悲しいこと
『普通すぎって、なにがよ?』
これがアンナさんの答えだった。
今日も今日とて彼女は幽霊に見えない。
顔色なんかつやっつやだし、エメラルドの瞳は日光にきらきら輝いて、その動きに合わせて揺れるボインも実に見事。
生きてる人と違うのは影が無いことぐらい。
周囲の人を見渡して、この人が本当に見えていないのかどうか聞いてみたくなるぐらい、それくらい生々しい霊体だった。
「なにがじゃなくて! あんた幽霊なんだぜ、ハル先輩の傍にいちゃ駄目じゃんか!」
アンナさんはハル先輩のすぐ近くに、寄り添うようにして立っていた(アンナさんにはもちろん足もあった)が、俺に突っ込まれるとその長い腕を先輩の首にまわした。
そしてそのまま背後から抱きしめる体勢を取る。
おおっ。
俺は思わず身を乗り出した。
あ、アンナさんのボインが先輩の頭を挟んで気持ち良さそっ……!
──って違う!!
「だー! くっつくな、朝からっ。幽霊の癖に!!」
『うるさいなー、もう。しょうがないでしょ。身体が勝手にルカにくっついちゃうのよ』
アンナさんはハル先輩をぎゅうぎゅうに抱きしめながら言った。
……どう見ても意図的にやってるとしか思えんが。
俺は軽くため息をついた。
全く、アンナさんという人はいつもおどけていて、言う事のどこまでが本気なのかさっぱりわからない。
「しょうがなくないだろ。あんたがそういう心持だからハル先輩に負担かけてるんだぜ」
『あんたに言われなくたってわかってるわよ、小僧っ子。余計なお世話、偉そうにー』
「なぁんだと!?」
「──高村くん。さっきから、何を一人で騒いでいるのかな?」
ここで、さっきから無言だったハル先輩が突然口を利いた。
驚いて見てみれば、彼はきれいな顔に柔和な笑みを浮かべ、けれど緑色の瞳に明らかな迷惑の色を浮かべてこちらを見ていた。
俺ははっとして辺りを見回した。
すると見つかる多くの奇異の視線。
ヤバい、と思った。
アンナさんが他の人間には見えていないことを忘れて、つい騒いじまった!
「近頃暑いから、ちょっと頭がおかしくなっちゃったのかな? 保健室に行ったほうが良いんじゃないかい?」
ハル先輩はいま一度ほほ笑んで、俺の方に近寄った。
その身体から発せられる殺気に気押されて、俺は一歩後ずさる。
あーあー、この人ってやっぱり二重人格だったんだな……。
眉目秀麗で頭脳明晰、人柄も良い生徒会長なんて、出来過ぎた話だと思ってたんだ!
「大丈夫? 熱はない?」
優しげな声がさらに近づいて、そして、整った顔立ちが俺の目前まで寄った。
俺は全身を緊張させた。
まさか、こんな公衆の面前で攻撃されることはないだろうが、それでも今のハル先輩は何をしでかすかわからない危うさを孕んでいたからだ。
「──アンに近づくな、と言っただろう」
やがて先輩は俺の耳元に囁いた。
甘く冷たい声。
思わず緑の瞳を睨み返して俺は答えた。
「……こっちこそ、あんたの命令に従う義務はないと言ったはずだ」
馬鹿言ってんじゃねぇよ。
低く呟くと、先輩はかすかに鼻を鳴らし、俺から離れた。
おおおムカつく!
この間も思ったけど、この人の笑い方ってマジでムカつく!
「ま、いい。とにかく邪魔はさせない」
「……邪魔?」
それは奇妙な言い方だった。
俺は怪訝な顔をしたと思うが、先輩の肩の上にいるアンナさんはもっと深刻な顔をした。
いつものおどけた様子が消えて、緑の瞳が翳っている。
彼女は先輩を呼んだ。
『ルカ──』
「行くよ、アン」
ハル先輩はアンナさんを遮った。
「そろそろ姫君のお出ましだ」
言いざま踵を返し、昇降口の方に行ってしまった。
当然ながらアンナさんも彼と一緒に消える。
残された俺は何だか釈然としない気持ちで頭を掻いたが、やがて背後をふりかえっていた。
校門の前で人垣が分かれている。
その中心をまっすぐな背筋で、優美な歩き方でやってくる少女がいた。
長い黒髪が風に揺れるたび、額の端に星の痣がかいま見える。
俺は眼を細めた。
──深紅だった。
***
「お、おはよ深紅!」
俺は彼女に声をかけた。
だが深紅は、俺をちらと見やったものの、返事もしないで昇降口の方へと歩いて行ってしまった。
ええ!? とショックを受け、半ば怒りながら俺は彼女の後を追う。
「おい、深紅! 何シカトしてんだよ!」
「……」
尚も声をかけるが、深紅は俺の声がまるで聴こえてもいないようにずんずん歩いて行ってしまう。
一年と二年の下駄箱は隣同士だ。
一瞬別れたものの、俺はちょっ早で靴を履き替えると再び深紅の後を追った。
だってあいつ顔色が悪い。
白い肌が青ざめて、眼の下にはうっすらと隈が見えてる。
……昨日の今日だから、俺はどうしても気になった。
「深紅、おい、深紅ってば!!」
俺はめげずに追いかけた。
噂の美人転校生と、それを追いかける後輩の男(つまり俺)という構図はかなり人目を惹くものらしく、周囲の人間があからさまに何か喋っているのが聞こえてくるが、気にしなかった。
気になるのはただ深紅の様子だけで──
「──五月蠅いわね。」
「え。」
やにわに……嫌、ようやくというべきか、深紅はぴたりと立ち止った。階段のたもとで。
俺をじろりとふり返り、そのまま、薄暗く死角となる階段の陰にひっぱりこむ。
俺は突然、耳に火がつくような痛みを感じた。
深紅に耳朶を引っ張られていたのだ。
「痛っ!!」
涙目になって叫ぼうとしたが、それは深紅によって遮られていた。
「しーっ、静かにおし、この馬鹿者!」
「何すんだよ深紅!? ってか何なんだよさっきから!!」
「それはこちらの台詞でしょう。お前、何を悪霊と楽しそうに話しこんでいるのよ!」
「あ?」
「あ、じゃなくて! あの双子の妹の方のことよ!」
そこで急に静かになった。
俺が黙ったからだった。
すぐ傍の階段を生徒たちが昇って行く足音と話声がする。深紅はさらに用心深く、俺を物陰の奥の方へとひっぱりこんだ。
距離が急激に縮まり、深紅の、ほのかに甘い香を感じて俺はどぎまぎしてしまう。
「な、ん、お、俺は楽しそうに話したりなんてしてねーぞ……」
もごもごと言うと、深紅の厳しい視線が投げかけられた。
「していたではないの。さっき、校門の前で。」
「別に楽しんでたわけじゃねーよ」
「そういう問題じゃないでしょう!」
ぴしゃりと怒鳴りつけられた。
俺はますます混乱する。
「じゃあどういう問題なんだよ!」
「わからないわけ? 本当に大馬鹿者ね。──蒼路、彼らは敵なのよ。仲良く会話するべき相手ではない。闘わなければいけない相手なのよ!」
微塵の躊躇もなく深紅が言った言葉に、俺は、むっとした。
だってそれ、昨日もババアに散々言われたことだ。
「わかってるよ」
言い返す。
すると深紅は首を振った。
「そうは見えないわ。」
「っせーな、ちゃんとわかってるって言ってんだろ!」
「だったら何故、彼らと不要なかかわりを持とうとするの!」
厳しく言った深紅の、その瞳に浮かぶものを見て俺ははっとした。
純粋な嫌悪。
俺に対してじゃない、妖怪や悪霊、精霊といった類の「魔物」に対して深紅が抱く憎しみ。
俺は自分が忘れていた事に気がついた──
星師としての深紅が、ひどく冷酷だということを。
「お前は甘い。蒼路」
深紅は言った。
「すぐに人を好きになる。そして好きな人は無条件で信じ、疑う事を知らない。それは星師として致命的な事だわ」
その通りだった。
俺は返す言葉を失い、黙ってしまった。
深紅は続ける。
「そんなお前の事だわ。彼らと話をして縁を深めてゆくうちに、その状況に同情するに決まっている。あの双子を哀れんで、アンナさんを祓わないでいい方法があるのではないか、なんて言いだすでしょう。そうなればどうなる? ハル先輩は妹に憑り殺されるだけよ」
「……」
俺は返事をしなかった。こういう深紅は大嫌いなのだ。
頭が良いだけに結果を見通して、合理的に物事を進めようとする優等生。
でも、わからないだろう、未来がどうなるかなんて誰にも。
俺達が努力すれば今この瞬間にも何か変わるかもしれない。
その可能性を、一体だれが否定する事ができる。
目の前に悲しんでいる人がいるのを、誰が黙って見てられるかっていうんだ!
「……身体は大事ないのか?」
拳を強く握りかため、やがて俺はそう言った。
深紅に対して言いたいことは山ほどあった。
残酷なお前は大嫌いだ、から始まって、俺には俺のやり方がある、まで色々。
けど、そのどれも口に出すことはせずに、俺はただそう言った。
「……何よ、いきなり。」
当然と言えば当然だが、俺の質問に対して深紅は虚を突かれた顔をした。
俺はそんな彼女を見て眼を細める。
黙っていれば普通の女の子なんだ。
とても綺麗で、少し気が強いだけの。
けど彼女はそうじゃない。
普通じゃ、ない。
「昨日、ババアが言ってた。双子の毒にやられて倒れたって」
すると深紅はこともなげに答えた。
「大したことはないわ。ハル先輩の短剣に毒が塗られていただけ。それも微量なものだったから、もうほとんど抜けているわ。」
「そう。ならいい」
俺は頷くと深紅から離れた。
スクールバッグを肩の上で持ち直し、そろそろ教室に行こうと歩きはじめる。
「ちょっと蒼路! 話はまだ終わってないのよ!」
背中の後ろから追いかけてきた深紅の声に、ふり返らずに答えた。
「お前もそろそろ行かないと、ホームルーム遅刻するぞー」
「蒼路!!」
「──ああ、そうだ。」
俺は思い出した事があって足を止めた。
頭だけをちょっと動かして、肩越しに深紅を見やる。
まだ何か言いたげにしている彼女を遮るようにしてこう言った。
「一つだけ聞きたい事があったんだ。昨日、お前が昼休みに俺に言った事」
「なによ?」
「アンナさんがちゃんと生きた人間として、他校に通ってるって言ってた事。なんであんな嘘ついた?」
尋ねると、深紅はわずかに下を向いて逡巡した。
俺は黙って答えを待つ。
するとやがて彼女は言った。
「……お前が。きっと悲しむと思ったから」
「──そう」
じわりと、胸に広がるあたたかな感触があった。
俺は深紅から眼を逸らすと、また前を向いて歩きはじめた。
もう深紅は何も言わない。
けど俺にはわかっていた。
口ではああ言いながらも、深紅もまた、この依頼をやりにくいと思っていることを。
双子を、可哀そうだと思っていることを。
(確かに悲しい……)
俺は思った。
ハル先輩の愛する妹。彼と全てを分かち合える唯一のひと。
残された人間が何と言おうが。
アンナさんはもう死んでいる──。