碧の瞳
午前中は面倒くせえことに二時間連続で体育だった。
しかも剣道。
この暑い夏に剣道着を着せて体育館で授業させるとは……毎度思うが学校側は俺達を殺そうとしているのではないだろうか。
女子なんてプールで水泳なんだぞ、水泳! なんだよこの違いは!?
俺は昨日ほとんど徹夜に近いんだ、睡眠は二時間ぽっち、おまけに怪我もしてんだよー!
……とまあ、実際はそんなことを言えるはずもないから、授業も出るしかないんだけどな。
「高村あ、お前、昨日、よくも逃げやがったな!」
試合中、ここぞとばかりに竹刀を振るってきた石岡にそう言われても、心身ともに疲れている俺はもう言い訳すら面倒くさく感じる始末。
彼の一撃をかるーく受け流しながら空とぼけた。
「あ~? 何のことかな石岡くん」
受け流した後は、すくい上げるように、こちらからの一撃を返す。
しゅっ、と空気が裂ける快い音が立ち、石岡が若干ビビった顔で一歩退いた。
その表情に俺はくつくつ笑みを漏らした。面白え。
「と、とぼけるんじゃない! お前がお前が逃げたあの後、俺は一人で永富に怒られて散々だったんだぞ! しかもその後もお前帰って来ないし、帰って来たと思ったら夕方で、もう下校時刻だし! 学校生活やる気あんのか!」
やや離れた位置で間合いを取りつつも、そんな風に騒ぐ石岡。
彼の問いに対して俺は無情なほどきっぱり答えた。
「ないね」
「……このやろう!」
彼はとたんに突っ込んできた。どうやら逆鱗に触れたらしい。
面越しに俺をぎらりとした眼でにらみつけ、彼は叫んだ。
「お前に深紅さまのお傍に寄る資格はなぁいっ!」
同時に竹刀を高く掲げる。そのままストレートに振りおろして面打ちを取ろうというつもりのようだが──
「あーはいはい、五月蠅いうるさい」
──この俺が深紅の名を出されて黙っているわけがなかろう!
俺は軽く床を蹴り、石岡の間合いに入り込むと、その胴を打突した。
「逆胴打ち! 高村、一本!」
体育教師の声が響き、俺の勝利が決定する。
軽く拍手が起きて俺は面を外す。顔をゆすって汗を振るい落とした。
たしか、これでクラス一位か。ってことは今度行われるクラス対抗の試合にも出ないといけない。
……面倒くせー。
「今日はここまで! 各自片づけをしてから着替えて教室に戻るように」
教師が言い終えない内にチャイムが鳴り、ようやく午前中の授業が終了した。
「ちくしょ~、勝てると思ったのに……」
「百年早ぇよ」
呻いている石岡の手を引いて立たせ、器具を片づけにかかる。
ふと目線をやった入り口に何やら集まっている女子の集団が見えて俺は首をかしげた。なんだろう。
「おい、石岡。あの女子どーかしたのかな」
ふり返って聞いてみると、石岡は何故か忌々しげに舌打ちをした。
「……勉強ができないってことは男の障害にはならないってことだろ。……よかったなー高村」
「はあ?」
意味が判らなくて首を傾げた俺に対して、石岡はなぜか軽く瞠目した。
「え、お前、まさか自覚ねーの!? 勿体なっ!」
「意味がわからん」
何の話だ、と俺は肩をすくめて再び片づけの作業に戻った。
「石岡、お前だいじょうぶか? さっきの一撃、かなり手加減したつもりだったけど」
「お前がバカなのはしってたけど、鈍感だとはしらなかったよ……」
「だからー、何の話」
喋りながら片づけをしていた俺だったが、ふと、この後の昼休みには深紅との約束があったのを思い出し、あっと大きく叫んでいた。
「悪い、石岡! 俺、先行くわ、約束あった!」
言うが早いかだっと走り出して手を振る。
石岡は、近頃恒例のパターンになりつつあるが、俺の背後でぴーちく喚いた。
「あ、なんだよ高村、待てよこらっ! お前最近付き合い悪いぞ!?」
「結構」
ふり返らずに、俺はちいさくほほ笑んだ。
深紅に会えるのなら、誰に何と言われようが構いはしない。
***
しかして、近頃の俺は万事が平和に進んだためしがない。
この依頼を受けて以来、なんだか毎日怪我してるし、気付けばいつも戦っている。
今までだってババアのお使いで仕事はやらされていたが……今回は俺個人の受けた依頼だし、何よりも学校の中での仕事だ。
俺もいろいろと敏感になっている。
そんなわけで、着替え終えてからいったん教室に戻り、そこから弁当片手に屋上へと歩みを進めていた俺は、ふと神経に触れるものを感じて窓の外に眼をやった。
(──……妖気?)
かるく眉を潜めると同時に星が痛んだ。
だが向けた視線の先には真夏の白い日差しを受けて、疲れたような緑の木立が生い茂っているだけ。
俺は立ち止ると右手にはめていた手甲を外した。
露わになった星に神経を集中し、いま一度外の風景を見つめる。
すると、さわさわと微かに揺れていた緑の木立の合間から、するりと細長い影が滑りだしてくるのを捕えた──蛇!
ぬめぬめと蠢く太い身の丈はゆうに一メートルを超している。
緑がかった鱗が木漏れ日を反射して、毒々しい光沢を放った。
明らかに普通の蛇ではない。
思わず窓に手をかけて身を乗り出した俺だったが、さらに信じがたいことに、蛇は一匹ではなかった。同じ蛇が次々と、辺りの木立やら草の茂みやらから湧いて出てくる。
何かに感応されたかのように後から後から登場し、ひとつの方向を目指して動きはじめたその数──捕えただけで十数匹。
「ちょっ……どういうことだ!?」
即座に胸ポケットからノートの切れ端を取り出して式神を創り出し、屋上へ向かっているはずの深紅の元へ飛ばす。事態を知らせるためだ。
そして即座に駆けだした。
「俺の星をかいくぐって侵入するとは……いい度胸じゃねぇか!」
全力疾走して廊下の奥、この時間には人気のなくなる特別教室棟に渡る。周囲に人目がないのを確認してから、窓を開けて地上へと飛び降りた。
軽い衝撃が足もとから突き上げるのをやり過ごし、再び駆けだそうとした時、俺は気がついた。
しゅるしゅると、衣擦れのような奇妙な音が、俺を中心としてちょうど八方から聞こえてくる。瞬時に全身が緊張した。
その場で構え、神経を研ぎ澄ませて気配を探る。
やがてあの緑の蛇がゆっくりと。だが大挙して俺を取り囲むように集まってくるのが見えた。
陽に焼けたアスファルトを這うその細長いシルエットは、まるで不吉な文様のように、地に黒く印を描いている。
「……俺が狙いか?」
低く呟き、俺は眼をわずかに細めた。迷う。
真昼に力を使うわけにはいかないが、こいつらは明らかに俺を狙っている。
しかし蛇の正体を見極めない内には攻撃すること自体ためらわれる。
──どうする?
迷ううちに蛇の群れはどんどん近付き、やがて俺の手前一メートルほどの地点でようやく動きを止めた。
水銀の色をした瞳のない眼が言葉なく俺を見つめ、紅い舌がちらちらと燐光のように蠢いている。
「やるしかないか……」
再び呟いて、星に左手を這わせた。
刹那。
『星の子! いかん、退け!』
怒号一発、天から降って来た銀の矢が視界を駆けた。
俺は瞬く。昨夜は月明かりの元で眺めた白銀の毛並みが、今は太陽の光を受けて七色に輝いている。
「眷属!?」
そう、鎮守神の眷属である銀狼が、緑の蛇の群れに突っ込んでゆくところだった。
「お前、何でこんなところに……!」
『話はあとじゃ、それよりも、これは術者の式神! お前の周りに魔方陣を描くための手段にすぎぬ! 早くこの場を離れよ、術中に嵌まるぞ!』
蛇を次々噛みちぎりながら狼は澄み切った青い瞳でこちらを振り仰ぐ。
俺はといえば、指摘されて初めて蛇の描く文様が魔方陣だと気がつく羽目になり、盛大に舌打ちをしながら蛇を焔で焼き払った。
手ごたえのない感覚が腕を伝う。
くそ、式神なんて一体誰が──?
その問いは、燃え上がった蛇が緑の葉っぱと化して辺りに舞い落ちるのを目にした瞬間、雲散霧消した。
緑。
「……まさか」
「そう。──そのまさかさ」
甘い声が、突如としてその場に響き渡った。
甘く優しい声、なのに、背筋を氷の手で撫でられるような、ぞっとする殺意を孕んだ声。
俺はとっさに身を固くした。
応じるように眷属が、ひらりと目前に降り立つ。
銀の毛並みを逆立てて威嚇の吠え声を上げ、彼は全力で眼の前に立つ人間を敵視していた。
つまり──ハル先輩を。
「へえ……」
凍て付く碧の双眸が、まず眷属に、次いで俺に向けられる。
それだけでもぞっとするほどの威圧感だった。
この人は既に人でありながら人でない、と俺は悟った。
眼を合わせるだけで胸の内に黒く重いものが凝ってゆくこの感覚──闇を。ハル先輩は蓄え始めてしまっている。
「……やるなあ、高村くん。神狼を配下に下したのかい?」
口調は柔らかくとも、明らかな軽蔑を──ほとんど憎悪と言えるそれを宿した声だった。
「……そんなんじゃねえよ」
短く答えて、俺はかるく息を吸う。
碧の眼から目を逸らさないように、ぐっと堪えた。
落ちくぼんだ眼窩、げっそりとこけた頬。
数日前と比べて様変わりしてしまった、その秀麗な容姿。
明らかに生気を吸い取られてしまっている。
──駄目だ。同情するな。
「こいつらは、俺の配下なんかじゃない。そんなものに成り得るわけがない。こいつらは、自分の意思で自分のしたいことをする、誇り高い魂だ」
そう、こいつらは自由なんだ。
誰の指図を受ける義務もない。
俺は言った。
「それは鎮守神もあんたのグリフィンも──それからアンナさんだって、同じ事だろう?」
「……戯言だな」
アンナさんの名前を口にした瞬間、碧の眼に暗い閃光が走った。
俺は即座に刀を取りだした。迷ったら、負ける。
「きみにアンを語る資格なんてないんだよ、星師」
先輩の輪郭からじりじりと黒い燐光が立ちのぼり、揺らめくそれは見つめる内にやがて五芒星を宙に描きはじめた。
俺がはっとしたのと、先輩の背後に出現したその魔法陣から音もなく巨大な鷲の頭が現れ出でたのはほぼ同時。
「──眷属! 退けッ!」
「オーア!」
俺の悲鳴にかぶさるようにして響いたのは先輩の声。
その声にグリフィンは反応した。
鋭く湾曲した嘴をぐわりと開いて前へ飛び出し、まっすぐに銀狼の脇腹にかぶり付く。
俺は全身から血の気が引くのを覚えた。嘘だ。
「……眷属────ッ!!」