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第3話 氷点下の空洞、壊れた温度計



 「霜月さんの、家……」

 

 手渡されたプリントの束と、職員室で聞き出した住所を頼りに辿り着いたのは、築年数の深そうな、どこか疲れた顔をしたアパートだった。

 

 「……はあ。俺、何やってんだろ」

 

 ただのクラスメイト、ただの怪我の恩人(自称)。そんな奴が、病欠した女子の家をアポなしで訪ねる。客観的に見れば不審者一歩手前だ。通報されても文句は言えない。

 

 勇気を出してチャイムを鳴らそうとした瞬間、扉が内側から勢いよく開いた。

 

 「ねえちゃん! お腹空い――って、誰?」

 

 現れたのは、霜月つむぎをそのまま小さくして、少しやんちゃにこねくり回したような少年だった。小学校低学年くらいだろうか。

 

 「あ、えーと。同じクラスの者だけど。霜月さん、休みだったから」

 

 「ねえちゃんの友達? うっそ、初めて見た! ねえちゃん、いつも『学校では透明人間なんだ』って言ってたのに!」

 

 「透明人間……」

 

 少年の無邪気な一撃が、俺の胸に突き刺さる。

 

 「お兄ちゃん、入ってよ! ねえちゃん、さっきからずっと変なんだ。熱があるのに、ずっと台所で何か作ろうとして、お皿割っちゃって……」

 

 「……皿?」

 

 俺は慌てて靴を脱ぎ、少年に案内されるまま奥の部屋へと踏み込んだ。

 

 そこは、生活感の塊のような場所だった。

 洗濯物の山、山積みのレトルト食品、そして――。

 

 「……霜月さん!」

 

 台所の冷たい床に、彼女はへたり込んでいた。

 足元には、真っ白な陶器の破片が散らばっている。

 

 「……あ、……あ。……片付け、……片付けなきゃ。……いけないのに」

 

 彼女の声は、かつてないほど掠れていた。

 ミルクティー色の髪は汗で張り付き、うなじから肩にかけて、ぐっしょりと湿っている。

 琥珀色の瞳は焦点が定まらず、ただ足元の破片を拾おうと、震える手を伸ばしていた。

 

 「危ない、触るな!」

 

 俺は彼女の腕を掴み、無理やり引き剥がした。

 

 「ひっ……!」

 

 短い悲鳴。

 掴んだ手首は、いつもの「ひんやり」とした温度を失い、驚くほどの熱を放っていた。

 

 「……き、み……? ……どうして、ここに。……ああ、……見られちゃった。……ダメ、……見ちゃダメ。……今、わたし、……何もできてない、から。……お皿も、洗えないし、……弟のご飯も、作れない。……ただの、……ただのいらない子、に……」

 

 「何を言って……。とりあえず、寝るぞ。ほら、弟くん、絆創膏どこにある?」

 

 「救急箱なら、ねえちゃんの部屋!」

 

 俺は半狂乱の彼女を横抱きに抱え上げた。

 

 「……あっ、……ちょ、……待って」

 

 細い。驚くほど軽い。

 制服の下の彼女の身体は、抱き上げると心許ないほど華奢で、けれどその熱量だけが、俺の腕を通じて心臓にまで伝わってくる。

 密着した胸元から、彼女の荒い吐息が首筋にかかり、脳が痺れるような感覚に陥った。

 

 彼女の部屋は、驚くほど殺風景だった。

 ただ、窓際に置かれた天体望遠鏡だけが、異質な存在感を放っている。

 

 ベッドに彼女を横たえると、彼女はシーツを強く握りしめ、顔を背けた。

 

 「……ごめんなさい。……ごめんなさい。……おもてなしも、できない。……わたし、……最低、だよね」

 

 「バカかお前は。病人が客の接待してどうする」

 

 「……だって、……お世話、しないと。……役に立たないと、……わたし、……ここにいてもいい、理由が……」

 

 「もういい。もういいから、黙ってろ」

 

 俺は濡れタオルを持ってきてもらい、彼女の額に当てた。

 その瞬間、彼女の身体がびくんと大きく跳ねた。

 

 「……つめたい。……でも、……きみの手は、……あったかい、ね」

 

 彼女の指が、俺のシャツの裾を力なく掴む。

 

 「……あのね。……お母さん、……いなくなっちゃったとき、……わたし、……いい子じゃなかったから、……だって、……思ったの。……だから、……誰にでも、……優しくしなきゃ、って。……必要と、……されなきゃ、って……」

 

 彼女の瞳から、大粒の涙が溢れ出し、熱い頬を伝っていく。

 

 「……でも、……熱が出ると、……全部、……ダメに、なっちゃう。……何も、……できない。……ただの、……空っぽ。……ねえ、……きみも、……もう、……いらない? ……わたしのこと、……いらない、……って、……言うの?」

 

 その言葉は、悲鳴のようだった。

 

 「……言わないよ」

 

 俺は彼女の震える手を、両手で包み込んだ。

 

 「別に、何もしなくていい。俺の手当てもしなくていい。飴もいらない。……ただ、寝てろ。それが今の、お前の仕事だ」

 

 「……仕事、……なの?」

 

 「ああ。俺が、お前にそうしてほしいんだ。……だから、お前は今、俺の役に立ってる」

 

 屁理屈だ。

 けれど、その言葉を聞いた瞬間、彼女の瞳から力が抜け、琥珀色が微かに潤んだ。

 

 「……それなら、……いい、のかな。……いい、のかも、しれない」

 

 彼女は、初めて「……だよ」という断定を捨てた。

 

 そのまま、彼女は深い眠りに落ちていった。

 繋いだ手は、相変わらず熱いままで。

 

 俺は、彼女が眠るまでその手を離せなかった。

 

 ふと、枕元に置かれた彼女の制服のポケットから、何かが転がり落ちた。

 

 チャリン。

 

 冷たく乾いた音を立てて床を転がったのは、彼女が命よりも大切にしていた、あの「保健室の鍵」だった。

 

 鍵を握る力を失った彼女は、今、ただの一人の少女として、熱に浮かされている。

 

 その横顔は、あまりにも脆く、そして、残酷なまでに美しかった。

 


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