──自己満足のためだったのだ、と。
「……俺は……」
俺は鎮守神から眼を反らせずに彼を見上げた。
熱い。
夏の熱気を、彼が遮ってくれているはずなのに、全身が熱くて、眼頭に何かこみあげるものがあった。
「……そうだよ、俺は、自分のために、アンナさんを祓いたくない……! 好きだからだ。あの人に友情を感じてしまったから、幸せになって欲しいと思ってしまうんだよ……!」
『されどそなたには、あの男を守る義務がある』
「そうだ──でも、ハル先輩は、アンナさんがいなければ幸せになれない。あの人は、自分のせいで妹が死んだのだとずっと自分を責めている……だから俺たちは、あの人から二度も妹を取り上げることだけは、してはいけないんだ!」
『ならば、そなたのすべきことは明確ではないか。星持ちよ』
次第に震えを増し、動揺を露わにする俺の声とは反比例して、鎮守神はどこまでも静かで落ち着いた声をしていた。
緋色の眼が細くなる。
『どちらも見捨てたくないのなら、見捨てなければ良いだけのこと』
俺ははっと息を吸い込んだ。
見返した先にある緋色の瞳は、初めて会った時からずっと、俺を見透かして誰かを思い出すような色をしていた。
切なさをはらんだ懐かしさ──そしてそれらの源泉となる遠い想い。
「お前……」
俺は思わず手を伸ばしていた。
神に触れるなどと、あまりにも畏れ多い、しかし、彼は拒まなかった。
なめらかな漆黒の脇腹に顔を埋める。
見た目よりも柔らかなその体毛は、先日よりもずっと健やかな艶を帯びて──懐かしいような大地の匂いがした。
「……どうして、俺を、助けてくれるんだ……」
『勘違いをするでないぞ?』
鎮守神が体を震わせてかすかに笑ったのが伝わって来た。
それからふわりと背中を包む感触。尾だ。
鎮守神は俺を抱きしめるかのようにその体毛で包みこんで、やがて厳かに呟いた。
『我はな、あの男に無理やり封印を解かれて立腹しているのだ。だがそなたにあの男を救ってもらわねば復讐することもできんではないか。故にこれはお前のためではない。我はただ、我の目的のためにだけ動いているのだ』
「……そか」
俺も小さくほほ笑んだ。
鎮守神から身を離して、いま一度その眼を覗き込む。
そして言った。
「ありがとう」
──確かに、迷うなんていちばん俺らしくない事だった。