碧の瞳 2
グリフィンの嘴は寸分の狂いなく狼の腹を食いちぎった。
大量の血潮が飛び散り、狼が苦悶の唸り声を上げる。
眼の前があかく染まる光景を悪夢のように見送って、俺は気づけばグリフィン目がけて思い切り刀を振りかぶっていた。
「よくもやりやがったな!!」
怒りが赤い火花となって脳裏に炸裂する。
俺の焔はそんな俺の心情を鏡のように反映し、火柱のようにめらめらと高く燃え上がった。
怒りの一閃は、しかし、グリフィンの血濡れの嘴によって受け止められる。
がちりっ! と石が打ち合うような重い音を立てて、俺の刀は宙のある一点で喰いとめられてしまった。
グリフィンの巨体の重さが容赦なく刀の薄い切っ先にかかる。
しかし俺は刃が折れる可能性などまったく危惧せず、ぎりぎりと全体重を刀にかけた。
「ざけんじゃねぇぞ……」
睨みつける先でグリフィンの黄色い眼が剣呑に輝いている。
彼女も相当な力で刀を受け止めているらしく、苦しげな呻きが鳥の喉からぐるぐると漏れた。
「……退きやがれ獅子鳥ッ!」
咆哮と共に全身から呪力を爆発させる。
眼に見えないその力の放射をまともに食らい、グリフィンは吹っ飛んだ。
巨体がアスファルトに沈みこみ、重い振動が足もとから突き抜ける。
俺は即座に眷属の元に駆け寄ろうとした──が。
鈍くきらめく銀色の刃が行く手を阻んだ。
「……てめぇ、いい加減にしろよ」
俺はぎりぎりと歯ぎしりをして短剣の使い手を睨みつける。
彼はにこりとほほ笑んだ。
「それはこちらの台詞。昨日も思ったけど、君ってほんとに馬鹿だよね──低俗な魔物なんかを庇って」
先輩の肩越しに、グリフィンがよろめきながらも再び翼を広げ、眷属に襲いかかるのが見えた。
傷ついた銀狼も、下肢をふんばりながら凶悪な口を開けて猛然とグリフィンを迎え撃つ。
「憎むぞ、あんた!」
俺は本気で呟いて、先輩の腹にひじ打ちを喰らわせた。
だが先輩も素早い。即座に身を退き攻撃態勢を取った。
銀の短剣が太陽の光を弾き、一瞬、眼がくらむ。
「望むところさ。本気になれよ、高村蒼路。でないと君が死ぬんだぞ」
ぎんっと振り下ろされた一閃は、予想をはるかに上回って重い!
(……こいつ、本当に強ぇ)
その一太刀を受け流し、切り返しながら俺は内心眼を見張った。
半星なのに、召喚獣を召喚したままでこれほどの力を操れるとは。
完全な星師だって召喚術には相当な呪力と集中力を要するものだ。
ほとんどの術者は魔物を召喚している間は身動きが取れない。
深紅はできるが、あいつは天才だ、比較の対象にはならない。
(……けど、憑依された状態でこんなに力を使ったら……!)
刀と剣で烈しく打ち合いながらも、俺の心を焦りと恐怖の入り混じった感情がかすめてゆく。
だって、目前に迫った先輩の顔を見れば、事態が緊迫していることぐらいはすぐにわかる。
あきらかに尋常でない、顔色。唇。ぱさぱさの髪。
「完全な星を持っていてこの程度の力か?」
碧の眼が酷薄に笑う。
狂気に取り付かれたようなすさまじい攻撃の嵐の中でも、あまりに冷え切って、見ているこちらの胸が痛くなるほどの悲しい──そう、哀しい碧の瞳。
「うっせ……星師は、星師を傷つけちゃいけねーんだよ!」
俺は咄嗟に身を退いた。
後ろ足で一歩下がり、間合いを取るようにして刀を構える。
汗が眼に入って酷く染みる。
かるく頭を振ってそれを振るい落としながら、ふと異常に気がついた。
──どうして誰も現れない?
白昼堂々、場所がいくら裏庭とはいえ、生徒が凶器を持ってチャンバラをやってるんだぞ!?
(もしかして、最初の魔方陣に何か……)
俺は思い当たったが、時すでに遅しだ。
先輩が短剣を振りかざして助走をつけたのを、舌打ちしながら迎え撃った。
「ちくしょう、深紅、はやく来……っ!?」
しかし、体重を移そうと僅かに足の位置を移動しようとした瞬間、異常に気がつく。
手足が──動かない。
無数の細かな蔓を持つ植物がアスファルトの割れ目から伸び、俺の手足に絡みついているのだ。
「なっ……なんだ、これ!」
「馬鹿にするなよ? 高村くん」
身動きを封じられた俺の耳元を甘やかな声がくすぐる。
ぞ、と仰け反った瞬間、息も止まる程の重い衝撃が右肩を貫いた。
「────ッ!!」
灼熱の温度の後に、信じられないほどの激痛がやってくる。
俺は声にならない悲鳴を上げた。
腕がしびれ、たちまちの内にその感覚を失う。
手のひらから刀が滑り落ち、先輩がそれを革靴の足もとで思い切り踏みにじった。
「弱いな……」
「う、ぁあッ!」
囁きと共に、先輩が躊躇なく俺の肩から剣を抜く。
痛みのあまり全身がびくりと痙攣する。傷口からぼたぼたと鮮血が滴り、制服を汚した。
ワイシャツのの白い布地を血が染めてゆく速度に比例して、右肩から広がるすさまじい熱と、激痛があった。
「……毒……か……!?」
意識が白く霞がかかっていく。俺は必死で頭を振った。
血濡れた短剣を手にしてほほ笑んでいる先輩を、唇を噛んで睨みつけた。
「そう。なかなか効くだろ? 人の血肉を糧に成長する、寄生植物の種を撒いたんだ。この間も撒いたけど、どうやら効かなかったみたいだから。もう一度」
「……あんた……狂ってるよ……」
空いた左手で右肩の傷を押さえながら、俺はぜいぜいと言葉を紡ぐ。
「もうやめろ、こんなこと……! こんなことをして、何になるんだ!」
「だから、何度も言っただろう? 君を殺して、あの忌々しい姫君を殺して。僕はアンを守るんだ。そしてもう二度と、彼女を離さない。苦しめたりしないって誓ったのさ」
「違う!!」
俺は必死に首を振った。叫ぶ。
「俺を殺したって、状況は何も変わりはしない! むしろあんたが、やり場のない苦しみにどんどん追いつめられていくだけだ!」
「わかってないなあ……本当に」
ハル先輩は嘲笑し、指をぱちんと打ち鳴らした。
途端に俺を捕縛していた植物が消えうせて、俺はどさりとアスファルトの上に投げ出される。
かつかつと足音を立てて、眼の前に先輩の皮靴のつま先が近づいてくる。
「高村君。僕は、苦しんでなんかいないんだよ」
ハル先輩の声は、まるで夢を見ているかのように、遠く幻想的に響いた。
白刃が眼前にひらめき、視線を上げた先には、美しくほほ笑んでいる先輩の顔があった。
「アンの幸福が、僕の幸福。彼女が僕の傍で生きていてくれることこそがね」
「……ちがう……」
俺は眉を潜めて、そう喘いだ。
痛い。それに、熱い。
額から脳天が燃えるように熱くて、眼をあけていられない。
だが俺は毒に朦朧とする意識を敢えて痛みに集中させてこらえ、苦いものの込み上げる喉から必死で言葉を絞り出した。
怒りが──悲しみが。
もう、爆発しそうだった。
「……死んで……る、んだよ……!」
「何?」
怪訝そうな先輩の声に、何とか顔を上げて彼を見据えた。
肩の傷口に左手をめり込ませる。
ずぶりと、嫌な感触が痛みをさらに燃え立たせた。
「──アンナさんはもう、死んでしまっているんだよ……っ!」
叫ぶと同時に左手を傷から引き抜き、たっぷりと滴る血潮を先輩めがけて浴びせかける。
眼つぶしだ。
「現実を見ろ! アンナさんはこんなことは望まない! あの人は、実の兄が死んだ妹のためにその手を血に汚すなんてことを、絶対に許したりはしない!!」
「く……そっ!」
ハル先輩は俺の血糊をもろに喰らい、目元を手で押さえてよろめいた。
その瞬間をねらって突進し、体当たりを喰らわせて先輩を転ばせると、俺は地面に転がっていた刀を拾い上げた。
同時に全力疾走を開始する。
「畜生が……オーア!」
血のりで眼が開かない先輩は、しかし、耳だけで俺の動きを察知したらしかった。
よく通る声を張り上げて己の召喚獣を命令を下す。
しかしこの頃には俺は眷属の元に辿りついていた。
翼を反らせ、嘴を大きく開いて迎え撃ったグリフィンの腹に、刀の柄で打突を喰らわすと、眷属から引きはがした。
「眷属! 大丈夫か、眷属!!」
『……星の子……』
この時には眷属は、下肢の動きが完全に不自由になっていた。
前脚だけで体を起こし、ふらつきながら俺を見上げる。
『構うな……! そなたはそなたの戦いに、集中しろ……!』
「何言ってんだ馬鹿野郎、助けてくれた奴を巻き込めるか!!」
怒号を発して、なんとか自由になる片手で、下手ながらも治癒の術を施そうとした俺だったが──
「──もう一度、言ってみろ!!」
先輩の吠え声とともに背に凄まじい衝撃が走った。固く重いもので殴られた──いや、蹴られたのだ。
肩の傷が、腹の傷が、もうどこもかしこも痛い。
意識が一瞬まっ白になった。
四肢に力が入らず、せめてもと、眷属に覆いかぶさるようにしてうずくまる。
「僕が愚かだと……アンが、死んだなどと……よくも、よくも!!」
狂ったように叫びながら、先輩は何度も何度も俺の背中を蹴りあげる。その度に呼吸ができず、文字通り血反吐を吐きながら俺は堪えた。
腹の傷がいい加減、開きそうだ。
体の下で眷属が喚くのを他人事のように聞いた。
『どかぬか、星の子!! 私は主様より頼まれて、そなたを守りに来たのじゃ、そなたに守られては本末転倒もいいところ……!』
「どかねえ、よ」
へへ、と俺は小さく笑い、先輩に蹴りあげられる律動のなか、眷属の蒼い澄んだ瞳を見詰めた。
「俺は動物には、優しいんだ」
『……!』
返す言葉を失い、おろおろする眷属の顔が──次の瞬間、見えなくなった。
「うわぁああぁ!」
先輩が、叫びながら一際強く、背骨を蹴った。
それが利いた。
痛みが臨界点に達したというか……そろそろ、キツイ。
マジで殺されるかもな、と俺は薄れゆく意識のなかで考えた。
それはまずい、何よりも、先輩にとって。
先輩がその手を血に染めれば染める程、アンナさんが悲しい顔をするんだ。
それは見たくない。
アンナさんは、太陽みたいに、ひまわりみたいに笑っている方が似合うんだ。
(──俺はまだまだ、弱い……!!)
く、と唇を噛みしめて眷属の柔らかな体を守るように抱きしめた俺は、ふと、この身を包む風を感じた。
それは、竜巻のように烈しく周囲の建物を軋ませて俺の体を揺らしたが、それでも何か、とても柔らかな風だった。
重い物が二度、なにかにぶつかるような音がして、直後地面が上下に揺れる。
眷属が驚愕したように呟いた声が、朦朧とする俺の耳朶を打った。
『……主様……!』
「え……」
のろのろと薄眼を開きながら俺は、そういえば先輩の攻撃が止んだことに気がついた。
ゆっくりと、首を巡らせてふり返る。漆黒の毛並みが視界を覆った。
「鎮守……神」
『お前は本当に変わっているな、星持ちよ』
瞠目する俺の肩に、鎮守神の尾が伸びてきてそっと触れた。
見た目よりずっと柔らかく、なめらかなその毛束が傷口を撫でると、不思議なことに痛みがすうっと引いていく。
濃い土の香りが鼻孔をついた──なにか懐かしい、野山の香り。
『星を持つ身で我ら魔物にそれほど心を砕く者を、我は知らぬ』
「お前、なんでここに……! ババアの家から出るなって、あれほど──」
「──蒼路!!」
今度は女の声がした。
はっと視線を探らせると、華奢な腕がハル先輩の首を背後から捕えた所だった。
やっと来たのか──でもちょっと、タイミングが悪すぎる!
「深紅!!」