交錯
「それで、ハル先輩は──元々嫌いだった星をさらに憎むようになったってわけ?」
『そういうこと。……あたしのせいだわね』
話終え、アンナさんはやや疲れた様子で髪をかきあげた。
俺はなんだか苛立ちを覚えて軽く彼女を睨みつけた。
「カンケーねぇだろう。そんなの自分だけの問題で、他人がどうこうできることじゃねぇ」
アンナさんは答えない。
ただ笑んで、静かに息を吐いた。
俺はその何とも言えない表情を見つめている内に、彼女の身体の輪郭が薄くなっていることに気がついた。
いつかのように、黄金色の燐光をちらちらと瞬かせて、バターのように溶け始めている。
思わず声をあげた。
「ア、アンナさん!」
『え? 何?』
「か、身体! っていうか霊体!」
俺が指差して口をぱくぱくさせると、彼女は自分の体を見下ろして、納得したように『ああ』と呟いた。
『駄目だ。そろそろ時間切れだわ』
「時間?」
俺は心臓をドキドキさせながら問い返した。
この鼓動はなんだろう──ああ、そうか。
俺、怖いんだ。
アンナさんが消えてしまうのが。
『ハルが呼んでる。戻らなきゃ』
すっくと立ち上がったアンナさんの霊体から、膝から下の部分がどろりと崩れて溶け落ちた。黄金色の光が宙に広がる。
つづいて髪の毛先に耳、身体の外側の部分が順当に溶けて行く。
俺はぞっと背筋を凍らせた。
──これは、一時的なものなのか、それとも?
「──アンナさん!」
思わず呼びとめていた。
彼女は首を傾げて答えた。
まるで緊迫感のない、愛らしいと言えるほどの仕草で。
『なあに?』
「何じゃないよ! もしかして──もしかして、ハル先輩から離れるのって霊体に相当な負担がかかるんじゃないの!? 霊体に傷がついたら、成仏も、生まれ変わることも、できないんだよ!!」
必死な自分の声が、まるで悲鳴みたいだった。
アンナさんは少し眼を見開いて──それから、細める。
猫みたいに。三日月みたいに。
どうしてだよ、と俺は歯ぎしりした。
どうしてこんな時にすらあなたは笑うんだ!
「アンナさんっ」
『いいものあげよか。蒼路』
アンナさんは俺の声なんてまるっきり聞いてないみたいだった。
やにわに笑うと、俺の方に身を屈めて、同時にその細い首に手を当てる。
一瞬、星を使うのかと思ったけれど、そうじゃなかった。
首にかけていたネックレスを外したのだ。
極細の銀鎖にぶら下がる緑の石。
輝く夏の森のような色合いが、双子の瞳の色と酷似していた。
『あげる』
アンナさんが言った瞬間、ネックレスをつまんでいた指先が溶けた。
俺は泣きたくなったが、彼女はぜんぜん構わずに、指のない手のひらにそれを載せて俺に押し付けてきた。
ふわりと羽が載るような感触が手のひらに触れた瞬間、質量を伴う。
冷たい石と金属の重さが、わずかに俺の手のひらに沈み込んだ。
『お守り。きっとあんたを守ってくれる』
アンナさんはさっぱりと言って、俺を見た。
そしてまたにっこりと笑う。
俺は何か言おうとした。
気の利いた一言じゃなくても、でも何か、この人に届くことばを。
──けれど。
『じゃあね。蒼路』
「アンナさ……」
何を言うよりも先に、彼女は溶けて消え去っていった。
光の届かない場所に。
孤独な闇の中に。
「──くそっ」
俺はベッドを殴り付けた。
固いマットの感触が身体を空しく伝ったけれど、今度は痛みなんて感じなかった。
痛いのは、俺じゃない。彼女なんだ。
俯いて両手で顔を覆った。
ああ、アンナさん。
あなたはどうして。
(あたしは誰も恨んでなんかいない)
どうして、そんなに優しい──。
***
「……ただいま」
学校が終わり、俺は深紅に即刻帰宅させられた。
あ? もちろん抗ったさ。
深紅にだけ護衛の仕事をやらせて、俺がのうのうと家で寝てるわけにはいかないってな。
けど、そう言ったらあいつは俺を鼻で笑いやがった
「お前、だからこそバカだと言っているのよ。自分の不始末でそんな怪我をしておいて、あたしとまともに張り合えると思っているの? 大きな勘違い、傲慢もいいところだわ。足手まといだからさっさと帰って寝て頂戴。あんたに今できることはさっさと怪我を治して復帰することでしょ」
……だって。
正直かなり腹が立ったが、事実なもんで言い返せない。
怪我は確かに酷かったし、この状態では護衛の仕事をするどころか、気配を殺してハル先輩の近くに控えていることすら辛い状態。
それより何より深紅が昼間のビンタの件以降、著しく機嫌を損ねているようなので俺は大人しく言いなりになることにした。
「あれぇ? お兄ちゃんだ~」
玄関を開けるなり、藍がリビングの方から駆け寄って来た。
その声を聞きつけて母も出てくる。
二人とも一様に驚いた顔をしていた。
「蒼路。どうしたのよ、早いじゃない。深紅ちゃんとの仕事は?」
「……ちょっと」
「ちょっとじゃわかんないでしょう。どうしたの? また怪我でもしたの?」
「べつに」
相変わらず母は鋭い。
俺はぷい、と顔を背けてスニーカーを脱ぎ、家に上がると、そのまま母の横を通り抜けようとしたが──
「──ギャッ!!」
腹に肘鉄を喰らって悶絶した。母のしわざだ。
廊下に膝を折ってしまった俺はうらめしく母を睨み上げた。
「……か、かあさん……マジで死ぬからっ……」
「ウソをついたお前が悪い。ほれごらんなさい、怪我したんじゃないの。何したの。言ってごらん」
厳しい視線に見下ろされて僅かに竦んだが、魔物を庇って怪我をしたなどとは恥ずかしすぎてとても言えない。
腹の傷を押さえながら立ち上がっていた。
「別に……だから、何もないって」
「夕飯抜きにするわよ!?」
「──マジでっ!?」
俺は迷った。
同時に、台所の方から漂ってくる料理の匂いを嗅ぎつけ、今日の夕飯のメニューを想像する。
香ばしく肉の焦げた匂い、にんにくとハーブの織りなす重厚な香りのハーモニー、その中に僅かにパン粉の気配がするっ!
「お兄ちゃん、今日、ハンバーグだよ~」
背後で藍が答えを言った。
俺は本気で悩ましく、頭を抱えて唸った。
「ハンバーグ……くっ」
「く、じゃないでしょ。何真剣に悩んでるの、阿呆! お母さんに何があったのかさっさと教えなさいよ、格好つけてないでっ」
「るせぇ、これは俺の沽券に関する問題なんだ!」
「じゃあお兄ちゃんのハンバーグ、藍がもらう♪」
「それは駄目!!」
反射的に妹を叱ってから、俺はハアとため息をついた。
仕方がない。
母さんと藍は星師じゃないし……まあ、大丈夫だろう。
「わかったよ、話すから。取り合えず着替えさせて」
諦めてそう言うと、母は大袈裟に頷いた。
「よろしい」
──で、まずは自室に戻った俺だったが。
部屋のドアを開けて、制服を脱ごうとブレザーのボタンに手をかけた所……
『……蒼路!』
耳に届いた人ならざるものの声にひっくり返りそうになった。
えぇー!?
一体どこから、と思って視線を巡らせると、ベッドでもなくマンガの詰まった本棚でもなく、机の上でもなく。窓枠の上だった。
日の長い夏だからまだ夕暮れには遠いけれど、空気が青っぽく染まり、陽は翳り始めている。
そんな空を背景に二本の猫の尾が揺れていた。
おお、まさに逢魔ヶ刻、だ。
「よお、花緒ぉ!」
俺は思わず笑顔になって駆け寄った。
そう、猫又の花緒が、窓枠にちょこんと座っていたのだった。