アンナ
「なんでここにいんの、アンナさん。ハル先輩ならもう行っちゃったよ?」
俺が医務室のドアの方を振り仰ぎながらそう指摘すると、アンナさんは緑の眼をいたずらっぽく瞬いて答えた。
『勿論、わかってるわよ? だから出て来たんだもの』
「どういう意味?」
『待ってたって意味。ルカと、あんたのこわーいお姫様がいなくなるのを』
緑の瞳が猫のように細くなった。あ、笑ってる。
笑った顔、いいな、と思ってから、俺はやっぱり信じられなくなる。
──この人が幽霊だなんて。
目の前にいるのに、もう、死んでしまった人だなんて。
(神様……)
柄にもなく祈りたくなってしまった。
あなたは何てひどい。
胸が苦しくなって、緑の眼から眼を逸らした。
「……つうか悪霊さん、兄貴の傍にいなくていいわけ?」
『何言ってんのよ。離れられる時ぐらいは離れておかないと、ルカに負担がかかっちゃうじゃない』
「いや、自分の意思でどうにかなる問題なのかよ!?」
思わず突っ込むと、アンナさんは僅かにほほ笑み、長い脚を組んだ。
くっきりと彫りの深い顔に浮かぶものを見て、俺はどきりと胸を突かれた。
そのエメラルドの瞳。
切なくて──そして、なんていうんだろう。
寂しい?
……ああ、そうだ。
とても寂しそうな、この彼女のまなざし。
『蒼路、だっけ』
「え? うん」
名前を呼ばれて素直に首肯する。
すると彼女は眼を細めた。
『あんた、姫様のこと好きでしょ』
「──なッ!?」
俺は一瞬で真っ赤になったと思う。
血が沸騰した気がした。いや、錯覚じゃない、ぜってーそうだ。
畜生、そんなしおらしい態度で、いきなり何を言い出すかと思えばっ。
「す、すすす好きなんかじゃねーよっ! 勝手に決めんなよっ!!」
絶叫して否定した。途端、また傷に響いた。
ぎゃっ!
たちまち身体を二つ折りにして悶える俺の耳に、愉快そうなアンナさんの声が届いた。
『あっはあ、ビンゴ! 良いわね~、青少年』
「ち、違うって言ってんだろ!!」
俺は呻きながらも顔を上げて精いっぱい否定し続けるが、アンナさんは顔の前で人差し指をちっち、と左右に振って言った。
『ごまかしても無駄よ無駄。あんた、わかりやすすぎだもん。いいじゃない、お姫様、綺麗だし。ちょっと気が強そうだけど』
「ちょっとどころじゃねえよ」
痛みに耐えながらもそこは思わず訂正してしまう。
するとアンナさんはまた笑った。
……良く笑うひとだ。
『あはは。確かにね。魔物には容赦ないみたいだしねぇ。さっきの黒妖犬も、あんたがいなきゃ間違いなく殺されてたわ』
「え──見てたの?」
アンナさんの意外な発言に俺は眼を見開いた。
驚いた。さっき屋上には俺と深紅しか星の気配はしなかったと思ったが。
『見てた。というかルカがね、見に行ったのよ。昼間っから校内を騒がせてけしからん! って言いながら。まあ、行ったら丁度君が倒れてたところだったんだけどさ』
「うわー」
あの醜態を見られていた、と知って俺は頭を抱えた。恥ずかしい!
仮にも星師が魔物を庇って、しかも同じ星師からの攻撃に倒れる、なんて。
ババアが聞いたら末代までの恥、とかなんとか言うに違いない。
俺だって──あんまり褒められた行動じゃないことは自覚している。
けど……身体が勝手に動いちまったんだ。
あの犬、理由はわかんねーけど、腹ペコだったみたいだし。すごく痩せてた。
そんな状態の妖怪を手にかけるなんて、良くないことのような気がしたんだ。
『ね、蒼路ってさ。優しいのね』
「……は?」
アンナさんが身を乗り出してきてベッドに肘をついた。また笑っている。
その表情に、俺はやや斜に構えて問い返した。
近頃、甘いだの優しいだのって悪い意味で周囲から言われ続けているもんだから、俺はその言葉に対して懐疑的になっていた。
「自覚してるよ。最近みーんなに注意されら! お前は甘い、優しすぎる、とかなんとか」
『え? 何言ってんのよ、あたし、褒めてんのよ?』
「──え?」
また眼を瞬いてしまう。……なんかアンナさん相手だと、このパターン多いな。
言動の予測が付けづらい人だからだろうか。
彼女は続けた。
『びっくりしたよ。今まで、魔物を殺した星師ならそれこそ星の数ほど見てきたけど、助けた星師は一度だって見た事無かった。しかも、あんな風に身を挺してさ……ちょっと感動しちゃったもの』
「……いや、そんなに、格好良いものではない、と思う」
率直な感想を述べられ、照れた俺はもごもご口の中で呟いたが、アンナさんはそれをばっさり否定した。
『格好良かったわよ! あたしはそう思ったもの。それに多分、あの犬もそう思ったと思うわ。あたし達が屋上にかけつけた時にはもう飛んでいくところだったけど、振り向いてあんたの姿をちらちら見てた。気になっている様子だったわよ』
俺はそんな妖犬の姿を想像した。
青空を飛翔する美しい身体が、戸惑ったように空に浮かんで、学校を見下ろす様子を。
そしてぽつりと呟いた。
「無事だったのかな」
『わんちゃん?』
「ウン。腹ペコで、弱ってるみたいだったから、気になって」
『……大丈夫よ、多分ね。あれだけの妖怪なら、餌は自力で取れるでしょう』
アンナさんは頷くと、優しい声でそう言った。
俺も勇気づけられて、そうだね、と首肯した。
なんともいえない沈黙が落ちる。
俺は、ヘンな意味じゃなく、アンナさんを好きだと思った。
明るくて情に厚い。
良く笑う、ユーモアのある人。──太陽のような。
「アンナさんて」
『何よ』
「太陽みたいだ。ハル先輩は冷たいのに。似てないね、双子なのに」
『ルカも、本当は優しいのよ。ただ君たちの事は──ちょっと、訳があって。ごめんね。ゴキブリ見るみたいな眼で見てるけど』
「ゴキブリ……」
あまりといえばあまりの比喩に俺はがっくり項垂れてしまったが、アンナさんの言葉のなかに引っかかるものがあるのに気づき、直ぐまた顔を上げていた。
そうだ、今しかないじゃないか。
アンナさんにそれを聴けるのは。
「アンナさん」
『なに?』
「教えてほしいことがあるんだ」
俺は単刀直入に尋ねた。
アンナさんの緑の瞳に理解の色がよぎったのがわかる。
俺はそこでああ、と思った。そうか、彼女も。
アンナさんも──それを話すためにここに来たんだ、と。
『……ルカが星師を憎む理由?』
彼女の表情が翳ったのが胸にこたえたけれど、俺は知らなくてはならなかった。この人を助けるために。
この人の兄を、救うために。
「そうです。それから──」
だから言った。とても残酷なひとことを。
「──それから、あなたが死んだ理由も」
アンナさんは、ただ笑んだ。