ハル
駆け寄り、助け起こした先輩には意識があった。
それだけでも脅威に値するというのに、今しも覗き込んだ背中の傷からは、一滴の血も流れてはいなかった。
俺は眼を疑った。
傷をもう一度確かめる。
さっき悪霊が火柱のように猛烈な勢いで食い破ったこの背中は、今ももちろん裂けてはいる。
ぱっくりと肉が割れ、確かに傷付いてはいるのだが。
「どういう……ことだ」
ゆるゆると驚愕が、そして恐怖がやってくる。
駆け寄って来た深紅もまた、俺の視線を追うと短く息を呑んで動きを止めた。
嘘、と呟く彼女の声が耳に届いた。
「──もう治癒しかかっている……?」
そう。
先輩の傷は、俺達の目の前でみるみる内に塞がってしまった。
まるで生き物のように割れ目の肉がもぞもぞと動き、内側から傷を閉じた──ように見えた。
俺も深紅も、言葉を失ってしまった。
どういうことだ。
さっきから、俺の頭の中で何百回も繰り返されているその問いかけが、再び頭脳を占拠する。
半星の双子、死んだ妹、その憑依を受け入れた兄、そして。
今度こそ極めつけだ。
「これは、人の治癒能力ではないわ。」
深紅が低く言った。
その時、俺の手の下で先輩の体がピクリと動いた。
俺ははっとする。
「先輩!?」
「……アンナの力だ。」
「え?」
何を言ったのか聞きとれず、先輩を助け起こそうとした俺だったが、次の瞬間射るようにこちらに向けられた冷たい瞳に動きを止めた。
恐ろしく澄んでいながら、同時に恐ろしく暗い、エメラルドの瞳。
「離してくれ」
懇願の言い方でありながら厳然たる命令の口調であった。
俺は驚くと同時に、かすかな反抗心を覚える。
だってこれまでとずいぶん態度が違わないか。
黙って眼を細め先輩を見つめ返すと、彼はいらだたしげに身を起こそうとした。
「……聞こえなかったのか? 離せと言っているんだ」
「聞こえましたが、従う義務は俺達には無い。俺達はあんたの護衛であって侍従ではないのだから」
「護衛?」
は、と先輩のきれいな唇から嘲笑がこぼれた。いよいよ態度が豹変する。
緑の瞳が俺を、深紅を見つめる。
それはぞっとするような侮蔑の眼差しだった。
俺達を眼に映しているくせに、真には何も見ていない、つまりは存在を認めていない、という。
「さっきも言っただろう。僕は護衛なんて頼んではいない」
先輩は言いざま俺の手を音を立てて払い落とした。
ばちん! と良い音が響き渡る。
当然ながら俺はカッとした。叫ぶ。
「……何すんだよっ!」
「触るな。僕は星師が大嫌いだ。」
先輩は冷たく言いながら立ちあがろうとした。
しかし、傷は塞がったとはいえ、悪霊にその身体を奪われている以上、生気はかなり吸い取られているはずだ。
先輩は膝を震わせながら壁に手をついて何とか立ちあがった。
背筋の曲がった、とても見ていられないほど弱々しい立ち姿だった。
それでも、その佇まいには俺達が簡単に声をかけられない何かが──眼に見えない氷のような拒絶が──みなぎっていた。
先輩が、自分の知る先輩とはまるで別人のように思えて、俺は息を呑んだ。
彼は言った。
「全く、どうしてアンは君たちのところに駆けこんだのか……理解できない。忌まわしい星を持って生まれ、あまつさえそれを理由に公然と人を殺す呪われし者」
対して大きい声でもないのに、よく通る声だった。
むしろ甘くて響きの良い声であるだけに、口にしている内容の禍々しさが際立ってしまう。
俺はますます困惑した。
どうして。
こんな顔をする人じゃなかった。
こんな風に誰かを憎むような人じゃないと、思っていたのに。
「──星師など、星など、消えて無くなってしまえばいいんだ」
その言葉には真の憎しみが、怒りが、そして悲しみが込められていた。
半星ということで、しかもその双子という事で、きっとこの人たちは今まで俺達の想像もつかない苦労を強いられてきたんだろう。
星が完全ならば俺達の力は星師という存在目的を持つ。
けれど、半星の場合はただの異常だ。
……俺は舌打ちをした。
先輩に同情してしまいそうな自分が嫌だった。
「お前たちはアンを殺そうとしている。僕はそれを望んでいないというのに、星師だからという理由を掲げて。護衛など必要ない。むしろ逆だ。君たちがアンを殺すというのなら、僕は君たちに容赦しない」
先輩はゆるゆると歩き出していた。
壁に手を這わせながら部屋の入り口の方へと進んでいる。
その姿はまるで足を折った馬のようだった。
もう走れない。もう生きている意味がない。
だから死地に赴こうとしている馬。
──けれど。
そんな先輩の前に、深紅がすっと立ちはだかった。
「……退いてくれないか」
先輩は息も切れ切れにそう言った。
しかし深紅は微動だにもしなかった。
黒い瞳に強靭な意志をみなぎらせ、先輩をまっすぐに見据えている。
先輩はそんな深紅に腹を立てたようで再度叫んだ。
「退けと行っているんだ、五辻の姫!」
「──私が五辻の血筋であろうがなかろうが」
ようやく深紅は口を開いた。
黒い髪が風もないのにゆらりと流れ、その額に刻まれた星が露わになる。
「ここでは関係のない話だ。」
「……大ありだ」
先輩の手にはいつのまにか短剣が握られていた。
さっきアンナさんが持っていたのと寸分違わぬそれを、彼は迷わず深紅の喉元目がけて突き付ける。
俺は叫んだ。
「深紅!」
「蒼路、控えよ!」
雷のような激しさでそう制され、俺は飛び出そうとした姿勢のまま固まってしまった。
だが先輩の短剣は今にも深紅の、まっ白で細い首筋を切り裂きそうなのだ、じっとしていられる訳が無い!
「けど、深紅っ」
「控えよと言っておる。……大丈夫じゃ」
黒い瞳がひとときだけ俺を捕え、それからまたすぐに先輩の方を向く。
「伊勢遥。我が一族について、なにか言いたい事があるなら聞くが?」
「……言いたいことも何も。それは姫君が一番よくおわかりではないのかな?」
ハル先輩のきれいな唇が憎しみにまくれ上がる。
ナイフを持つ手に力がこもり、深紅の首筋にすうっと紅い細い筋が走った。
俺は怒りに震える右手に左手を沿わせる。
先輩は続けた。
「貴方の一族のせいで、我ら星を持つ者は戦いの歴史の幕を開き、そして人殺しを行う事になったのだ。それも決して日の当たらぬ闇の中で。星を持って生まれた子供とはすなわち、闇に生きる運命を背負って生まれた子供」
「それがどうした?」
深紅は、己の置かれた状況に全く平然としていた。
むしろ挑戦的な態度で先輩を真っ向から見据え、その美しい顔にほほ笑みを浮かべすらしている。
「始まりはどうあれ、星師たちは既に生まれてしまっておる。そして今なお闘っているのだ。人殺しなどではない。お前が言うように、闇の中で、闇を祓うために、誇りを持って仕事をしている!」
「誇りだって? あなたは──あなたが、その言葉を口にしていいと思っているのか?」
先輩の声に殺気が滲んだ。
──もう限界だ。
俺は悟って音もなく床を蹴っていた。
深紅の目前に着地しざま、先輩の握っていた短剣を片手でもぎとる。
瞬間、そうはさせまいと前のめりになった先輩の、その顔の前に刀を突き付けて、動きを封じる。
「蒼路!」
深紅の声にもふり返らず、俺はただ、先輩を見据えた。
刃を握った左手から血があふれた。熱い血潮。
「……なんかよくわかんないけど」
俺は言った。
そう、よくわからない。この状況が。
先輩が急に態度を豹変した理由も、俺たちを憎む理由も、さっぱりわからない。
けど。
「こいつの言うとおりだ。俺達は誇りを持ってる」
「なんだと?」
先輩は牙を剥いた。
「闇に生きることを余儀なくされた人生が誇りだって? 君は本気でそう言うのか?」
ハル先輩の瞳は俺の刀から発せられる焔に照らされ、鮮やかな緑色に輝いていた。
明確なその、怒りの色と敵意。
ああ、と俺は確信する。
今朝、教室で感じたあの殺気は、アンナさんじゃなかった。
間違いなくこの人、ハル先輩から発せられたものだったのだと。
俺は息を吸った。
そしてはっきりとこう答えた。
「ああ。星師として生きることこそが俺の誇りだ」
「……どうしてだ」
先輩は俯き、ぎりりと音を立てて歯ぎしりをした。
「どうしてそんな言葉を吐ける? その女の前で。僕の前で! 半分の星しか持たずに生まれてきた僕たちを認めず、あまつさえ引きはがそうとしている癖に……どうしてそんなことが言えるんだ!!」
先輩の肩の線がわななき、その感情が爆発したのがわかった。
俺は思わず身構えた。
また何がしかの攻撃を受けることを覚悟したのだが──予想とは裏腹に、先輩の殺気は急に消失していった。
代わりに残ったのは悲しみだった。
緑の瞳が虚空を見つめ、ふたたびあの名前を、呼ぶ。
「……アン!」
俺はその時理解した。
先輩はただ、悲しいだけなんだと。
「先輩」
思わず呼びかけた、けれど先輩は答えなかった。
俺を押しのけて、ふらふらとした足取りで音楽室を出て行こうとする。
俺ははっとした。
片手に彼の短剣を握ったままだったのだ。
ふり返って呼びとめようとしたが、それより先に深紅が口を開いていた。
「──お待ち。」
先輩は、肩をぴくりと震わせて、ふり返りこそしなかったが立ち止った。
深紅はその背中に言った。
「これだけは言っておく。星師は人殺しなどではない。少なくとも──私は皆に、蒼路にそんな真似はさせん。」
「……深紅」
意外な言葉に眼を見開くと、深紅はやにわに俺の方を向いた。
そして白い手で俺の左手を取ると、そこから短剣を抜きとって先輩に向けて投げつけた。
「返しておこう。」
深紅は言った。
唐突な返却だったが、先輩はその短剣をしっかり片手でキャッチしていた。
……さすがというべきか。
「いくら私たちでも四六時中お前を見張れるわけではない。自分の身は自分で守ってもらわねば困る」
「……二度と僕らに近づくな。」
深紅の言葉に答える代わり、先輩は言った。
「さっきも言った通り、僕からアンナを引き離そうとするなら、僕が君たちを殺す。……もう後輩だからといって、見逃したりはしない。君達は、星師として僕の前に現れたのだから」
……ということは、今までも俺が星師だと知ってはいたんだ。
俺は思った。
知っていたけど何も言わず、良い先輩を演じてくれてたってわけか。
──でも、一体何のために?
なんだか腑に落ちず、俺は再び歩きはじめた先輩の背を、視界から消えるまで黙って見送った。
そしてようやく息を吐く。
その場にしゃがみこむと両手で頭を抱えて、髪の毛をかき乱した。
さっきから訳わかんねぇことばっかりで頭がぐちゃぐちゃだ!
「あー! 俺たちもしかしたらスーパー面倒くさい仕事引き受けちまったんじゃねぇか、深紅?」
スマートな深紅に状況検分をして欲しくて言ってみたが、彼女からの返答はなかった。
「……?」
俺は彼女を見た。
さっきからずっと、黙って立ちつくすその人を。
「おい、深紅?」
嫌な予感がした。
白い顔がゆっくりと俺の方を振り向いた。
血の気を失い、蒼白な顔であった。
胸の中で予感が確信に変わる。
深紅の体がふらりと前後に揺れ、続けて、黒い瞳が閉ざされる。
「──深紅っ!!」
彼女はその場に崩れ落ちた。