黒妖犬
──すごい妖気だ……
俺は身体じゅうに汗が噴き出すのを感じた。
黒妖犬。
人を喰らい、その血肉によって妖力を得た狼だ。
ゆえに人を極上の餌とし、その肉を得るためには何でもする、妖怪の中でもやっかい至極な食人鬼の類。
──こんなのが学校の中で暴れたら
俺はぞっとして背後の石岡を窺い見た。
真っ赤な血の海のイメージが脳裏を占拠する。
教室の中から溢れて、窓から校庭へ、廊下から校舎中へ、あふれて飛び散る友達の血。
──守らないと……!
ぐ、と右手の星に念を込めた瞬間、思考に触れてきた声があった。
(……が……った……)
はっと顔を上げる。
緋色の瞳が俺をはっきりと捕え、その身の内に荒ぶる意思を伝えてくる。
(腹が、減った……!)
黒い毛並みが抑えきれない欲望に逆立ち、ざわりと無数の触手のように蠢く。
俺は堪え切れなくなり、ぱっと石岡をふり返ると、叫んだ。
「悪ぃ石岡! 先に行ってて!」
「……は?」
彼はまさしく鳩が豆鉄砲を喰らったような顔をしたが、とにかく俺はここから離れて一人にならなければいけなかったので、そのまま走りだすと石岡を引き離した。
「おいっ高村、逃げんのかよ!? ひきょう者―っ!!」
背後から、そう絶叫する石岡の声が聞こえたが、無視した。
……ごめん、石岡。
俺は内心で滂沱の涙を流しながら(いや、マジで)全力疾走し、校舎の裏側へと入って行った。
朝顔のグリーンカーテンを通り過ぎ、スイカの畑を飛び越えると、校舎からは窓が消える。この辺りは教室棟ではないのだった。
俺は窓がない場所を見極めると地面を蹴った。
そのまま懐から鉤縄──先端に爪のついたザイルみたいなもんだ──を取りだすと、ひょいと校舎の屋上へとひっかける。
一瞬後にはぐんっという強烈な重力が腕にかかり、俺は校舎の壁に縄一本でぶらさがっている形になった。
そのままするすると縄をつたい屋上まで昇ってゆく。
やがて目の前に登場したフェンスをすたんっと鮮やかに飛び越えると──とたん、ものすごい威圧感がこの身を襲った。
「っ」
俺はとっさに両腕で顔を覆った。
それほど強烈な邪気が俺の方に吹き付けてきていた。
眼に見えないのが不思議な程だ。
どろりと重く、濁ったその黒い力が辺り一帯に滞り、闇の温度を発している。
『……腹が減った……』
闇の中心に、それを発しながら坐していたのは先ほどの黒妖犬。
こうして間近で見ると本当にデカい。
屋上のほとんどを埋め尽くすようにして座り込み、その状態だけでこちらが圧倒される程の邪気を発している。
針金のように強い体毛に覆われた身体はやせ細ってはいるものの、緋色の瞳は深い知性を湛え、生への渇望に輝いている。
毒々しく赤い口許が物欲しげに半ば開かれ、その口内には俺の指ほどもある牙がびっしりと隙間なく生えているのが見て取れた。
『腹が減ったぞ、星持ちよ……』
黒妖犬の声は地鳴りのように俺の身体を揺らした。
ざざっ、と、全身が鳥肌立ち、急速に体温が冷えていくのがわかる。
俺はひとつ、腹から息を吸い込むと吐きだして、両足をかるく広げると踏ん張った。
腹に気をこめて対峙しなければ、意識だけでこの妖怪には負けてしまう。
「ここから、出ていけ」
俺はゆっくりとそう言った。
同時に右手を掲げ、星からずるりと刀を引き抜く。
焔を伴って出現した刃が闇を焼き、俺の周囲だけわずかに空気が暖まった。
「──出ていかないと、お前を殺す」
いま一度念を押して、刀を構えた。
そのままじわじわと脅迫するように星の力を刀に移してゆく。
が、黒妖犬は答えない。
ただ、青く光る俺の星をじっと見つめ、緋色の眼を嬉しそうに細めている。
そこで初めて妙だな、と俺は思った。
──これだけ腹が減っているというのに、何故すぐに襲いかかってこないのだろう。
そもそも、黒妖犬は山に棲む妖怪だ。
腹が減ればすぐ傍の人間を捕えて喰えばすむ話だというのに、何故わざわざこの学校までやってきたのだ?
『……星持ちの肉……』
考えていると犬がようやく口を開いた。
俺は刀越しにその瞳を捕える。
「なんだと?」
『うれしやのう……極上の餌である人間の、更にその中でも強力な霊性を宿した星持ちの肉……この身に力を取り戻すにはふさわしき獲物よ』
そして彼は(雄だと言うのは何故かわかった)、ゆっくりと立ち上がった。
がりりと、金属が固いものをひっかくような音が立つ。その爪が地面をこすったのだ。
夏の太陽の光に、しろがね色の爪が反射して輝き、彼は僅かに身を屈めた──俺はとっさに構えた。
来る!
『──我は星の匂いに誘われてここに罷り出た』
その瞬間、何が起こったのかわからなかった。
犬がまったく重さを感じさせない動作で地を蹴り、飛んだところまでは見えた。
が、その後、自分が刀を振り下ろしたかどうか覚えていない。
気がつけば俺は、黒妖犬の前足の下敷きになっていたのだった。
「……ぅあっ……!」
驚いた。
デカイ図体して、なんて早さだ。
みしみしと身体がきしみ、胸と腹の数か所が焼けるように痛い。
あのしろがねの爪が喰いこんでいるのだと、見なくてもわかった。
『ほう。我が一撃を喰らっても生きているとは。坊主、なかなかの力を備えているな。どうりでうまそうな匂いがするわけだ』
「……なせ、よっ……」
犬の前足を避けようと俺はもがくが、このとんでもない大妖はびくともしない。
彼は俺の顔に鼻面を寄せてくんくんと匂いを嗅いだ。
『だが、お前ではない。もっとうまそうな匂いがする。もっと強い──もっと甘い匂いが』
「……!」
俺は驚愕に眼を見開いた。
聞き捨てならないセリフだった。
この学校で俺以外の星師なんて、もちろん一人しかいない。
『星持ちの姫』
心臓の鼓動が跳ね上がる。
その動揺を、犬は悟った。
俺をまんじりともせず見下ろしている緋色の瞳に、狂喜が躍った。
『やはりここにいるのだな……!』
「……離せ」
俺は低く言った。
激怒に近い怒りが体内を走り抜ける。
身体の上を抑えつけている黒い前足を右手で掴むと、そのまま怒りに任せて焔の術を叩きつけた。
「──離せって、言ってんだよっ!!」
じゅうっという音と共に、動物性の物が焦げる嫌な匂いが広がった。
犬がとっさに前足を退き、俺はその隙に飛び退る。
途端に口許にこみあげる物があり、思わず吐いた。
びちゃびちゃと音をたてて、真っ赤に染まった胃の中身が地面に飛び散る──内臓に傷が付いたらしい。
俺は喘ぎながら腹に右手を押し当てた。星印には、最低限の治癒能力が備わっているのだ。
『……この小僧……我の毛皮を燃やすとは……!』
犬の声が怒りに染まってゆく。
見ればその全身の毛が針のように伸び、縮んで、生き物のように蠢いている。
俺は空いた左手で刀を捕え、それを地面に突き刺した。
焔の力が地面に走り、びしびしと表面に亀裂が走ってゆく。
「……犬っころ」
俺は言った。
息を吸い込む合間合間に、空気が漏れるひゅうひゅうという音が漏れる。
だがいつまでも座ってはいられない。
ぐっと、左手で刀を強く掴むと、立ち上がった。
「深紅に手ぇ出してみろ……」
星持ちの姫。
それはすなわち、俺の幼馴染であり、この命かけて守ると決めた彼女のことだ。
「──ぶっ殺してやる!!」
吠えた瞬間、犬の毛束がひと房、ムチのようにしなりながら振り下ろされた。
が、その時にはもう俺も跳んでいる!
右手で犬の毛束を叩き落とすようにして振り払う。
漆黒の毛束が瞬時に灰と化し、地面に落ちるのを尻目に、上空から犬目がけて切り込んだ。
『調伏の焔……小僧の分際で、なんという力……!』
驚愕に見開かれた緋色の双眸が眼前に迫る。
間近で見るそれは、遠くで見るより遥かに澄みきって美しい。
俺は犬の背中に斬り付けた!
だが、鋼のように固い体躯は俺の刀を受け付けず弾き返す。
反動で俺も吹っ飛びフェンスに叩きつけられそうになったが、すんでのところで宙返りして回避した。
ざざっと制服の膝が地面を擦れ、熱が走った。
「……お前、ただの黒妖犬じゃねぇな」
俺は刀の刃を指で撫ぜながら言った。
「星師の刀を刃こぼれさせるなんて、並の妖怪にはとてもできる芸当じゃねぇ」
『……フン。思いあがった星持ちの小僧が、何を言いたい』
犬の尾がぴしりと地を打ち、それだけでも地面が揺れる。
俺は犬の眼を見据えた。
そして──刀を納めた。
「何をしに来た」
犬が、瞳を丸くするのが見えた。……お、虚を突かれてる。
その眼をまっすぐに正面から見据えて、俺は更に言う。
「いや、何があった、が正しいか。……お前のその力、俺達星師の保護を乗り越えてこの学校に入り込めたところからしてみても、少なくとも土地神か鎮守神の位。にも関わらずそれほど痩せこけ、俺達星師を喰おうとしている。どう考えても尋常じゃない」
『……ほお』
犬は尻尾を打ち振って、嫌味たらしくそう口の端を吊りあげた。
『見かけと違って頭は悪くないようだな、小僧』
明らかに馬鹿にしているその言い草に俺は思わず突っ込んだ。
「どういう意味だよ、この犬っころ!!」
『犬ではない。狼だ』
犬はゆっくりと立ち上がると、四肢を伸ばして身震いした。
すると先ほどまで蛇のように蠢いていた毛並みの触手がぴたりとおさまり、普通の獣と同じような、けれど黒曜石の如く艶やかな毛並みへと変化する。
俺は犬の影に呑まれながら茫然とその姿を見上げた。
……かなり場違いだが、綺麗だと思った。
──こんな痩せて、こんな綺麗なら、健康なこいつは一体どれほど美しい姿をしているのだろうと。
『確かに我は、かつてこの界隈の山を守護した鎮守神であった。だがそれも今は昔の話よ。今の我には力がない。ゆえ力が必要なのだ、小僧よ。長きにわたる眠りの間に、失ってしまった力がな』
犬は瞳を細めて言った。
俺は眉をひそめた。
「だからって、人を喰うな。神としての誇りはないのか? 人を喰えばその時点で、あんたは闇の道に落ちるんだぜ」
『もう遅いわ。我は既に妖と化しておる』
犬は自嘲するように笑ってそう言った。
俺ははっと顎を上げる。
ということは──!
「おいっ、ってことはもう喰ったっていうのか!?」
『……案ずるな。最後に人を喰ろうたのも、もう遠い昔の話よ。』
そう言って再度笑う。
低い声が銅鑼のように重く辺りの空気を揺らした。
犬はわずかにあぎとを開き、くつくつを身を震わせるようにして笑っている。
その様子を見上げながら、俺は、魔物が笑うのを初めて見たと思った。
そしてそれは中々悪いもんじゃないのかもな、とも思う。
ババアや深紅が聞いたらまた甘いとかなんとか言われるに決まっているが、あるいは──
あるいは魔物でも笑えば、闇に生まれついたその性質を違えることもできるんじゃないか、と。
そう思った。
瞬間だった。
「ずいぶん楽しそうね」
凛とした声に、背筋が凍りついた。
ばっとふり返ると、その人はいつのまにか、給水塔の上に腰をおろしていた。
あまりにも無防備なその姿に、俺の全身をぞわりと恐怖が包み込む。
咄嗟に叫んでいた──来てはいけない、と。
だが俺の見る者を、背後では黒妖犬もまた同時に目にしていたのだった。
声も無く、彼が歓喜するのがはっきりとわかった。
俺は立ちあがろうとした、だがその時にはもう、頭上を黒く巨大な影が通り過ぎて行った。
完全に間に合わない。
足がまるで鉛になってしまったかのように感じられた。絶望的に前へ進むことができない。
重い手足をひきずるように走り出し、俺は声を限りに咆哮した。
「深紅──!!」