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バス停の約束  作者: ノア
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濡れ衣


 その日は、朝からひどく冷える雨が降っていた。


 事件が起きたのは、5時間目の図工が終わった直後のことだった。教室の後ろで、拓海くんが大きな声を上げた。

「ない! ぼくの、おじいちゃんに買ってもらったシャーペンがない!」


 教室の空気が、一瞬でザワリと波立った。みんなが自分の机の周りを探し始める中、ぼくはただ、じっと自分の筆箱を見つめていた。ぼくの手元には、施設から支給された、頭の消しゴムがちぎれた鉛筆が3本あるだけだ。


「ハルくん、ちょっといい?」

 川上先生に呼ばれて、ぼくは教卓の前に立たされた。

 先生の机の上には、拓海くんの、銀色に光るかっこいいシャーペンが置かれていた。それが、ぼくの図工の引き出しの奥から見つかったのだという。


「これ、ハルくんの引き出しに入っていたんだけど……どうしてここにあるのかな?」

 先生の目は、怒っているというよりは、困り果てたようにぼくを映していた。


 ぼくは、知らない、と言おうとした。

 口を開ける。けれど、喉の奥の水が、いつもより激しく渦巻いて言葉を飲み込んでしまう。「し」の音を出そうとするのに、唇が震えるだけで音にならない。


「ハル、やっぱりお前が盗んだんだろ! いつもぼーっとして、人のもの見てるもんな!」

 後ろから拓海くんの尖った声が刺さる。「そうだそうだ」「泥棒だ」というヒソヒソ声が、雨の音に混じって教室中に広がっていく。


 違う。ぼくは見ていただけだ。あのシャーペンが、拓海くんの机から転がり落ちて、誰かの靴に蹴られて、ぼくの机の近くまで転がってきたのを、ただ目で追いかけていただけだ。拾ってあげようと思ったけれど、「拾ってあげる」という言葉を頭の中で組み立てている間に、チャイムが鳴って、誰かがそれをぼくの引き出しに押し込んだんだ。ぼくじゃない。ぼくは盗んでない。


 頭の中では、何百文字もの言葉が嵐のように吹き荒れている。

 けれど、ぼくの口から出たのは、

「……あ、う……」

 という、小さなかすれた空気の音だけだった。


「ハルくん。やっていないなら、やっていないってちゃんと言いなさい」

 先生の声に、少しだけイライラした色が混じる。その焦りのトーンが、ぼくの心をさらにすくませた。

 沈黙は、この教室では「イエス」を意味する。喋らないぼくは、喋るみんなの言葉によって、あっという間に「犯人」に仕立て上げられていった。


 結局、ぼくは頭を下げるしかなかった。やっていないことを認めたわけじゃない。これ以上、言葉の出ない口を開けて、みんなの冷たい視線を浴び続けることに、ぼくの心が耐えきれなかったからだ。


 帰りの会が終わると、ぼくは逃げるように教室を飛び出した。

 雨の中を、傘もささずに走った。冷たい水滴が顔に当たって、涙なのか雨なのか分からなくなる。


「ひまわり園」に帰り着いても、ぼくは誰とも口をきかなかった。

「ハル、服がびしょ濡れじゃない! どうしたの?」

 鈴木さんが飛んできてタオルで頭を拭いてくれたけれど、ぼくはただ床の一点を見つめていた。ここで学校のことを話したら、鈴木さんは学校に行って、先生に怒るだろう。そしたらまた、ぼくはあの教室で、みんなの前で「喋らなきゃいけない時間」を過ごすことになる。それが怖かった。


 夕方、ぼくはまた中庭の木馬に座っていた。

 雨に濡れた木馬は冷たくて、ズボンにじわじわと水が染みてくる。それでも、あの騒がしい教室や、誰もぼくの言葉を待ってくれない世界にいるよりは、ずっとマシだった。


 ポケットの中で、冷え切った拳をぎゅっと握りしめる。


(母ちゃん)


 心の中で、一番呼び慣れた名前を呼ぶ。

 母ちゃんがいてくれたら、ぼくが何も言わなくても、「ハルはそんなことしないよ」って言ってくれただろうか。ぼくが言葉を探すのを、じっと待ってくれただろうか。


 薄暗い雨の向こうに、あの日のバス停が浮かぶ。

「ここに居るのよ」


 そうだ、ぼくはあそこにいればいいんだ。学校の教室なんて、ぼくの居場所じゃない。みんながぼくを嘘つき呼ばわりしても、あのバス停だけは、ぼくが「母ちゃんの約束を守る正しい子」でいられる唯一の場所だから。


 じっと耐えていれば、いつかバスが来る。

 ぼくは木馬の上で小さく丸まり、冷たい雨の匂いを深く吸い込んだ。言葉にならない悔しさを、全部その胸の奥底へと沈めながら。


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