話をしよう
俺には生まれた時から魔物が見えた。
星を持って生まれたのだから当然だ。
山奥の里で過ごした幼少時代、世界は一面、彼ら魔物の織りなす不思議な色彩で満たされていて、俺は彼らが彩る景色が好きだった。
きらきら輝く湖の水面に、はしゃいだように跳ねる人魚。
真っ赤に染まった秋の山肌を駆けまわる山犬、あでやかな着物をまとって舞う女妖、見事な楽でそれを囃す天狗たち。
──あれは悪いものだ、決して話しかけてはいけない。近づいてはいけない。
里の大人たちにそんな風に教えられる度、どうしてだろうと悲しい気分で思ったものだ。
どうして話してもいないのに悪いものとわかるのか。
そもそも、本当に彼らは悪いものなのか。
幼心に不満でたまらず、俺は大人たちに尋ねた。
ねぇ、だって『あれ』、ぼくたちと同じことばをはなしているよ。
もみじをきれいだって言って、水がおいしいって言っている。
なのに、『あれ』はぼくたちと、何が違うの?
(……お前はやさしすぎるなぁ、蒼路)
教えられることに対していつも、何故、どうして、と返していた俺を、困ったように笑んで見つめる人がいた。
ずいぶん前に死んでしまった、否、死んでしまったことになっている人。
俺に星師の手ほどきをしてくれたのは彼だった。
あの里、深紅の一族が治める星の里で、五辻一族を守護する任についていた屈強の星師。
──親父は、俺にとって憧れの星師だった。
(人を、動物を、魂を愛して止まず、魔物にすら心を砕く……それは星師として、許されないことであるにもかかわらず)
(どうして?)
尚も尋ねる俺の頭に手を置いて、親父はわしゃわしゃと髪を掻き乱した。
大きくあたたかで、ほんの少しごつごつしていた、傷だらけの手のひら。
頬に星印の刻まれた顔で、親父はやさしくほほ笑んだ。
(さぁな。きっと誰にも答えられまい。星を持って生まれたからと言って、彼ら魔物を虐げる権利は、実は俺たちにはないんだから)
(しいたげる? いじめるってこと?)
(そうさ。だから、蒼路。お前はそのままでいいんだよ)
彼のその一言を、俺は今でもはっきりと覚えている。
(そのままで、進め。がむしゃらに、もがけ。誰がなんと言おうと、自分が信じる道を行くんだ)
──まっすぐに、曇りのない心で、蒼穹のような路を切り開け。
(そうすればきっと、いつか誰かがわかってくれるさ……)
俺はひとつ、瞬きをした。
思い出が遠ざかる。同時に、胸に迫り上げていた熱いものを、無理やりに飲み下す。
深く息を吐き出して、いま一度目の前の瞳を見つめた。
夕焼けの色、花の色。
血の色と呼ぶにはあたたかすぎる緋色の眼を。
「……どうだ? 俺は本気だぞ。お前に俺の血をやろう」
言いながら、宙に掲げたままだった左手を、強くぎゅっと握りしめた。指先を手のひらの肉に爪立てるようにしてあらん限りの力を込める。
すると、縫われた傷の合間から焼けるような痛みが走り、そのままどろりと流れ出すのが感じられた。
ゆっくりと、指を開く。
闇に覆われた視界のなかで、鉄錆の匂いが一際くっきりと鼻孔に流れ込んできた。
鎮守神が、堪え切れないように喉の奥で低く唸った。巨大な瞳の上に様々な光が乱舞して、その心の乱れをこちらに伝える。
「星師の血だ。数滴でも、常人一人を喰らうより、よっぽど空腹が満たされる。飲めよ。それで、力をつけろ」
『……小僧、何を、考えておる』
今や口の端から泡を噴き出しながら、それでもこの鎮守神は耐えた。
涎を垂らし、凶悪な口を半ば開いて、周囲の闇と同化するほどの漆黒の毛並み、それを激しく波立たせた。
轟くような咆哮を上げ、彼は苦しげに叫ぶ。
『我を、馬鹿にしておるのかっ……!』
毅い声だった。全身の肌にびりびりと響き、体がわずか背後に後退する。
俺はとっさに顔の前で両手を組んだが、星の力は使わなかった。
戦うつもりは、毛頭ない。
「馬鹿になんて、してねぇだろ! 俺はただ……」
だがそう言いかけた言葉は、今や怒り心頭に達してしまったらしいこの鎮守神によって遮られた。
彼は四肢をつっぱり、しろがねの爪をむき出しにして、屈辱に身を震わせていた。
『うぬれ、思いあがった星持ちの小僧よ……! 昼間といい、今と言い、我は人に情けをかけられるほど弱き存在ではないぞ!』
俺の顔の前でがっぱりと、狼の口が開いた。
赤黒い口腔内、隙間なく並んだ鋭利な牙。
今の今まで一言も発さずに沈黙していた鎮守神の眷属たちが、慌てたように叫ぶ声が耳に届いた。
『なりません、主様!』
『また人を喰ろうては、今度こそ御身は……!』
『──黙れ!!』
眷属達の悲鳴を叩き潰すように神は吠えた。
彼らはその一喝だけで全身の毛を逆立てて、怒りの衝撃波に吹き飛ばされた。
「おい、何てことするんだ、あいつらはお前の事心配して……!」
思わずカチンと来て鎮守神を怒鳴りつけようとした俺は、しかし、次の瞬間本気で頭蓋を噛み砕こうと飛びかかって来た犬の頭に気が付いた。
ただでさえ暗い視界が犬の影によって尚暗く塗りつぶされる。
──イライラしやがって。
俺はちっと舌打ちをすると、そのまま眼を閉じて息を吸った。
全身をぴくりとも動かさずに、次の瞬間の訪れを待つ。
鎮守神のあぎとは俺の頭など卵を割るように容易に噛み砕き、そのまま丸飲みにして──
──脳をすすり、血を舐める、筈だが……?
予想していた事態が起きない。
俺はうすく眼を開けた。だがそこには何も見えない。
視界が機能しない代わりに、強烈に鼻をつく生臭い匂いがある。生臭く、温かな、しめった匂い。
『……何故だ……』
くぐもっているのに、脳を揺さぶる程の音量の声は、頭の上から聞こえている気もしたし、両脇から聴こえている気もした。
俺はようやく予測がついた。ああ、これは犬の口内だ。
こいつ、俺の事、噛まなかったんだ。
『……何故反撃せぬ、星持ち』
ゆっくりと、犬の声が遠ざかっていく。
同時に生温かな吐息も離れて、やがて程なくして、夏の夜気が汗にしめった俺の頬に触れた。ようやく瞬きをすることができる。
「それはこっちの台詞だろうが。喰うなら喰えよ。もったいぶってないで。でないとお前、本当に飢え死ぬぞ」
『そなた星持ちであろうが。魔物に何故情けをかける』
「腹減ってる奴を切るほど卑怯なことはねぇだろう」
『……我は人は喰いとうない』
「もう既に喰ったんだろう?」
『人間は嫌いだ!』
鎮守神が再び吠えた。
俺は思わず天を仰いだ──さっぱり、わからない。
人が嫌いだから人を喰ったのか。
喰ったから嫌いになったのか。
それとも、全然違う、何か別の事情があるのか。
……どちらにしても。
「……あー! 面倒くせぇ!!」
深く考えることが苦手な俺は、天を見上げたままそう叫んだ。
とたん、鎮守神とその眷属がぎょっとして飛び上がるのを尻目に、とにかく、と彼らの傍に詰め寄って言った。
「話さないことには事情もわからん。そして今のお前は話すことすら困難なほど腹を空かしていると来た! だったらその辺からウサギでも魚でも獲って来てやらぁ、だから待ってろ!!」
『……話?』
「そう、話だ! 話をしよう、とにもかくにも!」
さすがに予想外の一言だったらしい。
犬は眼を丸くして体の動きを全停止したが、俺はその様子を肯定と勝手に受け止めた。
踵を返して歩き出すと、術で呪力の糸を紡ぎ、それをそのまま眷属の片方の首に巻き付けた。
『ちょっ……何をするのだ星の子よっ?』
「道案内してくれ。それに、こうでもしなきゃあいつ、戻って来ても待ってっかわかんねーじゃん。……悪く思うなよ」
言いざま俺は、眷属もろとも、神社の周囲を覆う森へと飛び込んでいった。
ざざ、ざざ、と音を立てて、鋭利な草の葉が肌を切る。
僅かに傾斜した地面をスニーカーの足元が滑る。土が湿気を含んでいるように感じるのは、たぶん気のせいじゃない。
近くに川が流れているのだ。
完全な日没を迎えた今、この山の中は伸ばした手の先すら見えない真の闇に包まれた。
役に立たない視界に代わり、聴覚と嗅覚が普段の何倍も鋭敏に辺りの様子を把握する。
俺は眷族の首に巻いた糸をひっぱり、彼に尋ねた。
「とりあえず川に行くか。……お前の主人、魚は好きか?」
闇にほんのりと浮かぶ銀の毛並み持つ狼は、俺の問いを完全に黙殺した。
代わりに手足をじたばたさせながらこうわめく。
『小僧!! いい加減にせぬか、先ほどから、これは我ら神に通ずる者に対して純然たる侮辱であるぞ!!』
「侮辱だろうがなんだろうが、腹が膨れりゃ何でもいいだろ」
『良いわけがなかろう!』
「うっせえなあ、じゃあなんだよ、お前はこのまま自分の主人が飢え死にするのを黙って見てるっていうのか。それがお前らの役割だって言いたいのか?」
言いざま俺は狼を見下ろし、その首に巻き付けた糸をさらにひっぱった。
細い糸に喉を圧迫され、さしもの神の眷族も必死の形相で苦しみ出す。
やめろやめろと動かされる銀の手足を今度は俺が黙殺して、取り敢えず歩き出した。
空いた片手をポケットに突っ込み、ひらりと一枚の紙を取り出すと、そのまま宙に放り投げた。
「顕現せよ」
短く呟くと、紙片がたちまち一羽の鳥へ変ずる。
夜目にも鮮やかな白い鳥。それが軽やかに上空へと舞い上がり、星の印を持つ翼を羽ばたかせた。
小さな嘴には明るく輝く球体が咥えられており、それは俺たちの足元を照らすだけの光をもたらしてくれた。
わずかに明るくなった視界のもと、たちまち群がる虫を横目に俺は眷族を振り仰ぐ。
「おい、行くぞ」
『……主様のお言葉さえなければ良いものを……!』
狼はまだ地に体躯を伏せて嫌がる気持ちを全身で表現していたが、俺が黙って見つめているとやがて身を起こした。
「で? どっちだ?」
俺は小さくほほ笑んで問う。
すると狼は答えた。
『……右だ』
──その、瞬間だった。
俺たちの頭上、この山の上を、風のように飛んで行った凄絶な気配があった。
俺と狼はまったく同時に、弾かれたように天を見上げた。
闇の中にも気配は見える。
これは、善い気配ではない。邪悪な気だ。
狼が、闇空に軌跡を残して飛んで行ったその気配を眼で追った後、やにわに叫んだ。
『──主様!!』
そして突然、狂ったように全身をくねらせて暴れ始めたのだった。
『小僧、この、糸を解け!! 早くしろ!』
「え? どうしたんだ、一体……」
『戻るのじゃ!! このままでは主様が──』
銀狼の最後の言葉が、悲鳴のように闇に響き渡った。
『──主様が危ない!!』