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星師  作者: 小糸
25/53

あかい目醒め

 

 短い眠りの中で夢を見た。

 とても、とても悲しいゆめを。

 

 冬枯れた木立の中にひとりの女性が立っている。

 着物を着たうしろ姿はひどく痩せて頼りない。

 その人は、吐く息がまっ白く立ち昇るのにも、手足の指先が真っ赤に悴むのも、全く気が付いていない様子で、ずうっと木立の向こうを見つめていた。

 灰色の乾いた空に小高くそびえる、山並みを。

 

(……め……)

 

 その人は繰り返し繰り返し、あるひとつの言葉を呟いていた。

 

(ひざめ……)

 

 呟いては山を見て、山を見ては呟いて。

 やがてちらちらと小雪が降り始めても、太陽が傾き、辺りが薄闇に包まれ始めても、ずっとそこに立って、その言葉を繰り返していた。

 ──その言葉。

 誰かの、名前のようだと俺は思った。

 女性の声が、誰かを想って発せられる音をしていたから。

 

(緋醒)

 

 ひざめ、と。

 彼女はまた、その名を呼んだ。

 そしてやがて俯いた。僅かに傾いた肩ごしに、その顔が垣間見えた。

 頬のこけた青白い顔。唇も血色が悪くかさついて、見るからに尋常ではない様子であった。

 

(許してくれ、緋醒)

 

 その人は、言った。

 

(もう、会えなくなるんだ……)

  

 ──そこで眼が醒めた。

 

『蒼路、怪我はなし、熱もなーし。でも、他の魔物の匂いがするなぁ。どうしよっかな、今日は登校させて大丈夫かなぁ~?』

「……」

 

 目ざめていっとう始めに視界に飛び込んできたものは、俺の上に腹ばいになり、騒いでいる一頭の青い鹿だった。

 見ていた夢の名残が一気に脳裏から搔き消えて、俺は思わず頭を押さえる。

 ……この状況は、どうしたことだ。

 俺はまだ夢を見ているのだろうか。

 いや、それにしては腹の上が重すぎるし傷も痛い。

 

『この匂い、どうやらあの鎮守神だよね。あ~あ、蒼路ってばやっぱり一人で出かけたんだ。だから一人にしておくのは反対だって言ったのに。深紅も心配なら心配って素直に口にすればいいのにさー、つんつんしてばっかりいるからこういう事になるんだよ』

 

 寝起きの頭にべらべら喋くる鹿の声がわずらわしい。

 青藍の声は丸っこくて高い。

 耳触りの悪い声ではないが、決して朝起きてすぐに聞きたい音でもない。

 俺は手を伸ばし、眼前でゆらゆらと揺れている角をがっしと掴むと引っ張った。

 とたんに青藍は、己の危険を察知して泣きわめくひな鳥の如く、ぴいぴい声をあげはじめる。

 

『痛いっ! 蒼路、何するんだよ、離してよ!』

「それはこちらのセリフではないのか……」

『僕は深紅に頼まれたの! 離せってば、角は鹿の急所なんだよー!!』

 

 角を引っ張られているから、青藍は頭を伏せた体制で首をぶんぶん振り、必死に俺の手から角を解放せんと暴れる。

 ひづめの付いた四肢に体重をかけ、精一杯俺の腹の上に踏ん張るものだから、傷が痛い痛い。

 俺は堪え切れずうめき声を上げ、青藍を投げ飛ばすように退かすと起き上がった。

 そのまま床にでも激突すればいい、と本気で思ったのだが、おあいにく、身軽な青鹿はそのままひらりと空中に逃れ、停止した。

 黙っていれば愛らしい黒い眼が、非難と恨みのこもった視線でじとっとこちらを見つめてくるのに睨み一発で答えると、俺は薄いタオルケットを跳ねのけてベッドから飛び降りた。

 

「だー! お前、朝っぱらから何なんだよ一体! いくら主の頼みだからって、人の寝起きを楽しげに邪魔すんじゃねえっ!」

『邪魔はしてないさ。ただ、調べてただけだよー、蒼路がきのう、深紅が見ていないところでまた何か無茶をしやしなかったかと』

 

 ぎくり。

 青藍のことばに思いっきり頬が引きつった。が、別に何も悪いことはしていないと思いなおし、俺は寝巻を脱ぎ捨てた。

 

「……べつに。おとなーしく過ごしてたぜ」

『嘘がへったくそだなあ! 相変わらず! 魔物の匂いぷんぷんいしてるよ!?』

「うるせぇな!」

 

 俺は叫んだ。

 青藍はおしゃべりだ。はっきり言って騒々しいことおびただしい。

 なぜこいつがあの冷静沈着な深紅の召喚獣になどなれたのか、俺は常々不思議で仕方がない。

 

「つうか深紅なら、わざわざ調べなくたって俺の行動くらいお見通しだろうよ。お前はいったい何をしに来た」

『だからー、深紅に頼まれて』

 

 ワイシャツに袖を通しながら尋ねると、青藍はふよふよと部屋の中を飛び回りながら答えた。

 さして広い部屋でもないのですぐに端から端に行き辺り、結果として彼はくるくる旋回しながら飛んでいる。

 

『蒼路の怪我の具合はどうか見て来い、見てまだ動かない方が良さそうなら学校休ませろって言われたの。あと、どうせ昨日、深紅が見てないところで鎮守神とひと悶着やらかしただろうから、その様子も探って来いって』

「……そら見ろ。やっぱお見通しなんじゃねぇか」

 

 ふうとため息をついて着替え終えると、俺は部屋の時計を見た。

 六時七分。昨日の夜におかずを作ることができなかったから、今日は一から弁当を作らないといけないのだ、青藍に構っている暇なんぞ全くない。

 

「怪我なら問題ねぇから、学校は行くぞ。それより深紅は大丈夫なのか。昨日、ハル先輩は何か面倒なことしなかった?」

 

 部屋のドアを開けながら青藍に尋ねる。

 まだ寝ているであろう母と妹を気遣って、自然と声は小さくなった。

 

『昨日は存外大人しかったよ。こっちが見張ってるのには当然気が付いてるんだろうけど、敢えて突っかかって来るようなこともなく。深紅が拍子抜けするわね、って言ってたぐらい』

「はぁん」

 

 俺はかすかに笑みを漏らした。彼女のその言い方は想像に易い。

 昔っから生真面目に過ぎる生真面目な性格をしているから、深紅は何事にも全力投球なのだ。手抜きを知らない。

 

「まぁ、無事なら良かった。ハル先輩も」

 

 廊下をすたすた歩いて行き、リビングのドアを開けた。

 瞬間だった。

 俺は眼の前に開けたリビング、そこに、既に灯りがついていることに気がついた。

 ぎょっとして視線を巡らせると、よりによって藍が、パジャマ姿でソファに腰掛けてオレンジジュースを飲んでいる。

 ──げっ!? 

 思わず背後を振り仰いだ俺の脇を青藍がすり抜けたのと、藍がこちらに気が付いて顔を上げたのはほぼ同時。

 

「あ、お兄ちゃん。お──」

 

 はよう、と続くはずだった藍の言葉は中途で途切れた。

 それもそのはず。

 彼女の眼は……リビングの天井付近にふよふよと浮かぶ青い鹿の姿をしっかりと捕え、くぎ付けになってしまっていたのだ。

 驚愕の色をいっぱいに湛えたその眼差しを一身に受けて、さすがの青藍も気がついたらしい。

 気まずそうに俺をふり返った。

 わずかな沈黙が流れたのち、彼は言った。

 

『……蒼路……もしかして』

「……もしかするんだよ」

 

 はあー、と再び頭を押さえながら俺は答えた。

 肺の奥からため息が出てくる。そうなのだ。

 

 藍は──魔物が見えるのだ。

 

 *** 

 

「つうわけで、勝手に青藍をよこすのはもうやめてくれ」

 

 そのあと、登校した学校で俺は深紅に物申した。

 時はホームルーム直前、場所は二年生の廊下。

 深紅ははじめこそうっとうしそうに俺から眼を背けていたが、話を聞くに従って、大きな黒い瞳を見開いて驚きを露わにし、最終的には素直に謝ってくれた。

 

「……そうだったの。悪かったわ。ごめんなさい、まさか妹さんに霊感があるだなんて思わなくて。それに、ランが勝手に家を飛び回ったみたいで、そちらもごめんなさい。厳しく申しつけておくわ」

「ああ。頼む」

 

 俺は頷いたが、怒りは既に消えていた。

 深紅が言ったように悪いのは勝手に動き回った青藍であるし、何より彼女はすぐに己の非を認め、謝ってくれた。

 プライドはエベレストより高いが、深紅は己を過信しない。

 他人に対しても自分に対しても、不正あらば正し、けして踏みにじられることのない、真につよい心を持っている。

 俺は彼女のそういうところが好きだった。

 ……って、べべべ別にヘンな意味じゃねえからなっ!?

 

「っていうか! えーとそうそう、お前もう怒ってないわけ?」


 自分で自分の感情にどぎまぎしてしまった俺は、いささか無理やりに話題を転換した。

 すると深紅は軽く目を見張り、それから何故か、ぷいと俺から目を逸らしてこう言った。


「……なによ、いきなり」

「え? いきなりっていうか、昨日あんだけキレてたくせに、今日は存外ふつうだなあと思って」


 俺は言った。言いながらさりげなく深紅の顔色を観察する。

 わずかに赤いような気もするが、いつもより血色がよく、目立った怪我もない。

 青藍が言ったように昨日は大きな出来事はなかったようだ。

 俺の視線を受けて、彼女は居心地悪そうに小さくつぶやいた。

 

「べ、べつに、本気で怒ってたわけじゃない」 

「えー? それであんなビンタするかよ? 結構効いたぜ、あれ」

「うるさいわね! そんなことよりお前、傷の具合はどうなのよ!?」

「え? 傷?」

 

 意外な深紅の言葉に俺はきょんと目を瞬く。


「ああ、これ。ほとんど良いけど? 体力だけは自信あるからな、もう動いても問題はない」


 言いざま制服の上から腹をぽん、と手のひらで叩き、笑ってみせる。

 すると深紅はなぜか大きく息を吐いた。

 華奢な肩の線が呼吸に大きく上下する。

 俺は深紅の質問の意図を計りかねて首をかしげたが、彼女はすぐに話題を別のところに移してしまった。


「……それよりも、蒼路って妹がいたのね。知らなかったわ」

「うん」


 軽く頷いて、俺は壁に背中を預けた。


「俺が里を出た翌年に生まれたんだよ。つまり、親父がいなくなる年に出来たこども」

「そう。そうだったのね。ではもう、六歳なんだ」

 

 親父という言葉に反応し、僅かに顔色を翳らせた彼女を見て、俺はつとめて明るくこう答えた。

 

「そ。可愛いぜ。一回、会いに来いよ」

「わたしが?」

 

 軽く眼を見張った深紅の表情がなんだか可愛らしく、俺はまた少し口角を上げた。

 

「うん。母さんも、今回の仕事の話をしたら会いたがってたし──歓迎するよ。俺も飯つくるし」

「蒼路、料理できるの!?」

「失礼だなぁ、お前。できるよ。母さん働いてっから、うちの家事は分担制。こうみえて炊事洗濯は得意分野なんだぜ!」

「それってもしかして、お前の唯一の特技なんじゃないの?」

「……うるせぇな! 唯一の、は余計だ!」

 

 たちまち噛みついてやると深紅は笑った。

 珍しく。声を上げて。

 口許に手を寄せて、いつもは怜悧な印象すらある声色を、鈴のように響かせて笑う──その様子が、あんまりきれいで。

 思わず見入ってしまったところで、タイミング悪く予鈴がなった。

 

「あら、時間だ。もう帰った方がいいわよ、蒼路」

 

 たちまち深紅はいつもの無表情に立ち戻る。

 おのれ、と内心で予鈴を呪いながら俺は頷いた。

 

「……おう」

 

 そして別れようとした刹那、重要なことを思い出して、俺は踏み出しかけた足を戻した。

 ふり返る。

 

「ああ、それから深紅。ハル先輩のことなんだけど」

「何?」

 

 いまや教室のドアに手をかけていた深紅もふり返った。

 振り向いた拍子、額の星が垣間見えて、俺は思わず自分の右手を意識する。

 手甲をつけて、ふだんは痣を隠している右手。

 

「多分もう知ってると思うけど。鎮守神を起こしたの、あいつだ。しかも昨日の夜、俺に召喚獣を差し向けてきやがった」

 

 短く昨日知った事実を伝えると、彼女はわずかに不快そうな表情をした。

 眼をついと細め、柳眉を軽く寄せて。

 

「──先輩、今日は午後からいらっしゃるそうよ」

 

 と言う。俺は軽く瞬いた。

 

「え。マジ?」

「ええ。多分、体力の消耗が激しいんでしょうね。そういう余計な事ばかりしているからだわ」

 

 微かに苛立った声でそう言うと、深紅はではね、と黒髪をなびかせて、教室の奥へと消えて行った。

 その後ろ姿を見送ってから、俺も歩き出す。

 時間が時間のために、自然と早足になった。

 階段を駆け下りながら、ある一つの問いを、今まで何度繰り返したかしれないその問いを、誰にともなく投げかける。

 

 ──なんで顔なんだろう。

 

 なんで深紅の星は、顔にあるんだろう。

 彼女みたいにきれいな女の子にとって、それはあまりに酷な話だ。

 変わってやりたいと本当に思う。

 無理だと知っていても、それでもどうにかして。

 彼女の担う苛酷な運命の、その内わずかでも、俺が背負うことができたらと。

 

(いや、できたら、じゃないな……)

 

 ぐっと右手を握りしめた。

 身の内でばちばちと、焔が音を立てて燃える。

 できたらじゃない。やるんだ。

 

 深紅を守るために。

 その苦痛を少しでも和らげるために、俺は星師になったのだから。

 

 というわけで、意気込んで廊下を走り抜け、教室に飛び込んだ俺は、この時まだ気が付かなかった。

 一頭の銀の狼が、開け放しになった廊下の窓枠にちょこんとお座りして、俺を見つめていた事に。

 

 


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