第4話 明け方の体温、星座の名前
「……はぁ、はぁ。……まじかよ。なんで俺、こんな早朝に、不法侵入紛いのことしてんだよ」
午前五時。
冬の入り口に立った空気は、肺の奥まで凍りつかせるような鋭さを持っていた。
俺は、熱が下がったはずなのに家を抜け出したという彼女――霜月つむぎの行き先を、半ば確信して学校へと走っていた。
「……いた」
屋上のフェンス際。
薄っすらと白み始めた東の空の下で、彼女は毛布をマントのように羽織り、所在なげに立っていた。
風に煽られるミルクティー色の髪。その隙間から覗く耳たぶが、寒さで林檎みたいに真っ赤になっている。
「……あ。……きみ。……きみだ。……どうして、ここが、わかったの?」
彼女が振り返る。
その瞳は、夜の残滓を吸い込んだ琥珀色。
蜂蜜というよりは、今は冷え固まった樹脂のような、静かな色をしていた。
「お前の描いた『地図』だよ。天文部室に落ちてたやつ。……あそこにだけ、不自然に書き込みが集中してたからな」
俺は息を切らしながら、彼女の隣に並んだ。
近い。
彼女の羽織る毛布から、あの独特の、石鹸と微かな毛糸の匂いが漂ってくる。
「……あれ、見ちゃったんだ。……恥ずかしい、な。……恥ずかしいと思うよ。……あんなの、迷子の子供の落書き、なのに」
「迷子なら、迎えに来るのが道理だろ」
「……迎えに? ……だめだよ。……わたし、もう鍵も、返さなきゃいけないし。……誰のお世話も、できないし。……元気じゃないし。……今、ここにいるわたしは、誰の役にも、立ってないんだよ?」
彼女の声が、微かに震える。
それは寒さのせいか、それとも。
「……役になんて、立たなくていい。お前さ、自分のこと温度計か何かだと思ってんのか?」
「……温度計?」
「そう。誰かの熱を測って、誰かを冷やして、誰かを温めて……。そうやって数値を合わせないと、壊れてるって思い込んでる。……めんどくさい女」
「……めんどくさい、……かな。……かな、って、……そう、だよね。……最低だ。……わたし、最低だと思う」
「ああ。最低だ。……だから、俺が監視してやらないと」
俺は一歩、踏み込んだ。
彼女の羽織る毛布の中に、強引に身体を滑り込ませる。
「……っ! ……ちょ、……何、してるの……!」
「寒いんだよ、まじで。……ほら、お前も。……冷たすぎ」
毛布の中で、俺たちの身体が密着する。
驚いた彼女の身体は、氷のように冷え切っていた。
けれど、俺が腕を回して背中を抱き寄せると、その薄い胸板の奥から、トク、トクと、早鐘のような鼓動が伝わってきた。
「……あ。……あったかい。……きみ、……すごく、熱いよ」
「お前が冷たすぎるんだよ。……ほら、もっと寄れ。……離れたら、風が入るだろ」
彼女のうなじに、俺の鼻先が触れる。
透けるような白い肌が、俺の吐息を浴びて、一瞬で桃色に染まっていくのがわかった。
「……こんなの、……変だよ。……きみの、心臓の音、……わたしの背中まで、響いてる。……これじゃ、……どっちが、生きてるのか、……わかんない……」
「生きてるよ。二人とも。……なぁ、霜月」
俺は、彼女の首筋に顔を埋めたまま、その名前を呼んだ。
苗字ではなく、彼女という個体を指す、その音を。
「……つむぎ」
彼女の身体が、電流が走ったように大きく跳ねた。
「……な、名前。……呼んだ。……今、呼んだね。……呼んだんだね、わたしのこと」
「ああ。つむぎ。……お前が誰の世話もしなくても、誰の顔色を窺わなくても、俺はここに来る。お前がただそこに立ってるだけで、俺の心拍数は上がるんだよ。……これ、お前のせい。……どう責任取ってくれるんだよ」
「……ふふっ。……あはは。……なに、それ。……それ、……告白なの? ……それとも、……言いがかり?」
彼女が、初めて年相応の少女のように笑った。
「両方だよ。……つむぎ。……お前は、いらない子なんかじゃない。……俺が、お前を必要としてる。……お世話される側としてじゃなく、……ただ、お前が隣にいないと、俺の温度計が狂うんだよ」
「……ずるい、よ。……そんなこと言われたら、……わたし、……どうしていいか、……わからなくなっちゃう」
彼女の手が、俺の腰をぎゅっと抱きしめ返してきた。
冷たかった指先が、俺の体温を吸って、じわじわと熱を持ち始める。
「……あ。……見て。……星」
彼女が空を指差す。
明け方の紺碧の空に、最後まで粘っていた一等星が、一つだけ強く輝いていた。
「……あれね、……しし座の、レグルス。……小さな王様、って意味なんだよ。……暗闇の中でしか、……見えない、光」
「……へぇ。お前みたいだな」
「……わたしは、……あんなに、立派じゃない、よ。……でも。……でも、きみが見つけてくれたなら、……わたし、……ここにいても、いいのかも。……いいんだよ、ね」
「ああ。いいんだよ」
彼女は俺の腕の中から顔を上げ、琥珀色の瞳を真っ直ぐに俺に向けた。
そこにはもう、誰かの顔色を窺うような怯えはなかった。
彼女はポケットから、一粒の飴を取り出した。
「……これ、あげる。……でも、……半分こ、ね」
彼女は飴の包みを開くと、自分の口にそれを入れ、少しだけ照れくさそうに、俺の唇に指を当てた。
「……あ、……甘い?」
「……甘すぎるよ、バカ」
俺たちは、明け方の屋上で、一つの飴の甘さを分け合った。
春。
霜月つむぎは、保健室の鍵を返却した。
けれど、放課後の保健室には、今も彼女の姿がある。
「……あ。……きみ。……またサボり? ……サボりだね、ダメだよ」
「うるせぇ。お前だって、委員会もう引退しただろ」
「……うふふ。……そうだった、ね。……でも、いいの。……わたしが、ここにいたいだけ、だから。……きみが来てくれるのを、……待っていたいだけだから」
彼女は窓際で、今度は俺の名前が中心に描かれた、新しい地図を広げて笑った。
その指先は、もう、震えていなかった。




